« 2009年5月 | トップページ | 2009年9月 »

[M26] 知(言語的認識)と愛(大悲)の関係・・・知の墓場

真諦と俗諦は、言語的認識・表現に関係づけられながら、定義されました。

[注]
[M19] 真諦・俗諦の定義

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-7b07.html

それによって、俗諦は、真諦を指向(志向)する言語的認識・表現でありながら、
俗諦それ自体としては、真諦ではないもの、真諦にはなりえないものとして定義されました。

他方、個の解体は、それと表裏に、全体(宇宙的いのち)の中に縁起的に包摂される関係であって、
そこに大悲・愛というものが包摂の意思として登場し、方向性が与えられるということでした。

[注]
[M25] 解体と包摂・・・縁起世界および大悲心の理論的根拠
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/m-e2ad.html



個の解体に伴い、世界に対する言語的認識・表現が変化していきます。
すなわち、個の解体がすすみ、全体としての宇宙的いのちの中に縁起的に包摂される関係が進んでくるにつれ、
世界の見え方が異なってきます。世界の見え方が変化します。

ここに、俗諦の段階性という問題が生じ、さまざまな次元の俗諦が説かれることになります。
行者は、あたかもヤドカリのごとく、身の丈にあった等身大の俗諦を身にまとって進みます。進むことになります。
このヤドカリ性は、俗諦が仮設的方便であるということと表裏の関係になります。

[注]
[M20] 俗諦的表現の段階性(即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理の終焉)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2940.html

この中で、俗諦はその段階性を高めるにつれ、内容において極めて複雑化・高密度化してまいります。
この複雑化・高密度化は、それまでの段階での言語的認識・表現を用いると、複雑化・高密度化していくということを意味します。

それにつれ、俗諦的認識・表現の次元転換が必要になってきます。
次第に抽象化し・単純化した認識・表現への非連続的転換が必要になってきます。

上記の複雑化・高密度化した認識をより抽象化した認識・表現に転換しながら、
より多くのものを包摂しようとしてまいります。

すなわち、俗諦的段階性ということは、分割・分節され、限定されて孤立・独立してしまった無明的世界(長者たる父のもとから家出し、ないしはエデンの園から追放されて、転落した被造(物)性世界という地獄)が、次第に解体し、本来的な真諦世界に包摂されていく道中の段階的道筋を意味するということになります。

俗諦の存在形態は、極めて多種多様ですが、例えば、周知の経典で、大ざっぱな例として言えば、般若から華厳へ、華厳から法華へ、というような道筋ということになります。

  -------------------------------------------------------------

他方、この道筋の中で、包摂的方向性を示す大悲・愛の締める位置が次第に重要性を増してきます。

まず、最初に重要なこととして、言語的認識・表現(知)と大悲・愛との基本的な関係、あるいは、その性格です。

知は、本来的に、真諦を分割し、分節し、限定して、対象的に固定化して、把握します。
俗諦は、そのような知で捉えたものは、真諦そのものではないことは承知の上で、仮設された方便として、そういう知を使いながら、真諦に近づこうとするものでした。

他方、大悲・愛は、包摂性という、知とは全く別系統から生ずる働きです。
不可分一体の宇宙的いのちから生じる本来的働きであることは、前稿 [M25] 解体と包摂、で見たとおりです。

真諦に近づくためには、知の働き(言語的認識・表現)が不可欠であることは、仏教でもキリスト教でも同様でした。
私たちは、宗教的道筋の多くを、この知の働き(言語的認識・表現)をたよりに進みます。

[注]
[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-ffe1.html

ところが、知の働き(言語的認識・表現)は、そもそも最終的には、真諦(神)には至れないという本質を持つものでありました。
このことは、最終的には、過去の覚者の悟りに根拠を発し、俗諦の要素として取り込まれています。

すなわち、宗教はこの知の働き(言語的認識・表現)に対して非常に微妙な対応を
します。
大ざっぱに言えば、一方で、不可欠なものとして肯定致します。
ある程度のところまで、肯定致します。
それでいて、ある段階になると、徹底的にこの知の働き(言語的認識・表現)を
排除しようとします。
これは、大悲・愛の働きをどの段階で取り込んでいくのかと表裏の問題をなしてきます。

そして、この知の働き(言語的認識・表現)の肯定と排除(否定)の態様、
すなわち、どういう段階で、どういう意味で、知の働き(言語的認識・表現)を取り込み、
逆に、どういう段階で、どういう意味で、知の働き(言語的認識・表現)を排除していくか、
ということが、大悲・愛の働きをどの段階でどのように取り込んでいくのかと表裏の問題をなしながら、
各宗教宗派のさじ加減が大いに異なってくるところである、と考えられます。

この点こそが、各宗教宗派の間での、相互無理解と抗争の火種になり続けてきたことであり、
逆に言えば、この点に関する相互理解をどうつけていかれるかが、今後の大問題である、ということが出来るかと思います。

ただ、極めて大きな抽象度と視野の中で、知と愛の問題を捉える限り、
真正な宗教はいずれもみな、この枠組みの中にあるといえるのではないでしょうか。

というわけで、各宗教宗派の間での知の働き(言語的認識・表現)と大悲・愛の働きを登場させる段階、態様などに差があるものの、大局的に見れば、段階的に知を排除し、最終的には、知は全く排除され、逆に全面的に、大悲・愛の働きに移行・転換していくことになっている、と思われます。

この知の排除と大悲・愛の働きへの移行・転換に、また極めて微妙な問題が出てきます。

これは、知(言語的認識)の問題性として、知(言語的認識)の側で捉えることが
できるかと思います。

すでに、知(言語的認識)の問題性として、それはいかなる意味でも、真諦(神)にはなりえない、またそれは分割し、限定する機能であるに過ぎない、ということはすでに何回もくりかえしております。
このことにさらに付け加えます。

まず、知(言語的認識)は、意思・意識の支配を受けます。
すなわち、行者の中に個的意思・個的意識の残滓が残っていると、
おのずからそれを反映した知になってしまうという性格があります。
ここでは、個的意思・個的意識と言っていますが、
阿頼耶識から上がってくるものも含めて理解して下さい。

次に、知(言語的認識)は、『有』として現れます。

『有』として現れた以上、必ずその『有』に含まれないなにがしかのものを
排除・排撃します。
知(言語的認識)を俗諦、すなわち、真諦を指向(志向)する方向に用いて、
究極の『空』ということで捉える場合ですら、
それそのものになりきること(真諦)以外には、何らかのものを排除・排撃します。

例えば、『空』ということを認めず、あるいは、反対する者を排除・排撃します。
これは、意図せずして起こります。こちらが排除・排撃するつもりは全くなくても、
起こります。

すなわち、当該の(なんらかの)言語的認識・表現を使って、他者を現に
『裁かなくても』、他者がその言語的認識・表現に接触しさえすれば起こります。

キリストは、言葉(言語的認識)であったが故に、その言葉(言語的認識)を認めないものによって、十字架に送られました。

[注]
  このことの深い意味について、現在参究中なのであり、
  あるいは、一つは下記に書き出したものもあれば、
  多くは今後にゆだねられることになります。

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって
          それ(真諦)にならなければならなかった

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-506b.html

 
すなわち、どんなに苦労して手に入れた悟りであろうとも、
またそれがどのような内容の悟りであろうとも、
それが知(言語的認識)として捉えられていると、
あるいは、知(言語的認識)の形で存在すると、
それによって何らかの意味で他者と衝突し、
何らかの意味で、他者を傷つけてしまうということが避けられません。
すなわち、必ずどこかで対立に至ります。

