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[M18] 即心即仏・非心非仏---前稿の補足として

前稿 [M17] 真諦・俗諦・非想非非想処、で下記のように書きました。

『 認識と存在は本来分けられない、と表現され、
   認識即存在である、と表現され、
   認識も存在も本来ない、と表現されます。  』

この点について、補足的に整理しておきたいと思います。この[M18]は、単なる補足的整理に過ぎません。
例によって、禅宗室内を全く経験しない無眼子の論者による論稿であることをお断りしておきます。

本稿の見出しを「即心即仏・非心非仏」としたのは、無門関第三十則と第三十三則が、
この問題に関わるものであると理解しているからです。
周知のところかと思いますが、一応ざっと復習しながら進みます。

         ----------------

大梅法常禅師は、巨匠・馬祖道一禅師の法を継いだ一人です。
二十余年仏教教理を研究した後、馬祖に参じて「即心是仏(即心即仏も同義)」の言下に大悟し
それから、山中に隠棲し、三十余年に渡り悟後の修行をされていました。

師である馬祖は、侍者を使わして、密かに大梅を試そうとします。
すなわち、侍者は大梅のもとに行き、馬祖の仏法は往時の「即心是(即)仏」から、最近は「非心非仏」に変わってきている旨を伝えます。

しかし、これに対し、大梅は「馬祖は、人をたぶらかす者であって、自分は即心是(即)仏で何ら不足はない」と動じませんでした。

これを聞いて、馬祖は、「大梅熟せり」と、大梅法常禅師を肯われた、とされています。

        ---------------------------

上記の話で、「心」=認識、「仏」=存在と置き換えますと、
「即心是(即)仏」は、認識即存在であり、
「非心非仏」は、 認識も存在も本来ない、ということであり、
これらは、結局同じ事柄の、異なる言い回しに過ぎないということになります。
これが私の理解です。

         ------------------------------

私の持っている唯識の書籍(下記注)では、この点に関しての、唯識での扱い方が書かれていますので、それをそのまま引用しておきます。たいへん、微妙な理解になっているようです。

[注] 凡夫が凡夫に呼びかける唯識(太田久紀著・大法輪閣)p.513-514

・・・・<見分(認識する側)>と<相分(認識される側)>はあるのかに関して・・・・

三つの答えが出されている。

1、<見分><相分>共にない。
2、<見分><相分>共にある。
3、<見分>はあるが、<相分>はない。

それぞれに、それぞれの論拠があるわけだが、第三説---<見分>のみあって、<相分>はないというのが正義である。

元来<見分>があるから<相分>があり、<相分>があるから<見分>があるという関係のものである。
「見る」働きがあるから「見られるもの」が見えてくるのであるし、「見られるもの」があるから「見る」働きが成立するのである。・・・・

<見分>のみあって、<相分>はないということは、どういうことなのであろうか。
<相分>があるというと、対象的認識と変わらぬことになるので<相分>を認めるわけにはいかない。

<相分>も<見分>もないと・・・言ってしまうと、真如と一体となったという宗教的体験の重みが消えてしまうように思われぬであろうか。

・・・・<見分>もないというと、真理を体証し自覚する主体のダイナミックな体験を捉えがたくなる。
・・・・だから、<見分>のみあって<相分>はないという表現をとったのである。

           ---------------------------------
          
確かに、『唯識』という言葉自体が、<見分>のみあって<相分>はないというイメージの言葉です。
どういう次元で、どういう表現がなされるのか、ということにも関係すると思うのですが、私はこの唯識でなされているような議論をする必要自体があるのか、疑問に感じます。
即心即仏・非心非仏という、一見矛盾し合うような両方の表現が成り立ちうる、そういう地平という方が、適切であるような気がしますし、言語的認識を超える地平を表現しようとしているのですから、論理的矛盾にこだわらなくてよいと思うのですが。

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[MC18-1] 投稿: うさぎ | 2009年2月27日 (金)

あなたのこの説明が唯識論の問題点であり、龍樹が修正したポイントだな。

つまり認識がすべての原点であり、認識がなければ世界存在はない、と唯識論者は言う。しかしその認識する誰かが死んでその人の識が活動を止めても、世界は依然として存在している。つまり存在と識とは別物である、と龍樹は言っている。ただし完全に別物だとも言っていない。

どういうことか?これが識のややこしい点ですな。だから「中観」とも言われる。

[MC18-1-N] 西方法界 | 2009年2月28日 (土)

