« パソコンの窓目次 | トップページ | [M19] 真諦・俗諦の定義 »

[S27] 死と復活・・その二(宮沢賢治・よだかの星)

 悟ってもいない私がこんなことを書くのもおかしなことなのですが、私はいつの頃からか、宮沢賢治の「よだかの星」は賢治が悟りのイメージというか、超越のイメージの消息を童話に託して書き出したものであると思うようになりました。
  そう書かれたものに今までどこでも出会っていませんし、この稿を書くに当たってネット上でざっと検索してみましたが、明確にそう書かれているものは見あたりませんでした。
 
 私がそう理解する根拠は、それが中枢の死と復活の消息そのものだと直観するからなのですが、宮沢賢治は作品以外には何も語りませんので確認するすべもありません。以下、私流の理解を記しておきます。
 
 醜い夜鷹は、他の鷹から鷹の面汚しだとしてその存在を脅かされます。その苦悩の中で、夜鷹自身の存在も無意識のうちにカブトムシの存在を脅かしているもの(自分のエサである)であることに気づき、苦悩はさらに深まって、絶体絶命の淵へと追い込まれてまいります。
 
 絶体絶命の淵へと追い込まれる経緯はいろいろなケースがあるかと思われますが、絶体絶命の淵へと追い込まれたということは、一般化してよいでしょう。
 
 絶体絶命の淵にあって、夜鷹は自力で解決の方途を求めますが、そのようなものは見あたりません。
 
 自力での解決が尽きた夜鷹は、次に外に拠り所としての助けを求めます。
東の「お星様」に、西の「お星様」に、南の「お星様」に、そして北の「お星様」に、どうしたら自分は救われるのかを問いかけます。しかし、どの「お星様」も何も答えてくれません。
 
 ここに、夜鷹の絶体絶命の淵は決定的に極まります。
 
 ある夜、夜鷹は何を思ったのか、地上からはるか天空の高みをめざして飛び立ちます。どこまでもどこまでも高く舞い上がってまいります。次第に意識が朦朧としてまいります。それでも夜鷹は渾身の力を振り絞って上昇し続けます。ここに、夜鷹の全存在がかかります。もう夜鷹は何が何だか全くわからなくなります。
 
 そして、ついに一切の力が尽き果てるときがやってまいります。
 夜鷹は、ついに天空から『落ち始めます』。
 
 話は、その後、夜鷹に何が起こり、夜鷹がどうなったのかについては何も触れていません。
 
 ただ、こう結ばれています。
 そのとき、天の高いところに、青い星がひとつ出現して輝き始めたと。
 
 絶体絶命の淵が極まって、渾身の力を振り絞ってそこを乗り越えようと試みてついに力が尽き果ててしまう。
 これは、自分というものの営み、自我的意識がその結末をむかえたときということになると思います。一切の人生問題に力が尽きたときでもあるでしょう。
  『中枢の死』というものは、そう簡単には訪れません。それは、見切りをつけるとか、断ち切るなどという意識的操作を超えて、『力が尽き果てることによってのみ、自ずから断ち切られる』以外にはない局面です。逆に言うと、我々の中枢はそこまで必死で自分を自己防衛しようとするということを意味します。
  そこには、自力の限りが尽くされるということと、その自力が尽き果てて、自力が途切れてしまうということと、自力を超えた力、すなわち、他力的なるものによって復活体へと引き上げられ、よみがえり、パラダイムシフトする、というような経緯がうかがわれます。
 
 われわれの中枢が死をむかえる局面というのは、そのようにイメージされる消息だということを、この話はみごとに描き出しています。

そして、最後に天空に出現したひとつの青い星は、中枢の死を通じてよみがえり、パラダイムシフトした復活体を象徴していると理解されます。


 このお話しは、「どこまでも悲しい」お話しです。私も読んでいると涙が出てきます。
しかし、夜鷹自身にとっては、実は「この上ない喜び」の結末だということを見落としてはならないと思います。なぜなら、夜鷹は絶体絶命の絶望の淵を非連続的に跳び越して、そこを離脱し新たな地平に超越・復活したのです。

