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[A-2010-10-27-1] 近況報告(西方法界・・・H22.10.27)

何も書かずに、長らく御無沙汰しております。

現在、自宅(本宅)の庭を壊しております。
来年中には、自宅(本宅)を取り壊し、
自己所有のアパートの一階に入る準備をしております。

私の家は、かつては祖父が長く村長をしていたような、いわゆる旧家なのですが、
私には跡継ぎがいないので、その総整理・総清算に取りかかっております。
私が何もせずに死んでしまうと、少なからず、周囲の多くの人にたいへんな負担をかけてしまうことになります。

言語的認識表現は、『限定すること』ですから、家の総整理・総清算といえば既に無限のものが抜け落ちた偶像に過ぎません。
真理は、一微塵の中に宇宙を『包摂する』関係(一即多)であり、それ故に、人間的働きとしての「知」は、真理を『具体的に』捉えきるだけの力を持ちえません(一即多というのは、真理を抽象的に捉えているだけであって、『具体的に』捉えきっているわけではありません)。
部分に全体を包摂する具体的働きは、慈悲・(神の)愛のなしうるところです(そのもとで、知も使いますが)。最終的に知(理)の働きを手放して、慈悲・(神の)愛の働きへと転じていくところに真理がより親しく現前します。
否、向こうにある真理が現前してくるのではなく、真理がただ一つあるだけ、真理が自分で、自分が真理です。私がどう現成するかが真理なのです。

家の総整理・総清算は、時節因縁であり、その時節因縁が私に他なりません。「万法来たって我を証する」です。万法と我の間に何の隙間もありません。万法即我です。
まだ当分、家の総整理・総清算の火の玉であり続けます。それはまた、私の総決算であり、私の総力の現成です。これまでの宗教的歩みの私なりの頂点での営みであり、宗教の現場そのものです。すべてが一です。

しかし、なんとなく、その先にいつかブログに復帰できる時もありうるような気がしております。

(以上、ブログ向けの、自分なりの近況報告)

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(以下、付録)

「例のあれ」(賛美歌)でも聞きながら、がんばろう!!!

私は「一里を登る牛」よりも、「千里を走る虎」のほうがいい・・・・・???。

http://www.youtube.com/watch?v=hF1Vnwp9YTs


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[A-2010-10-27-1][C-1]  投稿: urdas 様 | 2010年10月31日 (日)

西方法界さん、お久しぶりです。ご無沙汰してます。

とてもいい文章ですね。お元気そうでなによりです。

僕はぼちぼち復帰しようかなと思っています。のんびりとしたペースで。

URLは変わりまして、新しいURLはhttp://d.hatena.ne.jp/j-o-ken/です。

[A-2010-10-27-1][C-1-N]   投稿: 西方法界 | 2010年11月1日 (月)

ウルダスさん、メールも出さず、こちらこそ、たいへん御無沙汰しております。
海さんにも同様なんです。
「ネット外現実」の展開以外に気が回らない流れになってしまっていて・・。
でも、そのうち、そうでないときが自然に巡ってくるものと思っております。

8月の最後の日曜日に、神田の古本屋さんが来て、仏教書をほとんどすべて持って行きました。
古本屋さんに出す必要もないと自分で思ったものは、それに先だってゴミとして処分しました。
現在手元に残っているのは、最近の『中論』に関するものと飯田トウ隠老師の碧巌録と無門関だけで、それ以外はみごとに何もなくなりました。

この歳(六十三)、この状況のなかで生じた決断なんですね。
何となく生じた直観で、理由は自分でもよくわかりません。
我ながら、随分思い切ったことをしたと思っているくらいですから、いつかブログに復帰できたとして、そのときどういうことになるのか、その時になってみないと全くわかりません。

ウルダスさんの新しいブログ、わかりました。旧ブログがなくなってしまったので、結構検索して探している方がいらっしゃるようですよ。それで、私の『偏見推奨サイト 』が「道元眼蔵」などのキーワードで引っかかっていますから。

そのうち、いつかメールします。

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[A-2010-10-27-1][C-2-1]   投稿: 遊戯 | 2010年11月14日 (日)

哲学的思考法としては面白い一面があるので挑戦してみよう。

まず、「一即多」という表現があるが、実際には「一」はそもそも存在であるから、正しく真理を表現するには「一」は、「ゼロ」または「無」でなければならない。つまり「一即多」の表現は正しくは「無と有」という抽象的表現であるべきであり、「一と多数」という具体的表現に変えているのである。その抽象的表現を遊んでいるのが「色即是空」「空即是色」であり、結局は真理への最接近はいつも「無」と「有」の関係に還元できるのであり、すべて「無即有」「有即無」となり、「中論」の多くの表現も同じこと。

だから言語的表現は確かに「限定」ではあるが、それでも抽象的表現と具体的表現の区別は非常に重要であり。最接近は常に試みる必要があり、中論はその極致である。

だから我々の理知による真理への最接近は「抽象的表現」でのみ可能であるということであり、それでよいのであり、後は全身全霊でアウフヘーベンすることである。ただ考え、唱えていても何も起こらず、成就もしない。

それにしても、西方殿、正直言って何か切なさも感じる状態でもあるね。落ち着いたらもう一度人生の棚卸しをし、ビビッドな方向性を持つことを考えても良いように思う。

[A-2010-10-27-1][C-2-1-N]   投稿: 西方法界 | 2010年11月14日 (日)

