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[M16] 空と個および自己の解体=存在・所有の解体

本稿のタイトルである「個および自己の解体=存在・所有の解体」ということは、
[M13]のタイトルである「欲界・色界・無色界の解体」ということと実質的に同じことであり、そしてそれは「一切皆空」ということとも同義です。
これは、またある意味で、「中枢」の死であり、解体でもあります。

 自証していない、すなわち、自分で悟ってはいないけれど、バーナディッド・ロバーツさんがあそこまで書いて下さる([M13]内の[MC13-2-N2]参照)と、
従来推測に過ぎなかったことにある程度の確信が持て、先の方まで見通せたような気分になってきます。
自証していない以上、基本的には無眼子だとしても、多少視界が開けたような気がすれば、可能な限り明確に確認してみたいと思うのが人情です。

個という概念をどう定義するかにもよりますが、
ここでは自性があるという意味で実体をもつものと定義すれば、
『空』の地平では、個も解体する(存在しなくなる)ということになります。

従って、「個人」としての『自己』も解体し、「個」というものの「存在」も解体します。
これは「中枢の死、ないし解体」と表裏の関係にあり、「主客の解体」が伴いますので、
「所有」ということも解体します。
禅宗的にいうと、この解体したところは、『平等』、『正』などの用語で指示されます。
従って、ここは「一」なるところ、あるいは「一」もないところということになります。

但し、このことは部分的・局所的な『差別』『偏』の存在が否定されるものではありません。
部分的・局所的な『差別』『偏』は認識され、その限りで存在します。
しかし、それは自性があるという意味における『個』ではない、ということが重要です。

これは、例えば「手」という局所的な部分が、「体全体」において占める関係に似ています。「手」は、「体全体」と『一即一切、一切即一』の関係にあり、究極的には「手」は解体し、「手」の本当の正体は「体全体」である、ということになります。
すべてが不可分一体の一つのものということになります。
「手」は「心臓」と切り離して(=独立して)存在しえないし、「心臓」も「手」と切り離して存在しえません。

すなわち、全体と部分の関係は、無限に有機的であって、
自性がある(=他に依存せず存在しうる)という意味(『個』の要素)が入り込む余地はありません。

このことは、自分というものはない、という形で表現されます。
しかし、また「自分」と「世界(宇宙)=大いなるいのち」は同じ大きさである、という表現もできます。
「自分」の正体は、肉体の範囲を超えて無限の宇宙(永遠のいのち)にまで及んでいる、ともいえれば、無限の宇宙(永遠のいのち)が自分だ、とも言えることになります。

ここでは、形式論理は矛盾を起こします。
そこで、絶対矛盾的自己同一(即非)というような特殊な論理(=実質論理)を用いないと、表現が成り立ちません。
あるいは、成り立った表現の間で、論理的な矛盾を起こしてしまいます。

『空』に至る過程は、「中枢の解体(死)」のプロセスでもあります。
『宗教の窓』で論じたように、『(中枢の)死と復活』のプロセスです。
これは、表裏の関係において進行します。
宗教の道筋への最下層の条件は、「欲界」が「ある程度」解体することが必要だ、とされます。
「欲界の解体」は、たいへん複雑なプロセスを通ると考えられますが、
宗教的道筋における最初にして、最下層の条件は「ある程度」の欲界の解体です。
これは、唯識の「資糧位」「加行位」あたりとパラレルであり、
南伝仏教でいう欲界での「初禅から第四禅」がとりあえずまず問題になります。
(但し、「初禅から第四禅」は螺旋的・回帰的に何度も何度も次元を変えて発展的に繰り返されると考えられ、またそれは、色界・無色界の解体と不可分に平行的にも進展すると考えられます。)

そして、唯識でいう「加行位」の最終段階で、色界(物質界)が解体します(空無辺処)。
色(物質)は、般若心経で空ずべき対象とされる五蘊(=色受想行識)の第一番目です。
色を空じた地平が、空無辺処です。
五蘊(=色受想行識)のうち、色を除く「受想行識」は精神的次元の要素ですが、
これは『対象』としてそうなのであって、
色界(物質界)の解体も、それに見合った「中枢の解体(死)」が平行的・表裏的に進行していることを見落としてはならないと思われます。
(なお、[M6] 出発点・立脚点の明確化、で明らかにしたように、この『窓は空、空は窓』のカテゴリーは、この空無辺処から、次の「識無辺処」への跳躍を試みています。ここは、禅宗で『見性』とされるところです。)

南伝仏教では、空無辺処から悟りの段階に入ったと見ているようですが、
禅宗では次の「識無辺処」に入ったところからを悟りの段階としています。
(なお、これで、カテゴリー『宗教の窓』の[S8]西方法界の立っている位置(その転換点)、で問題にしたところは、明確になりました。)

五蘊(=色受想行識)のうち、色を除く精神的次元の「受想・行・識」は、複雑な機能を営む方から空じられていくという順序になっています。
すなわち、「識・行・受想」という順序で空じられていくことになります。
ここは一つの重要なところですが、一見単純に見える「受想」が最も超越しにくい(空じにくい)とされているのです。

