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[TG18] 中論18章 アートマン=主体・我の考察 [観法品 ]

御注意・・・自分の実用に供するための、自己流の意訳です。

(この章は、1~12偈あります。)

[TG18-5] (論理を追いやすくするため、順序を変えて訳している)

解脱とは、業と煩悩が滅することである。

言語の虚構性(戯論)が、分別思考をもたらし、
分別思考から、業と煩悩が生じる。

ところが、空において、言語の虚構性(戯論)は消滅する。



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該当章別の目次
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-da1b.html

記載順序を示す目次   
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-ef9c-1.html

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[TGC18-1] 投稿: 求道者 | 2011年5月 8日

業とは「カルマ」の漢訳であるが、カルマとは「因果則」であり、原因があるから結果があるという、当然の法則であり、万物森羅万象は、この法則から逃れることはできない。
 では万物とは何か?「色」である。「色」とは「空」から生じた、つまり「神の創造物」、「無または空」の顕現化、現象化である。現象化が終焉すれば「空」となり、「空」が現象化すれば事物、「色」となる。色即是空の故であり、万物流転であり、空と色が繰り返しているのが世界である。

事物のことはさておき、一般には「人間の行為」による因果を「カルマ」と呼んで区別している。さすれば、解脱とは、①因果則を超えることである。次に煩悩とは、五感から生ずる五蘊によって束縛される状態である。だから②この束縛から自由になり解放されることである。

しかし、釈迦の教えを分析してみよう、彼は、人が現在の苦悩の状態にある原因は、最終的には、五蘊や煩悩ではなく「無明」にあると結論している。さすれば解脱とは「無明」から脱することである。つまり「無明」があるから業が生じ、煩悩が生じる、となる。

つまり、業や煩悩は「無明」から生じる二次的な原因に過ぎず、解脱とは「無明」からの脱出である。

付け加えると、分別思考というのは、「空」から「色」が生じる段階で起こる。なぜなら「色」を認識するためには分別思考が必要だからであり、「色」の発生と「分別思考」の発生は手に手を取って同時に起こった、との説明は有名である。つまり、「見るもの」と「見られるもの」、主体と客体は同時的である。だから「戯論」が分別思考をもたらしたのではない。


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以下は、投稿文のみで、記載が重複します。
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[TS00-2-1] 知(言語的認識)は墓場に入る(死に至る)のか、どこまでも生き延びようとするのか

本稿は、お知らせの体裁をなすものですが、
内容的に重要問題に触れていると思われますので、
お知らせを兼ねながら、そのまま一稿として、ここに置くことと致します。

これまで、記載順序から見た前稿にあたる

[TS24-1-1] 中道(に位置する俗諦)の役割とキリストの役割の同義性
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-2322.html

および、それに先立ついくつかの場所において、
『知(言語的認識)の墓場』ということに触れてきました。

今や、カテゴリー「窓は空、空は窓」で到達した以下の二つの命題も
このことを正面から問題にしています。

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、
                死と復活によって、それ(真諦)にならなければならなかった

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-506b.html

[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、
                  死と復活によって、愛(大悲)そのものにならなければならなかった

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-90d8.html

これは、上記の前稿でも、触れた通りです。

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私は、以上のように筆を進めながらも、他方で、中論の中に、逆に「知(言語的認識)がどこまでも生き延びようとする要素」が含まれており、
従って、中論の読み方において、『知(言語的認識)の墓場へと至る立場』と『知(言語的認識)がどこまでも生き延びようとする立場』の間で、深刻な対立が生じうるのではないか、ここをどう乗り切るか、ということが、頭から離れませんでした。

そこで、そもそも前稿 [TS24-1-1] の内容自体は、
私が『知(言語的認識)の墓場へと至る立場』であることを示しているわけですが、
これに引き続いて、改めて私がその立場であることを早々と先に明確に宣言してしまってから、それを前提として、これから中論を読み進め、参究していく方向を打ち出そうということで、一つだけ、より具体的な手段・方針も思いつき、次稿の記載に取りかかろうとしておりました。

ところが、その直前に、ネット上で発見した「ツォンカパの中観思想」(四津谷孝道著・大蔵出版)が手元に届きました。
今はこれを手にした時点で、まだ読んではいないのですが、この内容がおそらく上記の私の問題意識そのものに答えてくれる本であることを何となく予感しています。
すなわち、見当では、帰謬論証派が『知(言語的認識)の墓場へと至る立場』であり、
自立論証派が『知(言語的認識)がどこまでも生き延びようとする立場』になってくるのではないかと・・・・。

[注] 以前読んだ、ダライラマ著「般若心経入門」で、
    中観派に帰謬論証派と自立論証派の二派があるということが書いてありました
   が、ここで問題になってくるのか、という感慨をもちます。

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そういうことであるとすると、絶壁に思われていた中論の登山口に到達したのかもしれないという思いもありますので、ここはあわてず、ゆっくりと進みたいと思います。

具体的に申しますと、ブログ外の実生活、そろそろ年末が意識されてきたこと、これまで中論以外には、ほとんど参考文献を何も読んでいないに近い事情なども合わせまして、ここはゆっくりこの本を読んでみたいと思うにいたりました。
つきましては、しばらくブログ記事をお休みいたします。

どのくらいの期間になるかはわかりませんが、しかるべき時点で再開します。
これは、前向きな進展に向けての一時休止とお受け止め下さい。

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中論参究の目次(記載順序を示す目次)

記事は、目次項目の下にあるリンク(薄いピンク色)をクリックすると、表示されます。

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ここは、中論参究の目次(記載順序を示す目次)です。

中論参究の目次(該当章別の目次)へは、下記のリンクから。

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[T1] このカテゴリーの性格・定義

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b153.html


[T2] 三つの前置き

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7485.html


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[TS00-1-1] 中論の八不・般若心経の六不・・・・その1

