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[M22] 絶対者は自己を無化する(著者・・和真[かずま]さん)

[副題] 西田哲学における絶対無の意義(西方がつけた副題)

これは、私がカテゴリー『宗教の窓』の  [S32] 死と復活・・その七(西田哲学)、
を書いたときに、それとセットで、副題に示したように、 西田哲学における絶対無の意義、という記事を書いておかないと片手落ちだと思っておりました。

[注] [S32] 死と復活・・その七(西田哲学)
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_0f74.html
                これと、本稿はセットでお読み下さい。

しかし、そのときはそれはしませんでした。
そのわけは、一つは直ちにそれを書くのが容易ではないこと、
もう一つは、カテゴリー『宗教の窓』で想定した水準をはるかに超える問題であり、
もっと後になって格闘すべき問題だと思ったこと、によります。

ところが、このほど、テルゼさんがこのブログに来られた偶然と、さらにもう一つの偶然が重なり、「和真(かずま)さん」のブログに載せられたばかりの、ある記事に出会いました。

それは、この問題を正面から取り上げ、
さらに私の視野に全く入っていないすばらしい内容にまで及んでおりました。
感動した私は、自分の参学のためにお願いして、こちらに複写して使わせていただく了解を得ました。
私がどんなにがんばっても、ここまでは書けません。

流れからすると、もう少し先になってからの方が適切な位置になる気がしているのですが、たまたまここで出会ったというのも、何かの縁かと思いますので、
[M10] 慈眼視衆生、の展開問題という意味からも、直ちにこの位置に掲載させていただこうと思います。

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引用掲載

『絶対者は自己を無化する』 by 『和真(かずま)さん』

直接の所在(下のいずれでも、同内容のものが見られます。)

       [注] 「ヤフー掲示板のトピ」の意味・・・この本文末尾に詳しい注があります。

  ヤフー掲示板の「和真(かずま)さん」のトピ中の記事
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019920&tid=a1xka12z7pa1ya4rfia4e0&sid=552019920&mid=535

     「和真(かずま)さん」のブログ内の記事
http://blog.livedoor.jp/kazusa69/archives/51608945.html

  (以下が、その内容の転載コピーです)

あるトビで“滝沢克巳”が話題になっていたようだ。
キリスト教に関して余り興味はないのだが、私の敬愛する竹村牧男先生の著書に
ときどき顔をのぞかせるので、それなりに浅い学習はさせていただいてはいる。
その滝沢克巳というキリスト教の神学者によれば、聖書は何を語っているのかと
いうと、それは、「神我と共にいます(インマヌエル)」ということらしい。
そしてそれは、自己というものは決して自己だけはなく、自分と共にいて下さる
神の中にあって、はじめて自分であると言う。

私はクリスチャンではないが、法華経に親しみ、観音信心をしている私にとって
この感覚はよく分かる。神という名称が観音という名称に入れ替わっただけだ。
西田幾多郎は、「自己は自己を超えたものにおいて自己を持つ」と盛んに言って
いたというが、これは唯識でいえば、自我に執着する末那識が平等性智に転換
した世界だろう。我執を超えて、世界が自己となった境地である。
そしてそれを、別の言い方をすれば、
「絶対者と共にある自己、絶対者の中にあっての自己」
ということであり、私にとってこの場合の絶対者は観世音菩薩という名称になる。

しかし、ここで注意したいのは、「絶対者は自己否定して、自己を無化する」と
いうことであり、無我の当体だからこそ絶対者だということである。
観世音菩薩は自己を無化して、あらゆる姿に変化するが、自己に実体がないから
こそあらゆるものに、自由自在に変化できるのである。
絶対者が自己を無化しなければ、あらゆる人々と共にいることだ(が?)できないだろう。

その当たりを西田幾多郎は、「自ら自らを否定する、無化する。自分で自分を無と
して人々を成立せしめる。それが本当の絶対者だ。そこに絶対者の愛があるのだ」
と言っていたそうだが、まるでそれは、観音経を語っているように私には思える。

絶対者自身が自己自身を無化することによってこそ、個々の人が自由な主体として
成立し得る。
そうでなければ人間は神の奴隷になってしまう。
絶対者は絶対者自身を否定することにおいて、個々の人を成り立たせていて、その
力の中にあってこそ、一人一人が自由な主体となって他者にはたらきかけていく。