位置づけて戴きまして、ありがとうございます。
読ませて戴いて、「ああ、そういうことなのか。」、と納得し、
書いた本人が自分で書いたことの理解を深めている始末です。

ということは、しかし、「中観」、ないしは、前稿のコメント[MC17-1-1] のなかで言われています『「神」の立地点』というところを、もっと厳密につめていかなければならない、ということになってくるわけですね。

[MC18-2] 
投稿: sheepsato | 2009年3月 7日 (土)

こんばんは。
久しぶりに見たらずいぶん筆が進んでいたので、没頭して読んでしまいました。
それで投稿のウサギさんの文で、ちょっと議論に混じれそうな気がしたので。

存在と認識は別物だけど、完全に別物ではない、というところです。
以後僕の言葉で書きます。

認識とは、基本的に人格の認識です。
(人に限りませんが、人は外部をすべて命あるものとしてみてますから)
そのとき誰かが死んで、でも世界はある、という場合、それは世界の存在感が、その誰かが死んだ一人分減った、といえます。
ある人の存在は、世界の形成の一部です。
一部といっても普通に使う意味の一部ではないですが。
生きるすべてのものにとって、ある人の死は、自分の人格の一部の死です。
死ぬ、という情報は、言葉で伝わります。
誰かが死んだ、ただその言葉を聞くだけで、僕は世界の存在感が減るのを感じます。
それはいじめで「死ね!」といった言葉を聴いたときに感じるショックと同じものです。
それは、普通に言うところの言霊、というか、言葉の持つ強力さです。
たとえ机上の議論であっても、論理で言葉を使う限り、無と有の境目を作り出す、
言葉の持つある種の強い絶対感覚-形のないのを形に変える力、の影響から免れることは無理だと思いますし。

なので、「依然として存在している」という表現は正確ではありません。
(何がなので?か、自分でもちょっとわかりませんが)
このあたりの抽象的な感覚の構造を考えるときに、僕は、数学の概念はかなり流用してます(厳密な数学的適用は残念ながら僕の能力では無理ですが、その学問のイメージは、感覚の構造を考えるときに役に立ってます)

存在や識は、娑婆の、この世、俗世のことであり、それは物質的な脳の機能と対応してるので、この世の学問で将来は分析可能だと思ってます。
(というか、既知の学問の使えるのは使うことでなんというか自分が安心しようというはらです。根拠のない個人的推測ですが)

でも、ほんと、難しい議論ですねー!読んでて汗かきますー。
上に書いた話もあいまいであまり自信はありません。
概要だけ取ってもらえたら・・・

[MC18-2-N] 西方法界 | 2009年3月 7日 (土)

sheepsato さん、お久しぶりです。
私も、たいへん背伸びしたところの問題をよくわからないままに論じております。
このあと、中論とバーナディッド・ロバーツさんのことに取り組んでいく予定ですが、
まだ、先は真っ暗です。
まずは、間違ってもいいから、中論を一通り通り抜けるところまで行ってみたいと思っているのですが、どうなることやらわかりません。
基本的には、行き当たりばったりです。
何かありましたら、またコメントを下さい。

私とは異なる見方を示されても、
そもそも話のできる同じ土俵に上がってきて下さる方というのは、
ある意味私に最も近い位置におられるお仲間だと思っております。

ですから、私から見ますと、うさぎ様はちょっと早くキレ過ぎで、
見方の違いは違いとして、長い目でみて話をしていけばいいのに、と思うのですが。

龍樹尊者の立場も微妙なところがあり、中論に入った段階で、
sheepsato さんがおっしゃるようなことも、もう一度厳密に検討することになるのかと思っています。
ただ、とにかく中論は難解です。


[MC18-3] 投稿: sheepsato | 2009年3月11日 (水)

こんにちは!
ウサギさんの言っておられたことはとても興味深かったので、投稿したんですが、
でも何か問題もあるのできっと、僕と同じように、なのでわざわざ探してここに書き込んでらっしゃるとは思うのですが。
上の馬祖の話を読んでて、これは、直観がもたらす信念の話だなーと思いました。
一月ころに、ここで悟ったその後?みたいな本を紹介されてましたが、「神はいずこに」でしたっけ?
図書館においてるのはわかったんですが、レベルが違いすぎて読む気がしないというかなんと言うか。縁があれば手にとると思うのですが。


[MC18-3-N] 西方法界  | 2009年3月11日 (水)

