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[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)

ここでの真諦・俗諦の定義を何回も繰り返します。

真諦は『言語的認識が断絶し、そのものになりきっている、それそのもの』です。
真如そのものです。言語的認識を超えた真理そのものです。『一番元の、一番論じようもないところ』(カテゴリー「宗教の窓」の[S2])です。
既に述べたように、これは位置的に言って、キリスト教の(父なる)神に対応します。

他方、俗諦は、断じて無明底的パラダイムの表現、すなわち通常の世間的認識・世間知=此岸的な世界観のことをいうのではなく(これは、以下で「此岸的世間諦」と呼ぶことにする)、
真諦(彼岸)を指向(志向)するための、真諦に関する言語的認識・表現です。
それは、真諦を指向(志向)するものである点において、高度の真理性があるものですが、真理そのものではなく、言語的認識として捉えられたものであり、一種の方便(キリスト教的にいうと、媒介者)として仮設されたものです。

また、ここでは単なる此岸的な世界観のことは、、真諦を指向(志向)するという宗教的性格を持たないため、俗諦とは明確に区別され、『此岸的世間諦』と言うことに致します。
すなわち、非宗教的なものの見え方は、すべて『此岸的世間諦』になります。

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俗諦の仮設性は、言語的認識・表現によることに由来します。

その意味で、ここでは(俗諦の世界が成立するにあたっては)「初めに、言語的認識があった(唯だ、識があった)」ということができます。
すなわち、新約聖書ヨハネ福音書第一章冒頭の『初めに、言葉(ロゴス)があった』ということになります。
キリスト教では、この「言葉(ロゴス)」=神の御言葉は、そのまま媒介者たるキリストを意味するとされています。
すなわち、キリストとは、俗諦(「言葉(ロゴス)」)のことです。
だから、キリストは媒介者です。

龍樹尊者は、中論第二十四章において次のように書いています。

第八頌(24-8)
 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダの法(教え)を説いた。
〔その二つの真理とは〕世俗の覆われた立場での真理と、
究極の立場から見た真理とである。

[注]
   中村先生は、鳩摩羅什訳では、単に「第一義諦(真諦)」となっているところを、
   ここに限り『究極の立場から見た真理』と訳しておられます。
   しかし、ここは他の場所と同様に、『究極の真理』と訳すべきだと思います。
   『から見る』ということがあっては、「第一義諦(真諦)」とはいえません。
   『から見る』ということは、俗諦の特性です。

第九頌(24-9)
 この二つの真理の区別を知らない人は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解して
  いないのである。

第十頌(24-10)
 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。
 究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
                                                    (中村元『龍樹』p.379 講談社学術文庫)

すなわち、媒介者たる俗諦が必要不可欠であることは、仏教もキリスト教も変わらないということです。(キリスト教で「媒介(者)」というところは、仏教では「方便」とか「仮設」といわれます。)
このレベルの抽象度で見れば、仏教もキリスト教も同じ構造をとっているということです。

俗諦は、真諦(神)から導かれ(仮設され、=創造され、)、真諦を指向(志向)するが故に、高度の真理性をもち
それは「神の御言葉」であり、「真言」です。
この意味で、此岸的世間諦の言葉とは区別しなければなりません。

しかし、俗諦は、言語的認識に依存し、その限度で真理性が劣化している(「神の似姿」でしかない」)がゆえに、仮設性を帯び、その限度で「真理そのもの」では『ない』のです。すなわち、言葉(言語的認識)は、単に認識のみにとどまらず、体現(受肉)され、そのもの(真諦)として現成(三位一体化)しなければなりません。
それゆえ、「究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。」(中論第十頌24-10)とされます。

俗諦は、仮設性を帯びる限度で、被造(物)性を帯びます。被造(物)性とは、キリスト教では神から創造されたということですが、仏教的には、真諦から(真諦にもとづいて)仮設されたということで、この両者は同義と理解されます。

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此岸的世間諦も言葉(ロゴス)から創造されるということは、「万物は、これによってなった(ヨハネ福音書)」とあり、「三界は唯識の所現(所造)」とされるところからもあきらかです。

但し、此岸的世間諦は、俗諦以上に真理性が劣化しています。
劣化しているどころか、正反対に見えるとさえいっても過言ではありません。
それは、絶対矛盾的自己同一などというようなことをいわなければ本来の実質を取り戻せないほどの乖離度に達しています。

すなわち、此岸的世間諦の被造(物)性の程度は俗諦の場合とは次元と程度を異にしており、[M14] 唯識でいう依他起性とキリスト教でいう被造物性、で論じたことに、さらに俗諦の仮設性を絡めてキリスト教でいう被造(物)性を論じなければなりませんが、ここでは敢えて触れず、その検討は後日の機会にゆだねます。

本稿は、たいへん大雑把ですが、仏教とキリスト教の根源的な構造的内容的統一性を確認するという、長年の自分の課題の一つの中心部分にやっと足を踏み込めたという感慨があります。仏教とキリスト教は、表面的な見かけに反し、極めて接近していることを再確認しました。
これは、一つにバーナディッド・ロバーツさんの書かれていたことに触発されたところが大であると思っております。

