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[TS00-1-2] 八不・六不(個の解体・存在の解体・自己の解体)・・・その2

六不と八不を一つに混ぜ合わせてみると、次のようになります。
順番は、私の独断でやや入れ替えてあります。

①不生不滅 
②不垢不浄 
③不増不減
④不一不異
⑤不来不出
⑥不常不断

ざっと眺めてみると、以下のようなことを感じます。
但し、大雑把です。

①は、個・存在が解体していること
②は、質の解体
③は、量の解体
④は、個数の解体
⑤は、空間の解体・空間の中心点である自己という主体の解体
⑥は、時間の解体

とにかく、いっぱい解体してますね。
この際、できるだけ並べてしまいましょう。

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本稿のタイトルには、個・存在・自己の解体とあります。
般若心経で、空じる対象は、『五蘊』、すなわち、「色受想行識」です。
すなわち、これらはすべて空じられて、その内容が解体してしまいます。

「色」、すなわち、物質も肉体も解体してしまいます。
「受想行識」は、無色界(精神界)を作り出す源です。
意識(識)も、行(意思・行為)も、受想(感覚・イメージ)もその内容が解体してしまいます。これは、浄化されるといった方がいいのかな。
当然に、言語も解体しますから、言語的観念・言語的認識も一切解体します。
主観・客観の構造も解体します。所有ということも解体します。

前稿[TS00-1-1]でも、般若心経の六不に続いて、「是故空中」以下、延々と解体するものが述べられているところを取り上げました。

カテゴリー『窓は空、空は窓』でも、これらの解体のいくつかは取り上げてきました。
これらの解体にともなって、光景(それは、自分自身に他なりません)がどんどん変化していきます。
従って、その段階に応じて、宗教的表現・宗教的教義が内容的に変化します。
これを、カテゴリー『窓は空、空は窓』の[M20] で俗諦的表現の段階性と呼びました。法華経の「火宅の譬喩」にあるように、段階を踏まないと、我々は宗教的道筋を歩めません。

ですから、釈尊が説法した事柄が、究極的な「空」の地平で、解体してしまい、なくなってしまっても、それはそれでおかしくはありません。
大乗仏教は、釈尊直説ではない、などということは、実質を了解しない形式論に他なりません。

逆に、私たちは俗諦的表現の段階性ということをよくよく承知した上で、あるパラダイム(西田哲学的にいえば、[自分の]~おいてある場所)の俗諦的表現は、ヤドカリの「家」のごとく、それに固着し続けるのではなく、どんどん脱ぎ捨て、脱皮して、より大きな宿=家へと引っ越していくことに心がけるべきでしょう(これが、実はたいへんむずかしい)。
とにかく、このように一切が解体した(空じられた)ときに、そこに現れているのが、六不、あるいは、八不のように表現される有様である、ということでしょう。

これが、想像できないので、ついつい「ノイローゼ」になってしまいます。
しかし、これは想像すべきものではなく、『そのものになりきる』ことが求められているというのは、百も承知の上なんですが・・・・・。

[注]
バーナード・ロバーツさんの本を読んでいると、もしバーナード・ロバーツさんが本物だとしたら、歴史的に初めてそれらしい具体的記述がなされた、と見るべきところが出てきます。([M13]のコメント欄参照)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-79f5.html

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個が解体するということは、存在が解体するということです。
その場合、解体した「それ」は、「大いなる全体の部分」に包摂され、融合します。

[注]  参照 [M25] 解体と包摂]
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/m-e2ad.html

それまで個であった(と認識されていた)ものが、独立性を失い、境界がなくなり、相互依存的、相互関係的、相互透過的になります(縁起・縁滅的に変化します)。

もっと進めると、相互という観念すら消滅し、融合・連続してしまう。
連続・融合して、流動する。

大いなる全体(永遠のいのち・宇宙的いのち)は、流動変化する無限のバランスである。この無限のバランスは、瞬間的に完結しているバランスである。完結しているけれども、直前の完結した無限のバランスに基づいて、その直後の無限のバランスが生じているがごとくである。

「生じ、存続し、滅する」個という存在の『単位』がなくなってしまうのですから、
『不生不滅』です。それは、個という存在がない、個が解体してしまった様相です。
「大いなる全体」とは、「大いなるいのち」「永遠のいのち」とでもいえるし、
解体した個は、その「大いなるいのち」「永遠のいのち」の現れになってきます。
理屈でいうと、こんな感じでしょうか。

個の解体というのは、認識面(認識中枢面)と意思面(指令中枢面)に関係しています。私は、『一応』認識面では、個の解体が出来上がっているようにも思えるのですが、
これは単に観念的にわかっているだけであって、厳密な意味では認識面で個の解体が出来上がってはいません。なぜなら、これが出来上がっているなら、六不・八不は問題なくわかっています。しかし、実際はそうではありません。