うさぎさんは、「天照大神」みたいに天の岩戸の中に隠れて出てきませんね。
肝心なときに隠れてしまってしょうがないですね。
よかったら、sheepsato さん、コメントで直接うさぎさんに呼びかけてみて下さい。

【ブログ全般の御案内】にも書いておきましたように、
このブログは私ではなく、投稿者同士が直接やりとりして戴いていいことになっています。まだ、一度もそういうことがないのですが、ブログを作ったときから、それをやってもいいことになっています。
「誰々さんへ」と直接相手を指定して、あとは普通通りに投稿して下されば、
私のコメント抜きで掲載します。
私は事務的な裏方に回りますので、自由にやりとりして戴いて差し支えありません。

しかし、うさぎさん、読んでるかどうか。
読んでいなくても、そのうち天の岩戸から顔を出すかもしれませんから、
宜しかったらどうぞ。
ちなみに、うさぎさんは前投稿者の求道者さんと同一人のはずです。

ところで、私からうさぎさんが書かれたこと(この上の[MC18-1]における

『しかしその認識する誰かが死んでその人の識が活動を止めても、世界は依然として存在している。』

の部分)に触れてみます。

非想非非想処は、我々の日常底ではなく、
既に「自分=宇宙」のレベルに達した地平です。
しかも、ここは主客も存在しない地平として、認識即存在が問題になっています。

従って、禅的にいうと、認識即存在というときの、認識の主体というのは(認識の主体はないのですが、敢えてこういうと)、宇宙(自分=宇宙)です。

[注] 『禅的にいうと・・・・(認識の主体はないのですが、』
           本文で問題にしているように、唯識では「見分」のみがあるとする。


従って、うさぎさんの説明は、我々の日常底としてはわかりやすい説明であり、そこからこういう疑問が出てきます。
しかし、非想非非想処では逆にそういう説明・見方(異なる次元の見方の混入)が成り立たないのだと思われます。
日常底的「私の死」は、認識主体たる宇宙の働きに過ぎず(道元・「生死は、ほとけの御いのちなり。」)、認識主体たる宇宙は不生不滅です。
それより何より、認識の主体と客体の区別もなく、したがって認識ということ自体もなくなった地平に、これらのことが全部あることを前提とする論理・説明を持ち込むこと自体がおかしいと考えられます(異なる次元の見方の混入)。

ただ、うさぎさんによると、龍樹尊者のことに触れられており、私とすると、えー、そうなの、という感じがしております。しかし、これは中論を読んでみないと何ともいえないので、私としては先の問題ということになります。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

          

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[P24] ダイナミックディスクにしてしまったハードディスクをベーシックディスクに戻す方法

誤ってハードディスクをダイナミックディスクにしてしまった場合など、
ハードディスクをダイナミックディスクからベーシックディスクに戻したい場合があります。

その方法に関しては、マイクロソフトの文書があります。

http://technet.microsoft.com/ja-jp/library/cc755238.aspx

 http://technet.microsoft.com/ja-jp/library/cc776315.aspx

以下は、上記マイクロソフトの文書だけではわかりにくい方のため向けです。
わかりやすく、コマンドプロンプトの操作方法を説明してあります。)

上記マイクロソフト文書の中に書かれている二つの方法のうち、ディスクの管理(コントロールパネル内)を使う方法は、それが使えるという状況なので問題ないでしょう。

問題なのは、ディスクの管理が使えない『せっぱつまった』場合です。
普通は Windows がインストールされているディスクをダイナミックディスクにしてしまった場合でしょう。

この場合には、二番目のコマンドプロンプトを使う方法によらなければなりません。

MSDOSを経験していない(=コマンドプロンプトの扱いに慣れていない)若い方のために、これについて、よりわかりやすく再説しておきます(これは私のような年寄りの役目です)。

-----------------------------------------------------------
私のように誤ってダイナミックディスクにしてしまった場合は必要ないのでしょうが、
ダイナミックディスクとして使用し、消失しては困るデータが入っている場合には、
開始する前にそのバックアップをとっておく必要があります。
ベーシックディスクに戻す過程で、ハードディスク上のデータはすべて消失してしまいます。

[ベーシックディスクに戻す方法]   

  (以下での記述上の約束です。
       HD=ハードディスクのこと、
        文字は、すべて半角入力する[ MSDOS・コマンドプロンプトの文法規則 ]
           大文字・小文字はどちらを使ってもよい[ 同じく、文法規則 ]
            [Enter] 最後にEnter キーを押す       )