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[MC21-1-1]  投稿: sheepsato | 2009年5月18日 (月)

こんばんはー。
久しぶりに書き込みますー。

>仏教とキリスト教の根源的な構造的内容的統一性を確認する

これは、知らなかったので、え! と思ったのですが・・
確かに良く統一的な見方をされるなー、似てるなーと思ってたんですが、
明確にそう言われてるのは多分初めてかもと思います。
それは、僕と同じかも・・・。
でも、同じでも、切り口の違いが際だってます。

最近読んでいる本は、唯識のNHKさんの本と、わら一本の革命、という福岡さんの本です。
神はいずこに、は、現在挫折中です(笑)
論理的に把握するにはまだ早い、と感じました。

最終的に、把握の対象としての自分が消えるにはまだ遠いです。

前の議論から1年くらいたつと思うんですが相変わらず苦心惨憺です。
こちらも参考にさせていただいてるんですが、行きつ戻りつです。
考えががんがん進んで、早く解放されたいなー、と夢見てます。

[MC21-1-1-N] 西方法界 | 2009年5月18日 (月)

一番知りたいところを誰も書いておいてくれないので、
見当でもいいから書いてしまおうと思って、
ただ度胸だけで進んでいます。

福岡さんの「わら一本の革命」はなつかしいです。
二十何年前に読みました。
ほんとうに、いい本ですね。
感動してしまいます。
その当時NHK「こころの時代」でやった四国(伊予でしたか)の福岡さんの農園の映像が手にはいるといいのですが・・・。

[MC21-1-2] 投稿: sheepsato | 2009年5月19日 (火)

こんにちはー。

去年お亡くなりになられたときに、こころの時代再放送していて、ぱっとテレビつけたときにもう再放送やってたので、あわてて録画はしましたが、たぶん頭30分くらい飛んでしまったとおもいます。
ビデオの山に埋もれて、どこかにあるはずだとおもうんですが。

もっとも、おっしゃられてる放送と同じかどうかわからないんですが・・

[MC21-1-2-N] 西方法界 |  2009年5月21日 (木)

半端でも一応御覧になっているんですね。
私は確か二回見た記憶があります。
断片的に憶えているだけで、しかもその二回が混じっているかもしれませんが、
特徴的な内容のものとしては、若い人で福岡さんのところで勉強している人が一人でていましたね。
それから、囲炉裏でローストビーフを作っていて、福岡さんが「これは東京の一流ホテルのものよりうまい。」とか言ってたの、憶えています。

あと、東京の四谷だか市ヶ谷だか、中央線の走っている土手のところに泥だんごの花の種を蒔いたという話があったかな。

なつかしいなあ。
偏見宗教書籍の中に書いておきました、私の人生の師である和田重正先生と福岡さんとは、「ゆるやかな仲間関係」にあって、地湧社という出版社で対談もしていたはずです。
今年4月上旬の桜が咲いている時に、箱根の東側の外輪山明神ヶ岳ふもとの久野(くの)霊園というところにある和田先生のお墓に行ってまいりました。お亡くなりになられてから15年以上たちます。
福岡さんの本を読んだのも、和田先生がお元気で、先生のところに出入りしている頃でした。

[MC21-1-3] 投稿: sheepsato | 2009年5月26日 (火)

こんばんは。
和田重正さんってネットで調べたんですが、素敵な人ですねー。

福岡さん以外にも、こういう素敵な人がいるのは、とても心強いです。

西方法界さんが、こういう方とお知り合いとは、うらやましいような、
でも僕だと、そういうレベルの人と会うのは怖いようなー。

でも書物でなく、現実に存在する、というくらい大きい影響はない、よく思います。

ん~~、やっぱりうらやましいー
やりたいことはやらないとだめですねー。

[MC21-1-3-N]西方法界 | 2009年5月26日 (火)

私が35歳の時は、宗教に目覚めて間もない頃で、まだ苦しみのどん底に置かれていました。
出家しようか、どうしようか、迷いながら、
永平寺の山門前に、夜中の二時頃から一人佇んでいたこともあった頃ですから、
今にして思っても、ずいぶん苦しかったのだと思います。

私は、引っ込み思案で、どこにでも気軽に出かけるような人間ではありませんが、
悩みの深さとそれを乗り越えようという気持ちが、
和田先生のところまで私を運んでいってくれたのだと思います。

こういう時って言うのは、自分の力やはからいをこえているようなところがあって、
そういう中での、ある瞬間の行動というのは、
ふだんの自分では信じられないような動きをすることがあるのかなあ。

天から与えられるのでしょうね。
そのときは必死で、そんなこと思いませんが、あとから振り返るとそんな気がします。

ゲーテのファーストの第一部でファーストが恋に陥る純粋無垢な乙女・グレートヘンは、
『誠実さ』の象徴です。そう、私には読めます。

但し、『世間知らず(到達点に至るための、しかるべき道理を持たない)』のため、
私生児(ひとりよがりな結果)を生んでしまい、投獄され、
ファウストが助けに行っても、自ら牢獄から出ようとはしませんでした(ここで、ファーストの第一部が終わります)。