ここは、知の墓場とでもいうべきところだから、もう少しはっきり言うことにしましょう。
どんなに気をつかい、どんなに配慮しようと、
知(言語的認識)は何らかの意味で、必ず誰かをそして何かを、排除し傷つけます。


[注]
  悟りといえるほどのものではありませんが、
  早い話が、今これをお読みになられている読者の方は、
   私のこの記述(私の言語的認識)で傷つけられませんでしょう
か?。

   私は、そのことをたいへん気にしながら、これを書いております。
  それを思うと、ブログ開始当時とは全く逆に、私のブログなど
  ほとんど読んで下さる方がいないくらいがちょうどいいのだと思えてまいります。

  どういう場合に、どういう意味において、私たちは知(言語的認識)で傷つくかを
  見極めることは、重要な修行事項になるかと思います。

[注]

   知の墓場と言っても、知を用いなくなるということではないと思われます。
   知が、完全に大悲=愛の統制下に入り、暴走しなくなる、
   その意味で無明性・原罪性がなくなるという意味だと思われます。
  仏教では、智(四智)への転換と捉えられているところに属するのではないでしょうか。


 
  すなわち、知(言語的認識)では、すべてを包摂することはできない、という決定的事実に直面することになります。
 
  -------------------------------------------------------------

このような意味で、大悲・愛の側からみると、その大悲・愛の発現の上で、自分を導いてきてくれた知(言語的認識)が、逆に邪魔な存在になってきます。

悟っても、悟ったものを捨てる、忘れるということの深い意味の一つは、
ここにおいて出てくるのだと思われます。問題になってくるのだと思われます。

しかし、死にものぐるいで自己の全存在をかけてやっとの思いで手に入れた悟り、
ないし、そこから得られた知(言語的認識)を捨て去る、忘れ去るということは、
行者にとって、そうたやすくできることではないということが、問題になる
のだと思われます。
この点は、いろいろなところで、繰り返し指摘されており、周知のところです。

ここにまた、向上の一つの山場(ある意味では、最後の山場)が待ち受けていて、行者は長い修行の中で知(言語的認識)を捨て去り、忘れ去り、大悲・愛の発現そのものになりきっていく過程に突入していくのだと思われます。

[注] 知(言語的認識)を捨て去る、忘れ去るということに関して、
     現在の私のレベルでの感覚は、「囚われないという意味と程度において」
   捨て去り、忘れ去ること、というように見えています。 
          しかし、真諦それ自体に直下に帰一したところについての私のイメージ(ここが、
   バーナード・ロバーツさんに負うところが大きいので、逆にその前提が崩れることも
   あり得ることは、自覚している・・・但し、中論・エックハルト・禅等との整合性
   の中で捉えているつもり)からすれば、
   そこはそもそも、言語的認識か完全に絶えていながら、
   了了と「それ自身」を自覚している場所(西田哲学用語)であって、
   こんな理解は吹き飛んでしまいます。

大悲・愛は、知(言語的認識)と異なり、本来的に直接的に全体を包摂する働きです。
縁起的全体関係性世界と矛盾なく安定的に調和する働きは、
最終的に大悲・愛に求められることになる、といえるのではないでしょうか。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

===============================================================
                                    投稿されたコメント
===============================================================

[MC26-1-1] 投稿: sheepsato | 2009年6月20日 (土)

こんにちは。
一時すごい投稿でちょっとかくの控えてたんですが、だいぶ収まったみたいで、
なので、またつらつらこちらに書こうとも思うのですが。
切り口も違いますし、問題あったら言ってください。

[MC26-1-1-N] 西方法界 | 2009年6月20日 (土)

そうですね。ちょっと、まいりました。
投稿は、全く問題ありません。
お願い致します。

[MC26-1-2] 投稿: sheepsato | 2009年6月20日 (土)

ありがとうございます。ご苦労様でした。
また興味を持つところがあれば、書かせていただきますー。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

| | コメント (0)

[M25] 解体と包摂・・・縁起世界および大悲心の理論的根拠

これまで、個(および個としての自己)の解体について捉えてきました。

[注] 

[M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-79f5.html

[M16] 空と個および自己の解体=存在・所有の解体
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-eb9a-1.html


しかし、その個の解体と表裏して進行するものに注目しなければなりません。
それは、包摂ということです。
個の解体後を主導するのは、この包摂ということになるからです。

個が解体するということで立ち現れてくることというのは、いったい何であるのでしょうか。

それは、本来不可分だったものが、分割され、限定されていた、ということです。
そして、その分割されたものを独立した個(実体=自性があると言う意味で、個)と捉えていた、ということです。
それは、認識面のみならず、自我として意思面にも及んでいたということです。

ですから、個の解体というのは、その分割されたものが解体することです。
ということは、分割されたもの(ないし、そう見る世界観)が解体してなくなり、
それと表裏して、不可分なるものが立ち現れてくるということです。
分割されたものは、不可分な大いなるものに『包摂』されているものとして立ち現れます。
『独立した個(自性のあるもの)』から、『一体なるものの部分(無性であるもの)』として立ち現れてきます。

従って、『独立した個(自性のあるもの)』の解体の過程は、また『一体なるものの部分(無性であるもの)』への包摂の過程でもあります。解体した個は、一体なるものの部分として、その一体なるものの部分に包摂されます。この意味での解体とこの意味での包摂が表裏の関係で進行します。

この場合の『包摂への方向性』が、『包摂の意思』であり、『大悲・大慈の心』であると解せられます。
従って、大悲心というものは、個=自己の解体と表裏の関係で必然的に発生するものであり、
個=自己の解体が進めば進むほど、大きく、深くなっていくものと解せられます。

したがって、『大いなる永遠のいのち』が立ち現れてくるということは、『すべてが一体であり、全体の中に包摂されているもの(全体関係性構造・縁起構造)』が立ち現れてくるということであり、また『包摂の意思、すなわち大悲・大慈の心』が立ち現れてくるということがいえます。

このようにして、個の解体をもたらした空=絶対無は、必然的に包摂性という性格(包摂性をもたらすものとしての性格)をもっているといえます。
また、『大悲・大慈の心』の象徴的現れである阿弥陀如来の誓願が『摂取不捨』になることの意味が理解されます。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

===============================================================
                                    投稿されたコメント
===============================================================

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

| | コメント (0)

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によってそれ(真諦)にならなければならなかった

キリスト教徒でもない私が、しかも、キリスト教でも語られていない(と思われる?)問題、しかもそれほどのキリスト教の大問題に触れるなどということは、神をもおそれない「狂気の沙汰」です。
しかし、これまでの「仏教とキリスト教の統一基盤」を作ろうという話の流れからすると、取り上げざるを得ません。

というより、実は、私は、バーナディッド・ロバーツさんがおっしゃられた「キリストの死と復活」の解釈に深く納得し、それを私の仏教的な理解につぎたしているだけに過ぎません。
もっとも、つぎたせばぴったり整合するという理解の中で、そういうことになったということではあります。
ただ、「キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によってそれ(真諦)にならなければならなかった」という表題の理解は、直接にはバーナディッド・ロバーツさんによってもたらされました。

とにかく、こんな大それた、狂気の沙汰は、私のような、いい加減で、どうでもいい立場にいる者だからこそ、論じられるのかもしれません。ですから、勇気を出して問題提起をしてみます。

本稿は、前稿までで、「キリストは、言葉であるから俗諦である」としてきたことを補強し、
また、キリスト教においては、俗諦はいかにして真諦に至るとされているかを概観するという意義があるかと思います。
さらに、仏教の側からする、バーナディッド・ロバーツさんの評価・位置づけということにも関係するかと思います。


