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[M23] 中観・唯識・言葉・ロゴスの位置づけ

予定外で、[M22] が間に入ってしまいましたが、現在の流れは [M21] を受けて先に展開する方向であり、
体系的な意味で [M22] の問題に至るのは、もう少し先になります。

但し、本稿は[M21] を受けて進みますが、単なる整理を致します。理論的な整理です。
極めて大きなところでの、仏教・キリスト教を通した理論的な整理と位置づけをして、
頭の中を整理すると同時にまだ未解決の問題を明確にしておこうと思います。

まず、仏教内部での位置づけですが、これは私自身の内部での問題提起・問題意識として、
カテゴリー『窓の外は空』の [K18] 西方法界、長年の誤謬に愕然とする、

[注] 上記 [K18] へのリンク
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_769d.html

の本文下の投稿 [KC18-1-4-N] に書いておきましたように、
大乗仏教は、釈尊直説といえる仏教なのか、という問題があります。

これは、カテゴリー「宗教の窓」に多く登場する「求道者さん(彼は、その後もたびたび名前を変えて、このブログに登場する)」にその多くを導かれながら、
阿含経典、およびダライラマの著作を読む中から現れた問題です(日本の大乗仏教内にいると、現れてこない問題)。
すなわち、阿含経典の釈尊の説法と大乗仏教とは、見た目では、そう容易には繋がりません。
逆に言えば、ここを繋げる作業は仏教の核心の理解に関係してこざるをえなくなります。

ダライラマの本を読むと、チベット仏教ではここがたいへんしっかりなされており、
そして、先の[K18]にも書いておいたように、それをしないで大乗仏教徒だといっても、意味がないではないかというダライラマの指摘は、その通りと受け取ることが出来ます。

ところが、どうも日本ではそこを明確にする作業がどこにもないようですから(?)、ちょっと、ダライラマの本を読んでチベット仏教の結論を拝借し、自分で納得できる程度に整理しておくという作業を致しました。

その結果、仏教では、中観派の理論を一番中心軸にすえ、唯識派は補充的に位置づけて使うという結論になりました。
これも「求道者さん」から指摘を受け、現時点にいたり、私・西方も自らなるほどと確認致しました。
ことに、一番根本にある真諦・俗諦という構造的把握は、中観派によらねばなりません。
他方、唯識は極めて精緻な観察に基づいた体系であり、これまた捨てがたいところであって、このような結論になった、ということを確認しておきます。

私としては、ここまでは、それなりに確認ができればそれで問題はないという認識です。

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問題は、この先です。これは、[M21] の私の論稿がほぼ正しいということになった場合での問題です。
そうでなければ、前提が崩れます。

[M21] とその前の二つの稿では、真諦・俗諦を問題にし、
その場合の俗諦の定義を、とりあえず、言語的認識・表現を通した世界の問題としました。
これは、新約聖書・ヨハネ福音書第一章冒頭が、普通「言葉」という訳出をされることともあわせて、
とりあえず、そうしたわけですが、これに関しては、ロゴスという訳も考えられ、他方、仏教では「唯識」すなわち「識」で捉えるという立場があるわけです。

[注] 先の求道者さんは、カテゴリー『宗教の窓』の、
[S12]初めに言があった(世界は、どのような構造に創られたのか)、
の中の投稿文[SC12-2-1]で、 この点に触れています。

[S12]へのリンク

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_cdd3.html

そこで、統一的に、より精緻化していく場合には、どうしたらいいのか、否、そうしない場合でも、混乱しないように、一定の整理ができるように理解し、体系づけておくということが、必要になると思われます。

但し、話は極めて複雑かつ微妙なものがあると思われます。

「唯識」の「識」というと、『人間的認識と意思』という感じでしょうか。
この場合には、非言語的な認識を含むことになり、さらに、認識だけでなく、意思も含むことになります。

それなら、ロゴスはどうなのか、あるいは、「言葉」と訳す理解の場合はどうなのか、というようなことが絡んでくるでしょう。

一応、こういっためんどうな問題があることをここで確認しておきます。

なお、これらにつき、現在私には特定の見方・見解は全く成立していません。

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後日仮見解

本稿記載後しばらくたってから成立した見方を以下に、「後日仮見解」として記載しておきます。

(極めて、難解で歯切れが悪いのは、まだよくわかっていないからかもしれませんが、当面はこのように捉えた上で進むことにします)

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まずは、新約聖書ヨハネ福音書第1章冒頭の訳として、「言葉」が適当なのか、「ロゴス」が適当なのかという問題があります。
また、いずれにしても、それは、同時平行的に仏教で言う「唯識」の「識」とどういう概念的広狭の関係になるのかが、問題になります。
もとより、この議論は、やや細かい厳密な議論です。

重要な点は、すなわち、俗諦的世界の出発点は、「言語的認識・表現」あるいは「人間的認識(ロゴス)・表現」と端的に捉えて、俗諦的世界の生成の根源である真諦(神)と区別しながら、明確にその二つを区別して把握することにあります。
但し、話がたいへん難しく、入り組んでいるので、とりあえず、俗諦的世界の出発点は、「言語的認識・表現」のほうだと決め込んで、重要な議論をしてしまい、その後になって、さて、その出発点はやはり「言語的認識・表現」のほうでいいのか、あるいは「人間的認識・意思(ロゴス)と表現」の方が正確なのか、を論じるという流れできている訳です。

