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[TS24-1-1] 中道(に位置する俗諦)の役割とキリストの役割の同義性

[注] この稿は、二つのカテゴリーの共有記事であり、
   カテゴリー『窓は空、空は窓』の記事としては、記号番号 [M28] に相当します。


[後日に向けての注]
  この稿は、カテゴリー『中論参究』の開始後、
  [TS00-1-1]、[TS00-1-2]、[TS00-1-3] に続いて、
  時間的順序としては、四番目の位置で書かれたものです。



自分でも呆れるのです。
「中論」が絶壁で、明日にでも参究の放棄をしようかと、一方で本気に考えながら、
他方で、「中論」の最終的な結論に近いところを記事として書いてしまおうと思うのですから・・・・????。

別の言い方をすると、中論における各論の基礎的な部分の論理が全くお手上げ状態で読み込めないのに、なぜか最終結論的なところで、ここは「こう読める」と思ってしまうのです。
ですから、その程度のレベルとしてお読み下さい。

もっとも、中論における各論の基礎的な部分の論理が全くお手上げ状態といっても、
そこで龍樹尊者が意図していることは、最終的に了解できるというおかしな事態がこういう行動を促しています。
各論的な論理がわからなくても、別のルートから最終的結論はわかっているという事態です。

別のルートとは、どういうルートなのかといわれても、自分でもわかりません。
少なくとも、龍樹尊者が中論の各論で展開しているような論理以外の何か、としか答えようがありません。

でも、結論が先読みできるなら、(本当にわかっているとはいえないとしても、)それを書いてもよいではないかと・・。

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その、龍樹尊者が意図しているところとは、以下の点です。

一切の言語的認識の世界は虚構(戯論)であり、実体と認められるものごとは、一つとしてないということ(言語的世界の解体)、
そして、「言語的に認識され、表現された一切の知」ないし、知の働きを終焉に導き(知の世界の解体)、
実はそのことが、本来、言語では認識し、表現し得ない真理(真諦)に至る道筋であることを道案内しているということ。

そして、そのことを虚構(戯論)であるはずの、当の「言語的認識・表現」を用いて行っており、また、そのような方法を取ることの必要性を説いています。

すなわち、以下の、私の拙訳を御覧下さい。

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[注]

[TG24] 中論(偈の意訳) 24章 四諦の考察 [観四諦品 ]

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/tg-6f67.html

そのまま、引用します。

[TG24-8] 

諸仏は二つの地平(二諦)を使って、衆生のために法を説く。
一つは、言語的認識・表現を超えた真理の地平(真諦)であり、
もう一つは、上記の真諦を言語的認識・表現として仮設した地平(俗諦)である。

[TG24-9] 

この二つの地平の区別を了解できないと、仏法の深い真実義はわからない。

[TG24-10] 

言語的認識・表現(俗諦)を使わなければ、
言語的認識を超えた真理(真諦)に到達することはできない。

言語的認識を超えた真理(真諦)に到達することができなければ、
涅槃に到達することはできない。

-------------------------------------

[TG24-10] で、俗諦を用いることの必要性が説かれています。

ここで、話を整理するために、これまでに一度指摘した後、繰り返さなかったことを、まず再確認します。

すなわち、言語的世界は、無明底的世界で使われている言語的認識・表現がまずあります。
非宗教的世界での言語的認識・表現はすべてこれであり、これは『此岸的世間諦』と呼ぶことに定義しました(下記内において定義)。

[注]
カテゴリー『窓は空、空は窓』の
[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-ffe1.html

そして、この無明底での『此岸的世間諦』を真諦へと導く言語的認識・表現の形をとった道案内役を俗諦と呼ぶことにしてきました。

この用語法は、私の不勉強もあり、一般的歴史的用語の使用例に則して、定義を検討する余裕がありませんので、強引に私なりの定義で話の進行をはかり、議論の混乱だけは避けようとしたことに基づいております。

そうすると、中論は、『此岸的世間諦』としての言語的認識・表現の世界を解体して、真諦へと導くための案内役・媒介者である俗諦であるということになります。
言い換えると、虚構(戯論)である言語的認識・表現の世界を解体するための、特別の言語的認識・表現である、という特別の位置づけになります。

この特別の位置づけのことを、『中道』と呼んだのであると解せられます。
『此岸的世間諦』と真諦の中間に位置しているという意味で、『中』の字が用いられたと考えられます。方便の意味です。
これは、キリスト教的にいうと、「媒介者」に相当します。中間に位置している「媒介者」です。

[注]
私の、この中道理解は、「新説」のような気もしますし、
逆に取り立てて言うほどに特別なことではなく、
むしろ、中道の意味が云々されていることのほうが不思議であるのかもしれません。
不勉強で、はっきりと自らの位置づけができません。
但し、仏教の究極的な立場、ないし、到達点が中道である、というような理解・表現は、
誤っている、ということになります。



従って、第18偈は、こうなります。

[TG24-18] 