『誠実さ』だけだと、我々も道中で「自縄自縛の牢獄の虜になり、自ら出ようとはしない」結果に陥りかねません。
しかるべき道理というか、道筋を歩かなければ、到達すべきところへも到達できません。
しかし、またこの『誠実さ』こそが我々を導くものでもあります。

すなわち、第二部でどこからともなく、今はなきグレートヘンの雲(だったかな)が現れて、ファーストを天井の世界に導く手助けをしてくれます。
『誠実さ・真面目さ』が、気づかないところで、我々を導いてくれるのだと思います。

sheepsato さんも、必ず導かれると思います。

だいたい、こんなブログをやっていて、こうして出会うような人たちは、
口には出さなくても、みんなそれなりの過去と背景をお持ちの方ばかりなのだと思います。
だって、道元さんのいわれる「出会い難き仏法」に出会った人たちばかりなんですから。

そして、私が35歳の頃はこういったネット上などというような出会いかたは、そもそもありえなかったんですから、いかに、今は仲間同志が出会いやすくなったかということだと思います。
宗教内でも、悟り「競争」をしてしまうと、所詮それは「修羅」に脱してしまいます。
要は、お互いに助け合うことでしょう。
そして、目指すはみんないっぺんに『同時成道』です。

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[MC21-2-1] 投稿: 無着 | 2009年5月20日 (水)

西方殿の哲学的解析は少々疲れるが徐々に慎重に進む意欲は大したものだ。
もう少し簡素化しても良いようにも思えるが、

例えば「絶対矛盾的自己同一性」といのは、実存哲学者達の言葉を借りれば「嘔吐」である。
彼等はその自己矛盾を乗り越えようとするのだが、
立ちはだかる精神と物質の矛盾的に出現する壁の前で越えることが出来ずめまいを起こして嘔吐する。
アウフヘーベンしようにも頼るべき哲理が発見できない、そんな状況である。
しかし仏教哲理は論理的にはいとも簡単に乗り越えている、
当然それを実感するには修行を前提とし、それしか無いのであるが。

最近、空海の書を読み、非常に難解だろうと思っていたのだが、
確かに純密教的な部分においては、難しいどころではないのだが、
顕教的なことの解説も多く龍樹の中観の解説などはさすがに天才的で、簡明かつ面白い、
是非読まれることを薦める。

また彼はロゴスを、声字として表現しているのも明らかで、
更に絶対矛盾的自己同一性を徐々に克服する過程としての空無辺、識無辺、無所有、非想非非想の境地へと至る解説が実に見事である。
何で人はこれを読まんのかと不思議に思うが、偏見もあるからだろう。

西方殿の定義の内容からすればもちろん非想非非想が最後の俗諦的領域である。
残念ながらキリスト教の経典ではそこまでの細かい哲学的解析が無く、一挙に俗と真を二分しているだけである。

しかしグノーシスなどの解説を見るとその辺を更に細かく区分していて、おそらく似たようなことになる。
ただ大きな視点の違いがあり、
西欧的な分析はいつも宇宙論的、物質論的であるが、東洋のものは精神的、認識論的な展開をしている。

[MC21-2-1-N] 西方法界 | 2009年5月21日 (木)

過去に空海を読んでみようと思ったことが二度ほどありました。
二回とも、そう思っていろいろ調べているうちに、読む気がなくなってしまって、
結局読むのをやめました。

今回もこういうコメントを戴くと、読んでみようかなと思うのですが、
『その気になって』調べていると、やはり、やめようかな、という気分が出てきます。
弘法大師とは、どうも相性が悪いというか、縁ができないのですね。

それはそれとして、「般若心経秘鍵」と「即身成仏義」だけは持っていますが、読むとすると、あと「秘密曼荼羅十住心論」と「声字実相義」でしょうか。

でも、最終的に読む気になるかどうか、自分でもわかりません。
(弘法大師は、読んでもらおうとして後世に書き残しておいて下さっているのだから、
やっぱ読まないと申し訳ないですか。)

[MC21-2-2] 投稿: 無着 | 2009年5月22日 (金)

書物を買い始めるときりがないので図書館で空海全集というのを5~6冊借りてゴールデンウイークに片っ端から読んでいったので、もう返却してどこのどの部分がどこに書いてあったのかは言えないのですが、口語訳してあるので読みやすかった。ただ重要な部分で翻訳の間違いなどもあったので要注意ですが、まずまずでした。

書や思想に対する好悪というか相性というのはあるのでしょうが、その原因が何であるか?ということを自分で知ることが重要です。でなければ自分の知識の欠陥がいつまでたっても補えない。私自身もキリスト教の研究をした時に異端と呼ばれる書物が気味悪く読めなかったが、後になってとんでもない偏見と誤解であり時間をロスしていた事に気付いた。読まなかったために単なる倫理的な解釈しかできず、同道巡りをしていたことが分かった。これは大変なロスです。

