« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

[M23] 中観・唯識・言葉・ロゴスの位置づけ

予定外で、[M22] が間に入ってしまいましたが、現在の流れは [M21] を受けて先に展開する方向であり、
体系的な意味で [M22] の問題に至るのは、もう少し先になります。

但し、本稿は[M21] を受けて進みますが、単なる整理を致します。理論的な整理です。
極めて大きなところでの、仏教・キリスト教を通した理論的な整理と位置づけをして、
頭の中を整理すると同時にまだ未解決の問題を明確にしておこうと思います。

まず、仏教内部での位置づけですが、これは私自身の内部での問題提起・問題意識として、
カテゴリー『窓の外は空』の [K18] 西方法界、長年の誤謬に愕然とする、

[注] 上記 [K18] へのリンク
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_769d.html

の本文下の投稿 [KC18-1-4-N] に書いておきましたように、
大乗仏教は、釈尊直説といえる仏教なのか、という問題があります。

これは、カテゴリー「宗教の窓」に多く登場する「求道者さん(彼は、その後もたびたび名前を変えて、このブログに登場する)」にその多くを導かれながら、
阿含経典、およびダライラマの著作を読む中から現れた問題です(日本の大乗仏教内にいると、現れてこない問題)。
すなわち、阿含経典の釈尊の説法と大乗仏教とは、見た目では、そう容易には繋がりません。
逆に言えば、ここを繋げる作業は仏教の核心の理解に関係してこざるをえなくなります。

ダライラマの本を読むと、チベット仏教ではここがたいへんしっかりなされており、
そして、先の[K18]にも書いておいたように、それをしないで大乗仏教徒だといっても、意味がないではないかというダライラマの指摘は、その通りと受け取ることが出来ます。

ところが、どうも日本ではそこを明確にする作業がどこにもないようですから(?)、ちょっと、ダライラマの本を読んでチベット仏教の結論を拝借し、自分で納得できる程度に整理しておくという作業を致しました。

その結果、仏教では、中観派の理論を一番中心軸にすえ、唯識派は補充的に位置づけて使うという結論になりました。
これも「求道者さん」から指摘を受け、現時点にいたり、私・西方も自らなるほどと確認致しました。
ことに、一番根本にある真諦・俗諦という構造的把握は、中観派によらねばなりません。
他方、唯識は極めて精緻な観察に基づいた体系であり、これまた捨てがたいところであって、このような結論になった、ということを確認しておきます。

私としては、ここまでは、それなりに確認ができればそれで問題はないという認識です。

    ------------------------------------------------------------
   
問題は、この先です。これは、[M21] の私の論稿がほぼ正しいということになった場合での問題です。
そうでなければ、前提が崩れます。

[M21] とその前の二つの稿では、真諦・俗諦を問題にし、
その場合の俗諦の定義を、とりあえず、言語的認識・表現を通した世界の問題としました。
これは、新約聖書・ヨハネ福音書第一章冒頭が、普通「言葉」という訳出をされることともあわせて、
とりあえず、そうしたわけですが、これに関しては、ロゴスという訳も考えられ、他方、仏教では「唯識」すなわち「識」で捉えるという立場があるわけです。

[注] 先の求道者さんは、カテゴリー『宗教の窓』の、
[S12]初めに言があった(世界は、どのような構造に創られたのか)、
の中の投稿文[SC12-2-1]で、 この点に触れています。

[S12]へのリンク

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_cdd3.html

そこで、統一的に、より精緻化していく場合には、どうしたらいいのか、否、そうしない場合でも、混乱しないように、一定の整理ができるように理解し、体系づけておくということが、必要になると思われます。

但し、話は極めて複雑かつ微妙なものがあると思われます。

「唯識」の「識」というと、『人間的認識と意思』という感じでしょうか。
この場合には、非言語的な認識を含むことになり、さらに、認識だけでなく、意思も含むことになります。

それなら、ロゴスはどうなのか、あるいは、「言葉」と訳す理解の場合はどうなのか、というようなことが絡んでくるでしょう。

一応、こういっためんどうな問題があることをここで確認しておきます。

なお、これらにつき、現在私には特定の見方・見解は全く成立していません。

    ---------------------------------------------------

後日仮見解

本稿記載後しばらくたってから成立した見方を以下に、「後日仮見解」として記載しておきます。

(極めて、難解で歯切れが悪いのは、まだよくわかっていないからかもしれませんが、当面はこのように捉えた上で進むことにします)

 ----------------------------------------------------

まずは、新約聖書ヨハネ福音書第1章冒頭の訳として、「言葉」が適当なのか、「ロゴス」が適当なのかという問題があります。
また、いずれにしても、それは、同時平行的に仏教で言う「唯識」の「識」とどういう概念的広狭の関係になるのかが、問題になります。
もとより、この議論は、やや細かい厳密な議論です。

重要な点は、すなわち、俗諦的世界の出発点は、「言語的認識・表現」あるいは「人間的認識(ロゴス)・表現」と端的に捉えて、俗諦的世界の生成の根源である真諦(神)と区別しながら、明確にその二つを区別して把握することにあります。
但し、話がたいへん難しく、入り組んでいるので、とりあえず、俗諦的世界の出発点は、「言語的認識・表現」のほうだと決め込んで、重要な議論をしてしまい、その後になって、さて、その出発点はやはり「言語的認識・表現」のほうでいいのか、あるいは「人間的認識・意思(ロゴス)と表現」の方が正確なのか、を論じるという流れできている訳です。

[注]
私は、このような流れでの扱い方はたいへん適当であったと考えています。
こうしないと、問題がさらに複雑になり、手に負えなくなり、この問題を扱うのに不可欠の重要な手順とまでに感じます。
そして、理由はどうあれ、新約聖書ヨハネ福音書第1章冒頭の訳として、歴史的に、初めは「ロゴス」とされ、後に「言葉」と訳されるに至った理由の少なくとも一つに、不可欠の重要な手順を必要とするのと同一の理由が含まれていたのではないかと想像します。

この問題は、仏教の方から論じると、それなりの答えが出てくるように思います。
(但し、無着さんの投稿 [MC23-1-1]によれば、それはキリスト教独自の資料でも同一結論になる可能性を大いに秘めていることがわかります。・・・西方としては、未確認)
キリスト教では、神が登場し、話が神秘的要素を帯びざるを得ませんが、仏教では、阿含経典でいう「想受滅処」において真諦に到達するということ、それは人間が至ることは明らかなので、
その意味から言えば「人間的認識(ロゴス)」で、真諦まで到達できるということになります。

すなわち、釈尊によって指摘された五蘊(色受想行識)を空じた段階(五蘊皆空)が、「想受滅処」であり、ここがあらゆる意味での俗諦的残滓を空じきったところ、すなわち真諦であって、ここが真諦に到達した位置であることがわかります。ここからすれば、真諦に到達するには、単なる言語的認識を超越するだけでは不十分で、併せてたくさんのもの(五蘊=色受想行識)が超越されなければならないことがわかります。
しかも、真諦に至る最終段階の様相も、バーナディッド・ロバーツさんの記述を見る限り、複数の細かく微妙な段階があって、最後の最後まで順次段階的に至ることが了解されます。

[注] 私は、バーナディッド・ロバーツさんは、この真諦に至る光景とその微妙な消息を
現代用語と現代文化を背景とする表現で、描いてくれた、という認識をした上で、そのことを評価をしたいと考えます。

ところが、このように考えてしまうと、真理の劣化・真理からの乖離をもたらすことがない「人間的認識・意思(ロゴス)」があることになるから、劣化・乖離のメルクマールとなるものとして、「人間的認識・意思(ロゴス)」の方を選ぶのは問題だということになります。

しかし、実は「想受滅処」では主客も空じられていて、認識するもの(主観)と認識されるもの(客観・対象)の区別がない。すなわち、認識と存在が分離せず、
したがって、認識も存在もない、
それでいて、はっきりと自覚されているとい状態のようです。

すなわち、真諦そのものの立場では、「人間的認識・意思(ロゴス)」というようなものは、存在しないのである。
せいぜい、あえて「人間的認識・意思(ロゴス)」がある、というのであれば、それは、俗諦的にそういっていることを明確に自覚しておく必要があります。

この問題は、仏教における唯識の「識」についてもいえることで、
唯識(「ただ、識のみがある」)といえるのは、俗諦的世界の出発点においてである。
その先、すなわち、俗諦が仮設される始源となった真諦にあっては、「識」すら、空じられています。
これは、前稿でも述べたように、仏教でも、中観派を理論的な根幹に置き、
そこに唯識を位置づけておくということの根拠です。

このように見てみると、とても当初設定した形での問題解決など、
できるにはほど遠いほどの問題の複雑さです。
したがって、このような複雑な問題であると言うことを、そのままに把握しておく以外に、
方途はないものと思われます。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

===============================================================
                                    投稿されたコメント
===============================================================

[MC23-1-1] 投稿: 無着 | 2009年5月31日 (日)

しかし西方殿は何という真摯で謙虚で誠実な性格の方なのかと感動してしまう。
立ち去ろうと思っても引き戻されてしまう。しかも頭脳は私の百倍は明晰でる。

私自身はむしろ直感の方が発達しているようで、元来の性格は飽きっぽい。
五黄の寅年、蠍座で虚空像菩薩という占星術はまことに的確であると思う、
個性はだけは仕方がない、運命ではないが宿命であると感じる。

ところでLOGOSの解は正確には元来、論理、理知、理性、つまり仏教で言う理法であったことに間違いはない、
私も世界を遊行していた何十年も前にそれは確かめたが、
LOGICはLOGOSの語源であることからしても言葉というより理法、
つまり、「論理と法則」「神の摂理」と理解する方が妥当でしょう。
実際に「神、GOD」という言葉は、当時のギリシャやローマの世界観が「神々」の世界観であったために、
「神」と訳してしまったが、
実際にはYHVH、エホバであり、
これは神の出現に至る四つの階層を意味していたのであり、
聖なる四文字としてその発音は口伝でのみ最高僧にだけ伝えられたのであり、
エホバなんて発音するのはまったくの造語も甚だしい。

さて所謂原初のキリスト教の集大成が行われた紀元四世紀に、
つまり現在のカトリックが教会としての権威に執着し始めた頃に、
LOGOSを「言葉」との解釈を第一義に置いたが、

その理由は、御存知の通りイエスが当時のユダヤ教の退廃を批判し、
つまりパリサイ派やサドカイ派は「真理の霊」である個人の持つ「神の本質」、
仏教的に言うと「仏智、真如など」であるが、
これは旧約聖書では「神は人を神に似せて創造した」とあるのと同義であることが分かるが。
これは「神の本質そのものが人の中に顕現している」という意味に他ならないが、
殆どの人々がそれを擬人的に解釈し、
逆にとらえて「神とは人形をした巨大で万能万智の存在だと」誤解した状態が長年続いてきた。