滝沢克巳は、自己と神は分けられない(不可分)、しかし自己と神は同じではない
(不可同)。さらに、すべては神の側からである(不可逆)と、「不可分・不可同・
不可逆」と言ったそうだが、その一連の事的システムは、神が自己否定し自己を無
にしてこそ成り立つのだろう。

不可逆とは、神の命令が下るのではない。
自己否定した神が我々と共にあるのである。
絶対者に姿形(実体)はない。だからこそ絶対者なのだろう。
我々個人も自己を無化したときに絶対者と共にあり、
そこにこそ自由な主体の自己が成り立つという。

その名を呼べ。力の限りその名を呼んで、自己を無化せよ。
そうすれば、自己を無化した絶対者の慈悲に包まれるはずだ。
すべてのものが、メッセージとなるはずだ。
そのメッセージを「不可逆」という。

 南無観世音菩薩。
                   
---------------------------------------------------------------

なお、補充的な意味で、私(西方)がテルゼさんのヤフーのトピ上で書いたことも引用しておきます。
これは、西田先生の引用をして下さったテルゼさんの文章の一部に私が反応したものです。
重要な関連事項が含まれているので、それも書いておきたいという意味です。
---------------------------------------------------------------

(テルゼさんの文)

・・・・・・・・

西田は、この逆対応に親鸞の

「自らの計らいを捨てて弥陀の誓願の不思議を旨として信じる」

を用いて論じているようですね。

「南無阿弥陀仏」と名号に触れ
「絶対者と人間とのどこまでの逆対応的関係は、
  ただ名号的表現によるほかない」

・・・・・・・・・

   [注]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552019920&tid=a5aa5bfbda165a4ka4da4a4a4f8la4j9ga4a4a4dea47a4ga4a6&sid=552019920&mid=40389

(西方法界の文)
・・・・・・・・・

ここ、今たいへん関心があります。

今回の、和真さんの書かれたもの、絶対者は自己を無化する、の最後にも、
和真さんは、観世音菩薩の名号を呼ばれています。

ここに、たいへん感動しました。
で、ここが宗教の神髄=西田哲学の神髄じゃないんですか。
ここに極まって行くんじゃないんですか。

それをしないで、一体どこでこの自己を空じるというのでしょうか。

私も、涙を流しながら、ただ観世音菩薩の名号を呼びたいです。
そうするしかないです。

  南無観世音菩薩
・・・・・・・・・

 [注]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019920&tid=a5aa5bfbda165a4ka4da4a4a4f8la4j9ga4a4a4dea47a4ga4a6&sid=552019920&mid=40402


なお、

 「
名号を呼ぶということが多少わかるに至るまで・・・西方法界の場合

という記載が、
下記投稿欄の [MC22-1-2-N] のなかにあるリンクから表示できます。


[注] 『ヤフー掲示板のトピ』というのは、正確に言うと、

ヤフーのサイト(http://www.yahoo.co.jp/)に行き、
下記の順番にカテゴリーをたどり、最後の「東洋哲学」に至ります。

    トップ > 掲示板 > 芸術と人文 > 哲学、思想 >  東洋哲学

そこにある多数のトピックを、「トピ」と呼んでおり、
「和真さん」のトピは、そのうちの「『法華経』を読む」です。


但し、トピは、生まれ、続き、消滅するので、いつまでも同じものがあるとは限りません。

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                                    投稿されたコメント
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[MC22-1-1] 投稿: urdas | 2009年5月27日 (水)

西方法界さんとちがって、ぼくは頭のわるい人間なので、わからないところが多々あります、
ですので質問させてください。

>今回の、和真さんの書かれたもの、絶対者は自己を無化する、の最後にも、
>和真さんは、観世音菩薩の名号を呼ばれています。

>ここに、たいへん感動しました。
>で、ここが宗教の神髄=西田哲学の神髄じゃないんですか。
>ここに極まって行くんじゃないんですか。

>それをしないで、一体どこでこの自己を空じるというのでしょうか。

>私も、涙を流しながら、ただ観世音菩薩の名号を呼びたいです。
>そうするしかないです。

>南無観世音菩薩

ないしは

>「絶対者と人間とのどこまでの逆対応的関係は、ただ名号的表現によるほかない」

ようは自己を無化する乃至は自己を空じる、それは一体どのような生活を持つのかということです。
「ただ観世音菩薩の名号を呼びたいです、そうするしかないです」といわれてますが、
あるいは「絶対者と人間とのどこまでの逆対応的関係は、ただ名号的表現によるほかない」とありますが、
それだとぼくたちにできることはないということで、ぼくたちの肉体行為とは没交渉ということなのでしょうか。
もちろんそうではないでしょう? 