だから書物でも人間でも対象が何であっても、好悪や相性を感じた時、その原因が何であるか?ということを自分が認識することは非常に重要であり、またあらゆるものに慈悲を持って接するという観点からも好悪の理由を分析して克服しなければ自分の知識智慧の欠陥が修正できない。宗教を単なる研究の対象ではなく、それをもって生きることを学ぶ姿勢で見てこそ正見が得られる。そうすると好悪ではなくちゃんと識別できるようになる。

特に現代の宗教は長年の経過によって時の権威や権力の指向性または恣意的な偏見によって歪曲されているのを知る必要もある。その過程で排斥された異端というものにも非常に多くの真理への鍵が隠されてしまっている。

私の場合、空海に関してはその密教の持つ雰囲気が好悪の原因でした、従って彼の顕教的部分の解説のすばらしいインスピレーションを発見したことで、再度挑戦することになるでしょう。

[MC21-2-2-N] 西方法界 | 2009年5月23日 (土)

おっしゃられるところは、その通りですね。
今はまだすることがあり、そこまでいく余裕がありませんが、
流れと機会を見ながら、しかるべきタイミングを待ちたいと思います。

それから、情報ありがとうございます。
図書館で、現代語訳で・・・という手があるんですね。
たぶん、そのときがきたら、これは使えるなと感じました。
ありがとうございます。

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[MC21-3-1-U] 投稿: urdas | 2009年5月21日 (木)

昨日今日と仕事がお休みだったのでじっくり読ませてもらいました。
ところでここでコメントするのは、はじめてですね。

ところで俗締は真諦を志向するものとありますが、ぼくは俗締から真締へという一方方向だけではないと思うのです。
一方方向だと往相のみになると思うんです。
ぼくは俗締には往相というはたらきのみならず還相というはたらきもあって、
つまり俗態から真締という方向のみならず真締から俗締という方向です。
真締と俗締は双方向なのではないかと思うのです。

双方向として俗締を理解しないで、一方方向として俗締を理解してしまうと、
それはたんなる分別知に堕してしまうと思います。
そうなると俗締は俗締でなくなり、つまりそれは真締を志向するものですらなくなり、
西方法界さんのいわれる此岸的世間諦になってしまうと思うのですがどうでしょうか? 

ようするに真締と俗締の二つはまったく異なるのですが、しかしまったく異なりながらもこの二つは一つでなければならないと思うのです。真締と俗締はたしかに異なるものですが、しかしまったく異なるから二つは二つで別となると、それは分別知であって、そこでの真締はもはや真締ですらなくなると思うのです。

もっとも、ぼくはキリスト教になんら親近感を抱いていない人間なので、その辺のスタンスの違いが出てきているのかもしれないのですが――。還相というものは絶対の立場からいえるものであり、キリスト教では神になりきるなどといったら異端ですから、成仏ということをかかげる仏教とは異なるのはしかたがないことかもしれないですね。

[MC21-3-1-M] 投稿: 無着 | 2009年5月21日 (木)

面白いね。urdas殿コメントに補足させていただくと。

まずその通り真と俗の諦は実際には還相というか、西方殿も劣化と付記しているように、実際にはすべての存在は真諦の現れであり、一方通行ではない。
だからこそ俗諦的状態から真諦的状態へと上昇、つまり悟りへの道を歩むことが出来る分けだ。
逆に始原においてはある原因により真諦の自己表現として俗諦的世界を顕現させている。
キザな表現をすれば「一切すべては神の現れである」。

もう一つ、キリスト教のことであるが、真摯な信徒様には失礼なことだが、彼等がGodと呼ぶものは原典にはYHVHと記載され、それをYehovha(エホバ)と発音して神とした後世での造語である。
Godは実際にはGodsであり召喚される者達のことであり複数であったので、神道とも似ていたのが語源である。
しかもYHVHとは宇宙的創造を意味する四文字語であり、東洋の創造元素である地水火風と相通じる。

だからこそキリスト教の神も古代においてはユダヤ教を始原とし、ユダヤ教の多くの教義は更に古代のシュメールやエジプトやインド系の宗教を基礎としている、そして仏教はその基礎をヒンドゥー教に持っている。

だから世界中の宗教の構造が深底において同じなのである。古代では宗教はどこかで一点に収束していた可能性が高いのである。3は常に最高位の表現であり、4は基礎の数字、7は3の次の格、12は7の次の格と、どの宗教も同じである、もちろん神道もそうである。

ここまで一挙に書くつもりはなかったが、深く広く探れば探るほど、その事実と実体が見えてくる。
表現法こそ各地の世俗的慣習と融和して異なれどもだ。

[MC21-3-1-N] 西方法界 | 2009年5月23日 (土)

掲載作業が少し遅れてしまい、お詫びいたします。
摂食障害に陥ってしまった姪と関わっていたものですから・・・・。
コメント投稿は、ウルダスさんは、はじめてでしたか。
メールでのやりとりは、もうずいぶん前からですから、今さらここで、はじめまして、というのも変ですね。