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-5482.html

[TS00-1-2] 八不・六不(個の解体・存在の解体・自己の解体)・・・その2

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/s00-1-2-12-c106.html

[TS00-1-3]  八不・六不(光あれ・・旧約聖書・創世記)・・その3
 
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-a9e5.html

[TS24-1-1] 中道(に位置する俗諦)の役割とキリストの役割の同義性

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-2322.html


[TS00-2-1]  知(言語的認識)は墓場に入る(死に至る)のか、
                どこまでも生き延びようとするのか

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/2-b320.html




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ここは、中論参究の目次(記載順序を示す目次)です。

中論参究の目次(該当章別の目次)へは、下記のリンクから。

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-da1b.html
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[TS24-1-1] 中道(に位置する俗諦)の役割とキリストの役割の同義性

[注] この稿は、二つのカテゴリーの共有記事であり、
   カテゴリー『窓は空、空は窓』の記事としては、記号番号 [M28] に相当します。


[後日に向けての注]
  この稿は、カテゴリー『中論参究』の開始後、
  [TS00-1-1]、[TS00-1-2]、[TS00-1-3] に続いて、
  時間的順序としては、四番目の位置で書かれたものです。



自分でも呆れるのです。
「中論」が絶壁で、明日にでも参究の放棄をしようかと、一方で本気に考えながら、
他方で、「中論」の最終的な結論に近いところを記事として書いてしまおうと思うのですから・・・・????。

別の言い方をすると、中論における各論の基礎的な部分の論理が全くお手上げ状態で読み込めないのに、なぜか最終結論的なところで、ここは「こう読める」と思ってしまうのです。
ですから、その程度のレベルとしてお読み下さい。

もっとも、中論における各論の基礎的な部分の論理が全くお手上げ状態といっても、
そこで龍樹尊者が意図していることは、最終的に了解できるというおかしな事態がこういう行動を促しています。
各論的な論理がわからなくても、別のルートから最終的結論はわかっているという事態です。

別のルートとは、どういうルートなのかといわれても、自分でもわかりません。
少なくとも、龍樹尊者が中論の各論で展開しているような論理以外の何か、としか答えようがありません。

でも、結論が先読みできるなら、(本当にわかっているとはいえないとしても、)それを書いてもよいではないかと・・。

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その、龍樹尊者が意図しているところとは、以下の点です。

一切の言語的認識の世界は虚構(戯論)であり、実体と認められるものごとは、一つとしてないということ(言語的世界の解体)、
そして、「言語的に認識され、表現された一切の知」ないし、知の働きを終焉に導き(知の世界の解体)、
実はそのことが、本来、言語では認識し、表現し得ない真理(真諦)に至る道筋であることを道案内しているということ。

そして、そのことを虚構(戯論)であるはずの、当の「言語的認識・表現」を用いて行っており、また、そのような方法を取ることの必要性を説いています。

すなわち、以下の、私の拙訳を御覧下さい。

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[注]

[TG24] 中論(偈の意訳) 24章 四諦の考察 [観四諦品 ]

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/tg-6f67.html

そのまま、引用します。

[TG24-8] 

諸仏は二つの地平(二諦)を使って、衆生のために法を説く。
一つは、言語的認識・表現を超えた真理の地平(真諦)であり、
もう一つは、上記の真諦を言語的認識・表現として仮設した地平(俗諦)である。

[TG24-9] 

この二つの地平の区別を了解できないと、仏法の深い真実義はわからない。

[TG24-10] 

言語的認識・表現(俗諦)を使わなければ、
言語的認識を超えた真理(真諦)に到達することはできない。

言語的認識を超えた真理(真諦)に到達することができなければ、
涅槃に到達することはできない。

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[TG24-10] で、俗諦を用いることの必要性が説かれています。

ここで、話を整理するために、これまでに一度指摘した後、繰り返さなかったことを、まず再確認します。

すなわち、言語的世界は、無明底的世界で使われている言語的認識・表現がまずあります。
非宗教的世界での言語的認識・表現はすべてこれであり、これは『此岸的世間諦』と呼ぶことに定義しました(下記内において定義)。

[注]
カテゴリー『窓は空、空は窓』の
[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-ffe1.html

そして、この無明底での『此岸的世間諦』を真諦へと導く言語的認識・表現の形をとった道案内役を俗諦と呼ぶことにしてきました。

この用語法は、私の不勉強もあり、一般的歴史的用語の使用例に則して、定義を検討する余裕がありませんので、強引に私なりの定義で話の進行をはかり、議論の混乱だけは避けようとしたことに基づいております。

そうすると、中論は、『此岸的世間諦』としての言語的認識・表現の世界を解体して、真諦へと導くための案内役・媒介者である俗諦であるということになります。
言い換えると、虚構(戯論)である言語的認識・表現の世界を解体するための、特別の言語的認識・表現である、という特別の位置づけになります。

この特別の位置づけのことを、『中道』と呼んだのであると解せられます。
『此岸的世間諦』と真諦の中間に位置しているという意味で、『中』の字が用いられたと考えられます。方便の意味です。
これは、キリスト教的にいうと、「媒介者」に相当します。中間に位置している「媒介者」です。

[注]
私の、この中道理解は、「新説」のような気もしますし、
逆に取り立てて言うほどに特別なことではなく、
むしろ、中道の意味が云々されていることのほうが不思議であるのかもしれません。
不勉強で、はっきりと自らの位置づけができません。
但し、仏教の究極的な立場、ないし、到達点が中道である、というような理解・表現は、
誤っている、ということになります。



従って、第18偈は、こうなります。

[TG24-18] 

私は、およそ縁起するものは、空である、と説く。

但し、この説明自体は、言語的認識・表現として仮設されたものであるから、
真諦そのものではなく、真諦に最も親しい俗諦である。

それ故に、この中論は、中道の位置(真諦そのものではないが、真諦にぎりぎりに接近した俗諦的位置)にある。
この位置にあることを、中道の位置にあるという言い方で定義しておく。

