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[M15] 十牛図と洞山の五位

臨済宗の室内の経験も全くなく、見性すらしていない無眼子の私が触れるべきことではないのでしょうが、長年に渡って眺めさせて戴いてきたということに免じて、思い切って述べてみたいことがあります。
私の単なる直感で、何の根拠もありませんが、こうしておくと、どなたか、わかっておられる方から何か教えていただけるかもしれません。

不遜ながら、単刀直入に言えば、「十牛図」には何か一つ、物足りないものを感じており、それが「洞山の五位」には見いだされるということです。

教義的、思想的に論じます。

無自性空という大乗仏教の教義を私なりに消化すると、無明とは、本来存在しない『個』というものを実体として存在するものと見誤ってしまうことであり、
煩悩とは、『個=自己』としての意識(自我・自意識)である、ということになります。

[注]
      この二点は、唯識でいえば、依他起性と偏計所執性に、
      当ブログの『宗教の窓』カテゴリーでいえば「認識中枢の欠陥」「指令中枢の欠陥」
      の問題に対応しています。

そこで、『宗教の窓』カテゴリー的な言い方をさせていただくと、宗教にあっては我々の中枢のあり方にある種の変更が求められてくるわけですが、
それは『個(=個としての自分)』からの解脱であり、認識=存在において『非個=超個』になりきっていくことのように思えます。
ただ、「なりきる」ということは、言語・思想を超え、中枢それ自身を超える(?ここはたいへんむずかしい)次元の問題です。
そして、「なりきる」ということが成功し、真の意味で直覚的に悟ったとしても、
そこは言語・思想、ひいては中枢の極限領域の問題であり、
そのこととそれをどう言語的・思想的に認識し表現するか、
あるいは、そのようにして認識・表現されたものとの間にも、質的な隔たりが存します(参照 『宗教の窓』[S1] 宗教は、最終的には言語化・思想化できない)。

まして、「なりきる」というさとり体験が段階的に深化していくものであり、それに応じて開示される直覚も深化するのだとすると、
我々の中枢で、こうした問題を扱うのは絶望的に思えます(要するに、修行以外には何もない)。

そこで、「十牛図」の話に戻ると、極論すれば私には「十牛図」は『自意識(主客)』からいかに脱却して『存在そのもの』に帰るか、という色合いに見えます。

他方、「洞山の五位」では、第二位(偏中正)と第三位(正中来)との間に大きく転ずるものを感じます。
この大きく転ずるものが、「十牛図」には見あたりません。

元来、声聞・縁覚(独覚)と菩薩との間には、大きく転ずるものがあってしかるべきと思われますが、
「洞山の五位」を眺めていると、どうやら第一位(正中偏)と第二位(偏中正)の間あたりに、独覚と菩薩の境界を見ているようで、しかもその辺は曖昧に扱われています。
しかし、第二位(偏中正)から第三位(正中来)へは、明確なアクセントの違いが感じられます。
無眼子の私にはよくわからないのですが、ここは華厳経十地品(十地経)でいうと、第六現前地から第七遠行地あたりなのでしょうか。

いずれにしても、こちらに見る曲調というものは、ただただ『大乗的意思』になりきっていくというトーンです。

この『自意識(主客)から脱却して存在そのものになりきっていくトーン』と『ただただ大乗的意思になりきっていくトーン』。

言語的・思想的に認識してしまうと、このように二つに分離してしまいますが、
この『存在そのものになりきっていくということ』と、『大乗的意思そのものになりきっていくということ』とをどう見ていったらいいのでしょうか。

私は、単純なので、両方とも同時に絡んで現成していくべきことのように思われるのですが、
そうだとすると、始めに述べたように「十牛図」のみではちょっと物足りないものを感じます。

ここのところは、あまり明確に論じられていないような気がいたします。

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[MC15-1-1]  投稿 求道者 | 2008年11月13日 (木)

さあ、困った。文章自体が少し難しく高度なので答えられる人はごく少ないでしょう。

最初の文はもう少し素直に読めばよい。
■無明とはもっと総体的な言葉であり多くの内容を含んでいる、
要は「真理が見えずまた実相を見るための光がない、
つまり「明かりが無く=無明」「暗い」と素直に読めばよい。