バーナディッド・ロバーツさんに関しては、ネット上で見るかぎり、「精神世界」の外では、ほとんど評価が皆無です。
私は、いわゆる「精神世界」には従来からかかわらない者ですし、「精神世界」的なものに魅力を感じる体質でもありません。
しかし、バーナディッド・ロバーツさんに関する限り、評価したいと思います。
このブログ内でも、それを危険視する指摘がなされておりますが、私は自分でも十分それを承知した上で、そして自ら危険を冒す覚悟で、バーナディッド・ロバーツさんを評価したいと思います。
但し、これは自分が同じレベルに到達して確認してきたというものではありません。
そうではなくて、従来自分が抱えてきた重要問題の多くが、それで矛盾なく解決するからです。整合するからです。それ故の確信からくる評価です。
したがって、それなりの危険は自分でも承知しながらであり、それなりの誹謗も受ける覚悟の上です。
  ただ、従来論じられていない(?と思う)ことの仮説として、一つの解釈・理解の提案として、提起してみるだけです。
 ですから、そういうものとして、その程度のものとして、お読みいただければそれでよい、と思っております。

[注] バーナディッド・ロバーツさんの紹介、著書等は、当カテゴリー内の、下記の
[M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体、の中の本文下にある私の投稿
[MC13-2-N2] に詳しくしてあります。


http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-79f5.html

---------------------------------------------

さて、[M23] の『後日仮見解』までを前提にすれば、真諦に至りうるまでには、最後の最後まで細かな段階があります。すなわち、言語的認識・表現がなくなった段階で直ちに、真諦に到達するのではありません。

ですから、厳密に言えば、俗諦という概念も、上記の段階性を背景に置きながら、真諦に至る直前までをいう、という形で捉えなければならないことになります。

しかし、単に厳密さだけを考えていると、ここでは本末転倒の結果に陥ります。
なぜなら、ここで、俗諦を問題にする最大の意味は、それが真諦を指向し、そして志向するものだからです。
この意味から、真諦(神)ではないが、真諦(神)への媒介者という使命をもつものであるという意味を、我々人間に端的に示すものとしては、言語的認識・表現、すなわち、言葉と言っておくのが適当だと考えられます。

俗諦を問題にする最大の意味は、それが真諦に到達寸前の修行者よりも、そうではない大多数の修行者に向けられるべきものだからです。
このように捉えると、道案内役としての、俗諦(媒介者)の役割に着眼するとき、厳密さにはやや欠けるかもしれないが、端的に、消極的には俗諦の限界性を明瞭に示すと同時に、積極的には、『本来真諦を表現できない』言葉(言語的に認識しうるもの)を道案内役としてそれでも使うのだ、但し、その言葉(言語的に認識しうるもの)は普通の言葉ではなく、神の御言葉だ、といように扱われるのが当然だ、といえるからです。

『本来神(真諦)を表現できない』言語的認識・表現を使う。
神(真諦)を指向(志向)する言語的認識・表現を使う。
その神を指向(志向)する認識・表現が、媒介者(方便)であり、
そのことを通じて、罪人(衆生・凡夫)を救済することになります。

そりゃあ、そうですよね。
言語的認識・表現で事足りはしないけれども、言語的認識・表現を使わなかったら、全く手がかりがないですからね。
聖書とか経典などない状態ですからね。

だから、媒介者、すなわち、罪人(衆生・凡夫)を神(真諦)へと媒介する(案内する)救い主キリストとは、
神の御言葉、すなわち、神(真諦)を指向(志向)する言葉(言語的認識・表現)であることを本質とするわけです。
神(真諦)の他に存在意義のあるものというのは、神(真諦)へと橋渡しする役割を果たすものだからです。
それを、言語的認識・表現を使って行うのが、キリストの役割ということになります。
-----------------------------------------------

なお、カテゴリー『宗教の窓』で、仏教で言えば、法空=空無辺処の次元で
「一即一切、一切即一」と「インマヌエル=神は私たちとともにいる」の両者を統一的に捉えようとする試みをしました。
なぜなら、もっともわかりやすい次元で、即非の論理、絶対矛盾的自己同一の論理が成り立つキリスト教的聖書的基盤を明確にしてみたかったからです。

[注] 上記関係の『宗教の窓』の二稿

     [S11]神は我々と共におられる(イエス・キリストの正体)
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_c517.html

  [S12]初めに言があった(世界は、どのような構造に創られたのか)
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_cdd3.html

そこにおいて、キリスト教の方では、よく承知されていることのようですが、
旧約聖書・創世記と新約聖書・ヨハネ福音書冒頭は、ともに天地(世界)のはじまり、天地(世界)のでき方が書かれているものとして、統一的に解釈されなければならないとした上で、どう具体的解釈をするかを論じました。

 そのことは、次元の上がったここにおいても、そっくりそのまま妥当するものであることを述べておきます。繰り返しになるので、ここでは触れません。

ただ、ヨハネ福音書冒頭の「言葉=キリスト」(神の独り子)から天地・万物が出来たことは、聖書の文言から明確です。
他方、アウグスチヌスは、「告白録」中で、旧約聖書・創世記冒頭の「初めに、神は天地を創造された」における『初めに』の意味を、
線形時間(時間直線)でいう初めの意味ではなく、
自分は『御子(=キリスト=言葉=言語的認識・表現)において』の意味に解するとして、新旧聖書の統一理解を図っています。

この点だけを、ここでは改めて繰り返し、基本的にこのアウグスチヌスの解釈に従っていこうと思います。
すなわち、これは、ヨハネ福音書冒頭の「言葉=キリスト」で論じておけば、旧約聖書・創世記も同時決着することを意味します。

-----------------------------------------------

ところで、いままでの議論は、三位一体の教義的話に触れずに進んできていることに注意していただけるでしょうか。

これは、今進めている話の筋道の方が、三位一体の議論に先立つ問題であり、
後述の[M27]までを含めた議論が逆に三位一体論の根拠になっていく位置関係にあるからです。三位一体論との詳しい関連性は、今後どこかで触れる機会があると思います。

[注] この三位一体論との関係部分は、[M28]記述後の時点で、
   現内容に変更しました。
   従って、その間の記載にこの部分の記載内容と抵触するものがあった場合には
   (記憶では、特に書いてはいないと思いますが)、
   こちらで書いた内容が優先いたします。
   気づけば、修正してまいりますが、未修正箇所が仮にあったとしても、
   [M28]までの本筋の議論には関係しておらず、
   付随的な記載にとどまっているはずです。

-----------------------------------------------

さて、そこで、大問題の、キリストの「死と復活」の解釈に入ります。
先に申し上げたとおり、これはバーナディッド・ロバーツさんの受け売りです。

でも、それで、私は、あ、そうだ、と気づいたのです。
ですから、多少私なりの歪曲、ないし付け足しが入るかもしれません。

バーナディッド・ロバーツさんは、こういいます。
ちょっと、私の言葉にやや言い換えてわかりやすくしますが、
キリストは、「言葉(言語的認識)」であるわけです。
ですから、キリストがキリストに留まるかぎり、絶対に神(真諦)そのものには到達しません。
キリストは、「言葉(言語的認識)」であることがその役割であり、本質なのです。

ところが、最後にキリストは、「言葉(言語的認識)」であるという、その役割を超えて、真実の神(真諦)のところまで至る道筋を示すのです。
これをもって完成・完結するのです。
それは、『言語的認識』を超えることです。
なぜなら、真実の神(真諦)は、『言語的認識』を超えたものだからです。