そして重要なのは、「理法」ではなく故意に「言葉」と訳した理由は、神の言葉を祈ることが重要だと信じさせるようにしたからである、そしてその更なる目的は「教会が神の言葉の仲介者である」と権威付けするのが目的であった。イエスは「神を汝の外に拝むな、汝の内にある至聖所に引き下がり、そこで祈りなさい」と言った、つまり教会の必要性を否定したのである。だから釈迦が本来説くことと同じであり、この仏智、真理の霊を実現することが悟りであり、それは人が本質的に持っているものだから、それを見出せばそれが悟りであり、「天の国に生まれる」という本来の意味である。

しからば「識」とは何ぞや?
実は識も色もかなり複雑であるが、
その理由は人間の認識力のレベルに差異があり、
そのレベルの差によって見え方、捉え方が異なるために一語で言い表せないからである。

仏教には九識があるが、
原始キリスト教では四識に分けていて、これがYHVHであるが
実際には「神の意識+9」で十識にも分けていて同じ場合もある。
つまり分け方は教え方に依存していて、
その意味を知るまでは「違っている」と言わない方がよいのである。

仏教でも様々な派が存在するが、
それぞれの教え方はそれぞれの意識レベルの人には有用である、
低位の人には倫理的、道徳的に説く方が理解されやすい、それも方便である、
教えはあらゆる人を包み込む必要があるからであり、徐々に上昇するための方便である。

しかし高位のレベルから見れば常に多少の修正点が存在する。
仏教で最も高度な説き方は「空と縁起」であり、
ややこしいのはそこでは俗世、現象界も肯定する点であり、
最後にすべての現象界は一切が神の現れであり、
それなりの存在意義があってこそ存在するのだと説明しているのと同じである。

空性の論理は、各レベル毎により低い認識状態を否定、昇華して進み、
最後に空性という認識自体も空じることにあるから解脱なのである。
だから説くレベル毎にそれなりに正しいのである。

そして縁起と無我と無常は、実は同じことを観点を変えて三つに分けて説明するだけである。
つまりすべての現象、事象は縁起するものであるから、
それと相互依存関係を持つ我も実体としては存在しない、
またこの世界の現象も縁起するものであるから実体としては存在しない、ということである。

ただし重要なのは「相互依存関係を持たない我」があればそれが真如であり、
「神と一体である本質」である、とうい点であり、
ダライラマは知恵者であるから、「仏教は無我を説く」と言っておきながら、
一方で「心の連続体」というものがある、とはぐらかす。
ここで仏教の「無我」を否定すれば、仏教界からの反発が混乱を招くからであろう、それでよいと思う。
一般人には「無我」と理解されている方がこの世に利することが多いからである。
世俗が常に真理を受け入れ、説ける状態とは限らないからであり、
反発を受ければ耳を貸さなくなり、すべての努力は水泡に帰す。
釈迦の「一切」の記述目的もそのようである。

つまり識の本質とは「心の連続体」であり、
これが修行の初めから完成に至るまで我々を導く灯火であり主体なるものであるが、
これが他との相互依存関係によって成立している限りにおいて「無我」であり、
すべての執着を脱しそれ自体となって輝く時に「真我」となる。

言語の意味を理解せずに我の有無を議論するのは無意味であるが、
真理は有無を越えた所にあり、
それが様々な経典による混乱を起こしている、

だから万巻の書を読むことは有意義ではあるが、
最初に達成者の原典、正しい認識を達成した者によって書かれた書を理解していなければ
自分自身や他者をも惑わすことになり、盲人が盲人の手を引くたとえとなる。

そしてもう一義は、所謂神の我がすべての事象を成立させているので、これを神の識と呼んでもよい、
なぜならその識、意志が理法を通して存在しなければあの世もこの世も存在しないからであり、
意志がなくて物事を存在化させるならば、それにはベクトルがなく、正しい方向もなく、散漫な世界である、
だからLOGOS、言葉、理法とは神が識を秩序を持って表現する手段である。
だからこの神の識によって世界も人間も創造されたと聖書は説く。

ちなみに神が創造した宇宙であるCOSMOSの語源は「秩序」であり、
その反対がCHAOSは「無秩序」を意味する、
あらゆる古い言語の正確な意味を知ることも謎解きには重要である。

[MC23-1-1-N]  西方法界 | 2009年6月 5日 (金)

  上記投稿に触れ、次稿 [M24] を書きましたので、それがこの投稿に対する
私の立場を現すものであり、コメントであることになります。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

| | コメント (0)

名号を呼ぶということが多少わかるに至るまで・・・西方法界の場合

[MC22-1-2-N] の内容として

(カテゴリー『窓は空、空は窓』 [M22] 絶対者は自己を無化する(著者・・和真[かずま]さん)、内の投稿)


捨て犬に出会って、私は何回も心の中で見て見ぬふりをして通り過ぎました。
私の家は、川の近くにありますので、5分も歩くと土手に出ます。
犬だけではありません。
猫も。にわとりなんか、捨てられるときもあります。
最近は、行政が追い出してしまったせいか、見かけませんが、
ごく最近まではホームレスのテントなどもありました。
ことごとく、何回も、数え切れないくらい、何回も、
私は心の中で見ぬふりをして、そういうところを通り過ぎました。

でも、心の中では、自分の心は痛むんですね。誰だって、そうですよね。
しかし、そんなの、すべて拾って救えないです。

でも、私の眼前に展開される景色のすべてが幸せにならないと、私の心も安んじません。
私が本当の安心に至るのは、私の眼前の世界から一切の不幸が消えなければなりません。

このことは、どうしても否定できないです。
ということは、自分というものは、・・・自分の大きさというのは、世界と同じだって見なければ説明できないです。

自分の眼前に展開する世界は、全部自分です。
私は、やっとのことで、そう気がつき、『窓は空、空は窓』のカテゴリーが成立しました。
自分は世界だ、世界は自分だ、って。

一応、これは『大智』の一種っていえるのかな。
このブログには、そんな理屈ばっかり書いてます。偉そうに。

  ----------------------------
 
  でも、そんな『大智』なんか、眼前に現れた捨て犬一匹で全部吹っ飛んじゃいます(だから、『大智』じゃないかもしれない)。
そこに残るのは、犬一匹どうもしてやれないみじめなこの自分です。
いや、そういうみじめな自分を見たくないから、そういう自分からも眼をそらせて見ないようにします。
そんな自分なんかみたくありません。
眼をそらせないと、自分はボロボロになってしまって、苦労に苦労して手に入れた『大智』もボロボロになってしまいます。
私は、眼をそらせて、必死で自分を防衛するのです。大智こそ、私の私たるアイデンティー、膨大な時間とエネルギーを投入して、やっと獲得した、大切な大切な・・・・。

----------------------------

 でも、カテゴリー『宗教の窓』の[S25]私は、世界を愛することができるか、に書いたようなことも、それなりに一生懸命追求していると、そのうちの、何回かは(=何匹かは)そうではなかったことがあります。何百回(何千回、いや何万回かな)に一回くらいかな。だから、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」にでてくる「カンダタ」みたいなものかな。

[注]  上記[S25]へのリンク
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_12d1.html

私の身の上を考えると、おそらくこれを読まれている方々より、はるかに犬なんか拾って飼ってやれるめぐまれた事情下にいたと思いますが、そうであってもせいぜいこの程度がやっとでした。

こういうときは、・・・・ 眼をそらせないでいられるときは、自分がボロボロになってしまって、・・・・でも、そのボロボロの状態になんとか耐えていられるのかな。

『それでも、まだ』たじろいで、迷いしりごむんです。
この犬一匹拾ったら、自分の今の生活、どうなるんだろうか、どうかわるんだろうか。
その他、膨大な飼えない理由が自分の中から飛び出して、張り裂けんばかりになります。

そして、ここで通り過ぎてしまったこともありました。

でも、このままだったら、この犬はどうなってしまうんだろうか。
そう思って、そのうちの何回かは、なんとかそこを『さらにもう一歩』踏みだして、飼ってやることができました。

---------------------------

捨て犬に限らず、いや、人間社会のなかで、日々身近でいろいろなことがあります。
近年・現在の不況の中で、見回せば、まわりじゅう、心の痛むことばかり。

何も出来ない無力な自分。ボロボロの自分。
すべて、ほとんどのことを、見て見ぬふりをして通り過ぎている自分。
でも、どうかしようと思っても、どこにもそんな力がない・・・絶望的な自分。
 
---------------------------

でも、そんな中でも、どんなささいなことでもいい、どんな小さいことでもいい。
なかなかできないけれども、たった一回でもいい。たくさんあるうちの一つでもいい。

何か、ひとつやろうじゃないか。
世の中全部など、とても引き受けられないけれど、
自分に縁のあった身の回りで、百回に一度だけでいいから、
千回に一度だけでいいから、
九十九回は眼をそらしてもいいから、
九百九十九回は眼をそらしてもいいから、
たった一回だけは、自分が引き受けようじゃないか。

自分が引き受けられそうなことがあったら、自分が引き受けようではないか。
他人(ひと)となんか、比べることはない。
自分として、そんなに無理をせずにできることでいい。
このままの、至らない自分のままで、できることでいい。
自分でできることしか、出来ないんだ。
でも、それでいい。
そんなに大きなことはできないけれども、
おおきなことはできないけれども
なんとか自分の手のとどきそうなことでいいから・・・・。
これだったら、なんとかできないことはないだろう・・・・。

それでも、まだしりごみする自分があるのです。
そんなことしたら、・・・・だぞ、・・・・・だぞ、って。

---------------------------

  そういうときに、ふと・・・・。
観音様・・・、観音様・・・、って。

ボロボロになったところで、自分の奥の方で、どこか遠くの方で、そう叫ぶような声がしたような気がして・・・・。


--------------------------

和真さんが、以下で山尾三省さんの本から、
引用されています
観世音菩薩の説明をちょっと使わせていただきます。

[注] 引用先
           ヤーフー掲示板・東洋哲学中の「禅」のトピ(トピック)


http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019920&tid=baaa5&sid=552019920&mid=241

 ……観世音菩薩……

 観世音菩薩 というのは
 世界を流れている 深い慈悲心のことであり
 わたくしの内にも流れている ひとつの
 深い慈悲心のことであるが
 いつの頃からか
 この世界には そのようなものは実在しないと
 私たちは考えるようになった

 それがなくては
 この世界も わたくしも 一刻も成り立ちやしないのに
 わたしたちは それを架空のものと
 考えるようになった しかしながら

 一人の人が ぼくに喜びを与えてくれるならば
 その人は 観世音菩薩なのであり
 一本の樹が ぼくに慰めをあたえてくれるならば
 一本の樹が まごうかたなく観世音菩薩なのである