無明(明かりが無いので)どこへどう行ったら良いのか分からず悩み煩う(煩悩)状態にある、と読めばよいだけ。
だから、「個というものを実体として存在するものと見誤ってしまう・・・」は無明の単なる一部てき解釈に過ぎない。
また煩悩とは無明(因)によって起こる状態(果)を指す言葉であり共に因果関係を成立させているのであり、
「煩悩とは・・・・意識である」の文章は文法的にも成立しない。

「 要するに、修行以外には何もない・・・」
■そんなことはない?
自転車に乗る実感を知るには自転車に乗ってみるしかない、リンゴの味を本当に知るには食べるしかないが。
乗り方とその感覚、食べ方とその味や色や組織的構造は言葉でおおよそ説明できるでしょう?
ただし、三人の盲人と象の喩えの意味をよく理解すること。

この『自意識(主客)・・・・『大乗的意思そのものになりきっていくということ』とをどう見ていったらいいのでしょうか ・・・
■どうして認識が分離するのか?
 大乗の意識とは他も自分と同じように区別せず慈しむことである?
 主客を脱却する「脱却」をどう理解し認識するかの問題に過ぎないのでは?
 言葉の定義を明確に出来ていないから、言葉の中をぐるぐると空回りしているだけのこと?
 自分で勝手な言葉の定義を行うことも「造語」と同じであり、
 貴方の実力なら悩むほど難しいレベルの問題ではなずだったのだが・・・?
 「始めに言葉ありき。言葉が来て光りがあった」とちゃんと書かれている。

 ひとりよがりも、この辺で。

[MC15-1-1N] 西方法界 | 2008年11月13日 (木)

いろいろ御指摘戴き、ありがとうございます。

迷妄のど真ん中にいるのでしょうか、どうにもこうにも、反応のしようがなく、
申し訳ありません。
もう少し、問題を抱えていきたいと思っております。

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[MC15-1-2]  投稿 求道者 | 2008年11月13日 (木)

反応できない、そーかあ、うーむ、うーむ うむむ、有無。だね。
もし、五位と十牛図の関係が気になるのなら。
十牛図は問題ないが、五位を現代文的に書き直してくれれば、
その関係が説明できるでしょう。
おそらく証知以降の五段階と関係が深いと思われるが、
さすがにあの五位の漢文調はよう訳しません。

[MC15-1-2N] 西方法界 | 2008年11月13日 (木)

五位は、おそらく漢文しか手に入らないのだと思います。
いろいろな意味で、現代語訳が生まれるに至らない背景があるのだと考えられます。

おそらく、唯一あるのがこのブログの「窓の外は空」カテゴリーにある [K7] と思います。
公然と恥を曝してもさしたる問題がない立場の人でないと、現代語訳などできないだろうと思い、敢えて便宜のために出したものです。
従って、内容は推して知るべし、まるでトンチンカンの訳になってしまっているところもあるでしょう。
私なりに集めた資料を使って、できるだけそうならないように努力はしましたが、それとて限界があります。

五位の訳に関しては、そんな状況であるかと・・・・。

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[MC15-1-3] 投稿: 求道者 | 2008年11月14日 (金)

なかなか面白かったよ。
洞山良价和尚五位の頌を分析しましたが、
やはり空無辺から相滅尽にいたる五つの段階の心理状態の描写に間違いないね。

以下におおよその翻訳をしたのでよく吟味して下さい。

① 正中偏

三更初夜([真夜中])、月明の前([真っ暗闇])、
怪しむことなかれ、相逢うて相識らざることを。
隠々として、猶ほ旧日の妍を懐く。

●真っ暗闇の中で、やがて月明かりの訪れる直前ではあるが、
その月と出会っても、まだ自分と月の明かりとの関係が明確には把握できないが、
それを怪しまないように。
心の懐には尚以前の俗界の美しさの誘惑を持っている。

② 偏中正

失暁の老婆、古鏡に逢う  
分明覿面、更に真なし,
更に、頭に迷ひて、かえって影を認むることをいかんせん。

●暁が来るのを忘れるほどに修練した賢人は、
古き鏡(いにしえからの相を映す鏡)を見出し、その相を明瞭に見るが、
まだ真理;実相を見るまでには至らない。

③ 正中来

無中に路あり、塵埃を出づ
ただよく当今の諱に触れずんば  また、前朝の断舌の才に勝れり。
この一位、上乗の菩薩。明暗雙雙(双双)底の時節あることを知るべし

●無の中に道を見出し、俗界を超えるに至るが、
もはや今ある忌み嫌うべきことに触れることはない。
また過去や未来を断ち、つまり永遠の今、を(知り)語る才を獲得している。
最も優れた菩薩である。
次には二元性の中の相対が共に底を打つ時が来ることを知るべし。