私は、およそ縁起するものは、空である、と説く。

但し、この説明自体は、言語的認識・表現として仮設されたものであるから、
真諦そのものではなく、真諦に最も親しい俗諦である。

それ故に、この中論は、中道の位置(真諦そのものではないが、真諦にぎりぎりに接近した俗諦的位置)にある。
この位置にあることを、中道の位置にあるという言い方で定義しておく。

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これまで、カテゴリー『窓は空、空は窓』で、(上記に[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)を中心とするその前後の)一連の論稿で、媒介者たるキリストがなぜ、『(神の)ことば』であるのか、ということを参究してきました(例えば、下記の[M24]の中にもあります)。
そして、この場合の『(神の)ことば』である媒介者・救い主キリストということが、この中論の「中道」という語義の意味と全く同じであることに気づくのです。

そうです、『此岸的世間諦』を解体して、真諦へと導く案内役としての、それ自体特殊な使命を帯びた特殊な言葉(俗諦・神のひとり子としてのことば)として、中論の「中道」は、媒介者たるキリスト(神のひとり子)と同義の位置づけになっているということがいえます。

その結果として、カテゴリー『窓は空、空は窓』で参究した下記の命題が、中論においても妥当するということになります。

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、
                死と復活によって、それ(真諦)にならなければならなかった

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-506b.html

[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、
                  死と復活によって、愛(大悲)そのものにならなければならなかった

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-90d8.html


すなわち、中論は、最終的に『知(言語的認識・表現)の墓場』です。
『知(言語的認識・表現)の墓場』へと我々を導きます。

ここに、究極のパラダイム・シフトが、待ちうけています。
ここから大悲が主役の位置へと、表面化してきます。
知の働きが第一線から退いたときに、
(それまで潜在的に形成されつつあった)大悲(愛)が、
はじめて主役として、第一線に浮上し、表面化してきます。

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本稿によって、中論を取り巻く、より大きな体系の中での中論(の立場・役割)の位置づけが確定し、
従って、あとは、その内部で各論的問題が解決していけばよい、ということがいえるかと思われます。

さらに、本稿で、カテゴリー『窓は空、空は窓』でのこれまでの記載(上記の[M27]まで)と併せて、仏教とキリスト教の基本的な枠組みの一致を確認できたような感を抱きます。
もとより、その周辺で多くの不明事項をかかえておりますが、基本的な枠組みは、浮かび上がったと感じております。


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[TS24-1-1] [C1-1] 投稿: sheepsato | 2009年10月16日 (金)

こんばんはー。
この文は難しかった・・
わかったらシンプルでしたが、3回ほど読んでやっとぼんやりわかりました。

きれいにまとまるんですねー。
複数の視点で、把握する、ということは、こちらの言葉で言う「空じる」ことにつながりそうです。
此岸的世間諦から、真諦に至るルートを複数の方向から観察することは、
それがそのまま空じることに近づくのではないでしょうか?

[TS24-1-1] [C1-1N]  西方法界 | 2009年10月17日 (土)

ブログのプロフィールや
カテゴリー『宗教の窓』の [S31] 死と復活・・その六(キリスト教・パウロ)、
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_6880.html
の冒頭部分で、
私とキリスト教とのかかわりの一部に触れました。

幼稚園に行くのは、まだ極く少数の人に限られていた時代でしたが、
私は、キリスト教会(バプテスト)の運営する幼稚園に行っておりました。
今でも、その前を通ります。

しかし、終始、そして、今もって、キリスト教会的雰囲気には体質的になじまないものを感じており、逆に、禅宗的体質であることをつくずく実感いたします(といっても、望んではいたのですが、本来の禅宗に接触する縁にはなりませんでした)。

もっとも、幼稚園卒園式の時にもらった名刺大のカードを、
観音開きの物入れの扉の裏側に貼り付けておき、
そこを開くと、そのカードが見えるようになっていました。

そのカードには、新約聖書・ヨハネの黙示録3章20節の有名な言葉が、カラーの挿絵付きで書かれていました。

   「たたけよ、さらばひらかれん。」

この漆塗りの家具は、父が亡くなった、つい数年前に処分するまで、我が家にありました。

そんな経緯の中で、昔からキリスト教と仏教は、結局同じことなんじゃないのか、という感覚があって、例えてみると、三分の二が仏教で、三分の一がキリスト教で、しかも、いつもそれが一致するような方向で理解するという前提のようなものが、ずっと私を支配してきました。
御覧の通り、キリスト教も仏教も総動員して、話がつながってきた感があります。
一つだけより、二つひっかかりがあったほうが、進みやすい面があります。

それが、いろいろな縁と結びつきながら、こんな形で行き着くところに行き着いてきたということでしょうか。
長い間の、昔からの宿題がやっと解けて、なにかほっとして、静かな喜びの中にあります。

自分自身が、スレスレいっぱいいっぱいのところで書き進めていますので、いろいろな面で、なかなか他の方が読んでわかりやすいように書くところにまで気が回らず、たいへん御迷惑・御負担をおかけいたします。


[TS24-1-1] [C1-2] 投稿: sheepsato | 2009年10月17日 (土)

お返事読むと、かなりうまくいかれたみたいで、よかったです~。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

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