これには、意思面(指令中枢面)、すなわち欲界の解体がともなわないと、認識面での個の解体は完成・完結しない、ということがいえるかと思います。

すなわち、欲望を持っていれば、泳いでいく「さかな」、木になっている「果実」を識別し、個という存在が現れ出てしまいます。これには、量的段階もあるでしょう。強弱の程度です。強い欲望を持っていれば、個という存在はくっきりとはっきりと現れ出て、欲望が弱まるにつれ、ぼんやりとうっすらとしてくるでしょう。

そして、極限的には、自己保存本能に行き当たります。バーナード・ロバーツさんもこれに触れていますが、バーナード・ロバーツさんを持ち出さなくても、キリストさんの荒野の試練というのは、この辺のような気がしますし、お釈迦さんでも、「地が振動する」とか、「奇怪な恐ろしい生き物に出会う」というような話っていうのは、自己保存本能を超越する局面なのではないかと想像されます。

すなわち、私は観念的に個の解体がわかったようなことを書いていますが、本当に個が解体するということは、半端なことではないと思われます。

空じきれば、四諦も八正道もないといえても、それまでは、四諦八正道でがんばらなければなりません。

だから、やっぱり『不生不滅』っていうのは、そうやすやすと「なりきれるところ」ではないのでしょう。

しかし、欲界の超越の程度に応じ、個・存在の影も濃淡の変化をするのですから、がんばりましょう。

なお、よく投稿を戴きます求法松さんは、欲界の解体に関しては、「離れること」という言い方をされます。

[注] 下記の中の、[A-2009-06-03-1][C-1-3]

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-d956.html

これは、また四諦・八正道の問題であり、欲界の初禅~四禅であるわけですが、そこをめぐっても、俗諦的表現の段階性が問題になります。
すなわち、段階に応じて、矛盾し、必ずしも形式的に一貫しない俗諦的表現が登場します。この問題は、いろいろな意味で扱いがむずかしいですね。

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とにかく、個・自分も解体すれば、言語も、主観客観の認識構造も、解体します。
だから、縁起のみある、といえば、縁起があるだけといういことになります。
こうしてブログを書いている、このこれ・・・・。

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「不生不滅」に関係する中論の第1章・第1偈を、私なりの文章で記録しました。    

[TG01-1-1] 中論 1章 1偈    

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/tg-a1c0.html

記号の意味ですが、「T」は「中論」の頭文字、「G」は「偈(げ)」の頭文字で、
「偈(げ)」の現代語訳を、意訳的に、私の独断の文章で記録していきます。

原文が原文ですから、三枝・中村・平川訳でさえ、そのまま相手にしていたら、何を言っているのかさっぱりわかりません。思い切って、わかりやすく、自己流の意訳を作っていきます。

TG01(この01の二桁で、章=品を示します)-1-1
章=品は、01~27まであります。
冒頭の帰敬偈のみ、00章になります。

00(章)-1(章内の偈の番号)-1

そして、(章内の偈の番号)の次からは、いろいろな意味に使い分けていきます。
(章内の偈の番号)

ついでに、TS00-1-1のほうですが、
こちらの「S」は、「章」の頭文字です。「偈(げ)」の訳ではなく、私の稿や投稿など、「偈(げ)」の訳以外のものは、TSの記号系を使います。

TS系では、章扱いですから、TG系と異なり、(章内の偈の番号)は表示されません。
その位置は、別の意味で用います。

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書き残した、六不・八不の問題は、さらに、次稿で扱います。

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[TS00-1-2] [C1-1] 投稿: 無壁 | 2009年9月30日 (水)

しかし西方殿の頭脳は優れているなあ。もったいない。私は人をけなしもしないが褒めもしない人間だから、即物的に申しているだけで何の裏もない。実は最近非常に多忙になり、勿論修行のことであるが、進めば進むほど壁が現れてきて一日がまことに切迫してくる。だからひょっとしてもうコメントはできなくなるかも知れない。

まあ、細かい点を言えば色々あるが、こだわらずに総体的に申し上げれば、以下のような参考が書ける。実際に私が一番憂慮したいのは、勿論論理でどこまでも解析は可能であるし付き合うことも可能であるが、跳躍、ジャンプをするためには、別のフラッシュが必要である。本当の壁はまだ貴方の前には現れていないし、壁が苦しくなるほどにならなければ本当の進歩は生じないし、論理も飛躍できない。私のレベル以上の人も希有だろうし、おそらく、もう西方殿の記述内容にまともに返答が書ける人はまず殆どいないだろう。