(1)コマンドプロンプトを起動する。

     『最もせっぱつまった状況下でのコマンドプロンプト』とは、
     Windows のインストール・ディスク(DVD)から起動し、
     途中で、インストールではなく、『コンピュータを修復する』のコースに入ります。
     「システム回復オプション」のウィンドウが表示されたら、
     下方にある《次へ》ボタンを押し、
     次に表示されるウィンドウで、最下段にあるコマンドプロンプトをクリックします。

(2)次のように入力します(DISKPART プロンプトを起動する)。
         
          diskpart [Enter]

(3)DISKPART プロンプトで、次のように入力します。

         ① list disk  [Enter]  (ディスクの調査です。)
                  
                  HDが複数接続しているとき、0、1、2 と数字で表されます。
                  同時に、ディスクごとに、
        ベーシックディスクか、ダイナミックディスクかの表示が出るので、
                  変換しようとするダイナミック ディスクは、
                  何番のディスクなのかを紙にメモしておきます。
        (ディスク一つだけの普通の場合なら、0のみです。)

    ② select disk n  [Enter]  ( n には、0 などの上記番号が入る) 
           (操作対象とすべき、ダイナミックディスクの番号を指定する)
                [注] disk0 でも、 disk 0 でもどちらでもよい(スペースの有無)。

    ③ detail disk  [Enter] 
                ( ②で選んだディスク中に仕切られている
         ボリューム=パーティション=ドライブの調査です。)
         正確に言うと、ボリュームとパーティションとドライブは、
         微妙にその意味する範囲が異なります(ここでは省略)。
         ボリュームと表示されている数字に着眼して、
         そのすべてを、あるだけ紙にメモしておきます。

     
    ④⑤では、③で調べ上げた全ボリュームを削除します。
    ③で調べ上げたすべてのボリュームについて、
    以下の④⑤を繰り返して、すべて削除します。
        一応、数字の大きいものから小さいものへと削除します。

    ④ select volume=n  [Enter]
              ( n には、1、2、3、などの上記ボリューム番号が入る)
        ⑤  delete volume   [Enter]

 (4)DISKPART プロンプトで、次のように入力します。

        ① select disk n  [Enter] 
      (改めて、転換しようとするディスク番号[=(3)②と同じ]をもう一度指定する)

    ② convert basic   [Enter]  (ベーシックディスクに変換)

 (5)操作環境をすべて終了します。

    ① exit  [Enter] (DISKPARTプロンプトを終了する=抜け出る)

        ② exit  [Enter] (コマンドプロンプトを終了する=抜け出る)


以上

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[M17] 真諦・俗諦・非想非非想処

悟り(自覚)という把握があるということは、とりあえず、別にします。

    [注] 例によって、また無眼子の勘ぐりです。要注意

そうすると、言語的・認識的把握は主客構造の成立と本質的に不可分であり、
それはまた認識と存在が本質的に不可分であることを意味します。

本質的に不可分ということは、可分ではない、分けられないということであって、
主と客は本来分けられない、と表現され、
主即客である、と表現され、
主客は本来ないと表現されます。

認識と存在は本来分けられない、と表現され、
認識即存在である、と表現され、
認識も存在も本来ない、と表現されます。

そこで、『宗教の窓』[S2]で取り上げた、『一番元のところ』=「初めに、何があったか」に関しては、
キリスト教では、「初めに、『ことば(ロゴス)』があった」と言い表しています(ヨハネの福音書1章1節)。
仏教では、例えば『唯識』すなわち「唯、『識』のみがある」と言います。

では、『ことば(ロゴス)』=『識』なのか。
(この問題を取り上げて、論じているものがありますか?)
これは、また宿題です。

さらにここに、龍樹尊者の中論の言説(「空」)を絡めてみたいのですが、未だ私にはうまくそれができません。

ただ、「このように出発する、その一つ前のところ」というのは、
『初め』の一つ前のところ(初めの一つ前があるならば、初めではなくなってしまいますので、論理的に矛盾します)であって、『言語道断のところ』『言語も認識も及ばないところ』『不立文字のところ』になります。
この、『言語道断のところ』『言語も認識も及ばないところ』『不立文字のところ』は、もう『論じようがないところ』であり、『話ができないところ』『一切の認識・表現が及ばないところ』ということになります。

『言語道断のところ』『言語も認識も及ばないところ』から、言語的・認識的に表現された『一番元のところ』『初めに、何があったか』が出てきます。

そうすると、『言語道断のところ』『言語も認識も及ばないところ』が『真諦』であり、『法身(仏)』であり、
『一番元のところ』『初めに、何があったか』と言い出されるところからは、『俗諦』であることになります。言語的認識として把握される地平は、すべて俗諦になります。
そして、『真諦』のところが、言語・認識を超えた『悟り=体験』『そのもの』のところということになります。