④ 兼中至

両刃鋒を交えて避くることをもちいず、好手還って火のなかの蓮に同じ、
宛然として自ずから衝天の気あり。
この一位は、有力量の菩薩、明暗不二の法輪を撥転し。

●両刃の矛を使っても傷つかず避ける必要がない。
つまり二元性対立を超えることを知っているので、もはやその概念に束縛されない。
あらゆる優れた技を使い回しても、火の中の蓮と同じで、そのまま意気盛な気がある。
権能の力を具備する菩薩であり、二元的な対立のない法輪を発転する。、

⑤ 兼中到

有無に落ちず、誰か敢て和せん。

●(涅槃とは)有と無のどちらにも行かず、その中間にあり、そこに留まることよ!

涅槃とは有と無の中間状態であることは、11月4日のメールですでに教えていますね、
ここにそれが出て来るとは私も驚いた。
この洞山の五位は明らかに、一般的な大乗や小乗の五位よりも更に深い真理を描写しているね。

[MC15-1-3N] 西方法界 | 2008年11月14日 (金)

一つの理解をお示し戴き、ありがとうございます。
深遠な内容で、現在の私の位置からどうこうコメントしがたいところですので、
長期的な検討課題として、今後この訳を長く参照させて戴きたいと思います。
重ねて、感謝の意を表します。

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[MC15-1-4] 投稿: 求道者 | 2008年11月14日 (金)

反応いただき幸せなり。
我がことのように気の毒でならなかった。だだそれだけ。

追加すれば、一つは正確な訳としては少々間違いに気付いているので更に修正が必要なこと。

そして第二に、禅のことはよく分からないが、
巷のあらゆる深遠な言葉の解釈には4つの解き方があり、
師自体のレベルと説かれる相手のレベルに応じて違っている。

その4つとは:

①俗世的な生活に準じた解法
②心の在り方しての解法
③理念的哲学的解法
④深遠な奥義としての解法

であり、
同じフレーズでも異なって解釈される、
それらは異なる解釈というより、内容のレベルが変化しているのである。

①~③までの解法を俗諦と言い、④のみが真諦である。
私が今回行ったのは③のレベル解法である。

そして④のレベルである真諦は基本的には師から弟子に対して口伝でのみ説かれてきた、奥義である。

この洞山五位は明らかに①~④までのすべてに通じる家中の秘伝であったと推測される。

私は④の解法を知っているが、常人はまったく理解できないだろう。

使用する言葉が巷ではまったく知られていない単語が使われる。

喩えで言えば、5才の子供が両親に「子供はどうして生まれるの?」と聞けば、
親は「パパとママが愛し合うからよ」と答えると、
子供は友達とそのことを話し合い「そういえば、時々キスをしてるよ、つばか何かがママのお腹に入るからだね」とか想像し合うが。

「男性器が女性器に挿入され、射精された生死と卵子が結合し、胚珠となり、その細胞分裂と増殖により胎児となる」と子供に説明しても、
まったく理解できないのと同じである、
しかしきわめて正確かつ論理的なのである。

だから師が高弟にその口伝を伝えている現場に貴方が同席していても、
何の話をしているのかまったく理解できないだろう。

しかし重要なことは、自分自身が心理的に抵抗を感じる言葉や文こそが自分自身の心の壁であり、
そのフレーズを留保するのではなく、可能な質問をぶつけて学ばなければ壁を突破できないということである。

師は弟子の思考作用の欠陥を見抜いているものであり、
弟子が進まない限り師は言葉を変えて同じ内容を何度もうんざり説くことになる。
なぜなら、本当の修行とは思考作用の変化を伴うべきものだからである。

[MC15-1-4N] 西方法界 | 2008年11月15日 (土)

>>・・・重要なことは、自分自身が心理的に抵抗を感じる言葉や文こそが自分自身の心の壁であり、
そのフレーズを留保するのではなく、可能な質問をぶつけて学ばなければ壁を突破できないということである。
・・・本当の修行とは思考作用の変化を伴うべきものだからである。