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これまで、カテゴリー『窓は空、空は窓』で、(上記に[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)を中心とするその前後の)一連の論稿で、媒介者たるキリストがなぜ、『(神の)ことば』であるのか、ということを参究してきました(例えば、下記の[M24]の中にもあります)。
そして、この場合の『(神の)ことば』である媒介者・救い主キリストということが、この中論の「中道」という語義の意味と全く同じであることに気づくのです。

そうです、『此岸的世間諦』を解体して、真諦へと導く案内役としての、それ自体特殊な使命を帯びた特殊な言葉(俗諦・神のひとり子としてのことば)として、中論の「中道」は、媒介者たるキリスト(神のひとり子)と同義の位置づけになっているということがいえます。

その結果として、カテゴリー『窓は空、空は窓』で参究した下記の命題が、中論においても妥当するということになります。

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、
                死と復活によって、それ(真諦)にならなければならなかった

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-506b.html

[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、
                  死と復活によって、愛(大悲)そのものにならなければならなかった

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-90d8.html


すなわち、中論は、最終的に『知(言語的認識・表現)の墓場』です。
『知(言語的認識・表現)の墓場』へと我々を導きます。

ここに、究極のパラダイム・シフトが、待ちうけています。
ここから大悲が主役の位置へと、表面化してきます。
知の働きが第一線から退いたときに、
(それまで潜在的に形成されつつあった)大悲(愛)が、
はじめて主役として、第一線に浮上し、表面化してきます。

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本稿によって、中論を取り巻く、より大きな体系の中での中論(の立場・役割)の位置づけが確定し、
従って、あとは、その内部で各論的問題が解決していけばよい、ということがいえるかと思われます。

さらに、本稿で、カテゴリー『窓は空、空は窓』でのこれまでの記載(上記の[M27]まで)と併せて、仏教とキリスト教の基本的な枠組みの一致を確認できたような感を抱きます。
もとより、その周辺で多くの不明事項をかかえておりますが、基本的な枠組みは、浮かび上がったと感じております。


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[TS24-1-1] [C1-1] 投稿: sheepsato | 2009年10月16日 (金)

こんばんはー。
この文は難しかった・・
わかったらシンプルでしたが、3回ほど読んでやっとぼんやりわかりました。

きれいにまとまるんですねー。
複数の視点で、把握する、ということは、こちらの言葉で言う「空じる」ことにつながりそうです。
此岸的世間諦から、真諦に至るルートを複数の方向から観察することは、
それがそのまま空じることに近づくのではないでしょうか?

[TS24-1-1] [C1-1N]  西方法界 | 2009年10月17日 (土)

ブログのプロフィールや
カテゴリー『宗教の窓』の [S31] 死と復活・・その六(キリスト教・パウロ)、
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_6880.html
の冒頭部分で、
私とキリスト教とのかかわりの一部に触れました。

幼稚園に行くのは、まだ極く少数の人に限られていた時代でしたが、
私は、キリスト教会(バプテスト)の運営する幼稚園に行っておりました。
今でも、その前を通ります。

しかし、終始、そして、今もって、キリスト教会的雰囲気には体質的になじまないものを感じており、逆に、禅宗的体質であることをつくずく実感いたします(といっても、望んではいたのですが、本来の禅宗に接触する縁にはなりませんでした)。

もっとも、幼稚園卒園式の時にもらった名刺大のカードを、
観音開きの物入れの扉の裏側に貼り付けておき、
そこを開くと、そのカードが見えるようになっていました。

そのカードには、新約聖書・ヨハネの黙示録3章20節の有名な言葉が、カラーの挿絵付きで書かれていました。

   「たたけよ、さらばひらかれん。」

この漆塗りの家具は、父が亡くなった、つい数年前に処分するまで、我が家にありました。

そんな経緯の中で、昔からキリスト教と仏教は、結局同じことなんじゃないのか、という感覚があって、例えてみると、三分の二が仏教で、三分の一がキリスト教で、しかも、いつもそれが一致するような方向で理解するという前提のようなものが、ずっと私を支配してきました。
御覧の通り、キリスト教も仏教も総動員して、話がつながってきた感があります。
一つだけより、二つひっかかりがあったほうが、進みやすい面があります。

それが、いろいろな縁と結びつきながら、こんな形で行き着くところに行き着いてきたということでしょうか。
長い間の、昔からの宿題がやっと解けて、なにかほっとして、静かな喜びの中にあります。

自分自身が、スレスレいっぱいいっぱいのところで書き進めていますので、いろいろな面で、なかなか他の方が読んでわかりやすいように書くところにまで気が回らず、たいへん御迷惑・御負担をおかけいたします。


[TS24-1-1] [C1-2] 投稿: sheepsato | 2009年10月17日 (土)

お返事読むと、かなりうまくいかれたみたいで、よかったです~。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

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[TG24] 中論24章 四諦の考察 [観四諦品 ]

御注意・・・自分の実用に供するための、自己流の意訳です。

(この章は、1~40偈あります。)

[TG24-8] 

諸仏は二つの地平(二諦)を使って、衆生のために法を説く。
一つは、言語的認識・表現を超えた真理の地平(真諦)であり、
もう一つは、上記の真諦を言語的認識・表現として仮設した地平(俗諦)である。

[TG24-9] 

この二つの地平の区別を了解できないと、仏法の深い真実義はわからない。

[TG24-10] 

言語的認識・表現(俗諦)を使わなければ、
言語的認識を超えた真理(真諦)に到達することはできない。

言語的認識を超えた真理(真諦)に到達することができなければ、
涅槃に到達することはできない。

[TG24-11]

(しかし、)空を正しく理解できない鈍根の者には、かえってその邪見が毒と化し、
それがその者を害することになってしまう。

[TG24-12]