★この「不」というのは「無」と多少異なるということを意識して歩む必要が分かってくる。その大まかな理由は「無」は「有」の対極であり、すでに二元性の領域のものであるからである。「不」は単に否定するだけであり、中論はそれで成立させている、つまり帰謬論証法であるが、結局真理、真諦はこれでしか論理できないからである。「無我」でなく「不我」とするところが匂ってくるれば更に一歩前進。

★老子に「語り得る「道」は「道」そのものではなく、名づけ得る名は名そのものではない。名づけ得ないものが天地の始まりであり、名づけ得るものが万物の母である。」とあるが、よくよく読んでいただきたい。この短い文の中に「神」というもの、一元性と二元性の境目が見事に描かれている。ただ者ではない。バランスの両サイドである。

★バランスという概念は非常に重要で、まさに「神」と感得される第一原因的存在は、バランスのバランスであり、「有無に落ちず」であり、一歩左に退却すれば不存在の領域であり、一歩右に進めば「そこから存在が始まる」からである。

★「大いなる全体」の比喩として、多くの穴が開いた提灯が語られる。提灯から漏れる光が個としての我々の意識であり、穴の形によって様々な個として現れているが、個の光がもし提灯の中に戻ると、提灯の中の光は一つで全体であり、個と全体の区別はない。そしてその中には「欲」がない、または必要でない。その理由は、勿論、そこにはすべてが在り自他の区別もなく完全充足であるからだ。「一体的である自分」以外の対象物がないのに「欲」など起こりえない。

★私が「離れる」という用語に執着する(笑)のは、まず修行時においてはそれが最善の精神的姿勢であると分かるはずだからである、だから実用法則の側面が一つ。次に、例えば「悟り」というものに達しても、肉身にある場合は、その肉身の維持のために食し、また世俗の諸々を感知し他との交感をし導くためにも五感を、むしろフルに使わなければならないからであり、五感を捨て去るわけではなくそれに束縛されず自由に使いこなすことであるからだ。仙人でも霞は食べなければ生きていけないのだ。これは森羅万象はその存在の必要性がある「神」の一部であり、すべてが「神」の部分以外の何ものでもないはずだからだ。決して忘れてはならないのは「この世界も必要性があって在る」ことと理由を同時にに解析し得ることである。だからこの世俗界や自己を解体するのは実際にそれらが解体されるのではなく、その現象的な他性的側面を見破ることであり、見破ればその中で生きず、考えなくなる。だから中論では決して他性的現象を「無」だと断定しない。「在る物を在るがままに見ること」の真の神髄を感得することが肝要である。故に、「離れること」とは「在るを在るがままに」放置できることである。これは単純なようで最も難しい奥義であり、これが本当に分かれば「大いなる完成」である。

★そう、一般の人が般若心経を読むことで一番危険な問題は、釈迦の説く四諦と八正道を否定しているように見える時である。もし実際に般若心経で悟りを得ることがあるとすれば、余程の「頓悟」の人で、それも釈迦のレベル以下では不可能だろう。しかも悟った人ならば釈迦のように、どうすれば一般の人は多少でも人生を改善するために悟りの道を利用できるか、ということを教えるでしょう。「無」だ「空」だと言って突き放すようなことは決してあり得ない。実際に悟りへの道を歩むこと自体で、人生が大きく改善され、それだけでも恐ろしいほどの内容がある。

[TS00-1-2] [C1-1N]  西方法界 | 2009年10月1日 (木)

たいへん高度な含蓄のあるお話をありがとうございます。

特に、提灯の光と欲界の解消の話は、あ、そうか、大悲(愛)と同じか、と思いました。
提灯っていうのは、華厳経入法界品で言えば、毘盧遮那楼閣っていうことになりますか。
というか、奈良の大仏さん(毘盧遮那仏)・大日如来、すなわち、神っていうこと・・・。

いろいろ、お世話になりました。
御縁に触れるかどうか、また御縁がおのずから繋がったときには、あるいは、御縁が繋がっていればその限りのところで、宜しくお願い致します。
御健闘を祈ります(おかしな言い方だな?)。
このブログは、記載を停止したとしても、パソコン記事との関係で、あと二年くらいは残しておく必要があろうかと思っています。

宗教記事は、当面、中論がどこまで進められるか、ということになります。

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[TS00-1-2] [C1-2-1] 投稿: sheepsato | 2009年10月3日 (土)