 あなたが清らかな水を飲んで おいしいと思うならば
 その水が 観世音菩薩なのであり
 観世音菩薩の像に接して やすらかに気持ちになれば
 その像もまた むろん観世音菩薩である

 わたしが人を責めることをしないならば
 それが観世音菩薩であり
 あなたがわたしを許してくださるならば
 そこに聖観世音菩薩は 現前しておられる

 観世音菩薩というのは
 世界を流れている 深い慈悲心であり
 あなたの内にも 私の内にも流れている
 ひとつの 深い 慈悲心のことなのである

-------------------------------------------------------

で、『その先の一歩』をギリギリ踏み出せる・・・・。

-------------------------------------------------------

そのうち、気がつくと、すべては蜃気楼のごとくに消え去っていて、
いつもどおりの、平板な日常が流れている。
ただ、自分の足下には背負った事実が残っている。
でも、それが残っているのが、あれは必ずしも蜃気楼ではなかったことの証明である。

後になって、なぜか無性に涙が流れてとまらないときがある。

  

[MC22-1-2-N] へ戻る

(カテゴリー『窓は空、空は窓』 [M22] 絶対者は自己を無化する(著者・・和真[かずま]さん)、内の投稿)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-501e.html

    

    



       

| | コメント (0)

[M22] 絶対者は自己を無化する(著者・・和真[かずま]さん)

[副題] 西田哲学における絶対無の意義(西方がつけた副題)

これは、私がカテゴリー『宗教の窓』の  [S32] 死と復活・・その七(西田哲学)、
を書いたときに、それとセットで、副題に示したように、 西田哲学における絶対無の意義、という記事を書いておかないと片手落ちだと思っておりました。

[注] [S32] 死と復活・・その七(西田哲学)
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_0f74.html
                これと、本稿はセットでお読み下さい。

しかし、そのときはそれはしませんでした。
そのわけは、一つは直ちにそれを書くのが容易ではないこと、
もう一つは、カテゴリー『宗教の窓』で想定した水準をはるかに超える問題であり、
もっと後になって格闘すべき問題だと思ったこと、によります。

ところが、このほど、テルゼさんがこのブログに来られた偶然と、さらにもう一つの偶然が重なり、「和真(かずま)さん」のブログに載せられたばかりの、ある記事に出会いました。

それは、この問題を正面から取り上げ、
さらに私の視野に全く入っていないすばらしい内容にまで及んでおりました。
感動した私は、自分の参学のためにお願いして、こちらに複写して使わせていただく了解を得ました。
私がどんなにがんばっても、ここまでは書けません。

流れからすると、もう少し先になってからの方が適切な位置になる気がしているのですが、たまたまここで出会ったというのも、何かの縁かと思いますので、
[M10] 慈眼視衆生、の展開問題という意味からも、直ちにこの位置に掲載させていただこうと思います。

----------------------------------------------------------------
引用掲載

『絶対者は自己を無化する』 by 『和真(かずま)さん』

直接の所在(下のいずれでも、同内容のものが見られます。)

       [注] 「ヤフー掲示板のトピ」の意味・・・この本文末尾に詳しい注があります。

  ヤフー掲示板の「和真(かずま)さん」のトピ中の記事
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019920&tid=a1xka12z7pa1ya4rfia4e0&sid=552019920&mid=535

     「和真(かずま)さん」のブログ内の記事
http://blog.livedoor.jp/kazusa69/archives/51608945.html

  (以下が、その内容の転載コピーです)

あるトビで“滝沢克巳”が話題になっていたようだ。
キリスト教に関して余り興味はないのだが、私の敬愛する竹村牧男先生の著書に
ときどき顔をのぞかせるので、それなりに浅い学習はさせていただいてはいる。
その滝沢克巳というキリスト教の神学者によれば、聖書は何を語っているのかと
いうと、それは、「神我と共にいます(インマヌエル)」ということらしい。
そしてそれは、自己というものは決して自己だけはなく、自分と共にいて下さる
神の中にあって、はじめて自分であると言う。

私はクリスチャンではないが、法華経に親しみ、観音信心をしている私にとって
この感覚はよく分かる。神という名称が観音という名称に入れ替わっただけだ。
西田幾多郎は、「自己は自己を超えたものにおいて自己を持つ」と盛んに言って
いたというが、これは唯識でいえば、自我に執着する末那識が平等性智に転換
した世界だろう。我執を超えて、世界が自己となった境地である。
そしてそれを、別の言い方をすれば、
「絶対者と共にある自己、絶対者の中にあっての自己」
ということであり、私にとってこの場合の絶対者は観世音菩薩という名称になる。

しかし、ここで注意したいのは、「絶対者は自己否定して、自己を無化する」と
いうことであり、無我の当体だからこそ絶対者だということである。
観世音菩薩は自己を無化して、あらゆる姿に変化するが、自己に実体がないから
こそあらゆるものに、自由自在に変化できるのである。
絶対者が自己を無化しなければ、あらゆる人々と共にいることだ(が?)できないだろう。

その当たりを西田幾多郎は、「自ら自らを否定する、無化する。自分で自分を無と
して人々を成立せしめる。それが本当の絶対者だ。そこに絶対者の愛があるのだ」
と言っていたそうだが、まるでそれは、観音経を語っているように私には思える。

絶対者自身が自己自身を無化することによってこそ、個々の人が自由な主体として
成立し得る。
そうでなければ人間は神の奴隷になってしまう。
絶対者は絶対者自身を否定することにおいて、個々の人を成り立たせていて、その
力の中にあってこそ、一人一人が自由な主体となって他者にはたらきかけていく。

滝沢克巳は、自己と神は分けられない(不可分)、しかし自己と神は同じではない
(不可同)。さらに、すべては神の側からである(不可逆)と、「不可分・不可同・
不可逆」と言ったそうだが、その一連の事的システムは、神が自己否定し自己を無
にしてこそ成り立つのだろう。

不可逆とは、神の命令が下るのではない。
自己否定した神が我々と共にあるのである。
絶対者に姿形(実体)はない。だからこそ絶対者なのだろう。
我々個人も自己を無化したときに絶対者と共にあり、
そこにこそ自由な主体の自己が成り立つという。

その名を呼べ。力の限りその名を呼んで、自己を無化せよ。
そうすれば、自己を無化した絶対者の慈悲に包まれるはずだ。
すべてのものが、メッセージとなるはずだ。
そのメッセージを「不可逆」という。

 南無観世音菩薩。
                   
---------------------------------------------------------------

なお、補充的な意味で、私(西方)がテルゼさんのヤフーのトピ上で書いたことも引用しておきます。
これは、西田先生の引用をして下さったテルゼさんの文章の一部に私が反応したものです。
重要な関連事項が含まれているので、それも書いておきたいという意味です。
---------------------------------------------------------------

(テルゼさんの文)

・・・・・・・・

西田は、この逆対応に親鸞の

「自らの計らいを捨てて弥陀の誓願の不思議を旨として信じる」

を用いて論じているようですね。

「南無阿弥陀仏」と名号に触れ
「絶対者と人間とのどこまでの逆対応的関係は、
  ただ名号的表現によるほかない」

・・・・・・・・・

   [注]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552019920&tid=a5aa5bfbda165a4ka4da4a4a4f8la4j9ga4a4a4dea47a4ga4a6&sid=552019920&mid=40389

(西方法界の文)
・・・・・・・・・

ここ、今たいへん関心があります。

今回の、和真さんの書かれたもの、絶対者は自己を無化する、の最後にも、
和真さんは、観世音菩薩の名号を呼ばれています。

ここに、たいへん感動しました。
で、ここが宗教の神髄=西田哲学の神髄じゃないんですか。
ここに極まって行くんじゃないんですか。

それをしないで、一体どこでこの自己を空じるというのでしょうか。

私も、涙を流しながら、ただ観世音菩薩の名号を呼びたいです。
そうするしかないです。

  南無観世音菩薩
・・・・・・・・・

 [注]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019920&tid=a5aa5bfbda165a4ka4da4a4a4f8la4j9ga4a4a4dea47a4ga4a6&sid=552019920&mid=40402


なお、

 「
名号を呼ぶということが多少わかるに至るまで・・・西方法界の場合

という記載が、
下記投稿欄の [MC22-1-2-N] のなかにあるリンクから表示できます。


[注] 『ヤフー掲示板のトピ』というのは、正確に言うと、

ヤフーのサイト(http://www.yahoo.co.jp/)に行き、
下記の順番にカテゴリーをたどり、最後の「東洋哲学」に至ります。

    トップ > 掲示板 > 芸術と人文 > 哲学、思想 >  東洋哲学

そこにある多数のトピックを、「トピ」と呼んでおり、
「和真さん」のトピは、そのうちの「『法華経』を読む」です。


但し、トピは、生まれ、続き、消滅するので、いつまでも同じものがあるとは限りません。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

===============================================================
                                    投稿されたコメント
===============================================================

[MC22-1-1] 投稿: urdas | 2009年5月27日 (水)

西方法界さんとちがって、ぼくは頭のわるい人間なので、わからないところが多々あります、
ですので質問させてください。

>今回の、和真さんの書かれたもの、絶対者は自己を無化する、の最後にも、
>和真さんは、観世音菩薩の名号を呼ばれています。

>ここに、たいへん感動しました。
>で、ここが宗教の神髄=西田哲学の神髄じゃないんですか。
>ここに極まって行くんじゃないんですか。

>それをしないで、一体どこでこの自己を空じるというのでしょうか。

>私も、涙を流しながら、ただ観世音菩薩の名号を呼びたいです。
>そうするしかないです。

>南無観世音菩薩

ないしは

>「絶対者と人間とのどこまでの逆対応的関係は、ただ名号的表現によるほかない」

ようは自己を無化する乃至は自己を空じる、それは一体どのような生活を持つのかということです。
「ただ観世音菩薩の名号を呼びたいです、そうするしかないです」といわれてますが、
あるいは「絶対者と人間とのどこまでの逆対応的関係は、ただ名号的表現によるほかない」とありますが、
それだとぼくたちにできることはないということで、ぼくたちの肉体行為とは没交渉ということなのでしょうか。
もちろんそうではないでしょう? 

ぼくたちの肉体行為で現わしてゆくもの、表現してゆくものでなければ、
それは頭で概念的に仏の境涯を構築して、その肉体は凡夫の境涯のままで居ることになると思います。
つまり概念的理解で納得しまって、もはや修行はないということです。
それでは自分の妄想に酔っているだけになります。もちろんそういうことではないでしょう? 