(だから、)鈍根の者にこの微妙な教えが体得されがたいことを慮って、
仏陀は、この教えを説くことを思いとどまった。

[TG24-18] 

私は、およそ縁起するものは、空である、と説く。

但し、この説明自体は、言語的認識・表現として仮設されたものであるから、
真諦そのものではなく、真諦に最も親しい俗諦である。

それ故に、この中論は、中道の位置(真諦そのものではないが、真諦にぎりぎりに接近した俗諦的位置)にある。
この位置にあることを、中道の位置にあるという言い方で定義しておく。


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[TG00] 中論 帰敬偈

御注意・・・自分の実用に供するための、自己流の意訳です。

[TG00-1] 中論(偈の意訳) 帰敬偈  ・・・・ (訳)その1

 フーショウ ヤク フーメツ
 フージョウ ヤク フーダン
 フーイチ  ヤク フーイー
 フーライ  ヤク フーシュツ 

(以上、漢字を一切連想せず、単なる音声として読んで下さい。)

これは、全体関係性(実相無相)の説法であり、
言語的認識によって仮設された世界(戯論)を寂滅に導くものである。

このすばらしい理(ことわり)をお説きになられた仏こそ、
もっとも勝(すぐ)れた説法者であられます。
仏を敬礼(きょうらい)申し上げます。


[TG00-2] 中論(偈の意訳) 帰敬偈  ・・・・ (訳)その2

 不生亦不滅
 不常亦不断
 不一亦不異
 不来亦不出 

この意味不明の説法(超言語的意味の説法)こそが、
全体関係性(実相無相)の説法であり、
言語的認識によって仮設された世界(戯論)を寂滅に導くものである。

このすばらしい理(ことわり)をお説きになられた仏こそ、
もっとも勝(すぐ)れた説法者であられます。
仏を敬礼(きょうらい)申し上げます。

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[TG15] 中論15章 自性(固有の実体)の考察 [観有無品 ]

御注意・・・自分の実用に供するための、自己流の意訳です。

(この章は、1~11偈あります。)

[TG15-1]

  自性(固有の実体性)が、縁起によって生ずることはありえない。
    これは、自性の定義に反するからである。

[TG15-2]

    自性とは、他によって作り出されたものではない、
    また、他のものに依存しないものをいう。

[TG15-3]

   (無明底で認識される物事においては、悟りの眼で見れば、本来)
  自性(固有の実体性)がないのだから、
   他のものにも、そのものの固有の実体性(他性と呼んでいる)があるはずがない。
   なぜなら、ここで他性といっているのは、他のもの自身の自性のことだからである。

[TG15-4]

(本来は、以上のごとくなのであるが、無明底において)物事があるというように、その(物事の)存在を認識するということは、同時に、そこに自性や他性(自性の別名)があると認識しているからである。

[TG15-5]

(無明底においては)有(物事の存在)を認識し、従って、その有が壊れることを認識し、
有が壊れたところを無と認識して、そのように名づけている。
しかし、それ故に、最初の前提である、有(物事の存在)が認識どおりに成立しないことになれば、当然に、無も成立しないことになる。
そして、悟りの眼で見れば、本来は、無明底において認識されるような有(物事の存在)は成立しないのであり、従って、無も成立しないのである。

[TG15-6] 

自性や他性(自性の別名)、あるいは、有(存在)と無(不存在)を認識する人は、仏陀の説いた真理に到達していない。

[TG15-7]

(従って)仏は、有無(の認識)を滅している。
経に説かれているように、有(の認識)を離れ、また、無(の認識)を離れている。

(注)ここは、全面的に三枝訳(鳩摩羅什訳)によっている。


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[TS00-1-3] 八不・六不(光あれ・・旧約聖書・創世記)・・その3

空じていく過程では、様々な個的存在のみならず、
その他諸々の一切が解体していきます。
それら解体していくものを構造的にすっきりした形で提示することは、まず不可能でしょう。なぜなら、それらはたいへん複雑な入り組み方をしているからです。

例えば、個が解体するということと、存在が解体するということは、同じことです(と思います)。
ところが、個とか存在などということは、言語的認識です。
言語あるいは言語的認識も解体するということになってくると、話が重なってきます。
この重なり方がまた、考えれば考えるほど複雑で手に負えません。
さらに、無色界(精神界)の解体をこれらに重ねたら、どうなるでしょうか。

そればかりではなく、考えていくときには、言語的認識を使わざるをえないわけですが、
『解体しつつある、解体途上の言語的認識をスレスレに使いながら、
解体の状況をその言語的認識でとらえる』ということがどこまで、どの程度可能なのか。

しかし、とにかく解体の終点まで到達した人(ここは、認識も存在もないところと思われる)が、そこ(真諦)から発した言葉(俗諦)・そこから最初に出てきた言葉が八不・六不なのですから、これを安易に私たちの言語的認識でいじりまわしても、ただエネルギーを消耗するだけで、混乱(とノイローゼ)以外のなにものも出てきそうにありません。(といいながら、それをしているのが、今の私たちなのですが・・・)

ただ、解体の側から、解体の到達点を眺めるのではなく、
その解体の到達点を出発点として展開する世界の、展開の仕方の一端を垣間見ておくことは、この問題の性格を多少なりとも捉えられるかもしれませんので、
本稿ではどうなるかわかりませんが、話をそちらに移してみたいと思います。

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旧約聖書・創世記冒頭の問題です。
当ブログのカテゴリー『宗教の窓』 [S2]一番元の、一番論じようもないところ(自覚)、で触れた『光あれ』の問題をここで取り上げることになります。

[注] カテゴリー『宗教の窓』 [S2]一番元の、一番論じようもないところ(自覚)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_e56d.html