こんばんは。
感想がいくつかあります。

②,③,④は、意識の解体。
⑤は、人格の解体
⑥は、心の解体

という風に僕は受け取りました。
言葉変えただけですが。

意識は、認識でもいいんですが。認識は物を捉えますし。つまり物の量と質と個数、のことですがー。
意識+自分=物質 になるかな? あやしい話ですが。

人格は、格、とすると、つまり、格、という感覚は、空間的存在感の具体化と思ってます。
空間+自分=人格

心、あるいは感情は、時間的変化の具体化、と思ってるので、
時間+自分=心

最後の式は、本質的な自分が時間に関わると、心が発生する、という風です。算数の記号を使うのは、無理からですが。

それで上の言葉が浮かびました。
時空と物質の性質が、そのまま現れていると感じます。
時間も空間も物もない、ということで。
ちなみに、上の式は、心理学的な、投影現象、を表してることになるかなーと思ってますが。
おおざっぱに捉えるのが好きなので。

しかしこんなレベル高いとこに書くと、なんか恥をさらしそうで不安ですが、でもメールよりもいいかと思って、こちらに書きます。

[TS00-1-2] [C1-2-1N]  西方法界 | 2009年10月3日 (土)

夕べ知ったのですが、『八不(はっぷ)』、『六不(ろっぷ)』と読むんだそうです・・・。

で、この『八不(はっぷ)』、『六不(ろっぷ)』の意味を直接問題にすると、ノイローゼになっちゃうから、「不生」だけはちょっと手出しをしてしまいましたが、
その他はそうではなくって、
この際解体するものをいっぱいあげて眺めてみて、
そういう解体が行き着くところまで行ったとき、『八不(はっぷ)』、『六不(ろっぷ)』に到達するんだ、というように、話の内容を解体するものの方に移してしまい、
『八不(はっぷ)』、『六不(ろっぷ)』の方は、話を濁しながら、ただ先々重要な話を展開する上で使いやすいような程度に整理できればいいかな、というのが、今の私の逃げ道というか、とりえる方法です。そのほうがわかりやすいじゃないですか。

『八不(はっぷ)』、『六不(ろっぷ)』の意味のとらえ方を直接問題にされると、よくわかっていないから、困ってしまうのですね。

意識の解体・人格の解体・心の解体が起きる・起きなければならないという点は同感なので、とりあえず、今はそのように押さえておくだけにしておく、ということでいかがでしょうか。
そのうちに、意味を直接問題にしなければならない時まで保留するということで・・・・。

[TS00-1-2] [C1-2-2] 投稿: sheepsato | 2009年10月4日 (日)

なるほど!わかりましたー。

そっかー、逃げ道と書いておられたのはそういう意味だったんですねー。
良く読んでなくてすみません。文章がとても難解で・・・
僕は、前に書いた内容みたいなのが好きなので。

直観の違いか、考えの方向の違いかなーと思います。

たぶん僕は、こちらのブログで書かれているようなことは、人の意見や文章を参考にするだけで、自分では考えておらずスルーしているので、たぶんそれが僕の逃げ道です。
逃げ道というか、そういうのを専門で得意にしてる人がいるので、参考にさせてもらおう、ということですが。

書いていいことかどうか迷うので、と言っても書かないと分からないところもあり、まずかったらまた指摘をお願いします。

またちょくちょく参考にさせていただきます。

[TS00-1-2] [C1-2-2N]  西方法界 | 2009年10月4日 (日)

私がよくわかっていれば、sheepsato さんの問題提起に正面から何らかの対応ができると思うのですが、力不足で済みません。

ただ、sheepsato さんと以前メールでやりとりしていたときに、あなたが持ち出した「存在直観(の人)」と「関係直観(の人」)」の話ね、といっても、これだけじゃあ、我々以外の方は、何のことかわからないですね。

sheepsato さんが最初にこの言葉を発想された時にも、たぶんこれから私が申し上げるような感覚をどこかでお持ちだったのではないかと思うのですが、
あのとき、sheepsato さんの説明がなかなか呑み込めなくて、やりとりしている最中に、確か私が、勝手に私のイメージで、
「存在直観の人」とは、個の存在を感じ取る、無明底の人、「関係直観の人」とは、この関係の語を相即相入の縁起的関係を意味するというように見てもらって、悟った人というように捉えたらどうだろうか
・・・とか、なんとか、もう詳しいことは忘れてしまいましたが・・・そんなようなことを書いたことがありましたね。

こういうように概念規定したとき、八不・六不は、「関係直観の人」の見方=あり方である、というような言い方ができるし、あるいは、八不・六不と捉えること、そのこと自体が、「関係直観」であるというような定義の仕方ができるような気がします。
(もっとも、sheepsato さんの当初の意図に反した定義にしてしまったら、ごめんなさい。
とてもきれいな対概念なんで、この表現自体を私も気に入っちゃって。)

それはとにかく、sheepsato さんのこの投稿で、次に何を書くかが決まりました。
どんなものになるか、私にもまだ充分にわかっていないのですが、それをお待ち下さい。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