それで自己を空じている、その際の肉体行為とはいかなるものか、ぼくは西方法界さんに示してほしいと思うのです。
ぼくたちは自分の意志で生きているように考えていますが、
呼吸や内臓機能にしても自分の意志ならぬ意志ではたらいていますし、
また衣食住にしてもそれらは自分で作ったものではなく他人の作ったものを使用しているわけですし、
そうなると自己は他者に生かされているものといえましょう。

それでその衣食住なくしてぼくたちは生きられないということは、ぼくたちは物により生かされているといえましょう。そこで自己は社会・他者・物により生かされているものといえると思うのです。

そこで自己を空じるとはいえ、ぼくたちには肉体がある。
よって現実において自己は社会・他者・物のおかげで生きているものであって、
社会・他者・物に対して一瞬たりとも無関係ではいられないわけです。

そこで自己を空じるというならば、為しうるのは名号を呼ぶだけではなく、
それはかならず社会・他者・物のそれぞれに対して具体的行為としてあらわれるものと思うのです。
つまりはかならず生活として把握されてくるものだと思うのです。

生活として表出しないものならば、生活として行じえないものならば、それはたんなる抽象理論にすぎず、
このことに関しては道元などは弁道話の十六番目の質疑応答で引用している丙丁童子来求火の公案などは
そのことを指摘しているわけですが、
それはそれで、強烈に頭のよい道元のみならずとも、
ぼくのような頭の鈍い、抽象度の低い田舎者には到底納得がいかんのですね。
だからこそ是非、示してもらえませんか。
われながらとても単純な質問だと思います。
哲学用語・宗教用語などは一切使わなくても示せるものですから。

[MC22-1-1-N] 西方法界 | 2009年5月27日 (水)

そうですね。こんなの、ちょっと異常ですからね。

私も、半年前かな、一年前かな、・・・
それ以上前ということは、ありえないですが、そのくらい最近、すなわち、還暦直後くらいのところで、あるいは、本当にこの二、三日くらいのところで、こんなことになったのかもしれません。
自分でも、なんともわかりませんが、すれすれのところで今回のようなことを思うようになったのではないかと思います。

ですから、逆にそのちょっと前までであれば、私自身もウルダスさんと同じような疑問をもったのだと思われます。

また、ウルダスさんの疑問は、ウルダスさんの求道のなかで極限まで突き詰められたものであり、
そして、ご自身の実存をかけて問いかけられているものだということは、私にはよくわかりますので、
私も、今すぐ思いつくことだけを、チョコチョコット書くのではなく、可能な限りを尽くしたいと思います。

ただ、私も、この問題が多少わかるような気がする(わかる・わからないじゃないんだけれど、言葉がみつからない)程度です(決定などというところまでいかない)し、自分でも予期せずして、事態が急展開し(こんな質問がくるとは思っていなかった)、
どうしたらいいか、とまどっていますので、しばらく時間を下さい。
どんなことを、どういう形式で、どういう順序で話せるのか、話したらいいのか、きっと、膨大な事柄が関係しているんだと思いますが、考えてみたいと思います。


[MC22-1-2-N]
西方法界 | 2009年5月30日 (土)

名号を呼ぶということが多少わかるに至るまで・・・西方法界の場合
     
以下のリンクより
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-8721.html

   -------------------------------------------------

[MC22-2-1] 
投稿: 無着 | 2009年5月28日 (木)

息抜きに私の創作話を一席。

鰯は海に住む、海水の中に住みエラで呼吸している。行っていない知らない場所は多くあり、海は広大だが限界があることぐらい理解できる。ある日、亀が鰯に他界のことを話した。

亀は言う、「他界は空中というものであり、エラは使わないし海水を吸わない、空中の上には光の玉が輝き、時々塩を含まない海水の綿が上から降ってきたりする、実際は海水には塩というものが含まれているが、塩のない海水を真水と呼ぶのだ、空中にも限界はあるが君の住む海よりも遙かに広大で、空中の更に上には宇宙というものが広がり、これこそ無限である、分かるかな?」と。

鰯は「エラが無くてどうして息が出来るのだ、息とは海水を吸うことだ、塩って何だ、海水は海水でありそれだけだ、それ以外の海水など存在しない」と答える。

亀は「空中では水は空気と水の層に分かれていて水は下に溜まっているだけで、空中で生活しエラは退化して扁桃腺という痕跡になってしましまい、もう使わない。気づいていないだろうが君の呼吸する海水には実際には塩というものが混入しているし、君は実際には海水を摂取して生きているのではなく、空中にある酸素を呼吸しているのだ、そして酸素は実は空中のものなのだ。空中にはもっと多量の酸素があり、エラは役に立たず捨てる必要がある、そして君が別の用途に使っている浮き袋を発達させて、それを肺として使うと空中から直接酸素が吸える、どうかな?」と。

鰯は「馬鹿な話をするなよ、海水が無ければ生きられないし、浮き袋はそんなものではない」と言う。

亀は「空中の世界では、海水は体内に赤い血液として内包するから大丈夫だ、海水の中で生きるのではなく、海水は小さな世界のものであり、空中で生きるようになれば、体内に入れればそれでよいのだ」と。

鰯は「そんな馬鹿話聞けるか!俺はエラを駆使して考え抜き、カジキマグロのようになって大海の全領域を泳ぎこの海の謎を解き明かしてみせる、エラの論理でだ、いったい肺だとか酸素だとか、実際に存在もしない器官や素材を持ち出すのは気が狂っている、証拠を見せろ、俺たち魚族はみんなこうして共存し合ってこの世界の悲しみや苦を分かち合おうとしているのに、不敬千万な夢を説くな、惑わす亡者は立ち去れ、お前にはみんなで分かち合う大悲がない」と。

亀は「証拠?それは俺自身であり、俺は正直に説明しているだけだ、君には分からんだろうが最近俺は思う、空中の上には宇宙が広がっているが、実際に宇宙には太陽が輝き、海も空中もその太陽が無ければ存在できないと気づいた。ということは俺は次には肺や酸素も必要なく、新たな器官によって太陽の光を吸収して無限の宇宙に生きることができると感じ始めている、実際に実はありとあらゆるものは宇宙と太陽が根源だから、そして本当の大悲とは、効率の悪いエラを使い重たい海水を吸って生きる仲間達のことを思い、何とか救いたいと願うことであり、悲しみを共存するのは敗退者の妥協である」と。

海、空中、宇宙、塩、酸素を別の言葉に置き換えれば修行への逸話が出来上がるが、実際に宗教を理解することが難しいのは、宗教とは「存在の仕方」、「存在のレベルの違い」を伝えたいのだが、海という環境ととエラの機能にとらわれすぎているのである、だから実際に釈迦は「それらを滅せよと言っているのではなく、それらから離れよ、そして新たな理解の器官を発達させよと阿含経で伝えている、よく読解せよ」。

機会が満ちれば、次には無我の真意と修行のコツを教えよう。


[MC22-2-1-N] 西方法界 | 2009年5月28日 (木)

  長文をお寄せいただき、ありがとうございます。
 ただ、内容的にいって、私は反応しようがありませんので、
 こういうことで、御容赦を戴きたいと思います。


[MC22-2-2] 投稿: 無着 | 2009年5月28日 (木)

いや雰囲気で書いたものであり、
西方殿や誰かに向けて書いたものではないので気にされずに。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

| | コメント (0)

[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)

ここでの真諦・俗諦の定義を何回も繰り返します。

真諦は『言語的認識が断絶し、そのものになりきっている、それそのもの』です。
真如そのものです。言語的認識を超えた真理そのものです。『一番元の、一番論じようもないところ』(カテゴリー「宗教の窓」の[S2])です。
既に述べたように、これは位置的に言って、キリスト教の(父なる)神に対応します。

他方、俗諦は、断じて無明底的パラダイムの表現、すなわち通常の世間的認識・世間知=此岸的な世界観のことをいうのではなく(これは、以下で「此岸的世間諦」と呼ぶことにする)、
真諦(彼岸)を指向(志向)するための、真諦に関する言語的認識・表現です。
それは、真諦を指向(志向)するものである点において、高度の真理性があるものですが、真理そのものではなく、言語的認識として捉えられたものであり、一種の方便(キリスト教的にいうと、媒介者)として仮設されたものです。

また、ここでは単なる此岸的な世界観のことは、、真諦を指向(志向)するという宗教的性格を持たないため、俗諦とは明確に区別され、『此岸的世間諦』と言うことに致します。
すなわち、非宗教的なものの見え方は、すべて『此岸的世間諦』になります。

   ------------------------------------------

俗諦の仮設性は、言語的認識・表現によることに由来します。

その意味で、ここでは(俗諦の世界が成立するにあたっては)「初めに、言語的認識があった(唯だ、識があった)」ということができます。
すなわち、新約聖書ヨハネ福音書第一章冒頭の『初めに、言葉(ロゴス)があった』ということになります。
キリスト教では、この「言葉(ロゴス)」=神の御言葉は、そのまま媒介者たるキリストを意味するとされています。
すなわち、キリストとは、俗諦(「言葉(ロゴス)」)のことです。
だから、キリストは媒介者です。

龍樹尊者は、中論第二十四章において次のように書いています。

第八頌(24-8)
 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダの法(教え)を説いた。
〔その二つの真理とは〕世俗の覆われた立場での真理と、
究極の立場から見た真理とである。

[注]
   中村先生は、鳩摩羅什訳では、単に「第一義諦(真諦)」となっているところを、
   ここに限り『究極の立場から見た真理』と訳しておられます。
   しかし、ここは他の場所と同様に、『究極の真理』と訳すべきだと思います。
   『から見る』ということがあっては、「第一義諦(真諦)」とはいえません。
   『から見る』ということは、俗諦の特性です。

第九頌(24-9)
 この二つの真理の区別を知らない人は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解して
  いないのである。

第十頌(24-10)
 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。
 究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
                                                    (中村元『龍樹』p.379 講談社学術文庫)

すなわち、媒介者たる俗諦が必要不可欠であることは、仏教もキリスト教も変わらないということです。(キリスト教で「媒介(者)」というところは、仏教では「方便」とか「仮設」といわれます。)
このレベルの抽象度で見れば、仏教もキリスト教も同じ構造をとっているということです。

俗諦は、真諦(神)から導かれ(仮設され、=創造され、)、真諦を指向(志向)するが故に、高度の真理性をもち
それは「神の御言葉」であり、「真言」です。
この意味で、此岸的世間諦の言葉とは区別しなければなりません。