ということは、キリストたる『言語的認識』が、言語的認識であることをやめ、その先にもう一歩超越するということ、すなわち、自ら死ぬということを意味します。
『言語的認識』が超越され、なくならないことには、真実の神(真諦)は真実に立ち現れて来ないのです。
だから、真実の神に至るためには、キリスト(言語的認識)は死ななければなりません。

十字架上で、キリストは神の名を呼びます。しかし、神は現れません。
これは、神は現れてはならないのです。
俗諦(言語的認識・表現)の世界では、神(真諦)は対象化されて捉えられています。
言語を使う以上、対象化された神(真諦)でしかありません。
ですから、その対象化された神(真諦)こそが、この十字架上で姿を消さなければなりません。
それが、真実の神(真諦)に至る道だからです。
だから、神は現れなかったのです。
現れなかったからおかしいのではなく、現れなかったから、キリスト(言語的認識)の死は意味を持ったのです。
キリストの死とともに、対象化された神も消えたのです。
言い換えます。
言語的認識が消えれば、当然に言語的認識の対象も消えるのです。

このようにして、復活したキリスト、これこそが真実の神(真諦)そのものにほかなりません。
以上が、キリストの「死と復活」の解釈になります。

-----------------------------------------------

そして、こういう意味で整合性のある解釈が成り立つということが、
キリストは、「神(真諦)を指向(志向)する言葉(言語的認識・表現)」であり、
媒介者であり、俗諦であり、その役割を果たす意味で救い主であるということになります。

キリストが、「神(真諦)を指向(志向)する言葉(言語的認識・表現)」であるといううちの、
「神(真諦)を指向(志向・媒介・道案内)する」というところが、神の『独り子』という意味であると解釈されます。
神(真諦)以外に存在意義があるものは、神(真諦)への道案内役であり、それゆえキリストは、神の『独り子』である。『神の独り子』は『神への道案内役』であり、それがそのまま『救い主』の意味になります。
だから、キリストの名は、インマヌエル、すなわち、「神と共にある」なのです。

-----------------------------------------------

ここで、再度[M20] で問題にした、理事無礙法界・事事無礙法界を再確認・整理の意味で参究します。

[注]
[M20] 俗諦的表現の段階性(即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理の終焉)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2940.html

理事無礙法界の『理』とは「俗諦的(=言語的)認識理解」であり、『事』とは「真諦」を意味すると捉えます。

理事無礙法界とは、まだ何らかの意味で『理』、すなわち「俗諦的(=言語的)認識理解」を媒介に『事』と向き合っている世界であり、しかし、その「俗諦的(=言語的)認識理解」は『事』と「無礙」であるほどに極められている段階であるということになります。

  [注] 正偏(平等と差別)でみるのではなく、真諦・俗諦でみるということ
      これは、話が微妙でむずかしいですね。
            理(俗諦)で見ているということは、正偏でみる見方があるということのように
       思えますが、
            俗諦として、正偏を立ててみる見方は、理法界における理で終了します。
      理事無礙法界は、第一義諦の世界なので、既に理の中から、正偏の問題は
      消えており、存在しません。

      他方、事(真諦)に至るということは、一切の理(俗諦)が消えてなくなること
      を意味します。
       ここでは、「~から見る」ということ、すなわち、見るものと見られるものが
     
分離する認識が完全に消滅します。
      それでいながら、見るものが見られるものであり、明確な自覚がある世界が
      そこにはある、と聞いております。
     
  
バーナディッド・ローバーツさんによりますが、従来カトリック的瞑想(観想)の世界で、「神と自己との合一」といわれている、瞑想(観想)の最終段階は、実は最終ではなく、これが理事無礙法界に相当するように思われます。
なぜなら、キリスト教的な意味での、「俗諦的(=言語的)認識理解」がまだ媒介的に存在するからです。

これに対して、事事無礙法界は、「俗諦的(=言語的)認識理解」を媒介とせず、直接的に真諦そのものになりきっている世界であると思われます。復活のキリストがここにあたります。

そして、上記の「キリストの死と復活」は、理事無礙法界から事事無礙法界に入るときに起きる事であると解釈されます。

バーナディッド・ローバーツさんが「神と自己との合一(神も自己もある)」からさらに進んで、「自己喪失の世界(神も自己も消滅する)」として描いたものが、事事無礙法界です。
そして、バーナディッド・ローバーツさんは自ら語られます。
『かつて、そこに触れているのは、エックハルト一人であると』。

ここで、もう一度結論を繰り返しておくことにします。

キリストは言葉=言語的認識(俗諦)であるが故に、死と復活によってそれ(真諦=神)にならなければならなかった。
そして、これは、あのエデンの園でアダムとイブに入ってきた原罪から最終的に完全に解放されるときでもあります。
さらにいえば、ここにあっては、明々白々とした、ここがあるだけで、自己も、キリストも、神もないところということになります。


しかし、最後に逆説的なことを言明しなければなりません。

言葉=言語的認識を通すということの限界性は、言葉=言語的認識自体が事実=真実=実質的実存を欠いていること、それから遊離、乖離しているという本質を持つことにあります。

すなわち、言葉=言語的認識を通した瞬間に、それは観念的理解のみに陥り、しかもその観念的理解とはその観念の一側面性に限定されたものであって、既に認識として把握したこと自体が、事柄そのもの(事実・真実のもつ全体性構造・関係性構造・縁起構造)から乖離し、形骸化したものしか得られないということです。

本来、事柄の重みは、その事柄の重みそれ自体として、それ(事実・真実のもつ全体性構造・関係性構造)から離れず、そのままにあることにおいて、受け取る以外にはありません。否、そこはもう「受け取る」のではなく、「そのものとして現成している・そのものになりきって、そのものである」という地平です。

従って、まさに言葉=言語的認識の有限性を超越しようとする「キリストの死と復活」を、そのようなものとして言葉=言語的認識を通して描いてしまうと、またそこから限りないものが漏れ出し、形骸化してしまうという逆説的悪循環に陥ります。

既に、現に、もう(私は、本稿は)そこに陥っています。
これは宿命です。俗諦と真諦の間に存する宿命です。
「キリストの死と復活」はまた、その宿命を表現しています。

事実がある、ということは、いかなる言語的認識も及ばないところにある、ということを意味します。したがって、最後には、その事実になるよりほかにはないのです。

本稿を書き出したということは、それに続いて、この後の作業として、
この漏れ出したものを、出来るだけもう一度救い取らなければならないように宿命ずけられていることをも意味します。
そして、最終的には、「死と復活」そのものになることしかありません。
なぜなら、そのことがまた、仏教で言う「自性無性」ということでもあるのですから(これは、新しい捉え方ですから、次への伏線です)。

そのことに思いをいたしながら、結びとしたいと思います。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

===============================================================
                                    投稿されたコメント
===============================================================

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

| | コメント (0)

窓は空・空は窓の目次

記事は、目次項目の下にあるリンク(薄いピンク色)をクリックすると、表示されます。

   ---------------------------------------
            第1章 はじめに
   ---------------------------------------

[M1] このカテゴリーの性格・定義
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_82c7_2.html
初めての方は、必ずここをお読み下さい。
[M6] からが、本格的内容になります。

[M2] 弥陀の来迎---------過渡的妄想①
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_e0b4.html

[M3] 行政権のみがある------過渡的妄想②
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/m2_e69f.html


[M4] あるのは人情だけ------過渡的妄想③
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/m3_0e18.html

[M5] 執著からの解脱・人情・安心--過渡的妄想④
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/m4_bbe3.html


   ---------------------------------------
           第2章  非連続の跳躍と土台の構築
   ---------------------------------------

[M6] 出発点・立脚点の明確化
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_2e42.html


[M7] 中枢における主役の交代と世界の見方・見え方の転換
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_91b2.html