ああ、そこで、「論じようもないところ」と書いてしまったところを、
ここで「論じる」ことになってしまいました。

旧約聖書・創世記冒頭(第1章)です。

まず、第1節です。

『 初めに、神は天地を創造された。』

ここは大問題であり、この点に関して今までに私のブログで論じてきたことを簡単に復習しながら進みます。それが、即、ここでの話の根幹をなす筋道になります。

アウグスチヌスは、ここでの「初めに」の意味は、線形時間の最初、すなわち、ごく普通の意味での「初めに」という意味ではなく、「御子(キリスト)において」の意味であると解しており、私もその立場でいくということは、以下で論じました。

[注] カテゴリー『宗教の窓』
[S12]初めに言があった(世界は、どのような構造に創られたのか)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_cdd3.html

また、ヨハネの福音書冒頭の「初めに言(ことば)があった」も統一的に同義に解釈されるべきであり、そこでいう「言(ことば)」とは、キリストを意味しているとされていることも、そこで論じました。

そして、キリストが「言(ことば)」とされる意味について、それは、神(真諦)から発せられた「言語的認識・表現」が俗諦的世界(天地万物)を創造・仮設するのであって、またその「言語的認識・表現」こそが、神(真諦)に至る道筋の案内役(媒介者その意味で救い主)ということを下記の稿を中心にその前後で論じました。

[注] カテゴリー『窓は空、空は窓』
[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-ffe1.html

八不・六不という言語的認識・表現は俗諦ですが、その指し示すところは真諦(神)そのものです。
こういっていいのか、ちょっと勇気がいるのですが、私は八不・六不すべて纏めて一つにしてしまい、言語的認識・表現の及ばないところ(言語道断・不立文字のところ)と一括してしまいたい思いです。
でも、よくみると、これは真諦の定義そのものですね。

[注] カテゴリー『窓は空、空は窓』
[M19] 真諦・俗諦の定義

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-7b07.html

[注] 前稿の投稿 [TS00-1-2] [C1-1] で、無壁さんが「不」による否定の論理について触れて下さいました。論理によって表現するとそういうことになる(もう真言に近いですね・・要するに意味がないというか、意味をはかりかねる)ということでしょうか。
端的に、言語的認識・表現の及ばないところ(言語道断・不立文字のところ)といったほうが私にはわかりやすいです。
もっとも、わかってはいけないから、わからないようにいっていることに意味がある・・?


[TS00-1-2] 八不・六不(個の解体・存在の解体・自己の解体)・・・その2

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/s00-1-2-12-c106.html

すなわち、今われわれは、真諦と俗諦の接点というか、回帰点・創造=仮設点のところにおります。八不・六不とはそういう位置です。

そこで、俗諦から真諦へという方向からみれば、その接点は回帰点ですが、真諦に到達した覚者が真諦から俗諦的世界(三界)がどのようにできるかを説法すれば、そこが創造=仮設点であり、それこそが『創世記』に他なりません。旧約聖書『創世記』は、モーゼが書いたものです。

仏教の側から見ると、「空」を根本教義とするため、「解体」を通しての回帰点(世界解体の到達点)という見方になりますが、キリスト教(聖書)の側から見ると、神(真諦)からの世界(三界)創造=仮設点(世界創造=仮設の出発点)という見方になります。

[注]仏教でも、「三界は、唯識の所造」という見方があります。
   唯識をここでは、「言語的認識・表現」と置き換えて、
   読んでいただければそうなります。

   なお、この「唯識」と「言語的認識・表現」の関係については、


カテゴリー『窓は空、空は窓』
[M23] 中観・唯識・言葉・ロゴスの位置づけ

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-7e0a.html

要するに、旧約聖書・創世記第1章第1節では、

神(真諦=言語的認識・表現のおよばないところ)が、『言語的認識・表現(キリスト=ことば)において』=『言語的認識・表現(キリスト=ことば)を通して』、天地(三界)を創った。

と書かれている、ということになります。

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旧約聖書・創世記冒頭(第1章)・第2節 


   地は混沌であって、
  闇が深淵の面(おもて)にあり、
   神の霊が水の面(おもて)を動いていた。 』

何やら、怪しげなところですねえ。

『 地は混沌であって、・・・・』

この辺が、仏教でいう「八不」「六不」の、キリスト教的な相当表現なのかなあ???。
「混沌」というのは、気にいりますね。「八不」「六不」より、まだわかりやすいですから。
仏教で、『明暗双双』などというときの、「暗」は、真諦をいうのでしょうから、
キリスト教で「闇」が出てくるのはわかるし、一致してくれると都合がいいですが、
こんな表現では、そこまで決定的なことはわからないですね。

う~ん???。

[注] 本稿末尾の投稿欄(このページの下の方)、
      [TS00-1-3] [C1-4] (投稿: ノイローゼ さん)

    その内容が、そっくりそのまま、この第1章第2節の解釈になっております。

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旧約聖書・創世記冒頭(第1章)・第3~5節 

ここは、やや長いので、まずいっぺんに全部掲げてしまいます。

『 神は言われた。「光あれ。」
 こうして、光があった。

 神は光を見て、良しとされた。

 神は光と闇を分け、
 光を昼と呼び、
 闇を夜と呼ばれた。

 夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 
『 神は言われた。「光あれ。」』

言語的認識の及ばないところが、言語的に認識され・表現されることになります。

『こうして、光があった。』
 
  そのときに、「あった」というのですから、『存在』が成立するのかな?。
  この段階で「光」は、個(自性を持つもの)になっているのかな、
  まだ、「神の御言葉」だから、個ではなさそうだな。楽園内の問題であり、
  楽園追放段階(認識の木の実を食べた段階)ではないから・・・??。
 
  さあ、この辺から中論がらみの微妙さが出てきてわからなくなります。
 
  でも、そのあとで、明(光)暗・昼夜が明瞭に分けられていますね。

 この状態は、個ではないが、識別可能な「部分」ということなんでしょうか。

 最初に識別するのは、まず「明るさ(光)」なんですか??。う~ん。

 今後、こういったことも論じられることになると思います。

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とにかく、「八不」「六不」は、この真諦と俗諦の狭間にあって、
一切のものの解体の回帰点・到達点であると同時に、
そこから一切のものが創造・仮設される出発点です。