[注]
私は、このような流れでの扱い方はたいへん適当であったと考えています。
こうしないと、問題がさらに複雑になり、手に負えなくなり、この問題を扱うのに不可欠の重要な手順とまでに感じます。
そして、理由はどうあれ、新約聖書ヨハネ福音書第1章冒頭の訳として、歴史的に、初めは「ロゴス」とされ、後に「言葉」と訳されるに至った理由の少なくとも一つに、不可欠の重要な手順を必要とするのと同一の理由が含まれていたのではないかと想像します。

この問題は、仏教の方から論じると、それなりの答えが出てくるように思います。
(但し、無着さんの投稿 [MC23-1-1]によれば、それはキリスト教独自の資料でも同一結論になる可能性を大いに秘めていることがわかります。・・・西方としては、未確認)
キリスト教では、神が登場し、話が神秘的要素を帯びざるを得ませんが、仏教では、阿含経典でいう「想受滅処」において真諦に到達するということ、それは人間が至ることは明らかなので、
その意味から言えば「人間的認識(ロゴス)」で、真諦まで到達できるということになります。

すなわち、釈尊によって指摘された五蘊(色受想行識)を空じた段階(五蘊皆空)が、「想受滅処」であり、ここがあらゆる意味での俗諦的残滓を空じきったところ、すなわち真諦であって、ここが真諦に到達した位置であることがわかります。ここからすれば、真諦に到達するには、単なる言語的認識を超越するだけでは不十分で、併せてたくさんのもの(五蘊=色受想行識)が超越されなければならないことがわかります。
しかも、真諦に至る最終段階の様相も、バーナディッド・ロバーツさんの記述を見る限り、複数の細かく微妙な段階があって、最後の最後まで順次段階的に至ることが了解されます。

[注] 私は、バーナディッド・ロバーツさんは、この真諦に至る光景とその微妙な消息を
現代用語と現代文化を背景とする表現で、描いてくれた、という認識をした上で、そのことを評価をしたいと考えます。

ところが、このように考えてしまうと、真理の劣化・真理からの乖離をもたらすことがない「人間的認識・意思(ロゴス)」があることになるから、劣化・乖離のメルクマールとなるものとして、「人間的認識・意思(ロゴス)」の方を選ぶのは問題だということになります。

しかし、実は「想受滅処」では主客も空じられていて、認識するもの(主観)と認識されるもの(客観・対象)の区別がない。すなわち、認識と存在が分離せず、
したがって、認識も存在もない、
それでいて、はっきりと自覚されているとい状態のようです。

すなわち、真諦そのものの立場では、「人間的認識・意思(ロゴス)」というようなものは、存在しないのである。
せいぜい、あえて「人間的認識・意思(ロゴス)」がある、というのであれば、それは、俗諦的にそういっていることを明確に自覚しておく必要があります。

この問題は、仏教における唯識の「識」についてもいえることで、
唯識(「ただ、識のみがある」)といえるのは、俗諦的世界の出発点においてである。
その先、すなわち、俗諦が仮設される始源となった真諦にあっては、「識」すら、空じられています。
これは、前稿でも述べたように、仏教でも、中観派を理論的な根幹に置き、
そこに唯識を位置づけておくということの根拠です。

このように見てみると、とても当初設定した形での問題解決など、
できるにはほど遠いほどの問題の複雑さです。
したがって、このような複雑な問題であると言うことを、そのままに把握しておく以外に、
方途はないものと思われます。

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[MC23-1-1] 投稿: 無着 | 2009年5月31日 (日)

しかし西方殿は何という真摯で謙虚で誠実な性格の方なのかと感動してしまう。
立ち去ろうと思っても引き戻されてしまう。しかも頭脳は私の百倍は明晰でる。

私自身はむしろ直感の方が発達しているようで、元来の性格は飽きっぽい。
五黄の寅年、蠍座で虚空像菩薩という占星術はまことに的確であると思う、
個性はだけは仕方がない、運命ではないが宿命であると感じる。

ところでLOGOSの解は正確には元来、論理、理知、理性、つまり仏教で言う理法であったことに間違いはない、
私も世界を遊行していた何十年も前にそれは確かめたが、
LOGICはLOGOSの語源であることからしても言葉というより理法、
つまり、「論理と法則」「神の摂理」と理解する方が妥当でしょう。
実際に「神、GOD」という言葉は、当時のギリシャやローマの世界観が「神々」の世界観であったために、
「神」と訳してしまったが、
実際にはYHVH、エホバであり、
これは神の出現に至る四つの階層を意味していたのであり、
聖なる四文字としてその発音は口伝でのみ最高僧にだけ伝えられたのであり、
エホバなんて発音するのはまったくの造語も甚だしい。

さて所謂原初のキリスト教の集大成が行われた紀元四世紀に、
つまり現在のカトリックが教会としての権威に執着し始めた頃に、
LOGOSを「言葉」との解釈を第一義に置いたが、