ところで、本題ですが、えーと・・・。

なんだかよくわからないところが、ぼんやりこうなのかなあというように思えてきたところを度胸一本で書き出しているので、自分の中ではまだ結構混乱したままで、突っ込まれると自分でもよくわからなくなってしまいます。
ですから、おそらく、先々あんなことを書いてしまったけれども、修正しなければいけないというところがたくさん含まれているんだろうと思いながら書いています。
とにかく、自分のなかでは、いろいろなことがいっぺんに重なってきてしまい、結構混乱のただなかにあります。

そのあたりをもう一度ふりかえりながら(全部さらけだしながら)整理してみると、

バーナディッド・ロバーツさんを読んで、明確に主客の構造が最終的に、しかも恒常的に消えてなくなる地平というのは、①対象たる事実(存在)を②認識する、という構造もなくなって、認識=事実(存在)に一元化してしまう、しかもその認識=事実(存在)というところは、認識というものも消え去ってなくなるところだから、認識と存在に分離する以前の「それ」というところ。そこは、言語的認識が介在しないので、「それ」になってしまう。事実が事実のままになりきっていて、それでいてその状態を認識している(自覚している)ので、そこは実際なんと言ったらよいのか、言いようがないようなところ。
つまり、ここが「真諦」の地平で、言語的認識・表現が出てくる前のところ、すなわち、「初めに言葉があった」という「言葉が登場する初め」よりひとつ前のところ、「初め」よりひとつ前のところ。
ここが「真諦」それ自体。「初めに言葉があった」の「初め」とは、俗諦の世界が成立するための初め。

そこで、言葉で「真諦」と認識してとらえると、その瞬間から「俗諦」の世界入りすることになってくる。
すなわち、いま我々がその中にいる言語的認識の世界(俗諦的世界)の中でしている「真諦」「俗諦」の話は、「真諦」といっても、俗諦の世界で「真諦」を扱っているに過ぎないんだという微妙な問題になっていますね。(それで、自分でもこの辺からわからなくなってきます。)

でも、主客の構造の解消=言語的認識の解消した状態にまでなって、直下に事実「それ」に承当しないかぎり、われわれはその状態がよくわからず、言語的認識を介して(使って)捉えるほか、捉えようがない(言語的認識の向こう側に言語を超えた真諦らしきものを想定はしますが)という地平に置かれています(往相の段階)。

すなわち、「正位(=平等=宇宙的命)が偏位(=差別=無明底では個と認識するところ)となって現れて出ている」というように、言語的認識を通じて捉える以外には捉えようがないような状態に我々はおかれている、ということですね。
このへんは、ウルダスさんの展開の方がすばらしいので、私の出る幕ではないのですが、いちおうこう確認しておいて・・・・と。

で・・・・、でも、それは言語的認識を通じて捉えているのだから、私の定義でいけば、俗諦の世界の中での出来事・・・とくるのかな。

それで、前稿でこの「言語的認識を通じて(=言語的認識という鏡で)真諦をとらえる」ということ、これを「理を通じて事(真諦)を捉える地平」で、理事無礙法界ってここではないの、となってきて・・・・。

     [注1] ここは、微妙ですね。言語的認識は介在しないけれども、主客があり、
        その中で鏡に映してとらえる地平というのが、神秀の「鏡」ありの世界というべきなのか???
        う~ん???とにかく、主客が残っていると、写すもの(鏡)と写るものが分離する。
     [注2] 「理事」と「正偏」の問題は、次元を異にし、別問題という捉え方になって、
         それがまた、極めて悩ましく、わかりにくいところ・・・・。

ところが、真諦では、主客が消滅し、それそのもので『ありながら』、それそのもので『あることを明瞭に捉えている』、両者が分離せず一体となっている、しかも言語的認識は介在していない、ないし、認識する主体が認識する対象を認識しているという要素が全くない(バーナディッド・ロバーツさん)。
すなわち、「言語的認識」否「認識」ということを介さずに、「そのもの」であることが「そのもの」としてとらえられてしまっていて、つまり「理」が脱落し、直接に「そのもの」が捉えられていて、ここが事事無礙法界か・・・???と展開してきて・・・・。でも、結構怪しいかな・・・・。

つまり、この地平は、とにかく「正位」だ「偏位」だというような、「言語的認識が脱落してしまっている」。
「言語的・主客的認識」を通しておらず、真理そのものになりきってしまっていて、そのものだから、真理の劣化が生じていない、とみる。

そこで、いよいよ、これに往相・還相を絡ませるんですが、どこまでが往相で、どこからが還相なのかが、
必ずしも明確ではなく、わからなくなってしまいます。

従来は、見性(理法界入り)までが往相で、しばらく山のてっぺんにいて、菩提心が生じたところからが菩薩の世界入りで、そこからが還相かなというように思っていました。

しかし、 十牛図、洞山の五位(禅宗は、仏向上といい、還相という用語は使いませんが)、十地経(華厳経十地品)、
阿含経で示される段階(・・・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅処)などが相互にどう対応し、どう理解されるかなどという点に関しては、そう簡単ではなく、またこれらを眺めていると、どこからを還相とみてよいかがわからなくなります(現在この状態)。