ここで複雑なのは、『真諦』と言い出された以上は、『真諦』も『俗諦』なのであり、
それゆえ、さらに際どいながら、『それ』などともいわれるけれども、
ここは同じ問題に過ぎないということをよくよく了解しておく必要があります。

他方、『俗諦』ということであれ、それは『真諦』を背景にしているのであり、
『真諦』を指向(志向)しているのであって、
それ故、それは『真言』であるとか『神の御言葉』であるなどと、特別な注意を向けるべき旨が告げられることになります。
『俗諦』は、ある意味で、『真諦』への「媒介者(キリスト)」です。

この、『真諦』と『俗諦』に自由自在に出入りできるようになったところが『非想非非想処』であると思われます。
これは、主客の世界と主客のない世界に自由自在に出入りできるようになったところということでもあるかと思われます。
非所有処は、意思(「行」)=指令中枢が、個的意思(自我的意思)から大乗的意思(無我的・超個的意思)へと転換していくことによって、到達していく地平でした。

    [注] 前稿の、[M16] 空と個および自己の解体=存在・所有の解体、を参照

これに対して、『非想非非想処』は、このような『個からの脱却』がさらに進んで、想=認識中枢が主客的認識を脱して、主客のない世界に入ることによってもたらされる、と考えられます。

         
「非非」は、「ない訳でもない」ですから、結局「ある」ということで、「非・非非」とは、「ない・ないわけではない(ある)」です。

「想にあらず、  想でない訳でもない。」   

主客のない世界では、想(認識)即存在でもあります。

従って、「想にあらず、  想でない訳でもない。」は、言い換えれば、
「ある(存在)のでもない、ないのでもない。」であり、
つまるところ、「あるわけでもなく、ないわけでもない」ということではないかと思われます。

『非想非非想処』とは、「あるわけでもなく、ないわけでもない」世界ということになります。

主客のある地平では「ある」ものも、主客のない地平に入れば、「ない」。
主客の有無に関しては、「このブログを通じて交流のできたある方(sheepsatoさん)」が、「これは、スイッチのように、切り替えられる」というように言われていました。
私も、とりあえず、これは賛成です。臨済の四料揀などもそう見られます。
これが「出入り自由」ということの意味としておきます。

この「あるわけでもなく、ないわけでもない」世界において、『創造』神話が作られることになる、と考えられます。
「ない」側から「ある」側が『創造』される、と見るわけです。
旧約聖書の「創世記」であり、「三界は唯識の所造」と言われるのがこれです。

そこには、私が『宗教の窓』([M3] 宗教を論ずる枠組み(中枢の欠陥・・・無明・煩悩・原罪)で取り上げたように、必ずわれわれの「認識・指令中枢」の問題点も併せ語られることになります。

この「認識・指令中枢」の問題点(=欠陥)が、『ない側』『創造する側』(彼岸)と、『ある側』『創造される側』(此岸)とを隔てる『川』にあたります。

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                                      投稿されたコメント
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[MC17-1-1] 投稿: うさぎ | 2009年2月25日 (水) 

中々よく書けていますな。
だから「神」とは現れの最初であり、ロゴスであり、識なんですな。

「有無に落ちず」とは有と無との中間点であり「神」の立地点ですな。
だから「神」とは無(実際に何もないということではなく、
有の側からの識が及ばないために無としている)から出た最初の表現、運動作用、
すなわち識ですな。

従って、悟りとは「神」と同じ立地点にまで識を上昇深化することであるな。
もちろんそこで識は消滅、というより識とは客体の認識であるから、
識の中に入ってしまえば、客体は無くなるからであり
自己認識の状態ではとは自己を認識しないからである、
実際に我々も熱中している時には自分を忘れている、
その状態の究極が悟りの状態であるが、
実は識だけのことではなく、
色(形態)事態(=自体)も識の一つの表現形態であることが重要なポイント(な)のだよ。
それを色即昰空などと言うが。
色は形を持つ状態、空は形を持たない状態だが、この色と空も互いに切り替わっている。
だから空即昰色と続く。

よろしいか?


