« [M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体 | トップページ | [M15] 十牛図と洞山の五位 »

[M14] 唯識でいう依他起性とキリスト教でいう被造物性

前稿[M13] の冒頭で、『キリスト教の中核教義・・・万物・万象の被造物性(被造性)の意味するところは、仏教でいう万物・万象の無自性性ということと究極的には同じでなければならない』と書いたところ、立て続けにお二人の方からコメントを頂戴しました。
一般に関心を持たれているところであり、他方なかなか突っ込んで論じられることがない(突っ込んで論ずることがむずかしい)ところです。

そこで、あんな思わせぶりな表現だけではいけない、少なくとも私の理解が及んでいるところだけは明示しておくべきかと思い、理解の途上であるなりに補足しておきます。

   ---------------------------------------

キリスト教(聖書)には、神(造物主=創造神)が天地(=万物・万象)を創造した、という表現で語らる根本構造・中核教義があります。
これは、万物・万象には自性がないという仏教(大乗仏教)の根本理論に触れており、両者は交叉するのではないかと思われます。

概念的にパラレルに最も接近して捉えられる点が一つあります。
それは、キリスト教(聖書)でいう、万物・万象(天地)の『被造物性(被造性)』というところ、
これを、仏教的には唯識の表現である『依他起性』というところに対応させてみては
どうか、ということです。

(大乗)仏教では、万物・万象には『自性がない』ということ、これが『空』ということ(一切皆空)・『諸法無我』と同義になっています。
「自性」とは、『他に依存せず、自分自身のみで存在しえる性質』をいいますから、
万物・万象には『自性がない』ということは、万物・万象は『他に依存してのみ存在している』『自分自身ではないものによって、自分があらしめられている』ということになります(これは、見方を変えれば、相即相入の入れ子構造である)。
これを唯識では、『依他起性』と表現します。
この『他に依存してのみ存在している』『その存在は他によってあらしめられている』という角度に焦点を当てたところが、
キリスト教でいう『他によってできている』『他によってつくられている』ということ、すなわち、被造物性(被造性)ということに一致してきます。

『他によって』の『他』を、『神』に置き換えれば、キリスト教の根本構造・中核教義ができあがります。

個的存在の次元においてみられる『依他起性』(=無自性)は、対応する仏教の大局観としては、縁起の思想になります。
これに対して、個的存在の次元において見られる『被造物性(被造性)』は、キリスト教の大局観としての神の天地創造の思想につながります。

ということは、キリスト教の神の天地創造の思想と仏教の法界縁起の思想はパラレルである、ということになります。キリスト教は、ここで仏教の『縁起』の思想につながります。仏教は、ここでキリスト教の『天地創造』の思想につながります。

私の理解からすると、こういうことになります。仏教の方からキリスト教を見た場合です。
これに対して、キリスト教の側では、万物・万象が被造物であるということを、より突っ込んでどういう意味に理解しているかということが私にはよくわかっていません。
こういうことに口を差し挟みながら、不勉強で申し訳ありません。
ただ、このことは少なくとも普通、被造物性(被造性)の意味はキリスト教でも、あまり突っ込んで語られていないということをも意味します。

 なお、この部分の理解を、即非の論理(即非の構造というほうがよいと思う)として、華厳経の『一即一切、一切即一』を使いながら捉え、
キリスト教のインマヌエル、すなわち『神は私たちと共におられる』という表現が、これとパラレルであることを論じたものとして、
カテゴリー『宗教の窓』の[S11]神は我々と共におられる(イエス・キリストの正体)、
および [S12]初めに言があった(世界は、どのような構造に創られたのか) 、
があります。

ちなみに、話を少し周辺に発展させれば、
自性がある、すなわち、他に依存せず、自分自身で独立して存在できるのであれば、それを固定して執着しても、その執着の対象自身を把握し続けることができることになります。無明である我々は、普通こう捉えています。
しかし、実相は自性がないのであり、他に依存するために、他のあり方によって自らが変化し流転し、無常であること極まりない、実体がない(被造性)ということになります。固定することが不可能です。従って、そこに執着しても『苦』が生じるだけに過ぎません。「執着して所有しようとしても」、実体がないからつかみようもありません。

他方、前項[M13] で論じたように、自性がないということで、『個(我=自己)』というものが解体します。
すなわち、本来『個(我=自己)』というものはない(従って、個による所有ということもない)のであって、あるのはひとつの全体のみ(それを神と呼ぼうが、永遠のいのちと呼ぼうが、仏と呼ぼうが、・・・・)、敢えて言えば、全体の『部分(一表現点)』はあっても、全体から分離し、全体から独立した地位を保つ『個(我=自己)』というようなものは、『偶像=幻想』なのであって、『実相』ではないということ。

この『偶像=幻想』こそが、無明・原罪なのであって、本来の『実相』に回帰する道筋が宗教だといえば、それだけのことになります。

但し、問題は二方面に渡ります。一つは、認識を改める方向。これは、私の宗教の窓のとらえ方でいうと、認識中枢の問題を解決する方向です。
もう一つは、指令中枢を改める方向です。これは、唯識的にいうと、偏計所執性を取り去り、大乗的意思へと同化していく(なりきっていく)道筋です。
この二つは、相互に関係し合いながらも、前者から後者へと重点が移っていくという進行になるようです。

[後記注]
 キリスト教でいう被造物性(被造性)に関しては、更に仏教でいう「俗諦の仮設性」との関係を合わせて論じなければなりません。
これは、本稿に続く[M21]の稿、すなわち、
カテゴリー『窓は空、空は窓』の中の[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)、で論じられます。

直接には、以下のリンクから見られますが、内容的には中間の稿も読まないと理解しづらいかと思います。
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-ffe1.html
   

|

« [M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体 | トップページ | [M15] 十牛図と洞山の五位 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« [M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体 | トップページ | [M15] 十牛図と洞山の五位 »