このあたりは、わかるのですが、④深遠な奥義としての解法、というところだけは、引っかかるのですね。

禅宗での基本的立場(私の基本的認識も同じ)は、『不立文字』で、「文字的・思想的に伝わる」ということはない、というスタンスに立ちます。
「冷暖自知」、すなわち弟子が自ら体得したところを、師はそれでよし、と認定する(『教外別伝』)に過ぎません。
したがって、禅宗でもし仮に『密』という言葉を使うとするならば、
事柄は「文字的・思想的に伝わらない」という意味において、『密(黙示)』なのであり、
これは、事柄の性質の問題に過ぎません。

禅宗での言い方は、「密」にしているものなど何もない。
すべて、「真理」は顕現しているのであり、
ただおまえがそれを捉えないから『密(黙示)』になっているだけである、ということになっています。

「洞山の五位」も、もったいぶって見せないよ、などとはいいません。
ただ、わからないのは「それ」をあなたが見ないのだから、しかたないでしょう、ということになります。

そして、禅宗では五位に見るように、ある程度言葉は使いながら、しかし基本的にその『密(黙示)』の部分は
言語・思想以前の、修証(修行と悟り)していく問題とされることになります。

メールで申しましたように、こういうほうが私の美意識に適い、
明かされない密義があるとか、ないとか言うのは、はっきり言えば私は好きではありません。美意識にひっかかるのですね。
言ってわかることはわかる、わからないことはわからないで、いっこうに差し支えないとおもうのですが・・・・・・。

宗教には、様々な副作用が伴うことは否定できません。
密義云々ということを言い出すと、うさんくさいことがたくさん入り込んでまいります。
言語・思想を超えるところは、明確にそういうものとしてそれを扱うのが筋ではないでしょうか。
そもそも、中枢の極限に関わる問題の一番重要なところに、『密(黙示)』などということを持ち込むべきではなく、むしろ、そういうところであればあるほど、可能な限り、そういうところは『明るみ』に出していく努力をするのがあるべき方向かと思います。

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[MC15-1-5]投稿: 求道者 | 2008年11月15日 (土)

そう、そういった自分の疑問もぶつけていくのです。
それが次のレベルアップへの扉だからです。
疑問をそのまま置くことは、それが壁となる限り先に進めない。

「密」というのには2つの意味がある。
第一は貴方が言う通り「唯お前には見えないから」に過ぎないということ。
「見れども見えず、聞けども聞こえず」である。
そこで、次の疑問点である「深遠な奥義」「不立文字」であるが、
貴方は「すなわち弟子が自ら体得したところを、師はそれでよし、と認定するに過ぎません」と考えている。

ではその「体得」とは何なのか?
禅問答的なもの?
鶴亀算を次元方程式で解くことを学ぶようなこと?
それとも何か他のこと?
つまり「体得」をどう考えているのだろうか?
そのことを明確に知っていないから、である。

結論から言えば、
第一に貴方は「副作用」つまりスピリチャリズムや邪教が入り込むことを警戒している。
第二に「密義」という表現にそういった邪教的雰囲気を感じ取る、
だから「隠されたもの」というのはうさんくさい、と考えてるということです。

私はもちろん誰もががそう感じることは初めから知っているし、至極当然だし世間には実際に邪教が多い。
だから一般向けにほ一般人の波長に延々と付き合い、長時間をかけて説明をしていくことも可能であり、
その方法は時間はかかるが安全でもあるので、私もその方法を採用している。
実際に殆どの場合、多くの人はそうした道を延々と辿る、それは仕方がないからだ。

しかし人によっては鶴亀算ではなく方程式を少し説明するようにしている。
それが奥義であり、その誤用は強力ではあるが危険だからです。

よく考えてみれば分かるが、瞑想や集中自体が、その本質は通常の意識状態を促進または変更する作業だということです、
実際に脳波の波形も変化する、もし単なる禅問答で済むならば、そこまでしなくてもよい。
そういうことです。
そしてその過程での意識の変化による理解力の変化を確認し合うのが、師と弟子との口伝による問答です。

そして奥義とは「その段階的に明らかになってくる実相」を弟子が怪しみ驚き逃げ出さないように、
事前にイメージ的なマップにして教えることです。
そして弟子の素質が個々人で異なり、歩む行程が少しずつ異なるために、そして落とし穴も多いので、
そのマップを最初から全部は開示することはしないのです。

それがうさんくさい「密儀」の本義であるが、
それでも書かれたものでも努力して読み取る意志の強さを求めるためにわざわざ難儀にしてある。

それは弟子の素質で第一に要求されるのは自主的な不屈の意志だからだ。
その理由は「体得行為」である瞑想や集中で意識や思念をコントロールすることは、
如何に強力な意志が必要なのか、言わずもがなだからであるね。
時にはだだっ子の方が後で伸びるのが早く面白いことがある。