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[TG01] 中論1章 縁の考察 [観因縁品 ]

御注意・・・自分の実用に供するための、自己流の意訳です。

(この章は、1~14偈あります。)

[TG01-1]

諸事物(存在)は、自分自体から生じたものではない。
また、他の事物(存在)から生じたものではない。
自他の両者から生じたものでもない。
何の原因もなく生じたものでもない。
だから、無生(不生)、すなわち生じたものではない、というのである。

[注] 三枝訳(青目釈鳩摩羅什訳)にのみ、最後の
「だから、無生(不生)、すなわち生じたものではない、というのである。」
の文言があり、
サンスクリット原典訳(中村訳・平川訳)には、ない。


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[TS00-1-1] 中論の八不・般若心経の六不・・・その1

中論の八不とは、中論の冒頭に置かれた『帰敬偈』と呼ばれる偈の内容に
以下のようにあります。

不生にして、亦不滅
不常にして、亦不断
不一にして、亦不異
不来にして、亦不出なる

・・・・・

ここにでてくる八つの「不」が八不です。

般若心経の六不とは、

不生不滅 
不垢不浄 
不増不減

ここにでてくる六つの「不」が六不です。

共通なのは、不生不滅の二不ですが、こうして並べられているのを眺めていると、
結局これらは、すべて同じ事柄について述べているらしい、ということが、私ばかりではなく、誰しもそうお感じになられるに違いないと思います。

他方、同様に、般若心経の六不、すなわち、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」の意味に関しては、誰しもが、またたいへん悩まれてきたことと想像いたします。私も「六不ノイローゼ」患者の一人で、これが出てくると、いつもいや~な感じがいたします。

本稿では、この潜在的恐怖心をできるだけ除去する試みをし、以って中論読破の突破口にしたいと思います。

般若心経では、周知のごとく、

是諸法空相
不生不滅 
不垢不浄 
不増不減

すなわち、「空」の相として、六不が述べられています。

他方、中論の『帰敬偈』では、

不生にして、亦不滅
不常にして、亦不断
不一にして、亦不異
不来にして、亦不出なる

能く是の「因縁」を説き
・・・・・・

と続き、八不は、「縁起」の説明であることが述べられています。

これらは、形式的根拠ですが、実質的に見ても、「空」と「縁起」は実質的に同じ真理であり、表現の仕方が異なるだけであると考えられます。

そこで、ノイローゼの原因になる、「八不」「六不」の代わりに、「空」と「縁起」の語を当てて、「八不」「六不」は別途切り離して、一応その意味を考察しておくほうがノイローゼには陥りにくいといえましょう。

結論はこうです。

中論冒頭の『帰敬偈』には、「空」および「縁起」の理法を説いた世尊を敬し、帰依します、と書かれているということ。

そして、般若心経は、次のように置き換わります。
諸法は、空相である。それは縁起・縁滅しているに過ぎない。

だから、「空」「縁起」の地平においては、

色受想行識もなければ、眼耳鼻舌身意も色声香味触法もない
眼界耳界鼻界舌界身界意識界などもない

無明も無明がなくなるということも 
乃至(十二因縁の中間項すべて)
老死も老死がなくなるということもない

苦集滅道(四諦)もない。
知ることも、修行の成果を得ることもない。
また、得ないこともない。

というように続くことになります。

もとより、「八不」「六不」は空の三昧という真諦から仮設された俗諦的表現であり、
安易な観念的置き換えは慎むべきかもしれませんが、
ここは、上記のように一応ノイローゼの回避をはかっておくこととし、
他方で、稿を改め、次稿[TS00-2-1]で、できる限り「八不」「六不」を詰めておくことに致します。

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[T2] 三つの前置き

本論に入る前に、三つ前置きをしておきます。
すべて、簡潔に要点のみ述べます。

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まず、テキストですが、

  ① 「中論(上)(中)(下)」
        第三文明社・レグルス文庫
        三枝充よし著

     これは、『三枝・中論・上』というように、略記してまいります。
     これは、いわゆる青目釈鳩摩羅什訳の中論です。

  ② 「龍樹」
       講談社学術文庫
       中村 元著

     この中に中村元先生が、サンスクリット原典から直接現代語訳された中論が
     あります。
     これは、『中村訳・中論』と略記します。

  ③ 「大乗仏典」
       筑摩書房

     この中にある、平川彰訳の中論があります。
     やはり、サンスクリット原典から直接現代語訳された中論です。
     こちらは、『平川訳・中論』と略記します。
           なお、こちらは、一部、訳が抜けていて、訳がない章(品)がある。

