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[TG18] 中論18章 アートマン=主体・我の考察 [観法品 ]

御注意・・・自分の実用に供するための、自己流の意訳です。

(この章は、1~12偈あります。)

[TG18-5] (論理を追いやすくするため、順序を変えて訳している)

解脱とは、業と煩悩が滅することである。

言語の虚構性(戯論)が、分別思考をもたらし、
分別思考から、業と煩悩が生じる。

ところが、空において、言語の虚構性(戯論)は消滅する。



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該当章別の目次
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[TGC18-1] 投稿: 求道者 | 2011年5月 8日

業とは「カルマ」の漢訳であるが、カルマとは「因果則」であり、原因があるから結果があるという、当然の法則であり、万物森羅万象は、この法則から逃れることはできない。
 では万物とは何か?「色」である。「色」とは「空」から生じた、つまり「神の創造物」、「無または空」の顕現化、現象化である。現象化が終焉すれば「空」となり、「空」が現象化すれば事物、「色」となる。色即是空の故であり、万物流転であり、空と色が繰り返しているのが世界である。

事物のことはさておき、一般には「人間の行為」による因果を「カルマ」と呼んで区別している。さすれば、解脱とは、①因果則を超えることである。次に煩悩とは、五感から生ずる五蘊によって束縛される状態である。だから②この束縛から自由になり解放されることである。

しかし、釈迦の教えを分析してみよう、彼は、人が現在の苦悩の状態にある原因は、最終的には、五蘊や煩悩ではなく「無明」にあると結論している。さすれば解脱とは「無明」から脱することである。つまり「無明」があるから業が生じ、煩悩が生じる、となる。

つまり、業や煩悩は「無明」から生じる二次的な原因に過ぎず、解脱とは「無明」からの脱出である。

付け加えると、分別思考というのは、「空」から「色」が生じる段階で起こる。なぜなら「色」を認識するためには分別思考が必要だからであり、「色」の発生と「分別思考」の発生は手に手を取って同時に起こった、との説明は有名である。つまり、「見るもの」と「見られるもの」、主体と客体は同時的である。だから「戯論」が分別思考をもたらしたのではない。


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以下は、投稿文のみで、記載が重複します。
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コメント

業とは「カルマ」の漢訳であるが、カルマとは「因果則」であり、原因があるから結果があるという、当然の法則であり、万物森羅万象は、この法則から逃れることはできない。では万物とは何か?「色」である。「色」とは「空」から生じた、つまり「神の創造物」、「無または空」の顕現化、現象化である。現象化が終焉すれば「空」となり、「空」が現象化すれば事物、「色」となる。色即是空の故であり、万物流転であり、空と色が繰り返しているのが世界である。

事物のことはさておき、一般には「人間の行為」による因果を「カルマ」と呼んで区別している。さすれば、解脱とは、①因果則を超えることである。次に煩悩とは、五感から生ずる五縕によって束縛される状態である。だから②この束縛から自由になり解放されることである。

しかし、釈迦の教えを分析してみよう、彼は、人が現在の苦悩の状態にある原因は、最終的には、五縕や煩悩ではなく「無明」にあると結論している。さすれば解脱とは「無明」から脱することである。つまり「無明」があるから業が生じ、煩悩が生じる、となる。

つまり、業や煩悩は「無明」から生じる二次的な原因に過ぎず、解脱とは「無明」からの脱出である。

付け加えると、分別思考というのは、「空」から「色」が生じる段階で起こる。なぜなら「色」を認識するためには分別思考が必要だからであり、「色」の発生と「分別思考」の発生は手に手を取って同時に起こった、との説明は有名である。つまり、「見るもの」と「見られるもの」、主体と客体は同時的である。だから「戯論」が分別思考をもたらしたのではない。

投稿: 求道者 | 2011年5月 8日 (日) 21時07分

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