で、それはそれとしておいておくとして、一つはっきりいえることは、バーナディッド・ロバーツさんのように(私はそう理解したのですが)直下に真諦を証し、そのものになりきった人(真諦到達者)とそれに至らない者(真諦未到達者)を分けます。

そうすると、まず最初に俗諦を作るのは真諦到達者であるということになります。
俗諦は、真諦を『指向』する(指し示す)ものとして造られます。
真諦到達者は、到達しているが故に、もう真諦を『志向』する(志す)必要はありません。
真諦到達者は、真諦未到達者を真諦に到達させるために、俗諦を造り、それを使います。
すなわち、真諦到達者においては、ウルダスさんのおっしゃるように、双方向が常に問題になってくると思います。

真諦未到達者は、せいぜい想像するだけで(私はここ)、最大限できることは、俗諦を通して(媒介にして)その向こう側に間接的に真諦を見、それに接触できるに過ぎません。
あと、ありうるパターンとしては、まだそのことにすら目覚めておらず、言語的認識として把握した俗諦を真理そのものであると思いこんでいる段階がありうる(そう思っている人は多い)と思います(そういう人に対して、龍樹尊者は、24-9を言うのでしょう)。

現段階では、これ以上何もわかっていませんし、ここまでが果たしてこれでいいのかが問題で、こうしてコメントをいただきながら、話が深まっていけば最高なんですが・・・・。

それで、
>>『真締と俗締の二つはまったく異なるのですが、しかしまったく異なりながらもこの二つは一つでなければならないと思うのです。』
というのは、全く同感です。

そういいながら、私、西方法界自身が既に
>>・・・たんなる分別知に堕してしま(い)・・・
>>此岸的世間諦になってしまっている・・・
かもしれませんので?、

それから、私自身がこれまでの展開の中で、自分の展開の仕方に一つ反論というか、疑問をもっておりますので、
この場をお借りして、表明しておきます。

以上の理解は、真諦への到達が先に述べた理事無礙法界・事事無礙法界の理解と対になっており、
理=俗諦だから、理法界もまだ真諦には至っていないという位置づけになっております。

しかし、理法界というのは、通常は見性して宇宙と一枚になったところ(阿含経的には識無辺処)であり、その意味で真諦というものを捉えている、というところを出発点にすると、真諦=正位(平等)ということになります。
ここがキリスト教と仏教、特に禅との違いで、禅では出発点でここに立ってしまうのだと。
従来、私はずっとそう思ってきたのですが、理=俗諦という見方が成立して、そうすると、正偏の問題と理事の問題は次元を異にするということになってきて、最近書いているような展開になってきたという経緯があります。
そうしていながら、こころの片隅で従来の見方を否定しきれず、完全には決着がついていない状態である(かなり混乱しています)ことを申し上げておきます。

よくわかっていないため、長々とわかりにくいことを書いて申し訳ありません。

[MC21-3-2-U]  投稿: urdas | 2009年5月23日 (土)

なにやらこの数日はここではコメントが増殖してますね。
それにくわえて身辺多忙な最中に申し訳ないです。

それで真締と俗締のことですが、ぼくはこの真締と俗締の往還運動こそが宗教の要だと思います。
おおまかにぼくの理解している往還についてコメントしたいと思うのですが……

一般に真締を体得したら俗締は必要なくなると考えられているものですが、
それにはぼくはまったく反対です。

真締と俗締が別のものならば真締を体得してしまえば俗締は不要でしょう。
しかし真締と俗締が一つであるということは、真締を体得したら俗締は不要になることはあり得ないということです。
ぼくの考えでは真締体得者からすると、あらわれている一切はなんであろうともみんな俗締であると思います。俗締が不要になるなどとんでもないと思うのです。あらゆるものが自分を導くもので、俗締の外になにもないとわかってくるものだと思うのです。そこで彼においては自分にあらわれてくる俗締を完全に生き切ってゆく、その俗締を完全に生き切ってゆくことこそが真締であると思うのです。そのような生き方そのものが真締であると思うのです。そしてその俗締を完全に生き切ってゆく人の生き方そのものが周囲に対して俗締になると思います。彼自身が俗締になるのですが、この場合の俗締は上から下に教えを垂れる性質のものではないと思います。俗締を完全に生き切ってゆくことが真締ですので、真締体得者は自らを下に置きつづけるわけです。いわば俗締への無限落下こそがかえって真締でありますので、上から下への方向なぞあり得ないわけです。
ようするにあらわれてくるものはみんなぼくたちを導く俗締であって、その俗締を完全に生き切ることが真締であって、換言すると悟りは修行としてあらわれて、永遠に完結しない修行となって悟りは完結するものと思うのです。だからぼくは修行と悟りを別々のものと思っているかぎりは真締も俗締もおかしなものになると思うのです。