どれを見てもわかりにくいので、あちこちに目が行ってしまいます。
一応、三つを参照する所以です。

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中論には、大乗仏教の中心教義である「空」および、その展開である「縁起」が説かれているということは、当然の前提として取りかかります。

「空」が説かれているということから、般若心経を中論の理解に絡ませてまいります。
これも当然の前提に致します。

もうひとつ、聖書の創世記冒頭部分を絡ませることができればよいのですが、
できるかどうか・・・???
カテゴリー『窓は空、空は窓』の[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性、で述べたとおり、「真諦から俗諦的世界が仮設される」ということと、「神によって天地が創造される」ということは、同義ととらえるわけですから・・・。

[注] カテゴリー『窓は空、空は窓』の[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-ffe1.html

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カテゴリー『窓は空、空は窓』で何度も論じたように、
中論は言語的認識・表現であり、従って、それ自体は真諦ではなく、俗諦にあたります。

しかし、それは究極的俗諦であり、真諦から発せられ、仮設される、真諦に最も親しい最高位の俗諦であるということ、
すなわち、真諦を直下に扱う俗諦であるということを常にしっかり意識しておきたいと思います。

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カテゴリー『中論参究』の目次に戻る
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-da1b.html
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                                                 投稿されたコメント
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[TC2-1]  投稿: 求道者 | 2011年5月 9日

中論を確実に消化するということは、釈迦を確実に捉えるということである、ナーガールジュナは私が師の一人として仰ぐ大先輩であり、私は彼の秘密の教えを通して、釈迦に触れた。だから当然に釈迦は私の大々先輩である。

まず創始者の基本に立ち返る事で、後世の誤謬を解き放ち、常に原典に回帰する事で、常に軌道修正を行うこと、これしか正確かつ緻密に正法に至る道はない。

「汝の努力を尽くし、狭き門より入れ、道は真っ直ぐであるが狭い。

言葉は大切であり、同じことを意味したり、同じ概念を持つ言葉を、あれこれといじり回して「遊んだり」、しゃれた言い回しや、意味深な言葉に膝を叩いて喜ぶのは、時間の浪費である。納得したいのは理解できるが、人間の悪癖の一つである、マスターベーションへの堕落であり、たいして前進はしておらず、そのうちに飽きてきて、放置するに至る。

しかし本当の真理への探究は決して飽きが来ないものである、なぜなら、暫時に深まるからである。そうでなければ、気分転換をして原典、原点に戻り、自己満足の世界に堕落さざるかを常に顧みよ。

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         以下は、投稿文のみで、記載が重複します。
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[T1] このカテゴリーの性格・定義

このカテゴリー『中論参究』は、基本的にはカテゴリー『窓は空、空は窓』と同次元の地平にあります。
「中論」という、ひとまとまりの領域なので、そこから独立させましたが、
内容的には『窓は空、空は窓』との相互往来が起きてくるのではないかと予想しております。

「中論」は、到達点です。そこに到達した人にとっては、その到達点が新たな出発点(大乗仏教の出発点)になるのでしょうが、私は未到達者です。
到達者が「中論」を論ずる場合は、「説法」になるでしょう。
しかし、未到達者の私にとっては、「参究」に過ぎません。
そこに到達しようとしての参究です。

従って、内容的には多分に「想像をまじえた絵空事」になってしまうかもしれませんが、
それは私が説法しているのではなくて、参究しているからであることを斟酌していただき、
御覧になられる方で、お気づきのことがありましたら、遠慮なく御指摘・御教授戴ければ幸いです。また、同じような位置にある者同士で、いろいろと議論ができればよろしいかと思います。

「参究」といいましても、論者によって、「到達点」までの距離はさまざまなのだと思います。
私の場合は、中論の参究はちょっと無理なのではないか、ということで、もうこのブログを閉じようかとも考えた次第です。それくらいに、絶壁に見える位置におります。

しかし、ここを突き進む以外に、今は進む場所が見出せません。
そこで、挫折したら挫折したで、そのときブログを閉じればいい、という結論に至りました。
先々の見通しが全く立っていないため、開始早々挫折するかもしれません。
そのときには、お許しを戴きたいと思います。

そこで、多少の挫折があっても体裁がとれるような特別の形式を採用したいと思います。すなわち、次のように致します。

第一に、中論を章単位で大まかに扱います。

第二に、中論にはこう書かれているというような、直接の解釈方法はとりません。
直接の解釈方法をとると、始めから全部わからないことになり、
すぐに挫折することは目に見えています。

ここがポイントで、直接の解釈方法をとらず、
まず、章単位で問題にされていることは何であると思うか、
またそれについて、『私は』従来そのあたりのことについて、
どう考えてきたかを書きます。

