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[M20] 俗諦的表現の段階性(即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理の終焉)

私の定義する真諦・俗諦の意味においてですが、俗諦的認識・表現には、複雑な段階性と構造があることを既に述べました
([M19] 真諦・俗諦の定義、および、その中の投稿コメント[MC19-1-5-N])。

その一例として、即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理を取り上げてみます。
即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理は、宗教の道筋を進む上で、ある段階まではたいへん有用性のある俗諦(的表現)であると考えられます。
しかし、一定の段階にまで歩を進めた場合には、かえって即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理に囚われていることが、その先の段階に進むための妨げ・足枷になってくるという問題があるかと思います。私は、たいへん長期間に渡って、ここに引っかかっていました。

これが、俗諦的認識・表現の段階性の問題です。
俗諦の意味を私のように捉えた場合、俗諦的表現の段階性はパラダイム自体が複数の段階構造になっていることと言語的認識・表現の限界性(真理そのものは、言語的認識を超えている)の二つの要因に由来していると理解することが出来ます。

即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理は、事物に自性(実体)があると見る無明底(分別知底)の認識を破壊し、我々を仏教的(宗教的)世界観へと導きます。私も『宗教の窓』カテゴリーで即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理を取り上げました。

ところが、即非の論理でいえば、『Aは、非Aであるが故にAである』というように、「個であるAをまずたてておく」という構造をとっているため、それ自体が『個の解体』の論理でありながら、「個の残像」したがって「個としての自己の残像」ともいうべきものが残ってしまいます。
『個の解体』は瞬時に達成されるものではなく、長い時間をかけて進むプロセスになりますが、ある一定のところより先に進む位置に至ったところでは、この「個の残像」が宗教的進行を妨害します。
すなわち、私で言えば『窓の外は空』というカテゴリー名が象徴するように、「自分の外に世界(宇宙)を見る」という暗黙の認識の前提に繋がれたままになります。ここは、一種の牢獄です。

ずっと囚われていた牢獄だったということがわかるのは、『窓は空、空は窓』すなわち『自分と世界は一つであり、同じ大きさである』という端的な・直裁的な認識が直下に成立する(パラダイムシフト)に至った時点になります。
逆に言えば、即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理を通して(媒介として)認識するということが、『窓は空、空は窓』すなわち『自分と世界は一つであり、同じ大きさである』というパラダイムシフトへの足枷になっていたということができます。

このように、俗諦的表現の段階性というものがあり、一定の段階(パラダイム)での俗諦的認識・表現の真理性に囚われてしまうと、それがより高いパラダイムへ進むための足枷になるということを、十分に認識し、注意しながら進むということが重要かと思われます(自戒)。
そして、究極的にどんな高いパラダイムであれ、それが俗諦的=言語的に認識・表現されたものである限り、最終的にはこの問題がつきまとっていることを心すべきだと思います。

なお、西田先生が「場所の論理」「逆対応・逆限定の論理」へと移行されたのは、このあたりの経緯が絡んでいると推測されます。
但し、即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理は、言語的分別知的認識の世界では、さまざまな次元の問題に利用できるので、『自分と世界は一つであり、同じ大きさである』というパラダイムが成立したとしても、直ちにその使用が全面的に停止されるのではなく、なお有用な場面もあると考えられます。

[注] 俗諦的認識・表現の段階性ということが、なぜ必要なのかを
    仏の立場の方からみれば、
    法華経譬喩品の三車火宅の喩、あるいは 信解品の長者窮子の喩などに
    現れているように、「方便」ということになる。
    最初から、「自分はない(自分=宇宙)」といっても、我々はとてもついていけない。
        そこで、自分と宇宙とは即非(絶対矛盾的自己同一)である、というところに
    まず導くというわけである。

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ところで、ここで『窓の外は空』カテゴリーの『理事無礙法界・事事無礙法界』の参究([K14]理事無礙法界・事事無礙法界の参究)を一歩進めておきたいと思います。

現時点に於いては、理事無礙法界はこのように理解いたします。
『理』とは「俗諦的(=言語的)認識理解」であり、『事』とは「真諦」を意味すると捉えます。
洞山の五位の第四位・兼中至でいう『明暗双双底』の「明」は「俗諦」であり、「暗」は「真諦」と捉えます(『窓の外は空』カテゴリーの[K7]洞山の五位・不完全現代語訳)。
すなわち、理事無礙法界とは、まだ『理』、すなわち「俗諦的(=言語的)認識理解」を媒介に『事』と向き合っている世界であり、しかし、その「俗諦的(=言語的)認識理解」は『事』と「無礙」であるほどに極められている段階であるということになります。

  [注] 正偏(平等と差別)でみるのではなく、真諦・俗諦でみるということ
      これは、話が微妙でむずかしいですね。
            理(俗諦)で見ているということは、正偏でみる見方があるということのように
       思えますが、
            俗諦として、正偏を立ててみる見方は、理法界における理で終了します。
      理事無礙法界は、第一義諦の世界なので、既に理の中から、正偏の問題は
      消えており、存在しません。

      他方、事(真諦)に至るということは、一切の理(俗諦)が消えてなくなること
      を意味します。
       ここでは、「~から見る」ということ、すなわち、見るものと見られるものが
     
分離する認識が完全に消滅します。
      それでいながら、見るものが見られるものであり、明確な自覚がある世界が
      そこにはある、と聞いております。

キリスト教的で、かつ、バーナディッド・ローバーツさん的ですが、バーナディッド・ローバーツさん([M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体、その中の[MC13-2-N2]の投稿参照)によると、カトリック的瞑想(観想)の世界では、従来「神と自己との合一」といわれている、瞑想(観想)の最終段階があるそうですが、これが理事無礙法界に相当するように思われます。
なぜなら、キリスト教的な意味での、「俗諦的(=言語的)認識理解」がまだ媒介的に存在するからです。

これに対して、事事無礙法界は、「俗諦的(=言語的)認識理解」を媒介とせず、直接的に真諦そのものになりきっている世界であると思われます。

キリスト教的にいうと、旧約聖書にある「神と顔と顔を合わせる」というような表現の箇所が事事無礙法界にあたるのではないかと思われ、また上記バーナディッド・ローバーツさんが「神と自己との合一」からさらに進んで、「自己喪失の世界(神も自己も消滅する)」として描かれたものがそれにあたるのではないかと考えられます。
かつて、エックハルトも、この事事無礙法界まで到達したのであり、ローマ法王庁の「理事無礙法界」的立場から見て、その「事事無礙法界」的立場が異端と見られたというのが真相ではなかったのでしょうか(現在では、異端性は取り消されているようです)。

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