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[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によってそれ(真諦)にならなければならなかった

キリスト教徒でもない私が、しかも、キリスト教でも語られていない(と思われる?)問題、しかもそれほどのキリスト教の大問題に触れるなどということは、神をもおそれない「狂気の沙汰」です。
しかし、これまでの「仏教とキリスト教の統一基盤」を作ろうという話の流れからすると、取り上げざるを得ません。

というより、実は、私は、バーナディッド・ロバーツさんがおっしゃられた「キリストの死と復活」の解釈に深く納得し、それを私の仏教的な理解につぎたしているだけに過ぎません。
もっとも、つぎたせばぴったり整合するという理解の中で、そういうことになったということではあります。
ただ、「キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によってそれ(真諦)にならなければならなかった」という表題の理解は、直接にはバーナディッド・ロバーツさんによってもたらされました。

とにかく、こんな大それた、狂気の沙汰は、私のような、いい加減で、どうでもいい立場にいる者だからこそ、論じられるのかもしれません。ですから、勇気を出して問題提起をしてみます。

本稿は、前稿までで、「キリストは、言葉であるから俗諦である」としてきたことを補強し、
また、キリスト教においては、俗諦はいかにして真諦に至るとされているかを概観するという意義があるかと思います。
さらに、仏教の側からする、バーナディッド・ロバーツさんの評価・位置づけということにも関係するかと思います。


バーナディッド・ロバーツさんに関しては、ネット上で見るかぎり、「精神世界」の外では、ほとんど評価が皆無です。
私は、いわゆる「精神世界」には従来からかかわらない者ですし、「精神世界」的なものに魅力を感じる体質でもありません。
しかし、バーナディッド・ロバーツさんに関する限り、評価したいと思います。
このブログ内でも、それを危険視する指摘がなされておりますが、私は自分でも十分それを承知した上で、そして自ら危険を冒す覚悟で、バーナディッド・ロバーツさんを評価したいと思います。
但し、これは自分が同じレベルに到達して確認してきたというものではありません。
そうではなくて、従来自分が抱えてきた重要問題の多くが、それで矛盾なく解決するからです。整合するからです。それ故の確信からくる評価です。
したがって、それなりの危険は自分でも承知しながらであり、それなりの誹謗も受ける覚悟の上です。
  ただ、従来論じられていない(?と思う)ことの仮説として、一つの解釈・理解の提案として、提起してみるだけです。
 ですから、そういうものとして、その程度のものとして、お読みいただければそれでよい、と思っております。

[注] バーナディッド・ロバーツさんの紹介、著書等は、当カテゴリー内の、下記の
[M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体、の中の本文下にある私の投稿
[MC13-2-N2] に詳しくしてあります。


http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-79f5.html

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さて、[M23] の『後日仮見解』までを前提にすれば、真諦に至りうるまでには、最後の最後まで細かな段階があります。すなわち、言語的認識・表現がなくなった段階で直ちに、真諦に到達するのではありません。

ですから、厳密に言えば、俗諦という概念も、上記の段階性を背景に置きながら、真諦に至る直前までをいう、という形で捉えなければならないことになります。

しかし、単に厳密さだけを考えていると、ここでは本末転倒の結果に陥ります。
なぜなら、ここで、俗諦を問題にする最大の意味は、それが真諦を指向し、そして志向するものだからです。
この意味から、真諦(神)ではないが、真諦(神)への媒介者という使命をもつものであるという意味を、我々人間に端的に示すものとしては、言語的認識・表現、すなわち、言葉と言っておくのが適当だと考えられます。

俗諦を問題にする最大の意味は、それが真諦に到達寸前の修行者よりも、そうではない大多数の修行者に向けられるべきものだからです。
このように捉えると、道案内役としての、俗諦(媒介者)の役割に着眼するとき、厳密さにはやや欠けるかもしれないが、端的に、消極的には俗諦の限界性を明瞭に示すと同時に、積極的には、『本来真諦を表現できない』言葉(言語的に認識しうるもの)を道案内役としてそれでも使うのだ、但し、その言葉(言語的に認識しうるもの)は普通の言葉ではなく、神の御言葉だ、といように扱われるのが当然だ、といえるからです。