それで補足ですが、俗締を完全に生き切ることが真締といいましたが、俗締の外に真締があると思っているかぎりは真締を体得できないのはいうまでもないと思います。俗締と真締を別々と思っていると、せっかくの俗締も俗締でなくなると思います。「俗締の外に生きるところはない」、そのようにあらわれている俗締を絶対として選り好みしない態度が大切だと思うのです。あらわれている俗締を選り好みしないで絶対として受け取り生きるとき、俗締は真に俗締としてかがやき、つまり俗締は真締に直入する門となり、その俗締を生きること自体が真締となると思うのです。このとき俗締はぼくたちが真締を生きるための道にほかならず、且つ真締そのものの現しになると思うのですが――

長くなったのでおしまいにします。
いけませんね、書き始めると長くなるのがぼくの癖なので。
いろいろと互いに考えを出しあうと啓発されるところがあり有意義で楽しいものですね。

[MC21-3-2-N] 西方法界 | 2009年5月24日 (日)

はい、はい・・・・???。

ウワァー、というのと、ウンウン、というのと、キョトン、というのと入り交じった感覚というのか・・・。

話の全体の意味するところは、うんうんとうなずけるのですが、
話の次元がいっきに高いところに行ってしまって、
今私が格闘している次元より一段高い異次元の問題に跳んでしまって、
どう関連・脈絡をつけて話をしたらいいのかわからなくなる感じがします。

すなわち、如来の次元(法華経的次元)でそれまでの問題を見返すときは、
前稿[M20]の俗諦の段階性で問題にしたように、今私が捉えているような次元(菩薩的・華厳経的次元)での俗諦的表現が破壊されてしまうような新たな俗諦的把握と表現が成立する可能性があります。
法華経は、そういう問題に満ちているような気がしていて、いずれそういう角度で読まなければならないし、そうしてみたいです。
ところが、前段階をすっとばして、次の段階に行くわけにはいきませんし、俗諦的に異次元の問題を一緒に扱うと、言語的認識と表現・論理的認識と表現に矛盾と混乱が生じることになろうかと思われます。

つまり、「話の全体の意味するところは、うんうんとうなずける」というのは、そういう来るべき一段高い次元ではなんとなくそういう雰囲気になってきそうな気がする、ということだと思います。
そして、「どう関連・脈絡をつけて話をしたらいいのかわからなくなる感じ」というのは、まだ私が菩薩的・華厳経的次元の問題を消化しきれていないために、一方で「うんうん」とうなづきながら、他方で、高い次元との関係にまだ了解がついておらず、そのために「唖然としてしまう」ということになっているということではないかと。

これは、俗諦の段階性([M20])をわきまえながら、うまく話をしていかないといけないという問題ではないかと思うのですが、
いやー、むずかしいなあ???。

[MC21-3-2-M] 投稿: 無着 | 2009年5月24日 (日)

釈迦の説法に再度回帰して整理した方がよいですね。
まず真諦を体得していない(あるいは失ったとする説もある)我々は、

1)俗世界の中で苦の状態にある、そしてその苦の原因を知ること、そしてその苦が克服可能であることを知ること、そしてその苦の克服の方法が示された、のが苦集滅道である四正諦である。

2)次にその苦の克服方法が八正道であり、最初の正見に始まるが、実際には正見ができれば後に続く7つは比較的容易になる。

3)だからこそ正しく見ることの原理が「空と縁起」として説かれ世俗界、現象界が空、つまりそれ自身に自性があるのではなく我々は幻影を見ているということ、また自性がないとは事物が存在しないということではなく、事物は原因と結果による縁起により我々に見えるように見えているのであって、我々は幻影を取り払って正しく事物を認識する必要がある、というのが龍樹の空性の意味であり、事物自体は存在しないという唯識の欠陥を補っている。簡単に言うと俗界の事物が存在しないというのではなく、我々が見るようには存在していない、と言っているのである。

4)そして、我々が正しく事物を見れない原因は、我々の認識器官、認識中枢が五蘊にとらわれているために、認識自体が曇り正しく見えていない、つまり幻影を見ている、だから五?への執着から離れなさい、そうすれば俗界が正しく認識できる。

5)次に正しく見ることができれば、正しく考え、正しく語り、正しく為し、正しく生き、正しく努力し、正しく想念し、正しく精神統一ができる、となる。

6)八正道自体が悟りへの入り口であることが分かる。つまり、所謂悟りの三段階が見える。それは、第一段階である真理が見え始める、次に真理を生きる、三段目が真理そのものに成る、ということである。

様々な教義の言語的な複雑さを駆使して、それらの相関関係を分析することも重要であるが、釈迦の明快な言葉で素直に受想行識することも重要である。なんとなれば受想行識の幻影を正し、執着を解き放ち、俗界を八正道して生きていくことが悟りへの道であるからだ。しかし実際のその道程はかなり複雑かつ多段階な構造を持っている。その理由は人間というものの構造が複雑だからである、簡単に言えば色受想行識の各々にそれぞれのレベルがあるのと、各々が複雑に組み合わさっているのが現実だからである。だから一言で示せないし、人によっても様々な状態があるからである。これが俗諦の中を生きるすべであり、真諦に繋がっていくが、言うは易く、行うは重労働である、しかしMUSTである。

