« [S27] 死と復活・・その二(宮沢賢治・よだかの星) | トップページ | [M20] 俗諦的表現の段階性(即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理の終焉) »

[M19] 真諦・俗諦の定義

真諦・俗諦という言葉は、明確に定義されることなしに使われ、論者(仏教史的論者も含む)によって使い方が異なったり、あるいは本来の用法とは違った意味に定義されて使われるなど、かなり用法に混乱があると思われます。

これは、望ましいことではありません。
しかし、現実的にはそうである以上、そのことをよく意識しておくべきであるし、
他方、自らその語を使う場合には定義を明確にし、混乱が起きないようにする必要があると思います。

といっても、このように真諦・俗諦という言葉の使い方が一義的でなく、その意味である種の混乱が現に起きているということ自体が、実は真諦・俗諦の区別をめぐって混乱が起きやすい、難しく微妙な問題をはらんでいるということを意味します。

この点に関しては、必ずしも一般にはそう言われていないかもしれませんが、私はそう思います。
定義というのは、言葉の意味を確定(約束)することですが、その背後には事柄の理解や言葉の使用目的等の問題が深く関わっています。
私は、真諦・俗諦の語は、仏教(宗教)の究極的なところでの、ある重要な区別と線引きをするために作られ、用いられる言葉であると理解し、従ってそのためにふさわしい定義がなされ、その下で使わなければならないと考えます。

既に私の用語法は、[M17] 真諦・俗諦・非想非非想処、などで、示しましたが、この問題を意識するためにここでもう一度繰り返します。

問題の要点は、宗教的真理というものは、主観と客観の構造・二元論的観念的分別知に依存する言語的認識を超えており、それによって捉えることが絶対にできないという決定的事実にあります。
このことが、真諦・俗諦の区別を要求する根本的必要性であるとみなければなりません。

[注] 『主観と客観の構造・二元論的観念的分別知に依存する言語的認識』
       我々は、最後までこれを捨てきれず、どこまでもそれにたよろうとする
       のですが、
       ここに「無明」の根源の一つがあり、それ故に我々は「認識中枢」において
       『死と復活』を経過しなければなりません。

従って、『真諦』は、言語的認識を超えた真理そのものです。『言語道断のところ』『言語的認識も言語的表現も及ばないところ』『不立文字のところ』、もう『論じようがないところ』であり、『話ができないところ』ということになります。但し、宗教体験(自覚体験)的に到達すること=そのものになりきること・そのものであることによってだけ到達することが出来るとされています。
すなわち、宗教的真理は、言語的認識をすることが不可能であり、言語的認識では不可得であるということが核心的要点をなしています。
『言語的認識・表現(俗諦)を宗教的真理そのもの(真諦)であると思いこみ、絶対のものであり、それとは異なる言語的認識形式・表現形式はありえないと考えること』は、それ自体が内容的に見て「宗教的異端」なのであると思われます。

これに対して、それでは「真理」に到達するための手がかりがなく、「真理」の伝えようもないので、「真理そのものではない」が、「真理を指し示す言語的認識・言語的表現」を不可欠の方便として使わざるをえず、従って「真理を言語的に認識・表現したもの」、すなわち『俗諦』が必要とされることになります。

従って、「言語的に認識・表現されたもの」は、『すべて』俗諦ということになります。そう、見るべきことになります。

「言語的に認識・表現されたもの」の中に、真諦にあたる教義と俗諦にあたる教義があるという理解をすべきではありません。例えば「より深い縁起の理解」の方を真諦である、などという捉え方をすべきではありません。経典の記載であろうが、「中論」の記載であろうが、言語的に認識され、表現されたものは、すべて俗諦であるとみるべきです。