『本来神(真諦)を表現できない』言語的認識・表現を使う。
神(真諦)を指向(志向)する言語的認識・表現を使う。
その神を指向(志向)する認識・表現が、媒介者(方便)であり、
そのことを通じて、罪人(衆生・凡夫)を救済することになります。

そりゃあ、そうですよね。
言語的認識・表現で事足りはしないけれども、言語的認識・表現を使わなかったら、全く手がかりがないですからね。
聖書とか経典などない状態ですからね。

だから、媒介者、すなわち、罪人(衆生・凡夫)を神(真諦)へと媒介する(案内する)救い主キリストとは、
神の御言葉、すなわち、神(真諦)を指向(志向)する言葉(言語的認識・表現)であることを本質とするわけです。
神(真諦)の他に存在意義のあるものというのは、神(真諦)へと橋渡しする役割を果たすものだからです。
それを、言語的認識・表現を使って行うのが、キリストの役割ということになります。
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なお、カテゴリー『宗教の窓』で、仏教で言えば、法空=空無辺処の次元で
「一即一切、一切即一」と「インマヌエル=神は私たちとともにいる」の両者を統一的に捉えようとする試みをしました。
なぜなら、もっともわかりやすい次元で、即非の論理、絶対矛盾的自己同一の論理が成り立つキリスト教的聖書的基盤を明確にしてみたかったからです。

[注] 上記関係の『宗教の窓』の二稿

     [S11]神は我々と共におられる(イエス・キリストの正体)
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_c517.html

  [S12]初めに言があった(世界は、どのような構造に創られたのか)
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_cdd3.html

そこにおいて、キリスト教の方では、よく承知されていることのようですが、
旧約聖書・創世記と新約聖書・ヨハネ福音書冒頭は、ともに天地(世界)のはじまり、天地(世界)のでき方が書かれているものとして、統一的に解釈されなければならないとした上で、どう具体的解釈をするかを論じました。

 そのことは、次元の上がったここにおいても、そっくりそのまま妥当するものであることを述べておきます。繰り返しになるので、ここでは触れません。

ただ、ヨハネ福音書冒頭の「言葉=キリスト」(神の独り子)から天地・万物が出来たことは、聖書の文言から明確です。
他方、アウグスチヌスは、「告白録」中で、旧約聖書・創世記冒頭の「初めに、神は天地を創造された」における『初めに』の意味を、
線形時間(時間直線)でいう初めの意味ではなく、
自分は『御子(=キリスト=言葉=言語的認識・表現)において』の意味に解するとして、新旧聖書の統一理解を図っています。

この点だけを、ここでは改めて繰り返し、基本的にこのアウグスチヌスの解釈に従っていこうと思います。
すなわち、これは、ヨハネ福音書冒頭の「言葉=キリスト」で論じておけば、旧約聖書・創世記も同時決着することを意味します。

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ところで、いままでの議論は、三位一体の教義的話に触れずに進んできていることに注意していただけるでしょうか。

これは、今進めている話の筋道の方が、三位一体の議論に先立つ問題であり、
後述の[M27]までを含めた議論が逆に三位一体論の根拠になっていく位置関係にあるからです。三位一体論との詳しい関連性は、今後どこかで触れる機会があると思います。

[注] この三位一体論との関係部分は、[M28]記述後の時点で、
   現内容に変更しました。
   従って、その間の記載にこの部分の記載内容と抵触するものがあった場合には
   (記憶では、特に書いてはいないと思いますが)、
   こちらで書いた内容が優先いたします。
   気づけば、修正してまいりますが、未修正箇所が仮にあったとしても、
   [M28]までの本筋の議論には関係しておらず、
   付随的な記載にとどまっているはずです。

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さて、そこで、大問題の、キリストの「死と復活」の解釈に入ります。
先に申し上げたとおり、これはバーナディッド・ロバーツさんの受け売りです。

でも、それで、私は、あ、そうだ、と気づいたのです。
ですから、多少私なりの歪曲、ないし付け足しが入るかもしれません。

バーナディッド・ロバーツさんは、こういいます。
ちょっと、私の言葉にやや言い換えてわかりやすくしますが、
キリストは、「言葉(言語的認識)」であるわけです。
ですから、キリストがキリストに留まるかぎり、絶対に神(真諦)そのものには到達しません。
キリストは、「言葉(言語的認識)」であることがその役割であり、本質なのです。

ところが、最後にキリストは、「言葉(言語的認識)」であるという、その役割を超えて、真実の神(真諦)のところまで至る道筋を示すのです。
これをもって完成・完結するのです。
それは、『言語的認識』を超えることです。
なぜなら、真実の神(真諦)は、『言語的認識』を超えたものだからです。

ということは、キリストたる『言語的認識』が、言語的認識であることをやめ、その先にもう一歩超越するということ、すなわち、自ら死ぬということを意味します。
『言語的認識』が超越され、なくならないことには、真実の神(真諦)は真実に立ち現れて来ないのです。
だから、真実の神に至るためには、キリスト(言語的認識)は死ななければなりません。

十字架上で、キリストは神の名を呼びます。しかし、神は現れません。
これは、神は現れてはならないのです。
俗諦(言語的認識・表現)の世界では、神(真諦)は対象化されて捉えられています。
言語を使う以上、対象化された神(真諦)でしかありません。
ですから、その対象化された神(真諦)こそが、この十字架上で姿を消さなければなりません。
それが、真実の神(真諦)に至る道だからです。
だから、神は現れなかったのです。
現れなかったからおかしいのではなく、現れなかったから、キリスト(言語的認識)の死は意味を持ったのです。
キリストの死とともに、対象化された神も消えたのです。
言い換えます。
言語的認識が消えれば、当然に言語的認識の対象も消えるのです。

このようにして、復活したキリスト、これこそが真実の神(真諦)そのものにほかなりません。
以上が、キリストの「死と復活」の解釈になります。

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そして、こういう意味で整合性のある解釈が成り立つということが、
キリストは、「神(真諦)を指向(志向)する言葉(言語的認識・表現)」であり、
媒介者であり、俗諦であり、その役割を果たす意味で救い主であるということになります。

キリストが、「神(真諦)を指向(志向)する言葉(言語的認識・表現)」であるといううちの、
「神(真諦)を指向(志向・媒介・道案内)する」というところが、神の『独り子』という意味であると解釈されます。
神(真諦)以外に存在意義があるものは、神(真諦)への道案内役であり、それゆえキリストは、神の『独り子』である。『神の独り子』は『神への道案内役』であり、それがそのまま『救い主』の意味になります。
だから、キリストの名は、インマヌエル、すなわち、「神と共にある」なのです。

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ここで、再度[M20] で問題にした、理事無礙法界・事事無礙法界を再確認・整理の意味で参究します。

[注]
[M20] 俗諦的表現の段階性(即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理の終焉)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2940.html

理事無礙法界の『理』とは「俗諦的(=言語的)認識理解」であり、『事』とは「真諦」を意味すると捉えます。

理事無礙法界とは、まだ何らかの意味で『理』、すなわち「俗諦的(=言語的)認識理解」を媒介に『事』と向き合っている世界であり、しかし、その「俗諦的(=言語的)認識理解」は『事』と「無礙」であるほどに極められている段階であるということになります。

  [注] 正偏(平等と差別)でみるのではなく、真諦・俗諦でみるということ
      これは、話が微妙でむずかしいですね。
            理(俗諦)で見ているということは、正偏でみる見方があるということのように
       思えますが、
            俗諦として、正偏を立ててみる見方は、理法界における理で終了します。
      理事無礙法界は、第一義諦の世界なので、既に理の中から、正偏の問題は
      消えており、存在しません。