しかし、俗諦は、言語的認識に依存し、その限度で真理性が劣化している(「神の似姿」でしかない」)がゆえに、仮設性を帯び、その限度で「真理そのもの」では『ない』のです。すなわち、言葉(言語的認識)は、単に認識のみにとどまらず、体現(受肉)され、そのもの(真諦)として現成(三位一体化)しなければなりません。
それゆえ、「究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。」(中論第十頌24-10)とされます。

俗諦は、仮設性を帯びる限度で、被造(物)性を帯びます。被造(物)性とは、キリスト教では神から創造されたということですが、仏教的には、真諦から(真諦にもとづいて)仮設されたということで、この両者は同義と理解されます。

  ------------------------------------------------------------

此岸的世間諦も言葉(ロゴス)から創造されるということは、「万物は、これによってなった(ヨハネ福音書)」とあり、「三界は唯識の所現(所造)」とされるところからもあきらかです。

但し、此岸的世間諦は、俗諦以上に真理性が劣化しています。
劣化しているどころか、正反対に見えるとさえいっても過言ではありません。
それは、絶対矛盾的自己同一などというようなことをいわなければ本来の実質を取り戻せないほどの乖離度に達しています。

すなわち、此岸的世間諦の被造(物)性の程度は俗諦の場合とは次元と程度を異にしており、[M14] 唯識でいう依他起性とキリスト教でいう被造物性、で論じたことに、さらに俗諦の仮設性を絡めてキリスト教でいう被造(物)性を論じなければなりませんが、ここでは敢えて触れず、その検討は後日の機会にゆだねます。

本稿は、たいへん大雑把ですが、仏教とキリスト教の根源的な構造的内容的統一性を確認するという、長年の自分の課題の一つの中心部分にやっと足を踏み込めたという感慨があります。仏教とキリスト教は、表面的な見かけに反し、極めて接近していることを再確認しました。
これは、一つにバーナディッド・ロバーツさんの書かれていたことに触発されたところが大であると思っております。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

===============================================================
                                    投稿されたコメント
===============================================================

[MC21-1-1]  投稿: sheepsato | 2009年5月18日 (月)

こんばんはー。
久しぶりに書き込みますー。

>仏教とキリスト教の根源的な構造的内容的統一性を確認する

これは、知らなかったので、え! と思ったのですが・・
確かに良く統一的な見方をされるなー、似てるなーと思ってたんですが、
明確にそう言われてるのは多分初めてかもと思います。
それは、僕と同じかも・・・。
でも、同じでも、切り口の違いが際だってます。

最近読んでいる本は、唯識のNHKさんの本と、わら一本の革命、という福岡さんの本です。
神はいずこに、は、現在挫折中です(笑)
論理的に把握するにはまだ早い、と感じました。

最終的に、把握の対象としての自分が消えるにはまだ遠いです。

前の議論から1年くらいたつと思うんですが相変わらず苦心惨憺です。
こちらも参考にさせていただいてるんですが、行きつ戻りつです。
考えががんがん進んで、早く解放されたいなー、と夢見てます。

[MC21-1-1-N] 西方法界 | 2009年5月18日 (月)

一番知りたいところを誰も書いておいてくれないので、
見当でもいいから書いてしまおうと思って、
ただ度胸だけで進んでいます。

福岡さんの「わら一本の革命」はなつかしいです。
二十何年前に読みました。
ほんとうに、いい本ですね。
感動してしまいます。
その当時NHK「こころの時代」でやった四国(伊予でしたか)の福岡さんの農園の映像が手にはいるといいのですが・・・。

[MC21-1-2] 投稿: sheepsato | 2009年5月19日 (火)

こんにちはー。

去年お亡くなりになられたときに、こころの時代再放送していて、ぱっとテレビつけたときにもう再放送やってたので、あわてて録画はしましたが、たぶん頭30分くらい飛んでしまったとおもいます。
ビデオの山に埋もれて、どこかにあるはずだとおもうんですが。

もっとも、おっしゃられてる放送と同じかどうかわからないんですが・・

[MC21-1-2-N] 西方法界 |  2009年5月21日 (木)

半端でも一応御覧になっているんですね。
私は確か二回見た記憶があります。
断片的に憶えているだけで、しかもその二回が混じっているかもしれませんが、
特徴的な内容のものとしては、若い人で福岡さんのところで勉強している人が一人でていましたね。
それから、囲炉裏でローストビーフを作っていて、福岡さんが「これは東京の一流ホテルのものよりうまい。」とか言ってたの、憶えています。

あと、東京の四谷だか市ヶ谷だか、中央線の走っている土手のところに泥だんごの花の種を蒔いたという話があったかな。

なつかしいなあ。
偏見宗教書籍の中に書いておきました、私の人生の師である和田重正先生と福岡さんとは、「ゆるやかな仲間関係」にあって、地湧社という出版社で対談もしていたはずです。
今年4月上旬の桜が咲いている時に、箱根の東側の外輪山明神ヶ岳ふもとの久野(くの)霊園というところにある和田先生のお墓に行ってまいりました。お亡くなりになられてから15年以上たちます。
福岡さんの本を読んだのも、和田先生がお元気で、先生のところに出入りしている頃でした。

[MC21-1-3] 投稿: sheepsato | 2009年5月26日 (火)

こんばんは。
和田重正さんってネットで調べたんですが、素敵な人ですねー。

福岡さん以外にも、こういう素敵な人がいるのは、とても心強いです。

西方法界さんが、こういう方とお知り合いとは、うらやましいような、
でも僕だと、そういうレベルの人と会うのは怖いようなー。

でも書物でなく、現実に存在する、というくらい大きい影響はない、よく思います。

ん~~、やっぱりうらやましいー
やりたいことはやらないとだめですねー。

[MC21-1-3-N]西方法界 | 2009年5月26日 (火)

私が35歳の時は、宗教に目覚めて間もない頃で、まだ苦しみのどん底に置かれていました。
出家しようか、どうしようか、迷いながら、
永平寺の山門前に、夜中の二時頃から一人佇んでいたこともあった頃ですから、
今にして思っても、ずいぶん苦しかったのだと思います。

私は、引っ込み思案で、どこにでも気軽に出かけるような人間ではありませんが、
悩みの深さとそれを乗り越えようという気持ちが、
和田先生のところまで私を運んでいってくれたのだと思います。

こういう時って言うのは、自分の力やはからいをこえているようなところがあって、
そういう中での、ある瞬間の行動というのは、
ふだんの自分では信じられないような動きをすることがあるのかなあ。

天から与えられるのでしょうね。
そのときは必死で、そんなこと思いませんが、あとから振り返るとそんな気がします。

ゲーテのファーストの第一部でファーストが恋に陥る純粋無垢な乙女・グレートヘンは、
『誠実さ』の象徴です。そう、私には読めます。

但し、『世間知らず(到達点に至るための、しかるべき道理を持たない)』のため、
私生児(ひとりよがりな結果)を生んでしまい、投獄され、
ファウストが助けに行っても、自ら牢獄から出ようとはしませんでした(ここで、ファーストの第一部が終わります)。

『誠実さ』だけだと、我々も道中で「自縄自縛の牢獄の虜になり、自ら出ようとはしない」結果に陥りかねません。
しかるべき道理というか、道筋を歩かなければ、到達すべきところへも到達できません。
しかし、またこの『誠実さ』こそが我々を導くものでもあります。

すなわち、第二部でどこからともなく、今はなきグレートヘンの雲(だったかな)が現れて、ファーストを天井の世界に導く手助けをしてくれます。
『誠実さ・真面目さ』が、気づかないところで、我々を導いてくれるのだと思います。

sheepsato さんも、必ず導かれると思います。

だいたい、こんなブログをやっていて、こうして出会うような人たちは、
口には出さなくても、みんなそれなりの過去と背景をお持ちの方ばかりなのだと思います。
だって、道元さんのいわれる「出会い難き仏法」に出会った人たちばかりなんですから。

そして、私が35歳の頃はこういったネット上などというような出会いかたは、そもそもありえなかったんですから、いかに、今は仲間同志が出会いやすくなったかということだと思います。
宗教内でも、悟り「競争」をしてしまうと、所詮それは「修羅」に脱してしまいます。
要は、お互いに助け合うことでしょう。
そして、目指すはみんないっぺんに『同時成道』です。

    -------------------------------------------------------

[MC21-2-1] 投稿: 無着 | 2009年5月20日 (水)

西方殿の哲学的解析は少々疲れるが徐々に慎重に進む意欲は大したものだ。
もう少し簡素化しても良いようにも思えるが、

例えば「絶対矛盾的自己同一性」といのは、実存哲学者達の言葉を借りれば「嘔吐」である。
彼等はその自己矛盾を乗り越えようとするのだが、
立ちはだかる精神と物質の矛盾的に出現する壁の前で越えることが出来ずめまいを起こして嘔吐する。
アウフヘーベンしようにも頼るべき哲理が発見できない、そんな状況である。
しかし仏教哲理は論理的にはいとも簡単に乗り越えている、
当然それを実感するには修行を前提とし、それしか無いのであるが。

最近、空海の書を読み、非常に難解だろうと思っていたのだが、
確かに純密教的な部分においては、難しいどころではないのだが、
顕教的なことの解説も多く龍樹の中観の解説などはさすがに天才的で、簡明かつ面白い、
是非読まれることを薦める。

また彼はロゴスを、声字として表現しているのも明らかで、
更に絶対矛盾的自己同一性を徐々に克服する過程としての空無辺、識無辺、無所有、非想非非想の境地へと至る解説が実に見事である。
何で人はこれを読まんのかと不思議に思うが、偏見もあるからだろう。

西方殿の定義の内容からすればもちろん非想非非想が最後の俗諦的領域である。
残念ながらキリスト教の経典ではそこまでの細かい哲学的解析が無く、一挙に俗と真を二分しているだけである。

しかしグノーシスなどの解説を見るとその辺を更に細かく区分していて、おそらく似たようなことになる。
ただ大きな視点の違いがあり、
西欧的な分析はいつも宇宙論的、物質論的であるが、東洋のものは精神的、認識論的な展開をしている。

[MC21-2-1-N] 西方法界 | 2009年5月21日 (木)

過去に空海を読んでみようと思ったことが二度ほどありました。
二回とも、そう思っていろいろ調べているうちに、読む気がなくなってしまって、
結局読むのをやめました。

今回もこういうコメントを戴くと、読んでみようかなと思うのですが、
『その気になって』調べていると、やはり、やめようかな、という気分が出てきます。
弘法大師とは、どうも相性が悪いというか、縁ができないのですね。

それはそれとして、「般若心経秘鍵」と「即身成仏義」だけは持っていますが、読むとすると、あと「秘密曼荼羅十住心論」と「声字実相義」でしょうか。

でも、最終的に読む気になるかどうか、自分でもわかりません。
(弘法大師は、読んでもらおうとして後世に書き残しておいて下さっているのだから、
やっぱ読まないと申し訳ないですか。)