もとより、俗諦は、真諦を指向(志向)するものですから、それ自体の中に『高度の深い真理性・真理指向性』を有しています。そうでなければ、俗諦とはいえません。
しかし、この『高度の深い真理性・真理指向性』は、『真理そのもの(真諦)』ではありません。俗諦のもつ『高度の深い真理性・真理指向性』を最終的な絶対の『真諦』であると見誤ってしまうのが混乱の原因であると考えられます。これは極めて一般的に見受けられる混乱であり、またよく自覚していないと、自分もうっかり陥ってしまう落とし穴です。
どんなに『高度の深い真理性・真理指向性』を有する言語的認識・表現であれ、それは宗教が最終的に到達した『真理そのもの』ではないということが決定的に重要なのであり、ここは宗教の核心にかかわるところですから、真諦・俗諦の用語は、これ以外の多義的用法をすべきではないと考えます。

この用法は、無意味な形而上学的議論(戯論)の混乱を食い止めることにつながります。

また、この用法の理解をすると、仏教に限らず、宗教の教義等はすべて俗諦に過ぎないということになります。
俗諦は、絶対的なものではありません。真諦を表現する俗諦は複数存在しうるのだと思います。
ここに自宗の絶対化から脱却して(宗教的真理の絶対性が失われるわけではない)、異なる宗教同士が対話し、連携できる契機が存在しうると思います。
仏教で言う『真諦』は、キリスト教でいう『神』に対応することになります。

私は、真諦・俗諦の語はこのような意味で理解し、用いるべきであると考えます。
また、本来的にこのような意味で使われ始めた言葉であると理解します。

このように考えるのですが、いかがなものでしょうか。

[注] バーナディッド・ロバーツさんの「自己喪失の体験」は、この『言語的認識・表現ができないところ(真諦)』の光景(の一部)を『現代的文化を背景にし、その用語を用いて可能な限り具体的に描いている』(その意味で、それ自体はもとより俗諦である)点に大きな意味があります。
ここには、私たちが他では見ることの出来ない、初めて描かれた光景が描かれていると思われます。

バーナディッド・ロバーツ
=>[M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体、
      の末尾にある「投稿記事」中の[MC13-2-N2] を参照

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

===============================================================
                                    投稿されたコメント
===============================================================

[MC19-1-1]  投稿:無着 | 2009年4月25日 (土)

その通りでしょう。
だから宗教では「死」という言葉が象徴的に使われる。
俗諦的なものの死によって真諦的なものへの接近と到達が可能となる。
俗諦と真諦の両界に同時に存在することは出来ないからであり、中間的な存在の仕方はあり得ない。
キリスト教の「二度の死」、四国巡礼で白い死に装束を着るのも、その意味だと語られる。

但し、俗諦的な場所(適切な表現が出来ない)から真諦をうかがい知ることは出来ないが、真諦的な場所からは俗諦的な場所は丸見えである。
但し、見えるということとそこに存在すると言うことは別である。
見るというのはそこに存在したりそこに入ることとは次元が異なるからであるが、
だから両界に同時に存在し得ないが、
悟った者は常に真諦的理解から俗諦的なものを引き出して表現することが出来る。

この認識作用と存在自体の区別は重要なようだ。

老子が面白いことを言っている。
「車輪の中心は何もない空であるが、
そこが何もなく空であるからこそ、すべてがそれによって生かされ依存できている。
また、壺はその中が空であるからこそ、すべてのものを包含でき有用なのである。

だから世界(現象世界)の始まりはその「空」から出て来たのだ、と。

それを老子は虚無から一が、一から二が、二から三が出て、三からすべてのものが
生まれた、と象徴的に語っている。
二とは勿論、二元的なものの発生のことである、と分かります。
さてそれでは三とは何だろう。不思議な文である。

    ------------------------------------------

[MC19-1-1-N] 西方法界 | 2009年4月25日 (土)

本文の内容を補充しながら、一歩先に進める豊かなコメントを戴き、ありがとうございます。

はあ、はあ、はあ、と読ませていただいて、
最後の「そこからすべてのものが生まれる」ところの三ですね。
う~ん、聖書だと「ことば(ロゴス)」から、万物が生ずるとなっていますが、
「二から三」の流れの中での、「そこからすべてのものが生まれる」ところの三とはですね・・・???。
だめだ、わかりません。