そして、解体していく側から見れば、「滅」ともいえそうですが、
そこから創造・仮設されてくるのですから、滅とも言えず、「不滅」に落ち着くのでしょうか。

創造・仮設される側から見れば、「生」(生じる)といえそうですが、
解体していく側から見れば、解体というより、もともとないのですから、
「生」(生じる)とはいえず、「不生」なんでしょうか。

ああ、またノイローゼになってしまいます。

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[TS00-1-3] [C1-1] 投稿: 不思議の国のアリス | 2009年10月 6日 (火)

悪いがさすがに吹き出してしまった。しかしここまで真剣勝負ができるのは中途半端な専門教授達よりもまだましな方で、彼等は避けて通るのが通例だからである。苦闘する人は大切である。

この混乱ぶりはたとえて言えば、「不思議の国のアリス」であり、八不どころか八方塞がりの状況を呈している。幼児がパパのゴルフセットで遊んでいて、ドライバーやパットやウッドを見て自分の持っているオモチャと対比して考えているようなものであり、三次元方程式で解くべき問題を鶴亀算で解くのに等しい。解くことが不可能でないとしても無限の時間を必要とする。

まず聖書の創世記自体の構造的把握や言語の語源的意味の解析もなしに論理を展開すること自体に問題がある。他宗教や哲学や心理学の言語体系を混合させる利点は確かにあるが、初心者が試みるととんでもない錯誤に陥って、抜け出せなくなる。言葉の定義が明確でない自分用語で解析しないように、用語と論理展開には神経質であり過ぎることは絶対にない。

創世記をある程度上手に把握するためには何十冊以上の参考書を何年も掛けて読んでも難儀なのである。最低限でも英訳(KJ)、せめてギリシャ語での解釈は必須である。それでもだめな人はだめであるが。その理由は創世記の起源はユダヤより更に古いものだからであり、まず参照すべきものが広範囲になるからである。それと宗教の解析には直感力も重要であるが、それを得るのは修行しかない。

とりあえず、キングジェームス(KJ)版で抜粋すると次のようになっている。

1:2 The earth was without form, and void; and darkness was on the face of the deep. And the Spirit of God was hovering over the face of the waters.

1:4 And God saw the light, that it was good; and God divided the light from the darkness.
1:5 God called the light Day, and the darkness He called Night. So the evening and the morning were the first day.

1:14 Then God said, "Let there be lights in the firmament of the heavens to divide the day from the night; and let them be for signs and seasons, and for days and years;

面白いのは1:2にはちゃんとVoid、つまり空、空虚という言葉がまだ残っている。

また不思議なのは1:4と1:5で光と闇の分離、昼と夜の分離が語られているのに、1:14でも光が再び存在化して、再び昼と夜の分離がある。これに疑問を呈する学者もおらず、適当に誤魔化すのがせいぜいであるが、ちゃんとした意味があるのである。

天地創造が7日で完了することの意味やこの二度現れる光と闇の解析や水の複数形、Spirit of Godの意味などが分かるようになって初めて仏教や他の宗教の天地創造との比較(同じであることの証明)がまともにできるようになる。それまではお預けした方がよいと思うよ、頭脳だけでは無理で知識と直感力が必須。

はっきり言って聖書の現代版は語源的、言語的解釈が混乱していて問題が多すぎるし、日本語版は尚更。だいたい紀元四世紀に五千冊もの写本を三日間で整理統合、削除焼却してして聖書にしてしまったことの根源的問題も隠れている。

だからまず中論の天地創造(笑)の解析に最大限努力し、そしてキリスト教を深く解析して初めてまともな比較ができる。また特に創世記は非常に難しいのであり、ヨハネの黙示録と同じく最後に解くことができる謎の一つであるが、これが解けると人生が極度に愉快になる。まずは中論。中論。

やはり苦しくて落ち着かないので、年末まで都会を離れ山で過ごすことに決めた。もしまだ生きていれば来年遭えるかもしれません。

[TS00-1-3] [C1-1N]  西方法界 |  2009年10月 6日 (火)

究極のパラダイムですから、確かに、しっかりそこまでパラダイムシフトして(ということは、修行に基づく悟りに達して)、その上で、それに基づく直感力と知識が必須なんでしょう。

私の限界面のところなので、致し方ないです。
なんと言われても、私は自分の水準・自分の身の丈に落在する以外のありようができません。表面的にジタバタしていても、究極的には落在していませんとね。

ただ、また名前が変わって、今度は「不思議の国のアリス」さんですか、それは、私の実態がそうだからということなんですが、それはとにかくそれとして、・・・・。
不思議の国のアリスさんから御覧になられたときに、どう見えるかということを指摘していただけることは、たいへん助かります。しかも、普通には得がたい内容のインフォメーション付きです。御助言も戴き、どうも、ありがとうございました。

[TS00-1-3] [C1-2] 投稿: GOOD BY | 2009年10月 6日 (火)

少し言い過ぎたかも知れない、心配になって今一度だけ戻ってきた、最後として。

何が貴方を混乱させるかと言うことをよく知る必要があり、混乱の元は「名」である。名とは概念化であり、自分なりに考えたことを自分の限定的な狭い、或いは少し間違いを含む概念として論理構成に使用することによって、それが段々と一人歩きし、それに基づいて論理を進めていく。これがぐるぐる回りの「渇愛」である。その原因は、読むべき基本書に飽きてきて刺激を求め彷徨するからであるが、勿論それも必要であるが、それが壁である。