そこで話を変えて、しからば仏教徒以外には悟りの道は説かれていないのか、他の50億人には何が真理なのか?という議題が西方殿の分析の目指すところである。
各々の宗教間の構造分析をするには、まず知識の絶対量が必要である。家を建てるためには十分な材料が正しく用意されることが肝要である。

キリスト教をとってみても、聖書といわれるものは歴史的にも実際には多くの書物の受捨選択の過程を経て構成されていることと、1700年の間に様々な修正削除加筆さえも行われている。たとえば50年前のキングスジェームス版の聖書を比べてもすでに修正を受けている。我々が手にする聖書は、私見であるが初等の教科書よりもレベルが低い、だからファンタジーであり真の教義の副読本のレベルであろう。

例えば最も重要な魂という言葉が頻発するが、原典にはSOULという文字は一語もなく造語である。実際には仏教と同じように複数の、たとえばマナシキやアラヤシキがあるように、知る限りでは4つの識を区別している。それを後世の西欧人は全部魂と翻訳してしまってる。
神の概念もしかりである。天国や天も同じで、実際には十天数えていて(仏教に酷似)、ヨハネは第七天について語っていることになっている。だからそのような実体を知らず比較検討することは、かなりの無駄と誤解を承知で取り組むことを覚悟しなければならない。まず、絶対的に知識量を増やさなければならない。

私も長くなったようであるが、これでも多言とは言えないくらい複雑なことだね。


[MC21-3-3-N] 西方法 |2009年6月6日 (土)

ウルダスさんの [MC21-3-2-U] について、私のコメント [MC21-3-2-M]後に、ウルダスさんのコメントに触発されて、内容の一部に過ぎませんが、一点だけ私の理解が進んだ点がありますので、追加致します。

その前に、一般読者の方にウルダスさんは基本的に道元さんで一貫されている方だということを申し上げておきます。
すなわち、私が問題にしているレベルよりはるかに高いレベル(道元さんだから、如来レベルとみなければならない)から話がやってきているということを意識しておいて下さい、ということです。[MC21-3-2-M]で私が触れているように、俗諦の段階性という点で、次元が極めて高く、いろいろなことが凝集されています。

それで、今回気がついて理解が進んだ場所というのは、ウルダスさんが、[MC21-3-2-U] で

『ぼくはこの真締と俗締の往還運動こそが宗教の要だと思います。
・・・・・
真締と俗締が別のものならば真締を体得してしまえば俗締は不要でしょう。
しかし真締と俗締が一つであるということは、真締を体得したら俗締は不要になることはあり得ないということです。』
というあたりのところの話に、私の次元からどう入っていったらいいのかわからなくて、・・・きょとん、云々という部分がありました。

しかし、接点がやっとわかりました。
ウルダスさんのおっしゃられていることから、いろいろなものを剥ぎ取っていくと、私の問題にしているレベルに一応到達します。
まず、往還運動を取り除きます。行持道環ですね。
これをとっちゃう。

次に、言語的に認識され、表現された俗諦というのは、修証辺の我々には、普通、当初は修行の目標であり、次第に修行が進んで身についていき、体現されてそのものになりきる。なりきって、言語的認識なくして、そのものになっていれば、それは真諦でしょう。
この一サイクルだけを私はとりあえず頭に置きながら、後はある程度それを抽象化して複雑にした程度のものを頭に置きながら考えています。
しかし、ウルダスさん(道元さん)だと、おそらく前後裁断を前提とする修証一如で、修(目標としての俗諦)と証(体現されたものとしての真諦)を私の議論のように分離しないことになります。

一応、こういう位置づけになっているということがいまになってわかりました。
先日は、ここが明確になっていなかったので、たいへん複雑なことを言われているようで、何が何だかわからず、『きょとん』で、しかし、全体としての話は、なにやら高い次元だけれども、そんな感じかなあ、ということでありました。

それで、と。

私はまだ、道元さんを綿密に理解する段階に至ってないのですが、おそらく、道元さんの位置というのは、修行と悟り(証)を仏教的に極限にまで完成しきったところだと思います。

ただ、極限まで、さまざまな要素を凝集して高密度にしてしまう(高度な段階の俗諦)と、シンプルに議論を進めることができなくなります。

で、今、話の方向は、私としては一つに仏教とキリスト教を平行的に捉える基盤(土俵)づくりとういことに重点がありますので、逆に極めて単純化したところで捉えています。

ですから、修証論に焦点を合わせて、それを高度化していった場合は、ウルダスさんがおっしゃるような問題が出て来ようかと思います。私は、まだその辺が、自分では詰めてないということと、ここでは、そちらの話をする方向には動いていなかったということになります。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

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