お久しぶりです。御投稿ありがとうございます。

言語的アクセス(認識・表現)は、常に「限定」ですが、
『八不』『六不』のみは、限定を回避しています。
その意味で、言語的アクセス(認識・表現)の及ばないところ、とどかないところを指し示しています。
真理には、言語的アクセス(認識・表現)は及びません、とどきません(真諦)。
真理への到達=到彼岸」とは、「そのもの」となって現成する、その全体になりきる他にはないんじゃないですか。
そこを何と呼ぶかって、・・・「山川草木悉皆成仏」という場合の『成仏』だと思うのですが。
すなわち、「認識(限定)」を超越するためには、「現成(成仏)」しかないと・・・・。
そして、「現成(成仏)」とは、つまるところ『全身全霊でアウフヘーベン』ですか。

私は、「あわただしさ」は緩和あるいは解消されても、『切なさ』は変わらないような気がします。
『切なさ』っていうのは、キリスト教的にいうと、『終末観(感)』になるんでしょうか。時間が解体し、即今のみとなったとき、その『即今』きりということ、『即今』しかないということ、一期一会だということ、その前後際断されたど真ん中での現実的な感覚は、『切なさ』とか『終末観(感)』とかいうものになってきませんか。ヨハネの黙示録なんか、意味はわからなくても、結構切なく感じるのですが・・・・。


・・・・いや、久しぶりに、私はやや反抗的ですね。
   書くエネルギーが蓄積されてきたのでしょうか。
   それとも、またあいもかわらず世間に恥をさらしているのでしょうか。
   本人にはそれがわからないというのが、また恥さらしの上塗りです。
   やれやれ・・・。

[A-2010-10-27-1][C-2-2]   投稿: 求道者 | 2010年11月14日 (日)

いいや、率直な吐露は時には必要なものです。我々不完全な存在は常に老廃物を排泄する方が健康的とも言えます。無理に聖人ぶるのは危険なことです。

抽象概念によって不可視で不可解な領域の影を心に定着させる努力というものが、いざ現成に挑む時に必要になるということです。禅にせよ、中論にせよ、繰り返し繰り返しの高度な抽象的概念の形成によって、現成の状態の中へ飛び込み易くしているということです。これをやればやるほど心の状態が昇華されやすくなる。シャドウボクシングと同じようなものだから私は「遊戯」と呼んでいる、極めて神聖で高度な遊戯です。

中論は特にすばらしい抽象的論理構成とインスピレーションに溢れている。特に唯心論の誤謬を訂正していることが重要である。

一種の相似による概念形成と呼ばれるものです。成就した状態と世俗的な心理状態とは異なるものではあるが、我々人間の心の底には真蛾、真如と呼ばれる「神の分魂」が宿り、それに向けて次元変換を通じてそれが届くと想定することによって、あらゆる宗教的な心の訓練は可能である論理に基づいている・・ということです。

だから中論にせよ、あらゆる方向から、六不、八不、十不、千不でよいのですが、繰り返し相似的概念形成、俗世の論理からは理解し難いような抽象概念を叩き込むのです。それをイエスは「真理の霊」spirit of truthとかconfortと呼んでいて、聖書にもすばらしいインスピレーションがある。

『切なさ』と『終末感』はまったく異なる。イエスやブッダの言葉や行動には一切の「切なさ」はないのは読めば分かるでしょう。そんな言葉や行為があったのなら是非教えて欲しい!ある人は十字架のイエスが「エラ。エラ・・・サバクタニ」つまり「神よなぜ私を捨てられたのですか」と切ない言葉を発したではないか?と言うが、誤訳である。チャールトン・ヘストンの「ベンハー」の映画でも見事に訂正されていたので驚いた。正しいギリシャ語、正確にはアラム語、の訳は「神よ、私はこのために来た」である。ご存じか?ベンハーを見よ。

またヨハネの黙示録は切なさではなく極めて強い警告である。終末期までに神の国に入る努力を怠った人間は「天と地が過ぎ去る最後の時」には暗黒の中にうち捨てられる・・という警告の「前哨戦」である。

悟りを得た人や、所謂聖人の雰囲気を読んだことがあるだろうか?彼等の心理状態は不満不平、悲哀(慈悲とは違う)、とはほど遠い、しかも悠々と人生を楽しむ場合もある。自由自在である。

間違っているかもしれないが、西方殿に太宰治の「斜陽」の雰囲気を感じる時がある。時々裕福で由緒ある家系に生まれた人にこの状態を見ることがある。何の因果、業?と想像することがある。生きるために四苦八苦している人の「切なさ」とは違うのである。

西方殿、実は悟りとか成仏の心理状態は結構単純なのである、理解できないのと不慣れなために万巻の書が著されるのである。(それだけでもないが、とにかく平易に言えばそうである)

一度、なぜ宗教や哲学はかくも人間に努力を要請するのか?考えてみてはどうだろうか?自然界は努力せずとも悠々と悠久に存続する、それではなぜ人間は自然な状態ではいけないのか?それとも人間が自然な状態から逸脱しているから問題なのか?一体・どういうことなのか?

さて私自身の表象である「求道者」に戻ります。

[A-2010-10-27-1][C-2-2-N]   投稿: 西方法界 | 2010年11月14日 (日)

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ありがとうございました。

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         この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。
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