龍樹の中論は釈迦の阿含経典そのものである、彼は所謂ルネッサンスを意図しただけであり、当時の混乱する解釈の乱れを正そうとしただけであり、阿含さえ忠実に読み取れば、副読本として面白いだけで難解さの方が勝つ。

今一度、釈迦が「離れよ、離れよ」としつこく繰り返したこと考えてみよう。

「苦集滅道」は対になっている、それは「苦集」と「滅道」であり、「集はその苦の原因」、「道は滅の方法」と言っているだけで要は、集と道であり、集は原因の知識と理解、道は滅の方法、つまり受験生の「傾向と対策」と同じである。

さて、ここで最初の対の「集」つまり「苦の原因」であるが、釈迦は一言で喝破している、それは「渇愛」である!!と。

では渇愛とは何か? 心の手(私は巻きひげと言いたい)が対象物を掴まえて「離さない」ことである。対象物自体に問題があるのではなく、「心の手」の方が問題であるだけのことである。これがすべてである。それなら「渇愛」どうすればよいのか?

その手を「離せ」ばよいだけのことで、ただそれだけであるから、釈迦はごく単純論理で「離れよ」と言ったのである。真理は実は単純性の中にその身を隠している。単純すぎて人々はあれこれ考え巡らし、特殊用語とひねくれた論理の中で迷うのである。つまり自分で自分を自縛して自爆するのである。これがアリスが不思議の国から脱するための基本であり、原点に戻ることである。

「自己保存」や「解体」といった用語は中途半端な用語である、苦→その原因→渇愛→それから離れる、つまり脱すること解脱と続く論理構成や阿含でのその展開の方が遙かに綿密かつ誤解がないのであり、その中に自己保存も解体の本当の意味も含まれてしまっているし、悟りの段階的説明などは釈迦が最も単純かつ明瞭に示している。だから龍樹の中論はその副読本のようなものである。

キリスト教聖書の論理は、釈迦の論理構成とは多少方向が違うが、明らかに釈迦の方が論理的で深く優れているのである。私は「聖書」がそうだと言っているのであり、イエスがそうだと言っているのではない、断じて。

私は何も「自分の身の丈を知れ」などと言ってはいない、なぜなら読むべき本や分野なども多く紹介はさせていただいているが、美的感覚が少し弊害かな、とも思われる節があるので・・・。

キリスト教やイスラム教では「割礼」という儀式があるが、勿論それもご多分に漏れず本当の意味が形骸化していて、本当の意味は霊的なイニシエーションであり、神との契約に基づいて「言葉」の真の意味を知ることと、それを保存し無用に明かさないことを誓うことである。
神は「無用に明かすな」と誓わせてるのである。

例え話で言うと、子供がパパから性教育を受ける場面で、子供心に「醜悪さ」を感じてしまいパパやママを避けてしまうことがある。彼が大人になるに従い、それが真実であり自然の摂理であることが経験を通じて理解されてくる。もし子供が子供のままであれば重要な自然の摂理が理解できない。「割礼」とは一種の醜悪な慣習に見えるが、心が大人になるための「聖教育入門」である。

しかし性教育も聖教育も無用に明かすと、大きな弊害があるのである。信じようと信じまいと事実だから仕方がない。それがもう一つの壁である。

GOOD BY FOREVER

[TS00-1-3] [C1-3] 投稿: GOOD BY | 2009年10月 6日 (火)

また言い過ぎているので、私の馬鹿さ加減も困ったものである。直感だけが大切なのではない、これを求めすぎることは青い鳥を探すだけのことにもなる。

そのパラダイムシフトは、必ずしも直感が発達するのを待つ必要はなく、知識の正しい方向での成熟により満ち溢れることによっても、突然に閃く。つまり充電と同じで満タンになれば閃光が走る、しかしバラバラな方向の知識の生育では互いに相殺され、充電しない。それを悪用するのが洗脳であり、間違った方向への偏った充電であるが、それもパラダイムシフトであるが、果ては自滅である。

だから直感を待つのではなく、知識の拡大もたゆまず続けてください。

おまけに、

天地創造は天からの下降方向への段階的顕現の説明であり、悟りとは、それを逆進することに他ならない。だから提灯の穴から出た光が、再び提灯に戻るのを「光を見る、次に光に入る、そして光になる」と表現できたのである。実に単純である。

そして原始においては地上は天国であったが、そこには生命の木があり、善悪を知る木もあった。この2つは木は生える方向が異なり、一方は天の方向に上に向かい、他方は下向きに生えていた。アダムは下向きの木のリンゴを食べ、地上は天国でなくなりアダムは生命の木を食べられなくなった。だから再び戻る方法は食べたリンゴの毒を解毒することである。これがキリスト教的比喩の分かり易い説明である。但し比喩である。

だからその逆進をするために多くの解毒、つまり空じる作業の苦労がついて回り、額に汗をかき、努力することになっている・・・・

そして釈迦はその解毒行程を分かり易く詳細に説明している。

(毒による)苦→集としての原因は渇愛(中毒状態)→五縕(その毒の区分)→段階的解脱法(毒には強弱高低の分散があり、三界とも九界とも十界とも、解き方次第である)。

聖書ではここまで書かれていないが、エデンの園の生命の木を天使達は(自由に)上り下りすると記されている。だから「生命の木」が象徴的な鍵である。ちなみに生命の木は四界に分かれ十の光球を持つとなっているが。最低界はここなので、要するに上には三界ある、となる。

このキリスト教的知識の更なる探究は教会により異端とされている。ピットホールを識別する必要もある。今後の参考になればよいと思う、たゆまず道を歩まれんことをせつに祈らん。

GOOD BY。

[TS00-1-3] [C1-2N][C1-3N]  西方法界  | 2009年10月 6日 (火)

大局的なところからの問題の御指摘、ありがとうございます。

仏教とキリスト教を同一の土俵上で捉えてみたいというのは、私の長年の関心事で、
身のほどもわきまえずに、気持ちがつい先立ってしまうので、ちょっと背伸びし過ぎているのかもしれません。