[MC21-2-2] 投稿: 無着 | 2009年5月22日 (金)

書物を買い始めるときりがないので図書館で空海全集というのを5~6冊借りてゴールデンウイークに片っ端から読んでいったので、もう返却してどこのどの部分がどこに書いてあったのかは言えないのですが、口語訳してあるので読みやすかった。ただ重要な部分で翻訳の間違いなどもあったので要注意ですが、まずまずでした。

書や思想に対する好悪というか相性というのはあるのでしょうが、その原因が何であるか?ということを自分で知ることが重要です。でなければ自分の知識の欠陥がいつまでたっても補えない。私自身もキリスト教の研究をした時に異端と呼ばれる書物が気味悪く読めなかったが、後になってとんでもない偏見と誤解であり時間をロスしていた事に気付いた。読まなかったために単なる倫理的な解釈しかできず、同道巡りをしていたことが分かった。これは大変なロスです。

だから書物でも人間でも対象が何であっても、好悪や相性を感じた時、その原因が何であるか?ということを自分が認識することは非常に重要であり、またあらゆるものに慈悲を持って接するという観点からも好悪の理由を分析して克服しなければ自分の知識智慧の欠陥が修正できない。宗教を単なる研究の対象ではなく、それをもって生きることを学ぶ姿勢で見てこそ正見が得られる。そうすると好悪ではなくちゃんと識別できるようになる。

特に現代の宗教は長年の経過によって時の権威や権力の指向性または恣意的な偏見によって歪曲されているのを知る必要もある。その過程で排斥された異端というものにも非常に多くの真理への鍵が隠されてしまっている。

私の場合、空海に関してはその密教の持つ雰囲気が好悪の原因でした、従って彼の顕教的部分の解説のすばらしいインスピレーションを発見したことで、再度挑戦することになるでしょう。

[MC21-2-2-N] 西方法界 | 2009年5月23日 (土)

おっしゃられるところは、その通りですね。
今はまだすることがあり、そこまでいく余裕がありませんが、
流れと機会を見ながら、しかるべきタイミングを待ちたいと思います。

それから、情報ありがとうございます。
図書館で、現代語訳で・・・という手があるんですね。
たぶん、そのときがきたら、これは使えるなと感じました。
ありがとうございます。

----------------------------------------------------

[MC21-3-1-U] 投稿: urdas | 2009年5月21日 (木)

昨日今日と仕事がお休みだったのでじっくり読ませてもらいました。
ところでここでコメントするのは、はじめてですね。

ところで俗締は真諦を志向するものとありますが、ぼくは俗締から真締へという一方方向だけではないと思うのです。
一方方向だと往相のみになると思うんです。
ぼくは俗締には往相というはたらきのみならず還相というはたらきもあって、
つまり俗態から真締という方向のみならず真締から俗締という方向です。
真締と俗締は双方向なのではないかと思うのです。

双方向として俗締を理解しないで、一方方向として俗締を理解してしまうと、
それはたんなる分別知に堕してしまうと思います。
そうなると俗締は俗締でなくなり、つまりそれは真締を志向するものですらなくなり、
西方法界さんのいわれる此岸的世間諦になってしまうと思うのですがどうでしょうか? 

ようするに真締と俗締の二つはまったく異なるのですが、しかしまったく異なりながらもこの二つは一つでなければならないと思うのです。真締と俗締はたしかに異なるものですが、しかしまったく異なるから二つは二つで別となると、それは分別知であって、そこでの真締はもはや真締ですらなくなると思うのです。

もっとも、ぼくはキリスト教になんら親近感を抱いていない人間なので、その辺のスタンスの違いが出てきているのかもしれないのですが――。還相というものは絶対の立場からいえるものであり、キリスト教では神になりきるなどといったら異端ですから、成仏ということをかかげる仏教とは異なるのはしかたがないことかもしれないですね。

[MC21-3-1-M] 投稿: 無着 | 2009年5月21日 (木)

面白いね。urdas殿コメントに補足させていただくと。

まずその通り真と俗の諦は実際には還相というか、西方殿も劣化と付記しているように、実際にはすべての存在は真諦の現れであり、一方通行ではない。
だからこそ俗諦的状態から真諦的状態へと上昇、つまり悟りへの道を歩むことが出来る分けだ。
逆に始原においてはある原因により真諦の自己表現として俗諦的世界を顕現させている。
キザな表現をすれば「一切すべては神の現れである」。

もう一つ、キリスト教のことであるが、真摯な信徒様には失礼なことだが、彼等がGodと呼ぶものは原典にはYHVHと記載され、それをYehovha(エホバ)と発音して神とした後世での造語である。
Godは実際にはGodsであり召喚される者達のことであり複数であったので、神道とも似ていたのが語源である。
しかもYHVHとは宇宙的創造を意味する四文字語であり、東洋の創造元素である地水火風と相通じる。

だからこそキリスト教の神も古代においてはユダヤ教を始原とし、ユダヤ教の多くの教義は更に古代のシュメールやエジプトやインド系の宗教を基礎としている、そして仏教はその基礎をヒンドゥー教に持っている。

だから世界中の宗教の構造が深底において同じなのである。古代では宗教はどこかで一点に収束していた可能性が高いのである。3は常に最高位の表現であり、4は基礎の数字、7は3の次の格、12は7の次の格と、どの宗教も同じである、もちろん神道もそうである。

ここまで一挙に書くつもりはなかったが、深く広く探れば探るほど、その事実と実体が見えてくる。
表現法こそ各地の世俗的慣習と融和して異なれどもだ。

[MC21-3-1-N] 西方法界 | 2009年5月23日 (土)

掲載作業が少し遅れてしまい、お詫びいたします。
摂食障害に陥ってしまった姪と関わっていたものですから・・・・。
コメント投稿は、ウルダスさんは、はじめてでしたか。
メールでのやりとりは、もうずいぶん前からですから、今さらここで、はじめまして、というのも変ですね。

ところで、本題ですが、えーと・・・。

なんだかよくわからないところが、ぼんやりこうなのかなあというように思えてきたところを度胸一本で書き出しているので、自分の中ではまだ結構混乱したままで、突っ込まれると自分でもよくわからなくなってしまいます。
ですから、おそらく、先々あんなことを書いてしまったけれども、修正しなければいけないというところがたくさん含まれているんだろうと思いながら書いています。
とにかく、自分のなかでは、いろいろなことがいっぺんに重なってきてしまい、結構混乱のただなかにあります。

そのあたりをもう一度ふりかえりながら(全部さらけだしながら)整理してみると、

バーナディッド・ロバーツさんを読んで、明確に主客の構造が最終的に、しかも恒常的に消えてなくなる地平というのは、①対象たる事実(存在)を②認識する、という構造もなくなって、認識=事実(存在)に一元化してしまう、しかもその認識=事実(存在)というところは、認識というものも消え去ってなくなるところだから、認識と存在に分離する以前の「それ」というところ。そこは、言語的認識が介在しないので、「それ」になってしまう。事実が事実のままになりきっていて、それでいてその状態を認識している(自覚している)ので、そこは実際なんと言ったらよいのか、言いようがないようなところ。
つまり、ここが「真諦」の地平で、言語的認識・表現が出てくる前のところ、すなわち、「初めに言葉があった」という「言葉が登場する初め」よりひとつ前のところ、「初め」よりひとつ前のところ。
ここが「真諦」それ自体。「初めに言葉があった」の「初め」とは、俗諦の世界が成立するための初め。

そこで、言葉で「真諦」と認識してとらえると、その瞬間から「俗諦」の世界入りすることになってくる。
すなわち、いま我々がその中にいる言語的認識の世界(俗諦的世界)の中でしている「真諦」「俗諦」の話は、「真諦」といっても、俗諦の世界で「真諦」を扱っているに過ぎないんだという微妙な問題になっていますね。(それで、自分でもこの辺からわからなくなってきます。)

でも、主客の構造の解消=言語的認識の解消した状態にまでなって、直下に事実「それ」に承当しないかぎり、われわれはその状態がよくわからず、言語的認識を介して(使って)捉えるほか、捉えようがない(言語的認識の向こう側に言語を超えた真諦らしきものを想定はしますが)という地平に置かれています(往相の段階)。

すなわち、「正位(=平等=宇宙的命)が偏位(=差別=無明底では個と認識するところ)となって現れて出ている」というように、言語的認識を通じて捉える以外には捉えようがないような状態に我々はおかれている、ということですね。
このへんは、ウルダスさんの展開の方がすばらしいので、私の出る幕ではないのですが、いちおうこう確認しておいて・・・・と。

で・・・・、でも、それは言語的認識を通じて捉えているのだから、私の定義でいけば、俗諦の世界の中での出来事・・・とくるのかな。

それで、前稿でこの「言語的認識を通じて(=言語的認識という鏡で)真諦をとらえる」ということ、これを「理を通じて事(真諦)を捉える地平」で、理事無礙法界ってここではないの、となってきて・・・・。

     [注1] ここは、微妙ですね。言語的認識は介在しないけれども、主客があり、
        その中で鏡に映してとらえる地平というのが、神秀の「鏡」ありの世界というべきなのか???
        う~ん???とにかく、主客が残っていると、写すもの(鏡)と写るものが分離する。
     [注2] 「理事」と「正偏」の問題は、次元を異にし、別問題という捉え方になって、
         それがまた、極めて悩ましく、わかりにくいところ・・・・。

ところが、真諦では、主客が消滅し、それそのもので『ありながら』、それそのもので『あることを明瞭に捉えている』、両者が分離せず一体となっている、しかも言語的認識は介在していない、ないし、認識する主体が認識する対象を認識しているという要素が全くない(バーナディッド・ロバーツさん)。
すなわち、「言語的認識」否「認識」ということを介さずに、「そのもの」であることが「そのもの」としてとらえられてしまっていて、つまり「理」が脱落し、直接に「そのもの」が捉えられていて、ここが事事無礙法界か・・・???と展開してきて・・・・。でも、結構怪しいかな・・・・。

つまり、この地平は、とにかく「正位」だ「偏位」だというような、「言語的認識が脱落してしまっている」。
「言語的・主客的認識」を通しておらず、真理そのものになりきってしまっていて、そのものだから、真理の劣化が生じていない、とみる。

そこで、いよいよ、これに往相・還相を絡ませるんですが、どこまでが往相で、どこからが還相なのかが、
必ずしも明確ではなく、わからなくなってしまいます。

従来は、見性(理法界入り)までが往相で、しばらく山のてっぺんにいて、菩提心が生じたところからが菩薩の世界入りで、そこからが還相かなというように思っていました。

しかし、 十牛図、洞山の五位(禅宗は、仏向上といい、還相という用語は使いませんが)、十地経(華厳経十地品)、
阿含経で示される段階(・・・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅処)などが相互にどう対応し、どう理解されるかなどという点に関しては、そう簡単ではなく、またこれらを眺めていると、どこからを還相とみてよいかがわからなくなります(現在この状態)。