 これは、ゲーテの「ファウスト」の結末を連想させます。元の地上の世界の側、すなわちメフィストフェレス(悪魔)の側から見れば、彼はファウストとの賭に勝ちます。ファウストは、「ああ、この世は美しい。」と言ってしまったのです。しかし、メフィストフェレス(悪魔)が手に入れたのは、ファウストの抜け殻です。ファウストは超越してしまって、もうそこにはおりません。メフィストフェレス(悪魔)は、形式的にのみ賭に勝ったにすぎません。「ああ、この世は美しい。」と言ったのは、天上に昇ったファウスト(青い星になった夜鷹)です。天上に昇ったファウストからすれば、実質的にはメフィストフェレス(悪魔)との賭に勝ったわけです。ここには、実存的超越の構造があります。
 
 それと同様に、夜鷹のお話しは、「中枢の死」という自分の全存在をかけた苦悩の極限のプロセスであり、しかもその結果は「死」の側から見れば、夜鷹が消え去って、どこに行ってどのようになったのかが見えない(青い星になったと描かれてはいるものの)のですから、「どこまでも悲しい」お話しです。

しかし、最終的に「復活して救われた」夜鷹の側(青い星の側)から見れば「この上ない喜び」の結末です。夜鷹はキルケゴールのいう「(絶望という)死に至る病」を最終的に超越したのですから、このお話は、おめでたいこと(ハッピーエンド)であるということができます。

[注](宮沢賢治を勉強されている方のために)

  下記の投稿欄の[SC27-3N] に、
     宮沢賢治は『自己犠牲ということを超越している(自己犠牲ではない)』という、
     私の理解を詳しく示してあります。
    非宗教系の方の場合には、ここでこの問題に触れておかないと、
  再びこの問題に出会う機会が想定できないからです。



xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【宗教の窓】 をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx


---------------------------------------------------------------                                   投稿されたコメント
---------------------------------------------------------------            

-------------------------------------------------------
[コメント対象事項]

    いろいろ、連想されること
   
-------------------------------------------------------

[SC27-1] 投稿 洲崎清 | 2008年5月 3日 (土)

釈迦がアナンダに言ったという言葉にこういうのがあります(p。66、仏陀最後の旅-大涅槃経):
「アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい、、、」
これを最初に読んだとき不思議な感じがしたので記憶に残ったのですが、、、、その後、ああそうかな、、、と感じるようになりました。

*ちなみに私は「美しい」と覚えていたのですが、今回調べたら、「楽しい」なのですね。

例によって外野からのコメントで申し訳ないですが、「一切衆生皆倶如来智慧徳相。。。」がやはりここでもからんでいるような気がします。そして絶対の肯定、、、といった感じが匂ってきます。

それと「星」は明けの明星を思い浮かべますね。。。

      
[SC27-1N] 西方法界|2008年5月12日(月)

ヴェーサーリーという言葉は、今まで知りませんでした。お釈迦さんが入滅される直前に通過された町なんですね。
「自灯明、法灯明」ということが言われる直前の場面。
こうなってくると、「美しい」でも「楽しい」でもイメージ的には同じように受け取れます。
真善美は、究極のところ(絶対の肯定が成り立つところといってもいいのでしょうが)で、一個に融け合ってしまう、宗教の極限はそんな感じがします。

しかし。お釈迦さんが「一切衆生皆倶如来智慧徳相。。。」などといわれたために、お互い苦労しますね。お釈迦さんは、とんでもない苦の種?を播いていかれて・・・・。

[SC27-2-1-K] 投稿: 和真 | 2009年6月 2日 (火)

宮沢賢治の「よだかの星」ですか。
あれは、不殺生戒に真摯に悩んだ賢治の「ベジタリアン宣言」ではないのでしょうか。
宮沢賢治に悟り体験はないように思いますし、戒に対して偏りがあったようです。

不可能を承知で、無理を目指すという「方便」こそが人を美しくし、
「無理を承知」なのが、法華経の「永遠の菩薩道」なのでしょうが、
賢治の場合は、本気で自己犠牲を目指してしまった。
余りにも悲し過ぎますが、それ故に今の活きている。

星になったよだか――美しすぎる賢治の徒花だったのでしょう。

[SC27-2-1-R] 投稿: 龍樹 | 2009年6月 2日 (火)

賢治に関してはまったく同感ですね。もう少し長生きしていれば、変わっていたかも知れない、そんな気がする。あまりにも情感という一種の執着に埋もれてしまった、が、しかし見習うべき自己犠牲の精神でもある。

が、ややバランスが崩れている、ということか。

私もヴェーサーリーでの釈迦の言葉には随分と長く考え込んだ時期があった。
しかし寂聴の「仏陀」を読んだ後に、あ~あ~こりゃまたと、それなりの解釈をするはめになった。

反対と見える「苦」と「無」の関係である。

後人の誤解釈を想定しての「一言」か、
現世での勇気ある克己とは「苦」や「無」が強調されすぎると虚無的となり、逆効果でもある。

[SC27-2-1-N] 西方法界 | 2009年6月 2日 (火)

自分とは異なる受け取り方なので、虚心に受け止めたいと思います。

[SC27-2-2-R] 投稿: 龍樹 | 2009年6月 4日 (木)

少しコメントと混合して簡単に処理をしすぎてしまったようだ。

1)賢治の夜鷹に関しては、情感に偏りすぎていて、おそらく夜鷹に対して自己投影をさせているように見れる。彼の父親は賢治のその性向を心配して「あの子をこのまま走らせてしまうと危険だ」と常々言っていたことからも、父親は賢治のその性質を知っていた。「マッチ売りの少女」の描写とも少し似ているが、自己犠牲は報われて天に上る、という類似ストーリーであり、死と復活のレベルから見れば少し甘すぎるようですね。実際に彼に起こったのは、本当の死であった。情感というものは多量の心身のエネルギーを消耗させるので、最後には心神喪失に陥りもぬけの殻のようになって、若くして人生を終えてしまっている。

2)シェークスピア(SS)に関しては別格である。彼は御存知の通りメーソンであろうし、ベーコン卿(RB)と同一人物ではないかとの噂が絶えないし、実際に二人の肖像画で、SSのひげを落とせばRBと同じ顔であるのは有名である。つまり神聖劇作家であり、「死と復活」は常にメインテーマであり、ファウストは全編がその劇化として有名で、これは当然に西方殿の指摘通りでしょう。

[SC27-2-2-N] 西方法界 | 2009年6月 4日 (木)

追加の記載、ありがとうございました。

このようなものをどう受け取るのかということは、極めて総合的な作用であり、
私の受け取り方は、既に表明されております。
繰り返しになりますが、あとは、虚心に別の受け取り方があるということを承知しておきます。

[SC27-2-2-R] 投稿: 龍樹 | 2009年6月 4日 (木)

頭の良い人間ほど、石部金吉になると、悟りからは遠ざかるかも知れないな。いづれ気づことを祈りたいが、とにかく固定概念を極力少なくすることが大切だ。

言っても仕方がないかも知れないが、我々は生まれてからこの方世間の都合で出来上がった常識という洗脳状態にまみれてきている。石橋を叩きながらもあらゆる世界と視点に探りを入れなければ真実が隠れて見えない。赤子のようになって好奇心を広げなさい。No return comments needed.

   -------------------------------------------

[SC27-3N] 西方法界|2009年11月8日(日)

(宮沢賢治を勉強されている方のために)

宮沢文学は『自己犠牲ということを超越している(自己犠牲ではない)』という立場を示します。
問題の構造が複雑なので、その説明のため、少し前置きが長くなります。
前置きをとばしたい方は、下記の、「 ここでの 本論的部分」というところから御覧下さい。

私は、知らなかったのですが、宮沢賢治の文学を「自己犠牲」という角度からとらえる読み方が、結構一般化しているようです。このブログが、どのような方にどのように読まれているかは、ブログ主である私にも全くわからない仕組みになっていますが、どういう検索ワードでブログがアクセスされるかは、わかるようになっております。

「宮沢賢治 自己犠牲」というキーワードで検索してみると、私のように、「自己犠牲」という理解をしない立場はごく少数のようです。また、その場合の少数派の論調は必ずしも明確ではありません。

というよりも、実は「自己犠牲ということではない」「まさに、自己犠牲という捉え方から脱するのが問題の要点である」のですが、これは、『宗教的に、かなり進んだ地平にまで到達したパラダイム(次元)』で成立することで、宗教的道筋に入った場合ですら、そこまで至らない場合は、「自己犠牲」と理解するよりほかに理解のしようがない、という問題構造になっております。そして、それこそが、本文中で論じているパラダイム・シフトの問題であるのです。

しかし、これは『宗教的にかなり進んだ地平にまで到達したパラダイム(次元)』で成立するのですから、容易にそれを示せない、それを示してもわからない、理解されないという宿命を負っています。すなわち、宮沢文学の本質(=宗教の本質)が、『自己犠牲の超越』であるにもかかわらず、逆に『自己犠牲である』というように、まるで逆さまに理解されてしまうという、スレスレの問題が内在しております。
まさに、宮沢賢治は、あたかも十字架上のイエス・キリストのごとく、自らの文学が「自己犠牲」であるという評価に身をさらしながら、自らは『自己犠牲としてではなく(それなら、それはなんなのかが要点)』、そして、その『自己犠牲ということを超越している』あり方というものを示しているのです。

[注] ここのところは、下記の問題を命がけで追求する必要があります。

[S25]私は、世界を愛することができるか

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_12d1.html

  ------------------------------
 
これを解するということは、宗教的道筋の中でのパラダイム・シフトによるほかなく、そのパラダイム・シフトのあり方を描いたものが、この「夜だかの星」であるにもかかわらず、そのことが伝わらずに、シフトする以前の、旧パラダイムで捉えられてしまうので、「自己犠牲」と読まれることになります。

そして、そうではないことを納得できるように説明することはできません。
まさに、ここが宗教問題の本質なのです。

但し、たまたま、この私のブログが、宗教のブログであり、既に「自己犠牲の超越」の形を描いておりますので、私のブログ全体を使えば、『外形的(内在的という意味ではなく)』に過ぎませんが、それを描くことはできます。普通には、簡単にできないことなので、一つのチャンスと捉えて、示してみようと思います。

外形的にではなく、内在的に納得するためには、御自身が「死と復活を通して、パラダイム・シフトすることが必要です。」
パラダイム・シフトをしないで、パラダイム・シフトをした地平を納得的に理解することはできません。それが、パラダイム・シフトということの本来的性格なのです。

      ------------------------------
        ここでの 本論的部分
      ------------------------------
 
あくまでも、外形的に示すだけです。

まず、自分と世界(宇宙)が問題になります。
此岸(しがん・・・娑婆世界)においては、自分の外に世界があります。自分の外の、世界の中にいる者、ある物は、他者(他)です。自ではありません。

[注] わかりやすいように予告しますと、後述するように、
    仏の世界は、自分=世界 です。

当ブログでは、『ブログ全般の御案内』のなかでのカテゴリーの説明を見ていただけるとわかるように、
カテゴリー『宗教の窓』の次元は、基礎的な宗教的土台の構築を目途にして書かれております。

ここでは、通常の此岸(しがん・・・娑婆世界)的世界から出発しますので、
上記の「自分と世界」の捉え方を前提にしながら、そこからの超越をめざしています。

本稿は、このカテゴリー内の記事として、
まさに此岸(しがん・・・娑婆世界)的世界から彼岸(ひがん・・・悟りの世界)的世界への通路というのは、連続的なものとしてあるのではなく、
非連続なところをパラダイム・シフトするしかないのだ、ということを示したものであります。

このあたりの、パラダイム・シフト前の、求道の過程では、此岸(しがん・・・娑婆世界)的世界観が維持されます。
すなわち、『宗教の窓』に続くカテゴリー『窓の外は空』がそれです。
『窓=自分』、『空=世界』と御理解下さい。
そうすると、『窓の外は空』とは、『自分の外は世界』ということであり、
これは、すなわち此岸(しがん・・・娑婆世界)的世界観です。

「自己犠牲」という見え方は、この、此岸(しがん・・・娑婆世界)的世界観において成立致します。
といいますか、此岸(しがん・・・娑婆世界)的世界観からすると、
そう理解する以外に理解のしようがない、ということになります。

さて、死と復活を通して、彼岸的世界にパラダイム・シフトした地平に移ります。

カテゴリー『窓は空、空は窓』が、その地平を表します。
先ほど示した置き換えをしますと、『自分は世界、世界は自分』ということになります。
私の、カテゴリー『窓は空、空は窓』の、下記の第一稿には、
「自分のサイズと世界(=宇宙)のサイズが同じになったところ」、
という言い方もしております。

(注)
[M1] このカテゴリーの性格・定義

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_82c7_2.html

「自分のサイズと世界(=宇宙)のサイズが同じになったところ」では、自分も世界も消えてなくなります。カテゴリー『窓は空、空は窓』の目次だけでも、パラパラとご覧下さい。「個の解体」とか「自己の解体」というような言葉が出てきますでしょう。
従来の自己の認識が解体し、自己のサイズが、宇宙のサイズにまで広がるのです。
ここでは、「眼前に展開する一切の世界は、自己の展開にほかなりません」

え、そんな世界があるかって???。ここが仏の世界です。

カテゴリー『窓の外は空』の「洞山の五位」のなかの、第二位に偏中正(へんちゅうせい)という次元があります。
洞山というのは、曹洞宗の名前のなかの「洞」の由来となった、中国の唐代の、禅宗の祖師の一人です。その洞山が、悟りの完成までの道筋を五段階に示したものが、「洞山の五位」です。

第二位の偏中正のなかに、

「上根の菩薩は、
・・・目の前にある、さまざまな差別の相(尊卑堂閣廊廡、草木山川)に出会って、
それは自分の本来の面目だ、と参究していく・・・」

と出てくるでしょう。

「眼前に展開する一切の世界は、自己の展開にほかならない」ということを体得していきなさい、とされています。

(注)
[K7]洞山の五位・不完全現代語訳

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8bf8.html

すなわち、仏(彼岸)の世界では、自他が解体して、存在しません。
『天上の青い星』の世界では、自他はないのです。

従って、他のために自を犠牲にするという、自己犠牲という捉え方が
超越されているのです。

大慈大悲(神の愛)的なあり方(相即相入的=華厳的全体関係性)を、無明底(此岸世界=娑婆世界)的に捉えると、「自己犠牲」に見えるというだけに過ぎません。
自分がどういうあり方をしているかということと、世界がどのように見えるのか、ということとが、相関しているのです。
法華経にもあるように、修羅には修羅なりの世界の見え方があります。仏には仏なりの世界の見え方があります。

(注) この点は、以下を参照
  [S32] 死と復活・・その七(西田哲学)

http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_0f74.html

ここを真に納得するには、宗教のど真ん中に自ら跳び込むほかはありません。

  --------------------------------

最後に、傍証的なことを一つ付け加えておきましょう。

誰でも知っている有名な「雨にも負けず」の詩
・・・ あれは単なる詩ではありません。
あの内容が『菩薩の誓願』であると見抜く人は、宮沢賢治の文学が自己犠牲の文学であるなどとは間違っても言わないでしょう。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【宗教の窓】 をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

|

« パソコンの窓目次 | トップページ | [M19] 真諦・俗諦の定義 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« パソコンの窓目次 | トップページ | [M19] 真諦・俗諦の定義 »