[MC15-1-5N] 西方法界 | 2008年11月15日 (土)

禅宗では、「事前のイメージ的なマップ」として、
「十牛図」や「洞山の五位」が目に触れるところに置かれているので、
それと格闘しているわけで・・・・・・・・・・。

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[MC15-1-6]投稿: 求道者 | 2008年11月15日 (土)

おっと、勘違いしないように!
これらの私の説明は、「禅の教義全般に関する私の感想を述べている」のであり。
私が何かの宗教に係わっていて、それを説明しているなどとは勘違いしないように。
禅は修行に重点を置いているので、その点は評価しているという賛意の意思表示である。

私は無宗教であり、何かの宗教団体やスピリチャリズムに属したことは
生来一度もないし、
私が考えていることは、この説明の内容とは少し異なり、
もう少し学術的・俯瞰的に密義の実体と意味を捉えている。
私が誰かにこの様な話をするとすればボランティア以外の何ものでもない。
だからもはや無用と考えれば退散し時間をもっと有意義に使うだけである。

[MC15-1-6N] 西方法界 | 2008年11月15日 (土)

各人、皆同じというわけにはいきませんので、
この点はこの辺で・・・。

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[MC15-1-7] 投稿: 求道者 | 2008年11月15日 (土)

十牛図、洞山の五位は立派なマップなり、
深めれば体得の道に従い真諦を得ること可なり。
ただし真に深く観ぜられよ。

臨済の宗は公案を有効なる手段とし看話禅、
曹洞の宗は正身端座の座禅を手段とする默照禅を説くなり、
直の観が昂じ真に迫ることあらばいずれも有無に落ちざることを証すなり。
ただし真に正しく行じられよ。

さらば。

[MC15-1-7N] 西方法界 | 2008年11月15日 (土)

お互いに言いたいことを言っているだけなんですから、
さらば、などと言われず、またいつでもお願い致します。

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[MC15-1-8] 投稿 求道者 | 2008年11月15日 (土)

おいおい、そこまで児戯に落として下さるな。
未だよく見えぬとみえる。
もし助けが必要なら、いつでも遠慮無くそちらからおいでなされ。
袖触れ合うも何かの縁で行く末は気にはなる。
殆ど疲れを知らぬ私でも、さすがに少し疲れるし、
ものには限度がある、
これ以上は勘弁して下され。

有時節再見

[MC15-1-8N] 西方法界 | 2008年11月16日 (日)

そうですか。わかりました。
いろいろありがとうございました。

では、御縁がありましたら、また・・・・。

[MC15-2-1]投稿: 一応僧堂に3年いました | 2014年5月29日 (木)

面白いとも言えますが、概念的にとらえ過ぎな気はします。

特に、両刃鉾先をまじえるというのは、本当に両刃ですよ。室内で、師

家に打ち掛かり、師家も打ち掛かるのです。
その時の同時のありさまを言っています。

洞山五位は、それまでの則よりも非常にたくさんの箸語を付けるのです

が、それが終わったのちに、師家に打ち掛かることになります。

概念的に捉えても仕方ありませんよ。

[MC15-2-1N]西方法界 | 2014年5月30日 (金)

実際の室内を通られた方からの重い御指摘、ありがとうございます。
言葉の世界から抜け出して、それそのものの中に跳び込まないことには

、はじまらないのですね。貴重なコメントを戴き、あらためて感謝申し

上げます。

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コメント

面白いとも言えますが、概念的にとらえ過ぎな気はします。

特に、両刃鉾先をまじえるというのは、本当に両刃ですよ。室内で、師家に打ち掛かり、師家も打ち掛かるのです。
その時の同時のありさまを言っています。

洞山五位は、それまでの則よりも非常にたくさんの箸語を付けるのですが、それが終わったのちに、師家に打ち掛かることになります。

概念的に捉えても仕方ありませんよ。


西方法界 | 2014年5月30日 (金)

実際の室内を通られた方からの重い御指、ありがとうございます。
言葉の世界から抜け出して、それそのものの中に跳び込まないことには、はじまらないのですね。貴重なコメントを戴き、あらためて感謝申し上げます。

投稿: 一応僧堂に3年いました | 2014年5月29日 (木) 17時55分

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