   -------------------------------------------

[MC19-1-2] 投稿: 無着 | 2009年4月26日 (日)

まったく私的な解釈であるが、幾何学的に見ると整合する。点は黒板に書けば点として有るが、書かれた点は実際には本当の点ではない、形が有れば点ではないからだが、線は点の延長であるが、これもまた点を直角方向に延長しただけのもので、方向以外の形も何もない。二次元である面は線を直角方向に延長したものであるが、これも横から見れば実際には厚みもなくまったく存在しない。また厚みのない面は上から見ても実際には色も何もなく存在しない。

これは点も線も面も実際には三次元である立体の一つの側面または属性の表現であり実際には存在しないことは明らか。三には密度があり、三の中に存在物が存在できるのであり、三からすべてのものが生まれたと説かれるのでは?

   -------------------------------------------

[MC19-1-2-N] 西方法界 | 2009年4月26日 (日)

ということは、三とは空間のことですか。

空間というのは、存在の形式のような感じがしますが、
それは我々の認識の形式がそもそも空間性を持っているためで、

だから、認識したもの、すなわち存在が空間の形式になっている、とも見えますよね。
そうすると、認識と存在の関係は表裏一体ということで、
これは主観と客観は表裏一体ということでもあり、
ここで分別的考察は終点になるというか、行き止まりになってしまいます。

もっとも、これは三に来る前の、二の段階の問題になりますか。

なんか、自分でもわからなくなってきました。

      -----------------------------------------------

[MC19-1-3] 投稿: 無着 | 2009年4月26日 (日)

時間と空間は相対性理論でも表裏一体ですよね。
だから空間の性質が異なれば時間の性質も異なり、所謂時空概念である。
だって時間とはそもそも空間の中での2つの対象物の間の移動認識であり、
だから空間の性質が異なれば時間の経過速度もことなるが、
それはアインシュタインによってすでに証明されている。

実際に量子物理学の世界では我々の時空認識は通用しないし、
電子の運動や出現は空間と時間を無視している。

更に空間が無い次元では時間は存在し得ない。

当然我々の三次元的認識能力では、その事態を実感し得ないわけだから、
悟りを得た人の表現は黙示であり象徴的表現でしか伝えることが出来ない。

しかし結局、認識作用(識)は時間も空間も必要としないことは明らかである。

だから我々の普通の認識作用はこの三次元的な枠組みにとらわれた認識しかできないが、
訓練か超越を通して異なる空間的認識や無空間的認識が可能である可能性がある。

その理由は、「無」「始まり」である原点の状態には何の作用も反作用もないので意識自体も無いだろう。
点の延長である線(一次元)には方向性というベクトル(意志、識)だけがあり、
線の延長である面(二次元)では様々な方向性が生まれるので「俗諦」と呼ばれることになる。

だから一次元の状態以前を真諦と呼んでもよいことになる。

英国の大哲学者のハーバート・スペンサーは「真理とは無限の切り子面を持つ宝石のようなものだ」と
上手に真諦と俗諦を表現している。

だから真諦の俗諦への表現、現出化は無限の様態を持つことになる。

意識が実際に真諦に突入することは難しいだろうが、理論的説明はそんなに難しいことではないのでは?

[MC19-1-3-N] 西方法界 | 2009年4月26日 (日)

話が急展開して、深まりました。
こういう高いレベルになると、話をかみ合わせる形での厳密な議論に私はついていけません。

ただこういった局面に来ると、話の流れから、無着さんと私とでは、基調にある『最終的なスタンス(あるいは、捉え方というべきか)』が、正反対の方向を向いているということをどうしても感じてしまいます。

すなわち、、私から見ると、無着さんは『(意志、識)』のレベルでいかに「すんなりと」真諦に繋げられるかを目指す方向を見ておられます。その場合、ここでそうされているように、物理的世界の認識問題が出されます。
この点については、申しました通り、私はその議論についていけません。