ぼくたちの肉体行為で現わしてゆくもの、表現してゆくものでなければ、
それは頭で概念的に仏の境涯を構築して、その肉体は凡夫の境涯のままで居ることになると思います。
つまり概念的理解で納得しまって、もはや修行はないということです。
それでは自分の妄想に酔っているだけになります。もちろんそういうことではないでしょう? 

それで自己を空じている、その際の肉体行為とはいかなるものか、ぼくは西方法界さんに示してほしいと思うのです。
ぼくたちは自分の意志で生きているように考えていますが、
呼吸や内臓機能にしても自分の意志ならぬ意志ではたらいていますし、
また衣食住にしてもそれらは自分で作ったものではなく他人の作ったものを使用しているわけですし、
そうなると自己は他者に生かされているものといえましょう。

それでその衣食住なくしてぼくたちは生きられないということは、ぼくたちは物により生かされているといえましょう。そこで自己は社会・他者・物により生かされているものといえると思うのです。

そこで自己を空じるとはいえ、ぼくたちには肉体がある。
よって現実において自己は社会・他者・物のおかげで生きているものであって、
社会・他者・物に対して一瞬たりとも無関係ではいられないわけです。

そこで自己を空じるというならば、為しうるのは名号を呼ぶだけではなく、
それはかならず社会・他者・物のそれぞれに対して具体的行為としてあらわれるものと思うのです。
つまりはかならず生活として把握されてくるものだと思うのです。

生活として表出しないものならば、生活として行じえないものならば、それはたんなる抽象理論にすぎず、
このことに関しては道元などは弁道話の十六番目の質疑応答で引用している丙丁童子来求火の公案などは
そのことを指摘しているわけですが、
それはそれで、強烈に頭のよい道元のみならずとも、
ぼくのような頭の鈍い、抽象度の低い田舎者には到底納得がいかんのですね。
だからこそ是非、示してもらえませんか。
われながらとても単純な質問だと思います。
哲学用語・宗教用語などは一切使わなくても示せるものですから。

[MC22-1-1-N] 西方法界 | 2009年5月27日 (水)

そうですね。こんなの、ちょっと異常ですからね。

私も、半年前かな、一年前かな、・・・
それ以上前ということは、ありえないですが、そのくらい最近、すなわち、還暦直後くらいのところで、あるいは、本当にこの二、三日くらいのところで、こんなことになったのかもしれません。
自分でも、なんともわかりませんが、すれすれのところで今回のようなことを思うようになったのではないかと思います。

ですから、逆にそのちょっと前までであれば、私自身もウルダスさんと同じような疑問をもったのだと思われます。

また、ウルダスさんの疑問は、ウルダスさんの求道のなかで極限まで突き詰められたものであり、
そして、ご自身の実存をかけて問いかけられているものだということは、私にはよくわかりますので、
私も、今すぐ思いつくことだけを、チョコチョコット書くのではなく、可能な限りを尽くしたいと思います。

ただ、私も、この問題が多少わかるような気がする(わかる・わからないじゃないんだけれど、言葉がみつからない)程度です(決定などというところまでいかない)し、自分でも予期せずして、事態が急展開し(こんな質問がくるとは思っていなかった)、
どうしたらいいか、とまどっていますので、しばらく時間を下さい。
どんなことを、どういう形式で、どういう順序で話せるのか、話したらいいのか、きっと、膨大な事柄が関係しているんだと思いますが、考えてみたいと思います。


[MC22-1-2-N]
西方法界 | 2009年5月30日 (土)