その上で、どういう経緯をたどるかはわかりませんが、書籍に書かれているようなことも書き込み、あるいは投稿なども戴きながら、次第に中論の読みが少しずつでも進んでいくようにしていきたいと思います。

第三に、そのために、稿の記号のふり方を工夫して、
柔軟な進み方ができるような並べ方の構造を作ってみたいと思います。
(既に綴じてある古典的なノートのような形ではなく、
どこにでも追加していけるような、ルーズリ-フ的ファイル的な構造を考えています)

まだ、抽象的なイメージしかありませんが、
進みながら少しずつ具体化していきたいと思います。


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中論参究の目次(該当章別の目次)

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このカテゴリーに限り、新規の追加記事はどの位置に追加されるかわかりません。
上から下に向けて、順次に記事を追加しているわけではありません。
 
逆に言うと、いつどこにでも、臨機応変に記載を追加できる構造になっております。

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      はじめに
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[T1] このカテゴリーの性格・定義

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b153.html


[T2] 三つの前置き

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       帰敬偈
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                偈の意訳
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[TG00] 中論(偈の意訳) 帰敬偈

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-044b.html

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                 論    稿
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[TS00-1-1] 中論の八不・般若心経の六不・・・・その1

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-5482.html

[TS00-1-2] 八不・六不(個の解体・存在の解体・自己の解体)・・・その2

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/s00-1-2-12-c106.html

[TS00-1-3]  八不・六不(光あれ・・旧約聖書・創世記)・・その3
 
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-a9e5.html


[TS00-2-1]  知(言語的認識)は墓場に入る(死に至る)のか、
                どこまでも生き延びようとするのか

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/2-b320.html

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第1章  縁の考察(観因縁品)
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                偈の意訳
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[TG01] 中論(偈の意訳) 1章 縁の考察 [観因縁品 ]

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/tg-a1c0.html


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                 論    稿
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第2章 去ることと来ることの考察 (観去来品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第3章 根(認識能力)の考察 (観六情品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第4章 蘊(集合体)の考察 (観五陰品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第5章 界(要素)の考察 (観六種品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第6章 染・能染・所染の考察 (観染染者品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第7章 つられたもの(有為・諸現象)の考察 (観三相品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第8章 行為とその作者(行為主体)の考察 (観作作者品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第9章 先行するもの(過去の存在)の考察 (観本住品)
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第10章 火と薪の考察 (観可燃品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第11章 (輪廻の)前後の究極の考察 (観本際品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第12章 苦の考察 (観苦品)
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第13章 行(形成作用・形成されたもの)の考察 (観行品)
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                偈の意訳
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第14章 結合(集合)の考察 (観合品)
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第15章  自性(固有の実体)の考察(観有無品)
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                偈の意訳
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[TG15] 中論(偈の意訳) 15章 自性(固有の実体)の考察 [観有無品 ]

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/tg-17c9.html


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                 論    稿
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第16章 繋縛と解脱の考察 (観縛解品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第17章 行為(業)と果報の考察 (観業品)
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                 論    稿
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第18章 主体・我(アートマン)の考察 (観法品)
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                偈の意訳
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[TG18] 中論(偈の意訳) 18章 アートマン=主体・我の考察 [観法品 ]

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-996e.html

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                 論    稿
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第19章 時間の考察 (観時品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第20章 原因と結果(集合)の考察 (観因果品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第21章 生滅の考察 (観生壊品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第22章 如来の考察 (観如来品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第23章 顚倒した見解の考察 (観顚倒品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第24章 四諦の考察 (観四諦品)
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                偈の意訳
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[TG24] 中論(偈の意訳) 24章 四諦の考察 [観四諦品 ]

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/tg-6f67.html


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                 論    稿
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[TS24-1-1] 中道(に位置する俗諦)の役割とキリストの役割の同義性

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-2322.html

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第25章 涅槃(ニルヴァーナ)の考察 (観涅槃品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第26章 十二支縁起の考察 (観十二因縁品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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第27章 邪見の考察 (観邪見品)
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                偈の意訳
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                 論    稿
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ここは、中論参究の目次(該当章別の目次)です。

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[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって愛(大悲)そのものにならなければならなかった

既に論じた[M24] の命題は、

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって
          それ(真諦)にならなければならなかった
         
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-506b.html
         

これに対して、本稿の命題は

[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって
            愛(大悲)そのものにならなければならなかった

言語的認識は、死(終焉)を迎えなければならない、
言語的認識を手放すことを通して、最終的に愛(大悲)そのものになりきらなければならない、
というのが、この命題です。

真諦は知によって捉え尽くすことはできません。
従って、愛によって捉えることになります。
なぜなら、知は、有であって、全部を肯定し、包括することはできないからです。