その理由は、御存知の通りイエスが当時のユダヤ教の退廃を批判し、
つまりパリサイ派やサドカイ派は「真理の霊」である個人の持つ「神の本質」、
仏教的に言うと「仏智、真如など」であるが、
これは旧約聖書では「神は人を神に似せて創造した」とあるのと同義であることが分かるが。
これは「神の本質そのものが人の中に顕現している」という意味に他ならないが、
殆どの人々がそれを擬人的に解釈し、
逆にとらえて「神とは人形をした巨大で万能万智の存在だと」誤解した状態が長年続いてきた。

そして重要なのは、「理法」ではなく故意に「言葉」と訳した理由は、神の言葉を祈ることが重要だと信じさせるようにしたからである、そしてその更なる目的は「教会が神の言葉の仲介者である」と権威付けするのが目的であった。イエスは「神を汝の外に拝むな、汝の内にある至聖所に引き下がり、そこで祈りなさい」と言った、つまり教会の必要性を否定したのである。だから釈迦が本来説くことと同じであり、この仏智、真理の霊を実現することが悟りであり、それは人が本質的に持っているものだから、それを見出せばそれが悟りであり、「天の国に生まれる」という本来の意味である。

しからば「識」とは何ぞや?
実は識も色もかなり複雑であるが、
その理由は人間の認識力のレベルに差異があり、
そのレベルの差によって見え方、捉え方が異なるために一語で言い表せないからである。

仏教には九識があるが、
原始キリスト教では四識に分けていて、これがYHVHであるが
実際には「神の意識+9」で十識にも分けていて同じ場合もある。
つまり分け方は教え方に依存していて、
その意味を知るまでは「違っている」と言わない方がよいのである。

仏教でも様々な派が存在するが、
それぞれの教え方はそれぞれの意識レベルの人には有用である、
低位の人には倫理的、道徳的に説く方が理解されやすい、それも方便である、
教えはあらゆる人を包み込む必要があるからであり、徐々に上昇するための方便である。

しかし高位のレベルから見れば常に多少の修正点が存在する。
仏教で最も高度な説き方は「空と縁起」であり、
ややこしいのはそこでは俗世、現象界も肯定する点であり、
最後にすべての現象界は一切が神の現れであり、
それなりの存在意義があってこそ存在するのだと説明しているのと同じである。

空性の論理は、各レベル毎により低い認識状態を否定、昇華して進み、
最後に空性という認識自体も空じることにあるから解脱なのである。
だから説くレベル毎にそれなりに正しいのである。

そして縁起と無我と無常は、実は同じことを観点を変えて三つに分けて説明するだけである。
つまりすべての現象、事象は縁起するものであるから、
それと相互依存関係を持つ我も実体としては存在しない、
またこの世界の現象も縁起するものであるから実体としては存在しない、ということである。

ただし重要なのは「相互依存関係を持たない我」があればそれが真如であり、
「神と一体である本質」である、とうい点であり、
ダライラマは知恵者であるから、「仏教は無我を説く」と言っておきながら、
一方で「心の連続体」というものがある、とはぐらかす。
ここで仏教の「無我」を否定すれば、仏教界からの反発が混乱を招くからであろう、それでよいと思う。
一般人には「無我」と理解されている方がこの世に利することが多いからである。
世俗が常に真理を受け入れ、説ける状態とは限らないからであり、
反発を受ければ耳を貸さなくなり、すべての努力は水泡に帰す。
釈迦の「一切」の記述目的もそのようである。

つまり識の本質とは「心の連続体」であり、
これが修行の初めから完成に至るまで我々を導く灯火であり主体なるものであるが、
これが他との相互依存関係によって成立している限りにおいて「無我」であり、
すべての執着を脱しそれ自体となって輝く時に「真我」となる。

言語の意味を理解せずに我の有無を議論するのは無意味であるが、
真理は有無を越えた所にあり、
それが様々な経典による混乱を起こしている、

だから万巻の書を読むことは有意義ではあるが、
最初に達成者の原典、正しい認識を達成した者によって書かれた書を理解していなければ
自分自身や他者をも惑わすことになり、盲人が盲人の手を引くたとえとなる。

そしてもう一義は、所謂神の我がすべての事象を成立させているので、これを神の識と呼んでもよい、
なぜならその識、意志が理法を通して存在しなければあの世もこの世も存在しないからであり、
意志がなくて物事を存在化させるならば、それにはベクトルがなく、正しい方向もなく、散漫な世界である、
だからLOGOS、言葉、理法とは神が識を秩序を持って表現する手段である。
だからこの神の識によって世界も人間も創造されたと聖書は説く。

ちなみに神が創造した宇宙であるCOSMOSの語源は「秩序」であり、
その反対がCHAOSは「無秩序」を意味する、
あらゆる古い言語の正確な意味を知ることも謎解きには重要である。

[MC23-1-1-N]  西方法界 | 2009年6月 5日 (金)

  上記投稿に触れ、次稿 [M24] を書きましたので、それがこの投稿に対する
私の立場を現すものであり、コメントであることになります。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

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