最後ということのようなので、今までいろいろとお導き戴きましたことをお礼申し上げます。たいへん多くのことを、しかも深く学ばせて戴きました。心より感謝しております。
お元気で。

[TS00-1-3] [C1-4] 投稿: ノイローゼ | 2009年10月 7日 (水)

立つ鳥、跡を濁さず、でノイローゼを解消しておこう。

「八不」「六不」というのはその一つ一つのものに意味があるのではなく、貴方の言葉を使えば「絶対無」というニュアンスを表現したいのである。論理的には「無」はゼロであり、ゼロ自体が絶対に無の状態なのだから「絶対」を付加することはまったく意味がない。しかし「絶対」と付け加えたいのは「有るとか無いとか」どころではないと言いたいのである。また有無の二元性を越えたもの、という意味なのである。それが「不」であり不は有を対極としていない。

例えば老子はこの状態をどう説明したかというと、

天地が生ずる以前に、すでにある物が存在した。その物は、混沌として形容しがたく、感覚で捉えることはできない。他に依存せぬ独立の存在で、そのはたらきは時間空間を超越して止むことがない。これが天地の母である。(徳間書店 中国の思想6老子・列子 第二十五章)

そして聖書は、それをVoidとしたのである。

ヒンドゥー教やある他の宗教では「混沌」。

カルディア系ではAbyss「深淵」とした。

みんな同じことである。

つまり一元的自性を「ある物」thatnessとしたのである、なぜならその中に「有として出現する」あらゆる可能的潜在性を含んでいたから、「無」とは呼べなかったのである。哲学的説明をすれば、我々は三次元界の存在物しか「有」として認識できないが、それが無い状態を「無」と呼ぶだけのことで、この「ある物」の中には三次元的な有と認識できる存在物は一切存在しない。しかしそこから我々の三次元世界が現れるのであるから、「ある物」の中にはその潜在性が潜んでいたのであり、それは我々の有限心では認識不能である、老子はその「ある物」を「玄」とも称した。だから三次元的「有と無」の概念では語れない、ということであり、これが聖書でもunspeakable wordと表現される。不立文字とも言える。

だから不始不終でも、不大不小でも、何でも良いのである。一つ一つに特別な意味があるのではない。6つでも8つでも10並べてもよいのである。

[TS00-1-3] [C1-4N]   西方法界  | 2009年10月 7日 (水)

このノイローゼさんのお話は、そのまま、わからなかった本文の創世記第1章・第2節の解釈になっていますね。
『八不・六不』の総論的な統一的説明も含まれていて、内容的にもすばらしい。
・・・・こんなことを書ける人って、まずいないでしょう。
すごいです。

[TS00-1-3] [C1-5]  投稿: ノイローゼ | 2009年10月 8日 (木)

そうかも知れないが、実際には何度も説明してきたことであり、過去の話の中に散在してるものを熟考整理すれば、同じことが書かれてきたのを発見するでしょう。しかももっと重要なことの方が多く、この解説などは初歩の初歩であり、所謂鶴亀算方式でしか書いていない、所謂三次元方程式で書けば1~2行で終わることがいずれ分かる時も来るでしょう。

半信半疑で聞いていたからでもあり、普通の人はだいたいそうなのです。興味と集中と切迫感がなければ人間は進歩しないものですね。

さて、明日から山(西洋では荒野と言う)に入る予定です、台風が少し心配ですが、問題ないでしょう。

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[TS00-1-3] [C2-1] 投稿: sheepsato | 2009年10月 6日 (火)

こんにちは。
これはものすごい切り込んで行かれますねー。

すごい正面突破ですねー。解けたらすごいんですが、確かにノイローゼになりそうな。

僕はここまでダイレクトに比較検証する、というのは、思ったことがないので。
聖書のほうは、比喩に暗喩に、そんな物ばかりですし。
成果が上がるといいですねー。僕もちょぼちょぼ考えたいです。全部解けなくても、何か一つきらっと光るものが見つかるといいんですが。

神はいずこに、を読み始めてるんですが、まあ難しい難しい。
四苦八苦です。というか、経験のないことはいくら読んでも分からないのでは?と思ってきました。

違う話ですが、福岡 正信さんが、著書で、何もない、と書かれてましたが、僕の好きなタレントさんである、関口知宏さん、と言う方がいるんですが、この方も、0と無限大、という声を聞いたそうで、
相通じるなーと思ってます。
今年春に、琵琶湖まで彼の旅のお話を聴きに行きました。ミーハー気分ですが。

[TS00-1-3] [C2-1N]  西方法界  | 2009年10月 6日 (火)

先に書いたように、このテーマが昔から好きというか、なぜか、気にかかるんですね。
仏教とキリスト教の、相違点より、共通性の方に関心が向いてしまい、
無理を承知で、そこを突っついてみたくなるんですね。
「神はいずこに」を読まれているんですか。
ちょっと、翻訳に難点があるような気もしますが、「経験のないことはいくら読んでも分からないのでは?」というのは、実にその通りなんですよね。

ただ、それでも、そこはどうなんだと、ちょっとでもいいから垣間見ることができれば見てみたいとずっと思っていた主客が消滅する地平、そのことが書いてあって、しかもキリストの「死と復活」の解釈にまでつながっていて、しかも、エックハルトと軌を一にしてくる。
だいたい、私はこの手のものは、普通ほとんど関心を示めさないのですが、バーナディド・ロバーツさんだけは、ちょっと衝撃的で・・・、今も変わらないのです。それから、バーナディド・ロバーツさんのいわれることをもとにすると、今まで理解がつかなかった大問題が整合的に繋がってくる感じがして・・・。
その辺が、のめりこんだ理由ですが、他人には、あまり奨められませんか。
まだ、長い歴史的風雪というか、歴史的評価に耐えて来ていませんものね。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

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