命題Aを否定する者に対して、知の立場はそのような者と『対立』せざるを得ません。
ということは、(『第一義的な意味において』)知を持っている限り(教義=俗諦を持っている限り)、対立はついて回ります。
「摂取不捨(どこまでも摂め取って、見捨てない)」という地平=超個の地平には到達しません。
知的働きは、限定するものだからです(直観のみ異なります、これは包括的に『なり得ます』)。

『無自性(無我)』ということは、『摂取不捨』ということを意味します。『摂取不捨』の理論的根拠は、『無自性』です(参照・・・[M25] 解体と包摂・・・縁起世界および大悲心の理論的根拠)。これは、限定の働きとは正反対の方向です。
ここに、大悲(愛)の働きのパラダイムへのシフトが必然の過程として待ち受けています(前稿[M26]参照)。知的働きから、大悲(愛)の働きへのパラダイムシフトです。

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この問題は、言語的認識の超越局面であり、それはまた宗教における究極的局面であるために、普通ではない特殊な性格を呈します。

すなわち、言語的認識の超越局面である以上、それ以上の言語的認識を通した解釈ができるのか、という問題です。

これに関して、私は以下のようなスタンスに立っております。
すなわち、宗教における究極的局面が言語的認識を超越する局面であるということを、言語的認識(俗諦)の側から理解・把握して、位置づけておく必要があります。
言い換えると、知(言語的認識)の終局(あるいは、知の優位性の終局)にあたって、知(言語的認識)自身がその意味を自ら確認した上で、知(言語的認識)がその終局(あるいは、知の優位性の終局)へと突入していく、ということです。
[M25]で、大悲心の理論的根拠ということを問題にしたのも、一つにはこの意味があります。大悲という行き先を自ら知として確認したうえで、大智(知)は死んで、大悲のみになりきるということになります。しかも、この局面での「知=言語的認識の死・知=言語的認識の終焉」は、それまで、知=言語的認識を自らの支配下に置いてきた「自我の最終的な死・自我の最終的な終焉」を意味します。このときを境に、知=言語的認識は、自我の支配下から、大悲の支配下へと移動・転換します。

他方、言語的認識を超越してしまった復活後の側からは、言語的認識を通した解釈ということ自体が無意味になります。
しかし、これは言語的認識(俗諦)の側から捉えた『キリストの死と復活』の意味(すべてを包み込むということ)から見て、『無数の言語的認識=解釈が同時に成り立ち得る』、『無数の言語的認識=解釈が同時に許容される』ということになります。

このことに関しては、[M24] の末尾に、別の表現形式で指摘をしておきました。
本稿的な理解は、この後で論ぜられます。

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[M24] の解釈形式は、真諦・俗諦の定義にそって、その限度で『キリストの死と復活』を捉えました。
この理解は、バーナード・ローバーツさんの解釈ではあるものの、一般のキリスト教徒の方にはちょっと抵抗があり、
なかなか受け入れがたいものであるかもしれません。
逆に、仏教、特に禅仏教などの側から見ると、わかりやすい理解になっているかと思われます。

これに対して、本稿[M27] の解釈形式は、前稿[M26] の理解に即したものであって、これは仏教・キリスト教の双方から、共に理解しやすいものであると思います。
但し、キリスト教の側からは、多少抵抗のある内容が含まれているとも考えられます。

もう一度、二つの命題を並列して整理します。

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって、それ(真諦)にならなければならなかった

[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって愛(大悲)そのものにならなければならなかった

      
本稿の解釈は、キリスト教の側からは、多少抵抗のある内容が含まれている、としましたのは、
これでは、キリストは「十字架における死と復活」以前には、愛(大悲)そのものではなかったのか、
という反論が当然に出てくることが予想されるからです。

これに対して、私は聖書(キリスト教)自身が、「キリスト」を「ことば」と規定している意味を明確にすると同時に、そこから一貫した理解・解釈ができなければならないということ、そして本稿はその試みなのだということを申し上げておきたいと思います。

但し、事柄はキリスト教内での教義的一貫性の問題も絡みますので、  [M27] の命題は、以下のように置き換えても差し支えない旨を明らかにしておきます。
こちらの方が、キリスト教の方が受け入れやすいと思います。
      

[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって愛(大悲)そのものにならなければならないことを示さなければならなかった

すなわち、「示さなければならなかった」 ということが追加されており、従って、「十字架における死と復活」以前も、愛(大悲)そのものであった、という内容になっております。

  内容的にこのような修正を施したものでも、私の論理展開上は、さしつかえありません。

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最後に、ともに真である[M24]と[M27] の命題の関係は、どういうものなのかという問題がありますが、ここでは触れないでおくことに致します。

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