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[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって愛(大悲)そのものにならなければならなかった

既に論じた[M24] の命題は、

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって
          それ(真諦)にならなければならなかった
         
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-506b.html
         

これに対して、本稿の命題は

[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって
            愛(大悲)そのものにならなければならなかった

言語的認識は、死(終焉)を迎えなければならない、
言語的認識を手放すことを通して、最終的に愛(大悲)そのものになりきらなければならない、
というのが、この命題です。

真諦は知によって捉え尽くすことはできません。
従って、愛によって捉えることになります。
なぜなら、知は、有であって、全部を肯定し、包括することはできないからです。

命題Aを否定する者に対して、知の立場はそのような者と『対立』せざるを得ません。
ということは、(『第一義的な意味において』)知を持っている限り(教義=俗諦を持っている限り)、対立はついて回ります。
「摂取不捨(どこまでも摂め取って、見捨てない)」という地平=超個の地平には到達しません。
知的働きは、限定するものだからです(直観のみ異なります、これは包括的に『なり得ます』)。

『無自性(無我)』ということは、『摂取不捨』ということを意味します。『摂取不捨』の理論的根拠は、『無自性』です(参照・・・[M25] 解体と包摂・・・縁起世界および大悲心の理論的根拠)。これは、限定の働きとは正反対の方向です。
ここに、大悲(愛)の働きのパラダイムへのシフトが必然の過程として待ち受けています(前稿[M26]参照)。知的働きから、大悲(愛)の働きへのパラダイムシフトです。

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この問題は、言語的認識の超越局面であり、それはまた宗教における究極的局面であるために、普通ではない特殊な性格を呈します。

すなわち、言語的認識の超越局面である以上、それ以上の言語的認識を通した解釈ができるのか、という問題です。

これに関して、私は以下のようなスタンスに立っております。
すなわち、宗教における究極的局面が言語的認識を超越する局面であるということを、言語的認識(俗諦)の側から理解・把握して、位置づけておく必要があります。
言い換えると、知(言語的認識)の終局(あるいは、知の優位性の終局)にあたって、知(言語的認識)自身がその意味を自ら確認した上で、知(言語的認識)がその終局(あるいは、知の優位性の終局)へと突入していく、ということです。
[M25]で、大悲心の理論的根拠ということを問題にしたのも、一つにはこの意味があります。大悲という行き先を自ら知として確認したうえで、大智(知)は死んで、大悲のみになりきるということになります。しかも、この局面での「知=言語的認識の死・知=言語的認識の終焉」は、それまで、知=言語的認識を自らの支配下に置いてきた「自我の最終的な死・自我の最終的な終焉」を意味します。このときを境に、知=言語的認識は、自我の支配下から、大悲の支配下へと移動・転換します。

他方、言語的認識を超越してしまった復活後の側からは、言語的認識を通した解釈ということ自体が無意味になります。
しかし、これは言語的認識(俗諦)の側から捉えた『キリストの死と復活』の意味(すべてを包み込むということ)から見て、『無数の言語的認識=解釈が同時に成り立ち得る』、『無数の言語的認識=解釈が同時に許容される』ということになります。

このことに関しては、[M24] の末尾に、別の表現形式で指摘をしておきました。
本稿的な理解は、この後で論ぜられます。

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[M24] の解釈形式は、真諦・俗諦の定義にそって、その限度で『キリストの死と復活』を捉えました。
この理解は、バーナード・ローバーツさんの解釈ではあるものの、一般のキリスト教徒の方にはちょっと抵抗があり、
なかなか受け入れがたいものであるかもしれません。
逆に、仏教、特に禅仏教などの側から見ると、わかりやすい理解になっているかと思われます。

これに対して、本稿[M27] の解釈形式は、前稿[M26] の理解に即したものであって、これは仏教・キリスト教の双方から、共に理解しやすいものであると思います。
但し、キリスト教の側からは、多少抵抗のある内容が含まれているとも考えられます。

もう一度、二つの命題を並列して整理します。

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって、それ(真諦)にならなければならなかった

[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって愛(大悲)そのものにならなければならなかった

      
本稿の解釈は、キリスト教の側からは、多少抵抗のある内容が含まれている、としましたのは、
これでは、キリストは「十字架における死と復活」以前には、愛(大悲)そのものではなかったのか、
という反論が当然に出てくることが予想されるからです。

これに対して、私は聖書(キリスト教)自身が、「キリスト」を「ことば」と規定している意味を明確にすると同時に、そこから一貫した理解・解釈ができなければならないということ、そして本稿はその試みなのだということを申し上げておきたいと思います。

但し、事柄はキリスト教内での教義的一貫性の問題も絡みますので、  [M27] の命題は、以下のように置き換えても差し支えない旨を明らかにしておきます。
こちらの方が、キリスト教の方が受け入れやすいと思います。
      

[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって愛(大悲)そのものにならなければならないことを示さなければならなかった

すなわち、「示さなければならなかった」 ということが追加されており、従って、「十字架における死と復活」以前も、愛(大悲)そのものであった、という内容になっております。

  内容的にこのような修正を施したものでも、私の論理展開上は、さしつかえありません。

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最後に、ともに真である[M24]と[M27] の命題の関係は、どういうものなのかという問題がありますが、ここでは触れないでおくことに致します。

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