で、それはそれとしておいておくとして、一つはっきりいえることは、バーナディッド・ロバーツさんのように(私はそう理解したのですが)直下に真諦を証し、そのものになりきった人(真諦到達者)とそれに至らない者(真諦未到達者)を分けます。

そうすると、まず最初に俗諦を作るのは真諦到達者であるということになります。
俗諦は、真諦を『指向』する(指し示す)ものとして造られます。
真諦到達者は、到達しているが故に、もう真諦を『志向』する(志す)必要はありません。
真諦到達者は、真諦未到達者を真諦に到達させるために、俗諦を造り、それを使います。
すなわち、真諦到達者においては、ウルダスさんのおっしゃるように、双方向が常に問題になってくると思います。

真諦未到達者は、せいぜい想像するだけで(私はここ)、最大限できることは、俗諦を通して(媒介にして)その向こう側に間接的に真諦を見、それに接触できるに過ぎません。
あと、ありうるパターンとしては、まだそのことにすら目覚めておらず、言語的認識として把握した俗諦を真理そのものであると思いこんでいる段階がありうる(そう思っている人は多い)と思います(そういう人に対して、龍樹尊者は、24-9を言うのでしょう)。

現段階では、これ以上何もわかっていませんし、ここまでが果たしてこれでいいのかが問題で、こうしてコメントをいただきながら、話が深まっていけば最高なんですが・・・・。

それで、
>>『真締と俗締の二つはまったく異なるのですが、しかしまったく異なりながらもこの二つは一つでなければならないと思うのです。』
というのは、全く同感です。

そういいながら、私、西方法界自身が既に
>>・・・たんなる分別知に堕してしま(い)・・・
>>此岸的世間諦になってしまっている・・・
かもしれませんので?、

それから、私自身がこれまでの展開の中で、自分の展開の仕方に一つ反論というか、疑問をもっておりますので、
この場をお借りして、表明しておきます。

以上の理解は、真諦への到達が先に述べた理事無礙法界・事事無礙法界の理解と対になっており、
理=俗諦だから、理法界もまだ真諦には至っていないという位置づけになっております。

しかし、理法界というのは、通常は見性して宇宙と一枚になったところ(阿含経的には識無辺処)であり、その意味で真諦というものを捉えている、というところを出発点にすると、真諦=正位(平等)ということになります。
ここがキリスト教と仏教、特に禅との違いで、禅では出発点でここに立ってしまうのだと。
従来、私はずっとそう思ってきたのですが、理=俗諦という見方が成立して、そうすると、正偏の問題と理事の問題は次元を異にするということになってきて、最近書いているような展開になってきたという経緯があります。
そうしていながら、こころの片隅で従来の見方を否定しきれず、完全には決着がついていない状態である(かなり混乱しています)ことを申し上げておきます。

よくわかっていないため、長々とわかりにくいことを書いて申し訳ありません。

[MC21-3-2-U]  投稿: urdas | 2009年5月23日 (土)

なにやらこの数日はここではコメントが増殖してますね。
それにくわえて身辺多忙な最中に申し訳ないです。

それで真締と俗締のことですが、ぼくはこの真締と俗締の往還運動こそが宗教の要だと思います。
おおまかにぼくの理解している往還についてコメントしたいと思うのですが……

一般に真締を体得したら俗締は必要なくなると考えられているものですが、
それにはぼくはまったく反対です。

真締と俗締が別のものならば真締を体得してしまえば俗締は不要でしょう。
しかし真締と俗締が一つであるということは、真締を体得したら俗締は不要になることはあり得ないということです。
ぼくの考えでは真締体得者からすると、あらわれている一切はなんであろうともみんな俗締であると思います。俗締が不要になるなどとんでもないと思うのです。あらゆるものが自分を導くもので、俗締の外になにもないとわかってくるものだと思うのです。そこで彼においては自分にあらわれてくる俗締を完全に生き切ってゆく、その俗締を完全に生き切ってゆくことこそが真締であると思うのです。そのような生き方そのものが真締であると思うのです。そしてその俗締を完全に生き切ってゆく人の生き方そのものが周囲に対して俗締になると思います。彼自身が俗締になるのですが、この場合の俗締は上から下に教えを垂れる性質のものではないと思います。俗締を完全に生き切ってゆくことが真締ですので、真締体得者は自らを下に置きつづけるわけです。いわば俗締への無限落下こそがかえって真締でありますので、上から下への方向なぞあり得ないわけです。
ようするにあらわれてくるものはみんなぼくたちを導く俗締であって、その俗締を完全に生き切ることが真締であって、換言すると悟りは修行としてあらわれて、永遠に完結しない修行となって悟りは完結するものと思うのです。だからぼくは修行と悟りを別々のものと思っているかぎりは真締も俗締もおかしなものになると思うのです。

それで補足ですが、俗締を完全に生き切ることが真締といいましたが、俗締の外に真締があると思っているかぎりは真締を体得できないのはいうまでもないと思います。俗締と真締を別々と思っていると、せっかくの俗締も俗締でなくなると思います。「俗締の外に生きるところはない」、そのようにあらわれている俗締を絶対として選り好みしない態度が大切だと思うのです。あらわれている俗締を選り好みしないで絶対として受け取り生きるとき、俗締は真に俗締としてかがやき、つまり俗締は真締に直入する門となり、その俗締を生きること自体が真締となると思うのです。このとき俗締はぼくたちが真締を生きるための道にほかならず、且つ真締そのものの現しになると思うのですが――

長くなったのでおしまいにします。
いけませんね、書き始めると長くなるのがぼくの癖なので。
いろいろと互いに考えを出しあうと啓発されるところがあり有意義で楽しいものですね。

[MC21-3-2-N] 西方法界 | 2009年5月24日 (日)

はい、はい・・・・???。

ウワァー、というのと、ウンウン、というのと、キョトン、というのと入り交じった感覚というのか・・・。

話の全体の意味するところは、うんうんとうなずけるのですが、
話の次元がいっきに高いところに行ってしまって、
今私が格闘している次元より一段高い異次元の問題に跳んでしまって、
どう関連・脈絡をつけて話をしたらいいのかわからなくなる感じがします。

すなわち、如来の次元(法華経的次元)でそれまでの問題を見返すときは、
前稿[M20]の俗諦の段階性で問題にしたように、今私が捉えているような次元(菩薩的・華厳経的次元)での俗諦的表現が破壊されてしまうような新たな俗諦的把握と表現が成立する可能性があります。
法華経は、そういう問題に満ちているような気がしていて、いずれそういう角度で読まなければならないし、そうしてみたいです。
ところが、前段階をすっとばして、次の段階に行くわけにはいきませんし、俗諦的に異次元の問題を一緒に扱うと、言語的認識と表現・論理的認識と表現に矛盾と混乱が生じることになろうかと思われます。

つまり、「話の全体の意味するところは、うんうんとうなずける」というのは、そういう来るべき一段高い次元ではなんとなくそういう雰囲気になってきそうな気がする、ということだと思います。
そして、「どう関連・脈絡をつけて話をしたらいいのかわからなくなる感じ」というのは、まだ私が菩薩的・華厳経的次元の問題を消化しきれていないために、一方で「うんうん」とうなづきながら、他方で、高い次元との関係にまだ了解がついておらず、そのために「唖然としてしまう」ということになっているということではないかと。

これは、俗諦の段階性([M20])をわきまえながら、うまく話をしていかないといけないという問題ではないかと思うのですが、
いやー、むずかしいなあ???。

[MC21-3-2-M] 投稿: 無着 | 2009年5月24日 (日)

釈迦の説法に再度回帰して整理した方がよいですね。
まず真諦を体得していない(あるいは失ったとする説もある)我々は、

1)俗世界の中で苦の状態にある、そしてその苦の原因を知ること、そしてその苦が克服可能であることを知ること、そしてその苦の克服の方法が示された、のが苦集滅道である四正諦である。

2)次にその苦の克服方法が八正道であり、最初の正見に始まるが、実際には正見ができれば後に続く7つは比較的容易になる。

3)だからこそ正しく見ることの原理が「空と縁起」として説かれ世俗界、現象界が空、つまりそれ自身に自性があるのではなく我々は幻影を見ているということ、また自性がないとは事物が存在しないということではなく、事物は原因と結果による縁起により我々に見えるように見えているのであって、我々は幻影を取り払って正しく事物を認識する必要がある、というのが龍樹の空性の意味であり、事物自体は存在しないという唯識の欠陥を補っている。簡単に言うと俗界の事物が存在しないというのではなく、我々が見るようには存在していない、と言っているのである。

4)そして、我々が正しく事物を見れない原因は、我々の認識器官、認識中枢が五蘊にとらわれているために、認識自体が曇り正しく見えていない、つまり幻影を見ている、だから五?への執着から離れなさい、そうすれば俗界が正しく認識できる。

5)次に正しく見ることができれば、正しく考え、正しく語り、正しく為し、正しく生き、正しく努力し、正しく想念し、正しく精神統一ができる、となる。

6)八正道自体が悟りへの入り口であることが分かる。つまり、所謂悟りの三段階が見える。それは、第一段階である真理が見え始める、次に真理を生きる、三段目が真理そのものに成る、ということである。

様々な教義の言語的な複雑さを駆使して、それらの相関関係を分析することも重要であるが、釈迦の明快な言葉で素直に受想行識することも重要である。なんとなれば受想行識の幻影を正し、執着を解き放ち、俗界を八正道して生きていくことが悟りへの道であるからだ。しかし実際のその道程はかなり複雑かつ多段階な構造を持っている。その理由は人間というものの構造が複雑だからである、簡単に言えば色受想行識の各々にそれぞれのレベルがあるのと、各々が複雑に組み合わさっているのが現実だからである。だから一言で示せないし、人によっても様々な状態があるからである。これが俗諦の中を生きるすべであり、真諦に繋がっていくが、言うは易く、行うは重労働である、しかしMUSTである。

そこで話を変えて、しからば仏教徒以外には悟りの道は説かれていないのか、他の50億人には何が真理なのか?という議題が西方殿の分析の目指すところである。
各々の宗教間の構造分析をするには、まず知識の絶対量が必要である。家を建てるためには十分な材料が正しく用意されることが肝要である。

