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[M26] 知(言語的認識)と愛(大悲)の関係・・・知の墓場

真諦と俗諦は、言語的認識・表現に関係づけられながら、定義されました。

[注]
[M19] 真諦・俗諦の定義

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-7b07.html

それによって、俗諦は、真諦を指向(志向)する言語的認識・表現でありながら、
俗諦それ自体としては、真諦ではないもの、真諦にはなりえないものとして定義されました。

他方、個の解体は、それと表裏に、全体(宇宙的いのち)の中に縁起的に包摂される関係であって、
そこに大悲・愛というものが包摂の意思として登場し、方向性が与えられるということでした。

[注]
[M25] 解体と包摂・・・縁起世界および大悲心の理論的根拠
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/m-e2ad.html



個の解体に伴い、世界に対する言語的認識・表現が変化していきます。
すなわち、個の解体がすすみ、全体としての宇宙的いのちの中に縁起的に包摂される関係が進んでくるにつれ、
世界の見え方が異なってきます。世界の見え方が変化します。

ここに、俗諦の段階性という問題が生じ、さまざまな次元の俗諦が説かれることになります。
行者は、あたかもヤドカリのごとく、身の丈にあった等身大の俗諦を身にまとって進みます。進むことになります。
このヤドカリ性は、俗諦が仮設的方便であるということと表裏の関係になります。

[注]
[M20] 俗諦的表現の段階性(即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理の終焉)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2940.html

この中で、俗諦はその段階性を高めるにつれ、内容において極めて複雑化・高密度化してまいります。
この複雑化・高密度化は、それまでの段階での言語的認識・表現を用いると、複雑化・高密度化していくということを意味します。

それにつれ、俗諦的認識・表現の次元転換が必要になってきます。
次第に抽象化し・単純化した認識・表現への非連続的転換が必要になってきます。

上記の複雑化・高密度化した認識をより抽象化した認識・表現に転換しながら、
より多くのものを包摂しようとしてまいります。

すなわち、俗諦的段階性ということは、分割・分節され、限定されて孤立・独立してしまった無明的世界(長者たる父のもとから家出し、ないしはエデンの園から追放されて、転落した被造(物)性世界という地獄)が、次第に解体し、本来的な真諦世界に包摂されていく道中の段階的道筋を意味するということになります。

俗諦の存在形態は、極めて多種多様ですが、例えば、周知の経典で、大ざっぱな例として言えば、般若から華厳へ、華厳から法華へ、というような道筋ということになります。

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他方、この道筋の中で、包摂的方向性を示す大悲・愛の締める位置が次第に重要性を増してきます。

まず、最初に重要なこととして、言語的認識・表現(知)と大悲・愛との基本的な関係、あるいは、その性格です。

知は、本来的に、真諦を分割し、分節し、限定して、対象的に固定化して、把握します。
俗諦は、そのような知で捉えたものは、真諦そのものではないことは承知の上で、仮設された方便として、そういう知を使いながら、真諦に近づこうとするものでした。

他方、大悲・愛は、包摂性という、知とは全く別系統から生ずる働きです。
不可分一体の宇宙的いのちから生じる本来的働きであることは、前稿 [M25] 解体と包摂、で見たとおりです。

真諦に近づくためには、知の働き(言語的認識・表現)が不可欠であることは、仏教でもキリスト教でも同様でした。
私たちは、宗教的道筋の多くを、この知の働き(言語的認識・表現)をたよりに進みます。

[注]
[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-ffe1.html

ところが、知の働き(言語的認識・表現)は、そもそも最終的には、真諦(神)には至れないという本質を持つものでありました。
このことは、最終的には、過去の覚者の悟りに根拠を発し、俗諦の要素として取り込まれています。

すなわち、宗教はこの知の働き(言語的認識・表現)に対して非常に微妙な対応を
します。
大ざっぱに言えば、一方で、不可欠なものとして肯定致します。
ある程度のところまで、肯定致します。
それでいて、ある段階になると、徹底的にこの知の働き(言語的認識・表現)を
排除しようとします。
これは、大悲・愛の働きをどの段階で取り込んでいくのかと表裏の問題をなしてきます。

そして、この知の働き(言語的認識・表現)の肯定と排除(否定)の態様、
すなわち、どういう段階で、どういう意味で、知の働き(言語的認識・表現)を取り込み、
逆に、どういう段階で、どういう意味で、知の働き(言語的認識・表現)を排除していくか、
ということが、大悲・愛の働きをどの段階でどのように取り込んでいくのかと表裏の問題をなしながら、
各宗教宗派のさじ加減が大いに異なってくるところである、と考えられます。

この点こそが、各宗教宗派の間での、相互無理解と抗争の火種になり続けてきたことであり、
逆に言えば、この点に関する相互理解をどうつけていかれるかが、今後の大問題である、ということが出来るかと思います。

ただ、極めて大きな抽象度と視野の中で、知と愛の問題を捉える限り、
真正な宗教はいずれもみな、この枠組みの中にあるといえるのではないでしょうか。

というわけで、各宗教宗派の間での知の働き(言語的認識・表現)と大悲・愛の働きを登場させる段階、態様などに差があるものの、大局的に見れば、段階的に知を排除し、最終的には、知は全く排除され、逆に全面的に、大悲・愛の働きに移行・転換していくことになっている、と思われます。

この知の排除と大悲・愛の働きへの移行・転換に、また極めて微妙な問題が出てきます。

これは、知(言語的認識)の問題性として、知(言語的認識)の側で捉えることが
できるかと思います。

すでに、知(言語的認識)の問題性として、それはいかなる意味でも、真諦(神)にはなりえない、またそれは分割し、限定する機能であるに過ぎない、ということはすでに何回もくりかえしております。
このことにさらに付け加えます。

まず、知(言語的認識)は、意思・意識の支配を受けます。
すなわち、行者の中に個的意思・個的意識の残滓が残っていると、
おのずからそれを反映した知になってしまうという性格があります。
ここでは、個的意思・個的意識と言っていますが、
阿頼耶識から上がってくるものも含めて理解して下さい。

次に、知(言語的認識)は、『有』として現れます。

『有』として現れた以上、必ずその『有』に含まれないなにがしかのものを
排除・排撃します。
知(言語的認識)を俗諦、すなわち、真諦を指向(志向)する方向に用いて、
究極の『空』ということで捉える場合ですら、
それそのものになりきること(真諦)以外には、何らかのものを排除・排撃します。

例えば、『空』ということを認めず、あるいは、反対する者を排除・排撃します。
これは、意図せずして起こります。こちらが排除・排撃するつもりは全くなくても、
起こります。

すなわち、当該の(なんらかの)言語的認識・表現を使って、他者を現に
『裁かなくても』、他者がその言語的認識・表現に接触しさえすれば起こります。

キリストは、言葉(言語的認識)であったが故に、その言葉(言語的認識)を認めないものによって、十字架に送られました。

[注]
  このことの深い意味について、現在参究中なのであり、
  あるいは、一つは下記に書き出したものもあれば、
  多くは今後にゆだねられることになります。

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって
          それ(真諦)にならなければならなかった

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-506b.html

 
すなわち、どんなに苦労して手に入れた悟りであろうとも、
またそれがどのような内容の悟りであろうとも、
それが知(言語的認識)として捉えられていると、
あるいは、知(言語的認識)の形で存在すると、
それによって何らかの意味で他者と衝突し、
何らかの意味で、他者を傷つけてしまうということが避けられません。
すなわち、必ずどこかで対立に至ります。

ここは、知の墓場とでもいうべきところだから、もう少しはっきり言うことにしましょう。
どんなに気をつかい、どんなに配慮しようと、
知(言語的認識)は何らかの意味で、必ず誰かをそして何かを、排除し傷つけます。


[注]
  悟りといえるほどのものではありませんが、
  早い話が、今これをお読みになられている読者の方は、
   私のこの記述(私の言語的認識)で傷つけられませんでしょう
か?。

   私は、そのことをたいへん気にしながら、これを書いております。
  それを思うと、ブログ開始当時とは全く逆に、私のブログなど
  ほとんど読んで下さる方がいないくらいがちょうどいいのだと思えてまいります。

  どういう場合に、どういう意味において、私たちは知(言語的認識)で傷つくかを
  見極めることは、重要な修行事項になるかと思います。

[注]

   知の墓場と言っても、知を用いなくなるということではないと思われます。
   知が、完全に大悲=愛の統制下に入り、暴走しなくなる、
   その意味で無明性・原罪性がなくなるという意味だと思われます。
  仏教では、智(四智)への転換と捉えられているところに属するのではないでしょうか。


 
  すなわち、知(言語的認識)では、すべてを包摂することはできない、という決定的事実に直面することになります。
 
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このような意味で、大悲・愛の側からみると、その大悲・愛の発現の上で、自分を導いてきてくれた知(言語的認識)が、逆に邪魔な存在になってきます。

悟っても、悟ったものを捨てる、忘れるということの深い意味の一つは、
ここにおいて出てくるのだと思われます。問題になってくるのだと思われます。

しかし、死にものぐるいで自己の全存在をかけてやっとの思いで手に入れた悟り、
ないし、そこから得られた知(言語的認識)を捨て去る、忘れ去るということは、
行者にとって、そうたやすくできることではないということが、問題になる
のだと思われます。
この点は、いろいろなところで、繰り返し指摘されており、周知のところです。

ここにまた、向上の一つの山場(ある意味では、最後の山場)が待ち受けていて、行者は長い修行の中で知(言語的認識)を捨て去り、忘れ去り、大悲・愛の発現そのものになりきっていく過程に突入していくのだと思われます。

[注] 知(言語的認識)を捨て去る、忘れ去るということに関して、
     現在の私のレベルでの感覚は、「囚われないという意味と程度において」
   捨て去り、忘れ去ること、というように見えています。 
          しかし、真諦それ自体に直下に帰一したところについての私のイメージ(ここが、
   バーナード・ロバーツさんに負うところが大きいので、逆にその前提が崩れることも
   あり得ることは、自覚している・・・但し、中論・エックハルト・禅等との整合性
   の中で捉えているつもり)からすれば、
   そこはそもそも、言語的認識か完全に絶えていながら、
   了了と「それ自身」を自覚している場所(西田哲学用語)であって、
   こんな理解は吹き飛んでしまいます。

大悲・愛は、知(言語的認識)と異なり、本来的に直接的に全体を包摂する働きです。
縁起的全体関係性世界と矛盾なく安定的に調和する働きは、
最終的に大悲・愛に求められることになる、といえるのではないでしょうか。

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[MC26-1-1] 投稿: sheepsato | 2009年6月20日 (土)

こんにちは。
一時すごい投稿でちょっとかくの控えてたんですが、だいぶ収まったみたいで、
なので、またつらつらこちらに書こうとも思うのですが。
切り口も違いますし、問題あったら言ってください。

[MC26-1-1-N] 西方法界 | 2009年6月20日 (土)

そうですね。ちょっと、まいりました。
投稿は、全く問題ありません。
お願い致します。

[MC26-1-2] 投稿: sheepsato | 2009年6月20日 (土)

ありがとうございます。ご苦労様でした。
また興味を持つところがあれば、書かせていただきますー。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

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