[MC17-1-1-N]  西方法界 | 2009年2月26日 (木)

コメントを頂戴し、ありがとうございます。

「色(形態)事態(=自体)も識の一つの表現形態であることが重要なポイント」

これは、『識』に具わっている形式(例えば、空間と時間という認識形式)が発現して、『色』の形式として現れているということ、すなわち、『色』の形式として現れていることは、実は、『識』に具わっている形式の投射・投影である、というような理解でよろしいのでしょうか。

そして、『光あれ、というと、そこに光があった』ということは、このことを意味するということで・・・・・・・。


[MC17-1-2] 投稿: うさぎ | 2009年2月26日 (木)

「光あれ」とは所謂「神」がそう発したということであるから、神=零点が「何か」を存在化させたことになる。

その神が発する行為が識である。つまり最初にロゴス(識:言葉と言うより理知の方が似合う、実際にギリシャ語のロゴスの第一義は理性である)が零点から現れたということですな。それからその神の識が光りあれと言って、光を存在化させた。

だから識とは時空ではなく、光が時空を意味すると解すほうが正しい。識は時空を越えたものである。

故に、色、無色を越えて、時空を越えて高度な識が働いていることになる。

また無と空とはまったく異なる概念であるが、これは物理学の法則でも説明可能であるな。

そして識が光を存在化させ、そしてまた識がその光に形態を与えた(投射というよりモールディングと言う方が適切)、だからこそ、空から色が出るのであり、形態を与えることを止めれば色が空に戻る。これもラボアジェの法則で説明可能であるな。

[MC17-1-2-N]  西方法界 | 2009年2月28日 (土)

 モールディングというのは、「形態を与えること」という意味ですね。

 言語的表現と分別的認識をどこでやめるか、
 しかし、その極限付近で、何をどの程度にどこまで、押さえる(押さえることができるの)か。
 このあたり、たいへん、難しいです。


[MC17-1-3] 投稿: うさぎ | 2009年2月28日 (土)

言葉で表現するとは、言語的表現の中で限定を与える、ということになる。
分別も同じで『何か』を認識する作用自体がその『何か』に限定を与えることになる。

つまり「神」という無限定に対して限定を与えるから、俗諦となり、無限定なもの(実相、真諦)の一面しか見ないことになる。
だから俗諦とは真諦の一面である、それ故に「この俗界のすべても実は神の現れ」であり、否定すべきものではない、
これが唯識の修正の論拠であり、中観の現代的解釈であるな。
ただし一面しか見ていないので実相自体ではない。

ここで「神」がゼロ点であり、そこにすべてが含まれる、ということは分離、分別が無い状態とも言い直せる。
そして「神が識を最初に出した」ということは神自体が自己分離をして識を出した、とも言い直せる。
そして次に「空=形態のない色」が出ることは、更なる自己分離である。

更に空や無色は「色」を分離するが、分離する度に実体性が高くなる、つまり凝縮し密度が高くなる。

これは量子力学でも証明されており、E=MC2の通り、物質、質量はエネルギーそのものである。物質とは元来エネルギー自体であり、エネルギーには形も空間も必要がない、だからビッグバンのゼロ点は空間的には無である・・とも一致する。

ただし物理理論には「識」が含まれていない。

人間の中の識は、色→ 空、無色、→最初の識へと深化することができ、
そうすることにより空や空以前の識も認識可能であり、
最終的には分離以前の「一」の状態、非想非非想処」に達すれば、
その中にゼロ点がある。
これが瞑想の論理であり、悟りの論理であるな。

どうかな?


[MC17-1-3-N]   西方法界 | 2009年3月1日 (日)

俗諦の側では、いろいろな把握の仕方があっていいのだと思うのですが、
「非想非非想処」乃至そこに近いところでは、二つの側面が問題になるような気がしております。
①は、究極的な俗諦の把握の仕方が明確になるという側面、②は、①と矛盾するのですが、
認識としての俗諦=俗諦的認識は、「非想非非想性」が強く出てくるが故に=認識が消失していくこととパラレルに、『ぼやけ薄まる(?)=後退する(表現が難しい)』ように理解していきたい感じがします。

すなわち、「非想非非想処」以前の段階で説くことができる俗諦的把握は、「非想非非想処」を論ずるに当たっては、可能な限り持ち出さず(②の意味で)、「非想非非想処」を特徴づける最小限のことだけを論じて、あとは沈黙したくなるという感覚なのですが・・・・・。

・・・・・・ちょっと、むずかしくてよくわかりません。


[MC17-1-4] 投稿: うさぎ | 2009年3月 2日 (月)