まず、この順序は、南伝仏教でいう「八解脱」、すなわち「初禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処」、そして、これに「想受滅」を加えて、「九次第定」などとして示されています。

唯識での「資料位」「加行位」については既に触れました。
そこでの「通達位」以降が南伝仏教の「識無辺処」以降と対応します。

また、精神的次元の順序が「受想・行・識」ではなく、「識・行・受想」となることについては、三能変の深から浅へという順序やその他の箇所で詳細に論じられています(「凡夫が凡夫に呼びかける唯識」(太田久紀著・大法輪閣)など参照)。
そして、バーナディッド・ロバーツさんも、「受想」という一見単純そうに見える問題が実に最後まで残っていくことを明確に指摘されています(『神はいずこに』のp.77で、「外的な感覚機能は、深い合一体験の静寂な安らぎに参加できず、取り残されるが、やがては、それらも静寂な安らぎに達していかなければならない(西方の要約)」旨が記されていますし、p.95でも「自己の表層的性質」という表現で同じことが述べられています)。
このようにして、「中枢の死=解体」と表裏の関係で(一体として)、『空になりきっていくこと』が深まっていくことになるが、それはまた、最初に述べたように「個の解体」でもあり、「自己の解体」でもあり、「存在の解体」「所有の解体」ないしその深化でもあるということになります。

ところで、「識」の解体(「識」を空ずること、「識無辺」への道筋)に関しては、[M6]~[M8]である程度論じましたので、その先のところ、すなわち、「受想」を空ずるところまではいきませんが、ここでは「識無辺処」から「無所有処」に至る道筋あたりを見たいと思います。
これは、バーナディッド・ロバーツさんのいわれるところだと、「神との合一段階」(仏教的にいうと、理事無礙=理事合一の段階)と思われます。

「無所有処」というところは、「所有」という言葉で語られますが、五蘊でいえば、『行(すなわち、意思および意思にもとづく行為=業)』が空じられる段階であると考えられます。
ここは少し難しいですが、『宗教の窓』における、指令中枢の欠陥=すなわち、我々の指令中枢が自我によって支配されていることが正面から問われることになり、
無我的意思=大乗的意思への超越が問題になります。
個の解体・自己の解体は、何より、個=自己を認識し、その実現を図ろうとする無明的意思の解体というところを通過する必要があります。

ここは、「末那識・阿頼耶識」の問題がクローズアップされるお馴染みのところであり、
無意識領域の浄化という形で、中枢の解体(個=自己の解体)が進むとされています。
『法の窓』の[H1]で取り上げたように、意業、口業、身業の三業につき、戒を参照しながら自分の『行』を清めていく修行が重要性を帯びるのも、無意識領域の浄化を見ていることを忘れてはならないでしょう。
こういった三業の修行(密教では、三密といわれているように重要視されている)は、消極的に見れば戒の遵守ですが、
積極的に見れば『個=自己的意思』、すなわち『自我的意思』を解脱・超越して『宇宙的意思=大乗的意思(慈悲)』になりきっていくプロセスになります。
ここに、菩薩の誓願・如来の誓願に主導される宗教的実存が中心問題化致します。
これは、『必然の過程である』と考えられます。

このようにして、「自己」が真の意味で解体していくとき、
「所有」を意味する「自己の」という観念=意味づけも消滅します。
これが『無所有』という表現が使われる意味であると理解します。
南伝仏教(パーリ語経典)で、釈尊は、「自己」という言葉と、「所有」という言葉をたいへん微妙に使われます。
これは、前にも述べたように、釈尊の自制(自己制御)であり、
最終的にはここで述べたように理解されるものと思われます。

さて、そうすると、ここで、重要なことに触れることになります。
第一に、このことが『必然の過程である』と理解する私の立場は、
大乗仏教の立場であり、『大乗仏教は釈尊直説である』という理解に明確に立脚することになります。

第二に、前稿の[M15] 十牛図と洞山の五位、で問題にした点ですが、
洞山の五位は素直にこの道筋が表現されていると見られるのに対して、
十牛図は「悟りの跡形を消していく」という角度からの見方がなされており、
どちらかというと『宇宙的意思=大乗的意思(慈悲)』の発現問題が裏に隠れてしまっているように見受けられますので、
両者の統一的・融合的理解が重要になるということをここでもう一度再確認しておくことになります。
他教・他宗との関係でいえば、十牛図の方が禅宗特有の要素が強いと思われるので、
この「裏に隠れてしまっているように見受けられる」ところを、しっかり表に出して受け止められるほどに理解する必要があります。

本稿は、一応ここまでにしますが、最後に、
先に述べた「初禅・第二禅・第三禅・第四禅」までは、その時々の解脱の次元に応じて、
繰り返し繰り返し問題になるという理解になるということをもう一度確認しておくことに致します。
色界・無色界の解体後、その空じられた結果を欲界に及ぼすということ(初禅・第二禅・第三禅・第四禅)は、大智が大悲へと進むことであり、キリスト教的にいえば、ロゴスが受肉することにあたると考えられます。

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