しかし、私の場合は関心の中心が物理的世界ではなく、この生命体としての自分ということにあります。
そうすると、認識方面である程度、個としての自己の解体が進んでいく=自己とはこの肉体の内側だけのものでなく、宇宙大のものであるという認識に転換していく(自分=世界・宇宙)としても、認識から一歩進んで、生命体のもつ自己保存本能を超越して超個の意思=宇宙的意思=大乗的意思がいかにして同時についてくるのかという巨大な壁が立ちはだかります。

 [注] バーナディッド・ロバーツさんは、この自己保存本能を超越しないと主客のない世界に出られないことを示してくれましたし、それよりなにより最終的な自己保存本能の超越ということが宗教の道筋の最終段階で待ち受けているということを明示してくれました。

この巨大な壁を前にして、『(意志、識)』は「すんなりと」真諦に繋がりません。
どうしても、そこに『(意志、識)』の『死と復活』という否定媒介的肯定という古典的な宗教的表現=道筋しかないように感じられます。

但し、無着さんがおっしゃられているように、無着さんは「理論的な」問題に焦点をあてており、私は「実際的な」問題に焦点をあてているという意味でのすれ違いかもしれません・・・・・。

      ---------------------------------------------------

[MC19-1-4] 投稿: 無着 | 2009年4月26日 (日)

すんなりと繋げられるのではなくかなり難しい問題だろうと書きました。
最初に「死」と書いたように、我々は三次元的な概念に強くとらわれているので、
そこからから離れ、現在の認識状態から解脱し、自己保存本能を捨てなければならない。だから貴殿とまったく同じです。

但し、真諦または真理は無限の数の俗諦的表現方法があるので、
物理学的側面を書いたからと言っても、
無限の数ある俗諦の中の単にその視点の俗諦をしただけのことですよ。

だから貴殿の言われる自己保存本能とは、別の表現を使えば
仏教で言う五蘊というものにとらわれた古い自己認識状態と言えるのでは?
だからそれを離れ捨てる、すなわち死ななければならず、
そうして新たな真諦へと迫る認識状態として復活するのでは?

それが積み上げてきた薪が燃され、その灰から甦るフェニックス、不死鳥の暗示であり、
卵を割って新たに甦るイースター、復活祭の象徴とも相通じるのでは?とも感じているのですが。

その新たに新生した認識とは主客を一元化した認識状態でしょう。
自己保存本能という表現は西洋人には分かり易いですが、
多分に生物学的要素を含んでいるので良い表現とは思えませんね、
仏教的表現の方がこういった哲学には遙かに正確ですね。

理論があって実践があるのであり、この二つは別の方向を意味する言葉でもありませんよ。
理論だけで実践しなければものにならず、実践するだけで理論を学ばなければ道を誤っても分からないのでは。

[MC19-1-4-N] 西方法界 | 2009年4月27日 (月)

おっしゃられることに特別異論があるわけではありません。

ということは、[MC19-1-3]の話が私にはよく理解できないというだけのことでしょうか。

ただ、空間と時間を超えた認識がありうるということまでくらいは、そうかと思えるのですが、そこから先がよくわかりません。

空間と時間を超えた認識があるとしても、それが分別的言語的認識として捉えられている限り、真諦とはいえないと思います。
真諦は、『そのものになりきっているところ』であり、それ以上のなにものでもなく、
したがってそこには認識も存在もないという理解なのですが・・・。

   ----------------------------------------------------

  [MC19-1-5] 投稿: 無着 | 2009年4月28日 (火)

私もそのまま勘違いして使っている言葉がありました。
まず真諦と俗諦(正確には世俗諦ですね)。

真諦というのは絶対諦つまり絶対的な真理、世俗諦とは相対諦つまり便宜的な真理と書き直すべきですね。
その方が良く分かりますね。失礼。
だから真諦は我々が言葉で表現できるということです。例を挙げれば、机は存在するか?