名号を呼ぶということが多少わかるに至るまで・・・西方法界の場合
     
以下のリンクより
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-8721.html

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[MC22-2-1] 
投稿: 無着 | 2009年5月28日 (木)

息抜きに私の創作話を一席。

鰯は海に住む、海水の中に住みエラで呼吸している。行っていない知らない場所は多くあり、海は広大だが限界があることぐらい理解できる。ある日、亀が鰯に他界のことを話した。

亀は言う、「他界は空中というものであり、エラは使わないし海水を吸わない、空中の上には光の玉が輝き、時々塩を含まない海水の綿が上から降ってきたりする、実際は海水には塩というものが含まれているが、塩のない海水を真水と呼ぶのだ、空中にも限界はあるが君の住む海よりも遙かに広大で、空中の更に上には宇宙というものが広がり、これこそ無限である、分かるかな?」と。

鰯は「エラが無くてどうして息が出来るのだ、息とは海水を吸うことだ、塩って何だ、海水は海水でありそれだけだ、それ以外の海水など存在しない」と答える。

亀は「空中では水は空気と水の層に分かれていて水は下に溜まっているだけで、空中で生活しエラは退化して扁桃腺という痕跡になってしましまい、もう使わない。気づいていないだろうが君の呼吸する海水には実際には塩というものが混入しているし、君は実際には海水を摂取して生きているのではなく、空中にある酸素を呼吸しているのだ、そして酸素は実は空中のものなのだ。空中にはもっと多量の酸素があり、エラは役に立たず捨てる必要がある、そして君が別の用途に使っている浮き袋を発達させて、それを肺として使うと空中から直接酸素が吸える、どうかな?」と。

鰯は「馬鹿な話をするなよ、海水が無ければ生きられないし、浮き袋はそんなものではない」と言う。

亀は「空中の世界では、海水は体内に赤い血液として内包するから大丈夫だ、海水の中で生きるのではなく、海水は小さな世界のものであり、空中で生きるようになれば、体内に入れればそれでよいのだ」と。

鰯は「そんな馬鹿話聞けるか!俺はエラを駆使して考え抜き、カジキマグロのようになって大海の全領域を泳ぎこの海の謎を解き明かしてみせる、エラの論理でだ、いったい肺だとか酸素だとか、実際に存在もしない器官や素材を持ち出すのは気が狂っている、証拠を見せろ、俺たち魚族はみんなこうして共存し合ってこの世界の悲しみや苦を分かち合おうとしているのに、不敬千万な夢を説くな、惑わす亡者は立ち去れ、お前にはみんなで分かち合う大悲がない」と。

亀は「証拠?それは俺自身であり、俺は正直に説明しているだけだ、君には分からんだろうが最近俺は思う、空中の上には宇宙が広がっているが、実際に宇宙には太陽が輝き、海も空中もその太陽が無ければ存在できないと気づいた。ということは俺は次には肺や酸素も必要なく、新たな器官によって太陽の光を吸収して無限の宇宙に生きることができると感じ始めている、実際に実はありとあらゆるものは宇宙と太陽が根源だから、そして本当の大悲とは、効率の悪いエラを使い重たい海水を吸って生きる仲間達のことを思い、何とか救いたいと願うことであり、悲しみを共存するのは敗退者の妥協である」と。

海、空中、宇宙、塩、酸素を別の言葉に置き換えれば修行への逸話が出来上がるが、実際に宗教を理解することが難しいのは、宗教とは「存在の仕方」、「存在のレベルの違い」を伝えたいのだが、海という環境ととエラの機能にとらわれすぎているのである、だから実際に釈迦は「それらを滅せよと言っているのではなく、それらから離れよ、そして新たな理解の器官を発達させよと阿含経で伝えている、よく読解せよ」。

機会が満ちれば、次には無我の真意と修行のコツを教えよう。


[MC22-2-1-N] 西方法界 | 2009年5月28日 (木)

  長文をお寄せいただき、ありがとうございます。
 ただ、内容的にいって、私は反応しようがありませんので、
 こういうことで、御容赦を戴きたいと思います。


[MC22-2-2] 投稿: 無着 | 2009年5月28日 (木)

いや雰囲気で書いたものであり、
西方殿や誰かに向けて書いたものではないので気にされずに。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

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