[M8] 新たな中枢構造における動的態様と方向性
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_7262.html


[M10] 慈眼視衆生
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_8e3c.html


   ---------------------------------------
            第3章     道中
   ---------------------------------------

[M11] 散乱・昏沈・懈怠の試練
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_831e.html


[M12] 観の座の構築日記
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/m_f57a.html


[M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-79f5.html


[M14] 唯識でいう依他起性とキリスト教でいう被造物性
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-ea8b.html


[M15] 十牛図と洞山の五位
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-0c57.html


[M16] 空と個および自己の解体=存在・所有の解体

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-eb9a-1.html

[M17] 真諦・俗諦・非想非非想処

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-bff0.html

[M18] 即心即仏・非心非仏---前稿の補足として

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-1e95.html

[M19] 真諦・俗諦の定義

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-7b07.html

[M20] 俗諦的表現の段階性
          (即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理の終焉)
          (理事無礙法界・事事無礙法界の再参究)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2940.html

[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性
          (仏教とキリスト教の平行理解の根本)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-ffe1.html

[M22] 絶対者は自己を無化する(著者・・和真[かずま]さん)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-501e.html


[M23] 中観・唯識・言葉・ロゴスの位置づけ

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-7e0a.html


[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、
                死と復活によって、それ(真諦)にならなければならなかった

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-506b.html


[M25] 解体と包摂・・・縁起世界および大悲心の理論的根拠

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/m-e2ad.html


[M26] 知(言語的認識)と愛(大悲)の関係・・・知の墓場

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-27f1.html


[M27] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、
                  死と復活によって、愛(大悲)そのものにならなければならなかった

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-90d8.html


[M28] 重要記事のため、カテゴリー『中論参究』の下記の記事を、
     当カテゴリーの[M28]として、共有記事と致します。
          どちらのカテゴリーの中にも位置づけられ、参照できるという趣旨です。


     カテゴリー『中論参究』
     [TS24-1-1] 中道(に位置する俗諦)の役割とキリストの役割の同義性

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-2322.html

| | コメント (0)

[A-2009-06-03-1] カテゴリー『非窓非空』の性格

このカテゴリーは、カテゴリー『窓は空、空は窓』では対応できない問題に対応するためのものです。
そして、それ以上に何の性格付けもない、
逆に言うと、なんでもあり、というようなものになります。

あらゆる意味で、あらゆる性格づけがありません。

もう、ここでは、『窓』も『空』もないんです。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
カテゴリー『非窓非空』の目次に戻る
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-425d.html
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx


---------------------------------------------------------------                                   投稿されたコメント
---------------------------------------------------------------
[A-2009-06-03-1][C-1-1]  
投稿  悲しみの空 | 2009年8月12日 (水)

非空非窓ねえ。ちょっと悲空悲窓だが、感情的にならなければ、論理的結論としては正しい。

窓の外には空があり、空を空じてもまだ空があり、結局空も空で、空も名称であり、言葉に出すこと自体が限定であり創造作用である。名称とは定義、限定することであり、非空の果てに名付けることのできない無限定がある。が・・・無から有が出現することは論理に反するが、無限定も名付けるすべはないので、「無」と呼んだが、「無限定」は有であり、「無」とは「有」の否定であり、二元論であり「有」の想定の基盤に立ち、これいまだ覚めやらず。だから「無限定」こそが求める「無」である。

無限定は有の反対の無ではなく我々の持つ認識器官の認識を超えた「何か」であるが、我々が持つ認識器官(五蘊)に慣らされてしまっているために、それ以外の認識が出来ない。悟りとは、その新たな認識のすべを獲得することである。

そうすると、新しい窓が現れる。

[A-2009-06-03-1][C-1-1-N] 西方法界| 2009年8月12日 (水)

「龍樹」転じて今度は「悲しみの空」ですか(参照 [SC26-3-1] => カテゴリー『宗教の窓』 [S26]内のコメント)。
「ただし、これは私を示す名前ではなく、西方殿の状態を示して命名しただけのこと・・・」ということですね。

「やれやれ」と思って休んでいるんですが、ブログ外実生活が動いていて、全体的なバランスと調和次第でしょうか。

おっしゃられる上記の理屈は、一応わかりますが、このカテゴリーは理の世界から跳びだした私の、ただのメモ帳・便利帳のようなものです。すなわち、「無法一代涙を捨てて、度胸千両で生きる身」の現場そのものです。

ですので、このカテゴリーでは、一切理屈は扱いません。
もっとも、それとて絶対ではありません。

・・・・、というか、理屈は使っても、第一義的な意味はなく、
前カテゴリーまでの理屈の使い方とは全く異なったものになります。


後日向けの注

   記号番号が
     [A-2009-06-03-1][C-1-x]  
     [A-2009-06-03-1][C-2-x]  (注) x は、具体的な数字
   の投稿について。


これらの投稿当時は、トップページに以下のような記述があり、
上記投稿は、内容的にそれとの関連で書かれております。


   最近、私はこのねーちゃんが大好きになってしまいました。

   http://www.youtube.com/watch?v=9vz9Lqzwk-k

[A-2009-06-03-1][C-1-2]  
投稿  求法松 | 2009年8月12日 (水)

思ったより元気そうなので立ち寄ったぐらいだが、人生は一度考え始めれば、中々難しいものだねえ。

誰だったか忘れたが、「人間にとって最も研究すべき最大のテーマは人生そのものである」と言っていたが、

ギリシャのデルフォイ神殿の門戸に「汝自身を知れ」という格言が印されてあり、誰かその本当の文章と意味を知っているだろうかと思ってネットサーフィンしてみたが、誰一人正確に知らなかったのには驚いた。

この言葉は完了形ではなく、その後に「....しからば汝はすべてを知らん」と続いていて、すべてとは「神と宇宙である」のことである。

演歌には日本人の波長に合う浄化作用があり、一種のヒーリングだね、人生は小波荒波、また、自然にnature callが起こるだろう。

[AC-2009-06-03-1][C-1-2-N]  西方法界| 2009年8月13日 (木)

亜矢姫(ファンになると、敬愛の心をこめてこう呼ぶきまりになっている)が好きになってしまうことは、『受想』も空じていかなければならないことに反しますな。
そもそも、時間を空じてしまうと、音楽というもの(「無法松の一生」)が解体してしまいますな。

しかし、まあ、ここはいいっていうことにしましょう。
中論もあることだし、そこまで行かなくても、一休さんの、例のあれ、あれ・・・。

『有漏路より無漏路へ帰る一休み、雨降らば降れ、風吹かば吹け』

・・・で、

・・・・今日は祇園の夏祭り~そろいのゆかたの若い衆は・・・・と。

[A-2009-06-03-1][C-1-3] 投稿: 求法松 | 2009年8月13日 (木)

娑婆の世界では、娑婆を楽しめることが解脱であるよ。
溺れぬだけのことで、肉は所詮肉の世界のものなるからよ。

イエス御仁も言っておったろう、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに返せ」と。この世に無駄はない、それぞれの留まるところに住している。要は活用の問題であり、それを出来るのは人間のみである。

何でわざわざ空じる必要があろうか、「道とゴール」は一つなりと見る事が解脱の要諦なれば、中論の要諦も「消すこと」にあらず「離れること」とにある、この2つの違いを教えているに過ぎない。

すべては在るのだ、だから楽しむことも出来る。

[AC-2009-06-03-1][C-1-3-N] 西方法界| 2009年8月13日 (木)