      他方、事(真諦)に至るということは、一切の理(俗諦)が消えてなくなること
      を意味します。
       ここでは、「~から見る」ということ、すなわち、見るものと見られるものが
     
分離する認識が完全に消滅します。
      それでいながら、見るものが見られるものであり、明確な自覚がある世界が
      そこにはある、と聞いております。
     
  
バーナディッド・ローバーツさんによりますが、従来カトリック的瞑想(観想)の世界で、「神と自己との合一」といわれている、瞑想(観想)の最終段階は、実は最終ではなく、これが理事無礙法界に相当するように思われます。
なぜなら、キリスト教的な意味での、「俗諦的(=言語的)認識理解」がまだ媒介的に存在するからです。

これに対して、事事無礙法界は、「俗諦的(=言語的)認識理解」を媒介とせず、直接的に真諦そのものになりきっている世界であると思われます。復活のキリストがここにあたります。

そして、上記の「キリストの死と復活」は、理事無礙法界から事事無礙法界に入るときに起きる事であると解釈されます。

バーナディッド・ローバーツさんが「神と自己との合一(神も自己もある)」からさらに進んで、「自己喪失の世界(神も自己も消滅する)」として描いたものが、事事無礙法界です。
そして、バーナディッド・ローバーツさんは自ら語られます。
『かつて、そこに触れているのは、エックハルト一人であると』。

ここで、もう一度結論を繰り返しておくことにします。

キリストは言葉=言語的認識(俗諦)であるが故に、死と復活によってそれ(真諦=神)にならなければならなかった。
そして、これは、あのエデンの園でアダムとイブに入ってきた原罪から最終的に完全に解放されるときでもあります。
さらにいえば、ここにあっては、明々白々とした、ここがあるだけで、自己も、キリストも、神もないところということになります。


しかし、最後に逆説的なことを言明しなければなりません。

言葉=言語的認識を通すということの限界性は、言葉=言語的認識自体が事実=真実=実質的実存を欠いていること、それから遊離、乖離しているという本質を持つことにあります。

すなわち、言葉=言語的認識を通した瞬間に、それは観念的理解のみに陥り、しかもその観念的理解とはその観念の一側面性に限定されたものであって、既に認識として把握したこと自体が、事柄そのもの(事実・真実のもつ全体性構造・関係性構造・縁起構造)から乖離し、形骸化したものしか得られないということです。

本来、事柄の重みは、その事柄の重みそれ自体として、それ(事実・真実のもつ全体性構造・関係性構造)から離れず、そのままにあることにおいて、受け取る以外にはありません。否、そこはもう「受け取る」のではなく、「そのものとして現成している・そのものになりきって、そのものである」という地平です。

従って、まさに言葉=言語的認識の有限性を超越しようとする「キリストの死と復活」を、そのようなものとして言葉=言語的認識を通して描いてしまうと、またそこから限りないものが漏れ出し、形骸化してしまうという逆説的悪循環に陥ります。

既に、現に、もう(私は、本稿は)そこに陥っています。
これは宿命です。俗諦と真諦の間に存する宿命です。
「キリストの死と復活」はまた、その宿命を表現しています。

事実がある、ということは、いかなる言語的認識も及ばないところにある、ということを意味します。したがって、最後には、その事実になるよりほかにはないのです。

本稿を書き出したということは、それに続いて、この後の作業として、
この漏れ出したものを、出来るだけもう一度救い取らなければならないように宿命ずけられていることをも意味します。
そして、最終的には、「死と復活」そのものになることしかありません。
なぜなら、そのことがまた、仏教で言う「自性無性」ということでもあるのですから(これは、新しい捉え方ですから、次への伏線です)。

そのことに思いをいたしながら、結びとしたいと思います。

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