世俗諦では「存在する」と言うが、真諦では「空」であり視覚現象として机と認識されただけで、実際には空である。
この辺は当然御存知ですね?
この両諦の融合が中観論の神髄ですね。
これは諦に関する大変な誤解ですね。

私も早とちりですね。
貴殿の過去の文章を詳細に読んでみましたが、すばらしいの一言です。釈迦に説法のようです。
特に昨年の前半頃のものはかなり高度ですね。
読んだこと有りませんが、バーナディッド・ロバーツに関して書かれた頃から少々レベルが振り出しに戻っているように感じました。
やや夢幻的でスピリチャル的で折角の詳細な悟りの分析がおじゃんになったように見えます。
仏教の方が悟りに関する分析や修行方法は彼女より遙かに優れているのではないですか?

一挙に解脱する人など殆どいないのでは、
だから仏教、特に段階的な順序とその内容の明確な把握こそ凡人たる我々が研究すべき事では?

[MC19-1-5-N] 西方法界 | 2009年4月28日 (火)

宗教的表現というのは、上記定義で言えば、相対諦の中にも、いろいろな次元の表現の仕方があって、用語法も異なっているというような、極めて複雑な構造になっているような気がしております。

「中論」に着手したものの、その難解さの前でたじろいでいる状態で、まだ全く読めておりません。

いろいろな点で、もやもやしており、その状態が当分続きそうです。

  -----------------------------------------

[MC19-1-6] 投稿: 無着 | 2009年4月28日 (火)

そういう時はとにかく前に踏み出すことですね。
惰眠は人生に大敵です。
異なる視点と視野から挑戦することをお勧めします。
大天才ウィトゲンシュタインでも読みあさってはどうですか?

彼はかなり龍樹を研究していたようですし、
東西に亘って視野を拡大すること請け合いです。

   
[MC19-1-6-N] 西方法界 | 2009年4月29日 (水)

アドバイスをありがとうございます。

そうですねえ。
自分がどう動いていくか、自分でもよくわからなくて、
最近はアタマをカラッポにして、オマカセ~っていうのが楽でいいんですが、
こういうアドバイスを戴くと、あるいはそういう方向に動くかもしれません。

ただ、ウィトゲンシュタインは簡単ではないんでしょう。
それから、ウィトゲンシュタインは言語がらみだけれども、
宗教がらみではないというところがちょっと気にかかります。

  ---------------------------------------------------

[MC19-1-7] 投稿: 無着 | 2009年4月29日 (水)

それもしかたがないでしょう、
本当は知識が一度ある地点まで到達すると、
後は決して崩れることがない地点に至るのですが、
それが第一通過点で、次はどうしても所謂修行というものをしなければ、
それが実現できない、つまり扉を開ける「心身の努力」が必要になります。
なぜなら心が長年のこの身の薫習に引っ張られてしまっているからですが、
徐々一歩づつに段階的にしか進め(離れ)ていけません。

そしてこの知識というものは、「なぜそんなことに努力をしなければいけないのか」という理由が明確に理解できる知識です。
また、それでは一般の人はそれをしなくても本当によいのか?ということが分かる知識です。
その時に、努力しない一般の人々に対して大悲を感じる理由が明確になるのです。
なぜなら目的のない漠然たる努力などできるはずがないからです。
何度も言いますが、これが崩れないための(知識としての)第一通過点です。

だからこそ、真の宗教には明確な理論と理由がなければならないのです、
決して神とか宇宙とか、漠然と行じるものではありません。
それが分かる時までが第一関門です。
それは奇妙な事実であることに気付きますが、逃しやすい落とし穴です。

緊張ばかりでもいけませんが、適切に自分でリラックスを計りながら進んだ方が良いと思います。
折角進んでいた貴方の最高点に復帰し、再び道を上昇することです。
奇妙だと言って先入観で避けないことです。
もちろん本当に悪を感じ変だと思えば避ける必要はありますが(笑)

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【窓は空・空は窓】をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

|

« [S27] 死と復活・・その二(宮沢賢治・よだかの星) | トップページ | [M20] 俗諦的表現の段階性(即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理の終焉) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« [S27] 死と復活・・その二(宮沢賢治・よだかの星) | トップページ | [M20] 俗諦的表現の段階性(即非の論理・絶対矛盾的自己同一の論理の終焉) »