亜矢姫が歌う、北島三郎の「北の猟場」は、

http://www.youtube.com/watch?v=8bZXnUrerN0

亜矢姫が歌う、東海林太郎の「名月赤城山」は、

http://www.youtube.com/watch?v=AIdgXnCeE3o

亜矢姫が歌う、三波春夫の「大利根無情」は、

http://www.youtube.com/watch?v=Ht4Oyv29VZE

今まで、別にこんな趣味はなかったんだけど、亜矢姫が歌うのを聞いていると、
なぜか楽しいのです・・・・?。



[A-2009-06-03-1][C-1-4]  投稿: 求法松 | 2009年8月14日 (金)

なるほど、リズム感と迫力が優れているようだ、音色からすると、よくは知らないが他の種類の歌曲も上手にこなせるだろうね。

小生も何年か以前の転換期の頃、イルカの歌を2年間ほどよく聴いていたことがあった、今はもう通り過ぎてしまったので殆ど聴かなくなったが、浴びるほど聴いていた。青春時代にはファンでもなかったので、心がその渇水状態に来たのだろう。

その時思ったのは、自然のバランスに素直に従って浄化していたということで、それ以降随分と方向性が定まり、集中力が途切れなくなった。

[AC-2009-06-03-1][C-1-4-N]  西方法界 | 2009年8月14日 (金)

こんな話になったので、音からの連想でいうと、
碧巖録第四十四則に『禾山解打鼓(かざんかいだこ)』っていう公案がありましたね。

禾山禅師は、修行僧に応対するに、常に太鼓を打つのみであった、
という内容でしたっけ。

結局、あれって、

ドン・ドン・ドドーン
ドン・ドン・ドドーン

空に響き渡るドン・ドン・ドドーンの聴法底。

『聴法底』などという言葉を持ち出すから、主客が出てきそうになっちゃう。

聞くも聞こえるもない。

ただただ、天地一枚のドン・ドン・ドドーン・・・、ドン・ドン・ドドーン・・・。

悟りだなんだは玄界灘に捨てて、太鼓の乱れ打ち・・・。

ドン・ドン・ドドーン・・・、ドン・ドン・ドドーン・・・。

あ、亜矢姫の例の「無法松の一生」になっちゃった。
(上記、後日向けの注のリンク)


[AC-2009-06-03-1][C-1-5] 投稿: 求法松 | 2009年8月14日 (金)

そういうのを「無色界を叩く」と言うのだね。

通常我々は五蘊のなせるままに生きている色界没入の状態にあるが、単純な音を繰り返すことで、「音慣れ」が起こる。つまり一種のトリックであるが、「聴いているようで聴いていない」状態になる。例えば喧騒な工場の中で機械が唸っていても、慣れてくると鼓膜は振動していても意識では聞いていず、気にならない。

所謂マントラ(真言)や題目の繰り返しによって五蘊の一部を麻酔させ、無色界への投入を図るトリックの要素がある。勿論それだけではなく、それ以上意味があるのだが。古代のダンスや踊りや、呪文は「神に捧げる」ものであったが、意識を無色界へ投入し直感を得るためであり、その場合に、ある種の音の組合せが効果的だからである。

だからそれ以上の意味とは、例えば、「あうん」「オーム」「アーメン」などもそうで元来同じものである。第1音が開口音であり「あ」または「A」で開き、第2音が閉口音で閉じる。それを神はαでありΩであり、世界の初めと終わり、などと表現するが、修練すると実際に意識に特殊な効果を生じる。南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏の「南無」も勿論同じことだ。

つまり、「五蘊離れ」がトリックとして意識で発生するのだね。だから思い切って言ってしまえば、我々の修行の殆どが「通常の意識状態をトリックにかける」方法の連鎖だということである。

要するに「離れること」である。


[AC-2009-06-03-1][C-1-5-N]  西方法界 | 2009年8月15日 (土)

亜矢姫ねえちゃんが、たまたま9月3日に隣町の文化会館で収録される「NHK・BS日本の歌」に出演することをどこかで知った女房が、過日私のために勝手にNHKに観覧希望のハガキを出しておいてくれました(別にそこまでしようと思っていたわけではないが)。

昨日、NHKから抽選にはずれた旨のハガキが届きました。残念。何でも、8000通ほどの応募があったようで、これは4倍を超えるくらいの、けっこうな競争率ですね。

「無色界を叩く」などという言い方があるのですね。知りませんでした。でも、言われてみると、なかなかいい表現ですね。たいへん、気に入りました。ありがとうございます。

亜矢姫ねえちゃんによって、私の無色界のどこかが叩かれている・・・・。
う~む・・・・よしや、私も『浴びるほど聴いて』やる。
・・・・というか、もうその段階に入ってしまっているみたいですね。

[AC-2009-06-03-1][C-1-6] 投稿: 求法松 | 2009年8月15日 (土)

何やら思春期の好男子と話している感じだねえ。
結構精力が余っているのか強いのも知れないが、それにしても良い奥さんをお持ちなんだね。

悪行ではないので、均衡点が訪れるまで存分に浴びるのも一手。小生なんぞ二年間も飽きずに浴びてたんだから・・・ただ、平行してそれなりに無理なく修行は続けていたから我ながら大したモンだったと思う。今になって思うが通過期間は短い方がよいと感じた。

食事ってことを考えたことあるかい?

人間てえのは色を食うだけでなく、無色も食うもんで、心も満足させてやらんとうまくいかない。「衣食足りて礼節を知る」の如く「無色足りて心のバランスを知る」となる。五蘊を引き裂く方法は2つあり、

十分満足させるか、へとへとになるまで格闘するかのどっちかの方法を選択するが、つまりいらいらを解消しておくか、いらいらをエネルギーにするかであり、それは時と場合による。

へとへとになって諦めた瞬間に達成できる場合が結構あり、この方が価値あるブレークスルーであるが、その味をしめると自分に負けなくなる。その2つの中途の間では、大した進歩は望めない。中途半端は膨大な時間がかかる。

歳は知らんが、亜矢姫もこうなるまでには随分と格闘して、やっと花が咲いたのだろうねえ。小生としては「北の猟場」が一番合うね。

さて、そろそろ、また山に籠もるので、しばらく失敬するとしよう。

[AC-2009-06-03-1][C-1-6-N]   西方法界 | 2009年8月15日 (土)

まさか、話がこんな展開になるとは思いもしませんでした。
でも、楽しかったです。いろいろ有益なお話をありがとうございました。

それでは最後に、
亜矢姫ねえちゃんが歌う、北島三郎の「兄弟仁義」を聞きながら、お別れしましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=JcsrGtqfHg0


==================================================

[A-2009-06-03-1][C-2-1] 投稿: sheepsato | 2009年9月 2日 (水)

こんばんはー。
恰幅のいい女性ですねー。
天童よしみさん? と思ったんですが、ちゃいますねー。

迫力在ります。エネルギッシュです。
ソーラン節歌って欲しいです。

[A-2009-06-03-1][C-2-1-N] 2009年9月5日 (土) 西方法界

お久しぶりです。
急に記述がストップしてしまい、どういうことになっているのでしょうね。
自分でも、よくわかりません。
書く意欲が停止してしまいました。

実を言うと、
[M26] を書き上げた時点で、次に

[M24] キリストは言葉(俗諦)であるが故に、死と復活によって
          それ(真諦)にならなければならなかった
         
に対比させながら、以下のタイトルで書くところまでは確定しており、

[M27] キリストは言葉であるが故に、死と復活によって
         愛(大悲)それ自体にならなければならなかった

しかもその直後に半分ほどは書いてあるのですが、急に書く意欲が萎えてしまいました。
[M27]として書くべき内容は、全部確定していて、そこまで書いて当面の区切りなのですが、・・・
というより、既に[M26] で、その実質的内容は完成していて、[M27]では単にそれを使って、その表題たる[M27] の命題を単に完成しておくだけのことに過ぎないのに、やる気がなくなっちゃって・・・・・なぜなんでしょうね。

そして、その後は[M24]と[M27]の関係を論じて、・・・・・・。

・・・・・でも、その先となると、主客未分というか、自分という主体が消滅した「一なるところ」に達して、中論の世界そのものになる他には俗諦的(言語的認識=知からの)展開をすることができなくなってしまいました。

ただ、[M24]と[M27]の関係で、[M24]の方向ではなく、[M27]の方向という問題はあるのですが、でも最終的にそれは同じことか・・・・。

中論を扱うには[M24]の方向にいかないといけない・・・。

そんな中にあって、たまたま島津亜矢という、それまで全く知らなかった歌手から、いままで経験しなかったような衝撃を受けて、こんな流れになっています。同じような人が、ファンには多数いるから、宗教問題とはとりあえず関係はなく、偶然時期が重なったのだと思っています。

亜矢姫さんの歌を聴きながら、ぼんやりとしている感じかな。
日常は日常で、いろいろ動いてはいるんですが、・・・・・。

以下は、ド演歌ではなく、全く何といっていいか、ジャンルの特定できないような歌なので、若い人には受け入れられやすいのではないかと思いますが、『帰らんちゃよか』(熊本弁で、「帰ってこなくてもいい」という意味)という歌です。

これ聞いていると、涙がボロボロ出てきて、止まりません。


http://www.youtube.com/watch?v=N88JeDTdD-0&feature=related
(島津亜矢は、後から歌います)

http://www.youtube.com/watch?v=rT8zP7adXGA



[A-2009-06-03-1][C-2-2] 投稿: sheepsato | 2009年9月 7日 (月)

こんばんはー。
島津亜矢さんですかー。
全然知らなかったんですが、なんというか、すごい日本の心? 和の心? 
歌い手さんとしては、直球ど真ん中っぽい感じですねー。
パワフル、というか、やはり心の表現がすごい。
日本の心をつかんでて初めてできる表現かしら。

でも、ばってんさんは、この人何?? 
この方がえらいインパクトありました。
なんかすごいですねー。雰囲気がすごい。
ちょっとなかなかいないのは確かですねー。こういう方は。
義理と人情と、あらゆる日本の心を結晶化したような・・ちょっと違うかな。
演歌が得意ではないんですが、このばってん荒川さんのキャラは、すごい。
こんな表現のできる人が日本に最近までいたんですねー。

僕がいままで好きといえる演歌のジャンルに入るのは、
「冬のリビエラ」と、「アジサイ橋」「川の流れのように」くらいです。

[A-2009-06-03-1][C-2-2-N] 西方法界 | 2009年9月 8日 (火)

ちょっと口を滑らせてしまったことで、思わぬ方向の話になってしまいましたね。

上記2004年(平成16年)「BS日本の歌」での「帰らんちゃよか」共演映像を見ると、
「ばってんさん」の存在感は大変なものですね。
一応、以下でプロフィールが見られます。

http://www.sawayanagi.co.jp/batten/profile/index.html

この共演の2年後の2006年(平成18年)10月に
ばってんさんは69歳でお亡くなりになってしまうのですね。

ばってんさんの告別式の際、遺影の前で、作詞作曲者の関島秀樹のギター生演奏のもとに島津亜矢はこの「帰らんちゃよか」を熱唱したそうです。
きっと、参列者は、もう万感極まり、みんな感涙にむせんだにちがいありません。

私も島津亜矢という名前さえ全く知らなくて、たまたま youtube で偶然出会ったとたん、
未だかつて全く経験したことのない引き込まれ方をして、その強烈さに、完全に虜になってしまいました。
私としては、生涯ではじめての出来事です。

15歳でデビューし、その後23年もたつ(現在38歳)のに、そして一度聞いただけでこれだけの鮮烈な印象と影響を受けてしまう歌手であるのに、これまでにその名前さえ全く知らなかったということは、一体どういうことなのか。
まず、このことがたいへんな疑問です。不思議です。

また、もちろん、今受けているショックと影響というものは、一体どういったものなのだろうということも、そう簡単にはわからないし、したがって、表現もし尽くすことはできません(今は、敢えて表現しないようにしています)。

他の人はどうなんだろうと思って検索してみたら、まあ、出てくる、出てくる、そういう人たちが結構たくさんおり、それぞれに島津亜矢を熱っぽく語っています。

『・・・演歌は生涯聴くことがないと思っていた自分が、不思議なくらいに今こうして亜矢姫にはまっています。自分でも本当に不思議です。何故か解りませんが、引き込まれてしまっているのです。・・・・』(これは一例ですが、同じようなのが結構あります)

私などは、こういったことに最も縁遠い人間なのです。
たとえば、sheepsato さんが上げた三曲中、美空ひばりの「川の流れのように」は知っておりますが、「冬のリビエラ」と「アジサイ橋」は全く知りませんでした。sheepsato さんが書いてきたので、調べたら、「冬のリビエラ」は森進一、「アジサイ橋」は城之内早苗の曲だとわかり、はじめて聴いてみたくらいです。島津亜矢のことを調べ始めるまでは、城之内早苗も知りませんでした。

また、「帰らんちゃよか」は、はじめて知った曲ですが、村田英雄の「無法松の一生」、三波春夫の「大利根無情」、北島三郎の「北の漁場」などは、昔からある名曲・ヒット曲ですから、折に触れ、何回も聴いてきた曲です。そして、聞き流してきた曲です(私は)。でも、島津亜矢が歌うのを聴くと、まるで違う曲のように新鮮に聞こえ、しかも何度聴いてもあきないのですね。これって、いったいどういうこと・・・・???。

首を突っ込んでみると、自分と同じような人が相当数いるので、ますますどういうことなのだろうと好奇心にかられます。

若い人向けには、さらに以下。
もっとも、若い世代といっても、私より若い世代はすでに何層にも重なっているので、果たして適切かどうか???。

東京ららばい
http://www.youtube.com/watch?v=1KIBKdGW5a4&feature=related

六本木ララバイ
http://www.youtube.com/watch?v=S3mVdHpvSxg&feature=related

飾りじゃないのよ涙は
http://www.youtube.com/watch?v=IMureHU8wTk&feature=related

さくら(森山直太朗作詞・作曲)
http://www.youtube.com/watch?v=pG9Eo5YsDp0

心もよう
http://www.youtube.com/watch?v=r1uVZrif3EM


なお、これは古い歌ですが、「帰らんちゃよか」と同じような意味で、
社会的背景を持っている歌として、

ヨイトマケの唄
http://www.youtube.com/watch?v=PB0p4XQaQtQ


映像を見ていると、亜矢姫は、35歳あたりで急激に太ったようですね。
もっとも、「追っかけファン」のブログによると、
この夏あたりは、ややほっそりしてきたと書いてあります。
ファンの人は、一喜一憂しているようですね。
御本人の素顔は、屈託のない、なかなか豪快な明るい性格だそうです。
他面、なかなか繊細で、はにかみやであるとも・・・。

若い人には受けないかもしれないけれども、
私は、亜矢姫が、何の飾り気もなく、ただ重厚に歌う白虎隊が好きです。

http://www.youtube.com/watch?v=xtLdpciuyaQ

腹の底から、重々しく、暗く、しかし力強く響いてくるこの基調だけが、
会津の人々の心を癒すことができるのではないでしょうか。

そういえば、会津ではありませんが、
島津亜矢は西南戦争の激戦地熊本県は田原坂のすぐ近くの出身ということ。
近代日本ができるまでには、たくさんの血が流れているのですね。

[A-2009-06-03-1][C-2-3] 投稿: sheepsato | 2009年9月11日 (金)

おはようございますー
そういえば僕の好きな演歌の曲で追加は、細川たかしさんの北酒場がありました。

それはともかく、島津亜矢さん、うたうまい! たぶんですが・・。東京ララバイ聴いて速攻思いましたねー。こりゃうまいと。
実のところ歌唱力とかに本当に興味なくて、美空ひばりさんって歌うまいん? と母に聞いて馬鹿にされるくらいなので。

でも中のコメントにもあったですが、確かにちょっと美空さんを髣髴とさせるかもしれません。ある種の万能選手みたいな?
最近、そういうオールマイティーな人いないですから、寂しい歌謡界なので。

よいとまけは、僕はものすごく好きな歌です。というよりそもそも三輪彰宏さんの昔からのファンなので。
三輪さんの歌うこの歌は去年初めて聴いて感動しました。
ショックで震えるくらいでした。
ちょっと同じニュアンスとして、やっぱり僕の好きなさだまさしさんの案山子があります。ばってんさんの曲を聴いて速攻連想したのがこの歌だったので。3曲ともある部分似てるかも知れません。いえ、だいぶ違うか・・

白虎隊ーーこれは~~会津のですねー、初めて聞きますねー。力強いです。
リクエストで甲斐の武田節も歌ってほしい、なんて。

歌のうまい下手に感性が僕はないのですが、でも、久々にすごい歌手が出てきてくれているなら、最近日本の心の表現者が少ないと不満だったので、かなりうれしいです。
さださんも三輪さんもそういう面がありますが。

[A-2009-06-03-1][C-2-3-N] 西方法界 |  2009年9月11日 (金)

亜矢姫を称して、「直球ど真ん中」という sheepsato さんの前投稿[C-2-2]の表現は、実に言い得て妙ですね。

私も歌のことはよくわからないのですが、自らを「亜矢姫シンドローム」と称される、ネット上の仮名「西方隠士」という方が、某亜矢姫大好きブログにいろいろお書きになっておられます。「西方」の部分がちょうど私の仮名と同じですが、これは偶然であり、私とは直接関係はない方です。この方の書かれる『美文』調の文章は、私の世代ではまず書ける人はいませんので、おそらく、私より15~20歳は上の、たいへん教養の高い御年配の方と推測されます。

おもしろいので、『重要論文』はテキスト・ファイルにコピーして、私のパソコンの中に取り込んであるのですが、
sheepsato さんの感想ともほぼ一致しています。私も読みながら、そうだそうだと全面的に納得してしまいます。
そこでも、亜矢姫は美空ひばりの域に達しているとか、超えたとか、亜矢友さんどうしで楽しそうに議論しています。

いや、こうなってくると、私も既に完全に「亜矢姫シンドローム」に陥っていることになります。その勢いで、書いちゃいましょうか。

なんか、亜矢姫が歌っている姿を見ていると、いま歌っていることに命がかかっている、
そして、歌、ないし歌の主人公に完全になりきって、歌いながら、演じること以外のことは全く眼中にはない、というようなことをひしひしと感じます。

こうなると、宗教的に了解するしかないかな。
完全に死に切って三昧の状態で歌っているのかな。
そうであるなら、そこでは「自分」というものがなくなってしまうので、
宇宙が歌っているということになるのかな。
だから、亜矢姫の歌を聞くということは、宇宙の底から発せられる宇宙のパワー、宇宙の波動を一身に浴びるということなのかなあ。

ははは~、私は完全に病人ですから・・・・。
それじゃあ、病人なんで最後に、ある意味、もっとも亜矢姫らしい「ド演歌」、亜矢姫の原点である男歌を聴いちゃいますか。御自分の持ち歌で、「海ぶし」です。

http://www.youtube.com/watch?v=bh7FlIluME0&feature=PlayList&p=3679374A2F878F42&playnext=1&playnext_from=PL&index=10

なぜ、演歌が世代的に支持されなくなってきたのか。
私は、そのひとつに機械文明の進展があるのではないかと感じています。

すなわち、ヨイトマケの歌にもあるように、機械文明が未発達の時代には、生活全体、生きること全体の多くが肉体的労働に依存していました。そこには、ある意味で、常に「ヨイコラショ、ドッコイショ」というエネルギッシュな肉体労働のリズムがともなっていました。水ひとつ飲むのでも、水道の蛇口をひねるのではなく、井戸から「つるべ」で、「ヨイコラショ、ドッコイショ」とくみ上げるわけです。「ド演歌」の「ド」とは、この肉体労働のリズムと力を意味していることになります。

これが人々の体にしみこんでいて、演歌の根底を支えていたのではないかというような気がいたします。実際、その両方を経験している私のような、いわゆる団塊の世代あたりから見ると、いわゆるJ-POPSは逆にいかにも前機械文明的肉体労働的生活とは不調和の感があるのです。
すなわち、このような大きな変化が長い時間をかけて少しずつ進行してきた。あの、「ヨイコラショ、ドッコイショ」というエネルギッシュなリズムが体のリズムではなくなった若い世代の世の中になりつつある。
したがって、その意味からすれば、演歌は、旧世代的なるものの消滅とともに絶滅の途上にある、ということになります。

・・・ホントかな???言語的認識・表現は、真理そのものにはとどかないから・・・。

この辺でやめておかないと、「亜矢姫大好きブログ」のサイトになってしまいそう・・・。
もうなってしまっている・・・。修証一如ということからすれば、そういうことか。
・・・別に、そうなってはいけないというきまりはどこにもないのだけれど・・・・。

そもそも、発端は私が亜矢姫ねーちゃんの歌に引き込まれてしまったということであって、ただそれだけの話に過ぎません。笑ってていただければ、それでいいんです。

[A-2009-06-03-1][C-2-4] 投稿: sheepsato | 2009年9月15日 (火)

しかしそれだけ入り込めるものがあるのは、ほんとうらやましい限りやなーと思います。
没頭できる幸せですねー。

僕が過去に心奪われた、となると、もうずいぶん昔に漫画を見て感動したとき以来ないですもの。
ボウリングも熱中はしてますが、これは楽しい趣味ですし。

>亜矢姫は美空ひばりの域に達しているとか、超えたとか
おーー! いいですねーーわいわいはたのしー。

>J-POPSは逆にいかにも前機械文明的肉体労働的生活とは不調和の感がある
これはなんとなくわかるなー。命の響きですね。
そういうものを感じさせる亜矢さんとばってんさんの立ち居振る舞いはすごい。

が、しかし、あまりこちらを亜矢姫ブログにしてしまってはまずいかもなので、ここらで抑えてと・・

亜矢さんの歌に感じるのは、日本人のアイデンティティー、いや人間のアイデンティティーですねー。

[A-2009-06-03-1][C-2-4-N] 西方法界 | 2009年9月15日 (火)

自分から入り込んだのではなく、
突然カッパが出てきて、川の中に引きずり込まれたようなものかなあ。

まあ、一応終わりにしましょう。
ありがとうございました。

「瞼の母」
(当初の「男はつらいよ」が、 youtube から消えてしまいました)

http://www.youtube.com/watch?v=mJ0uAIh1pdg

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
カテゴリー『非窓非空』の目次に戻る
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-425d.html
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

            

| | コメント (0)

非窓非空の目次

[A-2009-06-03-1]  カテゴリー『非窓非空』の性格
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-d956.html

[A-2010-10-27-1]  近況報告(西方法界・・・H22.10.27)
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/h221027-589d.html

| | コメント (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年9月 »