この論考に入る前に、重要な点を把握する必要がある。
つまり「空無辺」と「識無辺」であるが、この誤解が多い。
空無辺が深化して識無辺になると考えてはいけない、
同じものの深化と考えることから識から物質が生じたとの唯識論の間違いが起こってしまう。

空無辺の次は識無辺を知るのだよ、と言っているだけである。
空無辺の意味は色=「形あるもの」の元はエネルギー状態の無形無空間に還元でき、
逆にもなるということであり、
識無辺も同じように、「五感(色の認識)に囚われた識の状態」から
「微細で高度でな五感で認識できない識の状態」までの段階があるということを言っている。
早い話が、神の現れとは「物質と識」であると言っているのであるな。

矛盾しないのである、言葉で表現できないだけのことである。
神を愛、正義、美、平安などと表現するが、
それらの言葉は神の「属性」の一つに過ぎない。
どれも間違いではないが、愛=神と言えても神=愛ではなく、愛は神に含まれる、
つまり属性である。無限に言葉を書き連ねても神にはならない。

「非想非非想処」の状態というのも誤解が多い、
「神はすべてを知る」と言われるように、
山の頂上に登るようなもので、町並みやビルや山河がすべて見渡せる状態である。
想念の「想」とは概念のことであり、思考の限定することである。
「想わない」というのではなく「狭い想いの限定を解く」という意味である。

だから空を形態化すること、識の根元(アラヤ識)を概念化することは、
どちらも限定であり、それから解き放たれ、離れる必要がある・・・となるのだな。


そして色を形態化するのは神の無意識的な意識であり、
識を概念化するのは神と人間の自由意志(意識的意識)であると仮定すると、
宗教の謎が見えてくる。


[MC17-1-4-N] 西方法界 | 2009年3月 3日 (火)

このあたりになりますと、部分的にはおっしゃることが理解できても、
全体的な位置づけなども絡んで話の難しさを感じます。

まず、うさぎ様は、「識」の深化と段階性ということを言われております。
おっしゃられることの内容はある程度は見当がつく(=用語の使い方の問題だけであり、実質的には同じことかもしれない=但し、異論がない限り、共通語を使う方がベター)のですが、唯識ではそこは「識」の深化といわないで、「識から智への転換」( 四智 )という捉え方をしていると思われますので、そこを取り上げてみます。

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「識から智への転換」( 四智 )

すなわち、宗教的覚醒と修行が深化するに従って、

第八・阿頼耶識は、大円鏡智に転ずる。
大円鏡智は、すべてのものをありのままに現し出す智慧。

第七・末那識は、平等性智に転ずる。
平等性智は、自分だけが大切だ(自我)、というのではなく、自他共に平等に大切なのだ、ということを体現する智慧。

第六・意識は、妙観察智に転ずる。
妙観察智は、平等の中におのおのの特性があることを証する智慧。

前五識は、成所作智に転ずる。
成所作智は、あらゆるものをその完成に導く智慧。

[注]
   実は、ここにあげた、四智の一つ一つの定義・説明が、それ自体容易ではない、と考えられます。
  その辺に流布しているものも、どの程度あてになる定義なのか、未知数です。
  理解の進展に応じて、修正・再定義の必要性があろうかと思います

  

但し、四智は、ある時点でいっぺんに整うものではなく、宗教的深化に応じ、複雑な経路の中で、段階的に完成されていくものである、とされています。

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私は、『窓は空・空は窓』カテゴリーの、記述の以下の二つの稿、

[M7] 中枢における主役の交代と世界の見方・見え方の転換
[M8] 新たな中枢構造における動的態様と方向性

と、上記の四智の組み合わせという形でしか、先の問題が見えません。

すなわち、四智の方向への段階的深まりの中で、我々の中枢は直観を中心に、直観が前面に出る働き方になる、と理解しています。
四智の方向への段階的深まりは、直観の質的純化を意味します。

この意味での直観は、自己の深いところから出てきますので、その発生においては、主客がありません。
すなわち、認識即存在のところ、認識も存在もないところ、から出てくるのであって、『非想非非想処』とも調和的ですし、四智の完成へと純化していく方向は、『無住のところ(住するところなきところ)から、こころを起こせ』[ 応無所住而生其心]という最終的な要求(金剛般若経)とも調和的です。
但し、段階的境地に応じて、どういう質の直観が生じるかで、『劣化(限定)』が問題になる。

そして、この意味の直観が、第六意識を通じて具体化する(第六意識の認識に変換する)にあたり、分別的認識を通す段階で、限定・劣化が問題になり得ます。

この辺までは、恐らくうさぎ様と私との間で、基本的な不一致はないように感じております。

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これは、今までの経緯からの私の感覚なのですが、私は最終的にどこまでもどこまでも、自己の中枢に死んでいくこと(絶対無(=空)に対する不断の実存)を通して、劣化しない直観・より高次の直観へと導かれ、そこが宗教の終着点(『釈迦も弥勒も修行中』という言葉は、それを示す)であるという理解でおります。

すなわち、ここに実存が介在し、向こう側に真諦がある。
それがぎりぎり、認識即存在=非認識非存在のところで、向こうとこちらがなくなって一になります。その一から直観が発せられ(この意味で、初めにあるのは、『直観』)、それが第六意識に受け取られます。

この、第六意識で受け取られる以前の部分は、もうこれ以上あれこれと精緻化して構成すべきではない。
なぜなら、そうするのは、第六意識を働かせることになりますが、もうそこまで第六意識が出て行く局面ではない。直観の問題を意識が論じても、意味をなさない。
それをすることは、第六意識の出しゃばりであり、却って事柄の本質を混ぜ返して、わかりにくくしてしまうものである。第六意識としては、ピタッとここで黙することが、事柄の構造を最も端的に、明瞭に指し示すことになるのであり、さらにずるずるべったりに活動するのでは、非想非非想処の地平に反してしまうということにならないでしょうか。その後にすることといえば、禅問答のようなことがあるだけでしょう。
私は、そういうように思っております。

第六意識の使用を行き過ぎないということの一つの例として、例えばうさぎ様が論じた神の属性という問題を取り上げて見ます。
属性という語は、個(物)というものを認める場合の、その個の性質をいうわけですが、言語的認識も空じられて解体していくなかで、「属性」ということも解体してしまいます。すなわち、果たして「属性」などというものがあるのか、ということです。

いま、ここに茶飲み茶碗があります。これは、「固体」としての属性を持っています。
しかし、固体・液体・気体という属性は、その個体自体にまといついているものというよりも、その個体(=地球の位置)と太陽との距離であるともいえます。地球が水星の位置にあれば、すべてが気化してしまって、ここには「固体としての茶飲み茶碗」などありません。従って、「属性」という事柄は何かの写像のようにも解せます。とにかく、属性という言葉の意味も解体してしまいます。

その属性という言葉を使って、神(仏教でいう真諦を意味するキリスト教用語)を事細かに論ずるということ自体が、構造的におかしなところに入り込んでしまっている、というように思われるのですが・・・・。

[MC17-1-5] 投稿: うさぎ | 2009年3月4日 (水)

大丈夫かい?

まず智の段階的分け方というのも面白いが、こう言った段階的なものは所詮便宜上に過ぎず、7でも10でも分けようによっては分けられるよ?
またキリスト教であれ仏教であれ、その共通項を同時に模索する方が両方の考え方を知ることになり無駄ではない。
そもそも我々は人間種族であり、西洋人の仏教徒もいれば日本人のキリスト教徒もいる。
なんぞ神仏がそんな区別をすることがあろうか?

また言葉を使って記す限り、所詮概念で限定することになる、
属性とは個体に対して使う?
それならば無限の属性は述べられないが、貴方は智の分類を知っているが、
これとて貴方が絶対無と称することの属性なるよ。
愛だ慈悲だ言うのと大して違わないことに気付いていない。
一見細かく学問的に定義していることに満足しているだけのことだね。

それなら手始めに、成所作智の説明の、
「あらゆるものをその完成に導く智慧」とやらの意味が一字一句説明できるかな?
言っておくが、「智慧」というのも属性だよ。

[MC17-1-5-N] 西方法界 | 2009年3月4日 (水)

私においては、ここで問題を見つめ続けるということになり、
現時点では、これ以上論じうるものはない、ということになります。


[MC17-1-6]  投稿: うさぎ | 2009年3月4日 (水)

それならば、瞑想や禅修行でも始める方がましであろうな。

巷の万巻の書を読み、巷の万理をいくら駆使しても、
巷の思考の円環を抜けることはできないであろう。

いくら公案に頷く意識が生まれても少し遠い、
目が覚めぬ限り、「それ」に気付くことはない。

まして、同じ思考の繰り返しではどうにもならぬ。
M18の方がまだましたな。

おしまい。

[MC17-1-6-N] 
西方法界 | 2009年3月4日 (水)

いろいろ、勉強させて戴き、ありがとうございます。

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