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[M18] 即心即仏・非心非仏---前稿の補足として

前稿 [M17] 真諦・俗諦・非想非非想処、で下記のように書きました。

『 認識と存在は本来分けられない、と表現され、
   認識即存在である、と表現され、
   認識も存在も本来ない、と表現されます。  』

この点について、補足的に整理しておきたいと思います。この[M18]は、単なる補足的整理に過ぎません。
例によって、禅宗室内を全く経験しない無眼子の論者による論稿であることをお断りしておきます。

本稿の見出しを「即心即仏・非心非仏」としたのは、無門関第三十則と第三十三則が、
この問題に関わるものであると理解しているからです。
周知のところかと思いますが、一応ざっと復習しながら進みます。

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大梅法常禅師は、巨匠・馬祖道一禅師の法を継いだ一人です。
二十余年仏教教理を研究した後、馬祖に参じて「即心是仏(即心即仏も同義)」の言下に大悟し
それから、山中に隠棲し、三十余年に渡り悟後の修行をされていました。

師である馬祖は、侍者を使わして、密かに大梅を試そうとします。
すなわち、侍者は大梅のもとに行き、馬祖の仏法は往時の「即心是(即)仏」から、最近は「非心非仏」に変わってきている旨を伝えます。

しかし、これに対し、大梅は「馬祖は、人をたぶらかす者であって、自分は即心是(即)仏で何ら不足はない」と動じませんでした。

これを聞いて、馬祖は、「大梅熟せり」と、大梅法常禅師を肯われた、とされています。

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上記の話で、「心」=認識、「仏」=存在と置き換えますと、
「即心是(即)仏」は、認識即存在であり、
「非心非仏」は、 認識も存在も本来ない、ということであり、
これらは、結局同じ事柄の、異なる言い回しに過ぎないということになります。
これが私の理解です。

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私の持っている唯識の書籍(下記注)では、この点に関しての、唯識での扱い方が書かれていますので、それをそのまま引用しておきます。たいへん、微妙な理解になっているようです。

[注] 凡夫が凡夫に呼びかける唯識(太田久紀著・大法輪閣)p.513-514

・・・・<見分(認識する側)>と<相分(認識される側)>はあるのかに関して・・・・

三つの答えが出されている。

1、<見分><相分>共にない。
2、<見分><相分>共にある。
3、<見分>はあるが、<相分>はない。

それぞれに、それぞれの論拠があるわけだが、第三説---<見分>のみあって、<相分>はないというのが正義である。

元来<見分>があるから<相分>があり、<相分>があるから<見分>があるという関係のものである。
「見る」働きがあるから「見られるもの」が見えてくるのであるし、「見られるもの」があるから「見る」働きが成立するのである。・・・・

<見分>のみあって、<相分>はないということは、どういうことなのであろうか。
<相分>があるというと、対象的認識と変わらぬことになるので<相分>を認めるわけにはいかない。

<相分>も<見分>もないと・・・言ってしまうと、真如と一体となったという宗教的体験の重みが消えてしまうように思われぬであろうか。

・・・・<見分>もないというと、真理を体証し自覚する主体のダイナミックな体験を捉えがたくなる。
・・・・だから、<見分>のみあって<相分>はないという表現をとったのである。

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確かに、『唯識』という言葉自体が、<見分>のみあって<相分>はないというイメージの言葉です。
どういう次元で、どういう表現がなされるのか、ということにも関係すると思うのですが、私はこの唯識でなされているような議論をする必要自体があるのか、疑問に感じます。
即心即仏・非心非仏という、一見矛盾し合うような両方の表現が成り立ちうる、そういう地平という方が、適切であるような気がしますし、言語的認識を超える地平を表現しようとしているのですから、論理的矛盾にこだわらなくてよいと思うのですが。

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[MC18-1] 投稿: うさぎ | 2009年2月27日 (金)

あなたのこの説明が唯識論の問題点であり、龍樹が修正したポイントだな。

つまり認識がすべての原点であり、認識がなければ世界存在はない、と唯識論者は言う。しかしその認識する誰かが死んでその人の識が活動を止めても、世界は依然として存在している。つまり存在と識とは別物である、と龍樹は言っている。ただし完全に別物だとも言っていない。

どういうことか?これが識のややこしい点ですな。だから「中観」とも言われる。

[MC18-1-N] 西方法界 | 2009年2月28日 (土)

位置づけて戴きまして、ありがとうございます。
読ませて戴いて、「ああ、そういうことなのか。」、と納得し、
書いた本人が自分で書いたことの理解を深めている始末です。

ということは、しかし、「中観」、ないしは、前稿のコメント[MC17-1-1] のなかで言われています『「神」の立地点』というところを、もっと厳密につめていかなければならない、ということになってくるわけですね。

[MC18-2] 
投稿: sheepsato | 2009年3月 7日 (土)

こんばんは。
久しぶりに見たらずいぶん筆が進んでいたので、没頭して読んでしまいました。
それで投稿のウサギさんの文で、ちょっと議論に混じれそうな気がしたので。

存在と認識は別物だけど、完全に別物ではない、というところです。
以後僕の言葉で書きます。

認識とは、基本的に人格の認識です。
(人に限りませんが、人は外部をすべて命あるものとしてみてますから)
そのとき誰かが死んで、でも世界はある、という場合、それは世界の存在感が、その誰かが死んだ一人分減った、といえます。
ある人の存在は、世界の形成の一部です。
一部といっても普通に使う意味の一部ではないですが。
生きるすべてのものにとって、ある人の死は、自分の人格の一部の死です。
死ぬ、という情報は、言葉で伝わります。
誰かが死んだ、ただその言葉を聞くだけで、僕は世界の存在感が減るのを感じます。
それはいじめで「死ね!」といった言葉を聴いたときに感じるショックと同じものです。
それは、普通に言うところの言霊、というか、言葉の持つ強力さです。
たとえ机上の議論であっても、論理で言葉を使う限り、無と有の境目を作り出す、
言葉の持つある種の強い絶対感覚-形のないのを形に変える力、の影響から免れることは無理だと思いますし。

なので、「依然として存在している」という表現は正確ではありません。
(何がなので?か、自分でもちょっとわかりませんが)
このあたりの抽象的な感覚の構造を考えるときに、僕は、数学の概念はかなり流用してます(厳密な数学的適用は残念ながら僕の能力では無理ですが、その学問のイメージは、感覚の構造を考えるときに役に立ってます)

存在や識は、娑婆の、この世、俗世のことであり、それは物質的な脳の機能と対応してるので、この世の学問で将来は分析可能だと思ってます。
(というか、既知の学問の使えるのは使うことでなんというか自分が安心しようというはらです。根拠のない個人的推測ですが)

でも、ほんと、難しい議論ですねー!読んでて汗かきますー。
上に書いた話もあいまいであまり自信はありません。
概要だけ取ってもらえたら・・・

[MC18-2-N] 西方法界 | 2009年3月 7日 (土)

sheepsato さん、お久しぶりです。
私も、たいへん背伸びしたところの問題をよくわからないままに論じております。
このあと、中論とバーナディッド・ロバーツさんのことに取り組んでいく予定ですが、
まだ、先は真っ暗です。
まずは、間違ってもいいから、中論を一通り通り抜けるところまで行ってみたいと思っているのですが、どうなることやらわかりません。
基本的には、行き当たりばったりです。
何かありましたら、またコメントを下さい。

私とは異なる見方を示されても、
そもそも話のできる同じ土俵に上がってきて下さる方というのは、
ある意味私に最も近い位置におられるお仲間だと思っております。

ですから、私から見ますと、うさぎ様はちょっと早くキレ過ぎで、
見方の違いは違いとして、長い目でみて話をしていけばいいのに、と思うのですが。

龍樹尊者の立場も微妙なところがあり、中論に入った段階で、
sheepsato さんがおっしゃるようなことも、もう一度厳密に検討することになるのかと思っています。
ただ、とにかく中論は難解です。


[MC18-3] 投稿: sheepsato | 2009年3月11日 (水)

こんにちは!
ウサギさんの言っておられたことはとても興味深かったので、投稿したんですが、
でも何か問題もあるのできっと、僕と同じように、なのでわざわざ探してここに書き込んでらっしゃるとは思うのですが。
上の馬祖の話を読んでて、これは、直観がもたらす信念の話だなーと思いました。
一月ころに、ここで悟ったその後?みたいな本を紹介されてましたが、「神はいずこに」でしたっけ?
図書館においてるのはわかったんですが、レベルが違いすぎて読む気がしないというかなんと言うか。縁があれば手にとると思うのですが。


[MC18-3-N] 西方法界  | 2009年3月11日 (水)

うさぎさんは、「天照大神」みたいに天の岩戸の中に隠れて出てきませんね。
肝心なときに隠れてしまってしょうがないですね。
よかったら、sheepsato さん、コメントで直接うさぎさんに呼びかけてみて下さい。

【ブログ全般の御案内】にも書いておきましたように、
このブログは私ではなく、投稿者同士が直接やりとりして戴いていいことになっています。まだ、一度もそういうことがないのですが、ブログを作ったときから、それをやってもいいことになっています。
「誰々さんへ」と直接相手を指定して、あとは普通通りに投稿して下されば、
私のコメント抜きで掲載します。
私は事務的な裏方に回りますので、自由にやりとりして戴いて差し支えありません。

しかし、うさぎさん、読んでるかどうか。
読んでいなくても、そのうち天の岩戸から顔を出すかもしれませんから、
宜しかったらどうぞ。
ちなみに、うさぎさんは前投稿者の求道者さんと同一人のはずです。

ところで、私からうさぎさんが書かれたこと(この上の[MC18-1]における

『しかしその認識する誰かが死んでその人の識が活動を止めても、世界は依然として存在している。』

の部分)に触れてみます。

非想非非想処は、我々の日常底ではなく、
既に「自分=宇宙」のレベルに達した地平です。
しかも、ここは主客も存在しない地平として、認識即存在が問題になっています。

従って、禅的にいうと、認識即存在というときの、認識の主体というのは(認識の主体はないのですが、敢えてこういうと)、宇宙(自分=宇宙)です。

[注] 『禅的にいうと・・・・(認識の主体はないのですが、』
           本文で問題にしているように、唯識では「見分」のみがあるとする。


従って、うさぎさんの説明は、我々の日常底としてはわかりやすい説明であり、そこからこういう疑問が出てきます。
しかし、非想非非想処では逆にそういう説明・見方(異なる次元の見方の混入)が成り立たないのだと思われます。
日常底的「私の死」は、認識主体たる宇宙の働きに過ぎず(道元・「生死は、ほとけの御いのちなり。」)、認識主体たる宇宙は不生不滅です。
それより何より、認識の主体と客体の区別もなく、したがって認識ということ自体もなくなった地平に、これらのことが全部あることを前提とする論理・説明を持ち込むこと自体がおかしいと考えられます(異なる次元の見方の混入)。

ただ、うさぎさんによると、龍樹尊者のことに触れられており、私とすると、えー、そうなの、という感じがしております。しかし、これは中論を読んでみないと何ともいえないので、私としては先の問題ということになります。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

          

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