キリスト教をとってみても、聖書といわれるものは歴史的にも実際には多くの書物の受捨選択の過程を経て構成されていることと、1700年の間に様々な修正削除加筆さえも行われている。たとえば50年前のキングスジェームス版の聖書を比べてもすでに修正を受けている。我々が手にする聖書は、私見であるが初等の教科書よりもレベルが低い、だからファンタジーであり真の教義の副読本のレベルであろう。

例えば最も重要な魂という言葉が頻発するが、原典にはSOULという文字は一語もなく造語である。実際には仏教と同じように複数の、たとえばマナシキやアラヤシキがあるように、知る限りでは4つの識を区別している。それを後世の西欧人は全部魂と翻訳してしまってる。
神の概念もしかりである。天国や天も同じで、実際には十天数えていて(仏教に酷似)、ヨハネは第七天について語っていることになっている。だからそのような実体を知らず比較検討することは、かなりの無駄と誤解を承知で取り組むことを覚悟しなければならない。まず、絶対的に知識量を増やさなければならない。

私も長くなったようであるが、これでも多言とは言えないくらい複雑なことだね。


[MC21-3-3-N] 西方法 |2009年6月6日 (土)

ウルダスさんの [MC21-3-2-U] について、私のコメント [MC21-3-2-M]後に、ウルダスさんのコメントに触発されて、内容の一部に過ぎませんが、一点だけ私の理解が進んだ点がありますので、追加致します。

その前に、一般読者の方にウルダスさんは基本的に道元さんで一貫されている方だということを申し上げておきます。
すなわち、私が問題にしているレベルよりはるかに高いレベル(道元さんだから、如来レベルとみなければならない)から話がやってきているということを意識しておいて下さい、ということです。[MC21-3-2-M]で私が触れているように、俗諦の段階性という点で、次元が極めて高く、いろいろなことが凝集されています。

それで、今回気がついて理解が進んだ場所というのは、ウルダスさんが、[MC21-3-2-U] で

『ぼくはこの真締と俗締の往還運動こそが宗教の要だと思います。
・・・・・
真締と俗締が別のものならば真締を体得してしまえば俗締は不要でしょう。
しかし真締と俗締が一つであるということは、真締を体得したら俗締は不要になることはあり得ないということです。』
というあたりのところの話に、私の次元からどう入っていったらいいのかわからなくて、・・・きょとん、云々という部分がありました。

しかし、接点がやっとわかりました。
ウルダスさんのおっしゃられていることから、いろいろなものを剥ぎ取っていくと、私の問題にしているレベルに一応到達します。
まず、往還運動を取り除きます。行持道環ですね。
これをとっちゃう。

次に、言語的に認識され、表現された俗諦というのは、修証辺の我々には、普通、当初は修行の目標であり、次第に修行が進んで身についていき、体現されてそのものになりきる。なりきって、言語的認識なくして、そのものになっていれば、それは真諦でしょう。
この一サイクルだけを私はとりあえず頭に置きながら、後はある程度それを抽象化して複雑にした程度のものを頭に置きながら考えています。
しかし、ウルダスさん(道元さん)だと、おそらく前後裁断を前提とする修証一如で、修(目標としての俗諦)と証(体現されたものとしての真諦)を私の議論のように分離しないことになります。

一応、こういう位置づけになっているということがいまになってわかりました。
先日は、ここが明確になっていなかったので、たいへん複雑なことを言われているようで、何が何だかわからず、『きょとん』で、しかし、全体としての話は、なにやら高い次元だけれども、そんな感じかなあ、ということでありました。

それで、と。

私はまだ、道元さんを綿密に理解する段階に至ってないのですが、おそらく、道元さんの位置というのは、修行と悟り(証)を仏教的に極限にまで完成しきったところだと思います。

ただ、極限まで、さまざまな要素を凝集して高密度にしてしまう(高度な段階の俗諦)と、シンプルに議論を進めることができなくなります。

で、今、話の方向は、私としては一つに仏教とキリスト教を平行的に捉える基盤(土俵)づくりとういことに重点がありますので、逆に極めて単純化したところで捉えています。

ですから、修証論に焦点を合わせて、それを高度化していった場合は、ウルダスさんがおっしゃるような問題が出て来ようかと思います。私は、まだその辺が、自分では詰めてないということと、ここでは、そちらの話をする方向には動いていなかったということになります。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

| | コメント (0)

[M20] 俗諦的表現の段階性(即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理の終焉)

私の定義する真諦・俗諦の意味においてですが、俗諦的認識・表現には、複雑な段階性と構造があることを既に述べました
([M19] 真諦・俗諦の定義、および、その中の投稿コメント[MC19-1-5-N])。

その一例として、即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理を取り上げてみます。
即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理は、宗教の道筋を進む上で、ある段階まではたいへん有用性のある俗諦(的表現)であると考えられます。
しかし、一定の段階にまで歩を進めた場合には、かえって即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理に囚われていることが、その先の段階に進むための妨げ・足枷になってくるという問題があるかと思います。私は、たいへん長期間に渡って、ここに引っかかっていました。

これが、俗諦的認識・表現の段階性の問題です。
俗諦の意味を私のように捉えた場合、俗諦的表現の段階性はパラダイム自体が複数の段階構造になっていることと言語的認識・表現の限界性(真理そのものは、言語的認識を超えている)の二つの要因に由来していると理解することが出来ます。

即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理は、事物に自性(実体)があると見る無明底(分別知底)の認識を破壊し、我々を仏教的(宗教的)世界観へと導きます。私も『宗教の窓』カテゴリーで即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理を取り上げました。

ところが、即非の論理でいえば、『Aは、非Aであるが故にAである』というように、「個であるAをまずたてておく」という構造をとっているため、それ自体が『個の解体』の論理でありながら、「個の残像」したがって「個としての自己の残像」ともいうべきものが残ってしまいます。
『個の解体』は瞬時に達成されるものではなく、長い時間をかけて進むプロセスになりますが、ある一定のところより先に進む位置に至ったところでは、この「個の残像」が宗教的進行を妨害します。
すなわち、私で言えば『窓の外は空』というカテゴリー名が象徴するように、「自分の外に世界(宇宙)を見る」という暗黙の認識の前提に繋がれたままになります。ここは、一種の牢獄です。

ずっと囚われていた牢獄だったということがわかるのは、『窓は空、空は窓』すなわち『自分と世界は一つであり、同じ大きさである』という端的な・直裁的な認識が直下に成立する(パラダイムシフト)に至った時点になります。
逆に言えば、即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理を通して(媒介として)認識するということが、『窓は空、空は窓』すなわち『自分と世界は一つであり、同じ大きさである』というパラダイムシフトへの足枷になっていたということができます。

このように、俗諦的表現の段階性というものがあり、一定の段階(パラダイム)での俗諦的認識・表現の真理性に囚われてしまうと、それがより高いパラダイムへ進むための足枷になるということを、十分に認識し、注意しながら進むということが重要かと思われます(自戒)。
そして、究極的にどんな高いパラダイムであれ、それが俗諦的=言語的に認識・表現されたものである限り、最終的にはこの問題がつきまとっていることを心すべきだと思います。

なお、西田先生が「場所の論理」「逆対応・逆限定の論理」へと移行されたのは、このあたりの経緯が絡んでいると推測されます。
但し、即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理は、言語的分別知的認識の世界では、さまざまな次元の問題に利用できるので、『自分と世界は一つであり、同じ大きさである』というパラダイムが成立したとしても、直ちにその使用が全面的に停止されるのではなく、なお有用な場面もあると考えられます。

[注] 俗諦的認識・表現の段階性ということが、なぜ必要なのかを
    仏の立場の方からみれば、
    法華経譬喩品の三車火宅の喩、あるいは 信解品の長者窮子の喩などに
    現れているように、「方便」ということになる。
    最初から、「自分はない(自分=宇宙)」といっても、我々はとてもついていけない。
        そこで、自分と宇宙とは即非(絶対矛盾的自己同一)である、というところに
    まず導くというわけである。

     ----------------------------------------------------

ところで、ここで『窓の外は空』カテゴリーの『理事無礙法界・事事無礙法界』の参究([K14]理事無礙法界・事事無礙法界の参究)を一歩進めておきたいと思います。

現時点に於いては、理事無礙法界はこのように理解いたします。
『理』とは「俗諦的(=言語的)認識理解」であり、『事』とは「真諦」を意味すると捉えます。
洞山の五位の第四位・兼中至でいう『明暗双双底』の「明」は「俗諦」であり、「暗」は「真諦」と捉えます(『窓の外は空』カテゴリーの[K7]洞山の五位・不完全現代語訳)。
すなわち、理事無礙法界とは、まだ『理』、すなわち「俗諦的(=言語的)認識理解」を媒介に『事』と向き合っている世界であり、しかし、その「俗諦的(=言語的)認識理解」は『事』と「無礙」であるほどに極められている段階であるということになります。

  [注] 正偏(平等と差別)でみるのではなく、真諦・俗諦でみるということ
      これは、話が微妙でむずかしいですね。
            理(俗諦)で見ているということは、正偏でみる見方があるということのように
       思えますが、
            俗諦として、正偏を立ててみる見方は、理法界における理で終了します。
      理事無礙法界は、第一義諦の世界なので、既に理の中から、正偏の問題は
      消えており、存在しません。

      他方、事(真諦)に至るということは、一切の理(俗諦)が消えてなくなること
      を意味します。
       ここでは、「~から見る」ということ、すなわち、見るものと見られるものが
     
分離する認識が完全に消滅します。
      それでいながら、見るものが見られるものであり、明確な自覚がある世界が
      そこにはある、と聞いております。

キリスト教的で、かつ、バーナディッド・ローバーツさん的ですが、バーナディッド・ローバーツさん([M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体、その中の[MC13-2-N2]の投稿参照)によると、カトリック的瞑想(観想)の世界では、従来「神と自己との合一」といわれている、瞑想(観想)の最終段階があるそうですが、これが理事無礙法界に相当するように思われます。
なぜなら、キリスト教的な意味での、「俗諦的(=言語的)認識理解」がまだ媒介的に存在するからです。

これに対して、事事無礙法界は、「俗諦的(=言語的)認識理解」を媒介とせず、直接的に真諦そのものになりきっている世界であると思われます。

キリスト教的にいうと、旧約聖書にある「神と顔と顔を合わせる」というような表現の箇所が事事無礙法界にあたるのではないかと思われ、また上記バーナディッド・ローバーツさんが「神と自己との合一」からさらに進んで、「自己喪失の世界(神も自己も消滅する)」として描かれたものがそれにあたるのではないかと考えられます。
かつて、エックハルトも、この事事無礙法界まで到達したのであり、ローマ法王庁の「理事無礙法界」的立場から見て、その「事事無礙法界」的立場が異端と見られたというのが真相ではなかったのでしょうか(現在では、異端性は取り消されているようです)。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

| | コメント (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »