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[M13] 空(自性無性)と欲界・色界・無色界の解体

大乗仏教の中核教義は、『万物・万象には自性がない(万物・万象の無自性性)』、
すなわち、万物・万象は『空』であるということにあります。

そうすると、キリスト教と仏教を統一的に理解しようとする傾向性の強い私とすれば、
キリスト教の中核教義『万物・万象が神(造物主)の被造物である(万物・万象の被造物性)の意味するところは、このこと、すなわち、仏教で言う万物・万象の無自性性ということと究極的には同じでなければならない、では、果たしてそう見ることができるか、ということに考えが向いて来ます。

[注]  この点に関して次に、
   [M14] 唯識でいう依他起性とキリスト教でいう被造物性、を追加しました。

しかし、そのことは当面、問題にするのはやめて、仏教内における足場を固める方が先決です。

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菩提樹下に坐し、明けの明星を機縁に大悟した釈尊の説法は、悟りの深遠性・不立文字性の故に、極めて限定的にして、しかも自制的です。
しかし、それ故に多くの場合、釈尊の説法は表現において具体的に見えます。

大乗仏教の教義は、その限定性・自制性から離脱して、釈尊の悟りの中心を真正面から精一杯に捉え返すものであります。
それ故に、捉え返された『釈尊の悟り』は、表現において抽象的になります。そして、それが上記、空観である、と考えられます。

しかし、そうするとそのように捉え返された『釈尊の悟り』は、『釈尊の悟りではない』『釈尊直説ではない』という理解も生まれます。

大乗仏教の流れの中にどっぷり浸かっている日本仏教の中にいると当然の前提になってしまっているこのこと(大乗仏教の空観)は、果たして本当に(実質的に)『釈尊直説』であるのかを、我々はどこかで一度は自分なりに検証してみる必要があろうかと思われます。
   なぜなら、さもなければ、釈尊が文字通り直説される原始仏教と我々の慣れ親しんでいる大乗仏教を重層的に(=矛盾のない、一貫するものとして)重ね合わせながら、その双方から学ぶことができなくなります。
「パーリ語経典に書かれている教え(西方注・・・上座部仏教=小乗仏教)を自らの実践の土台に据えることなしに、自分は大乗仏教の信徒である、と言ってみても、それは意味がない」と言われるダライラマの言葉に応えるすべがなくなります(ダライラマ著「般若心経入門」P.72)

[注] 不勉強な私の感じに過ぎませんので、本当にこういってよいのか確信は持て
     ませんが、中国・日本仏教では、これの検証が抜け落ちているように見えます。
     チベット仏教では、整理されているようです。

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縁起(滅諦としての縁滅も含めて)という事実、無常(諸行無常)という事実は、
その根拠をもう一つ遡れば、ということは、より根本的に言えば、
諸法無我ということ、すなわち、万物・万象は『空』であるということ、『万物・万象には自性がない』ということにまで絞り上げることができます。
『自性』とは、『他に依存せず、自分自身のみで存在しえる性質』と理解しておきます。

ここにおいては、『個(個物・個体)』というものが解体します。従って、『自分』というものも、『(自分の)所有』ということも解体します。
『存在』ということも解体してしまうかに見えます。

このことによって、欲界・色(=物質)界がすべて解体してしまいます。
のみならず、釈尊は無色(精神・中枢)界の極限を実証し、無色界の解体も確認され、
その上で、一見無色界の「想受滅」が到達点のようにも見えますが、そうではなく、再び初禅に戻り、第四禅で「般涅槃(死)」されます。

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竜樹尊者(ナガールジュナ)は、無色界も解体されてしまったところに立って、
そこを究極的に『空』と呼び(すなわち、法空・人空ともに含む)、
そこからそれが『釈尊直説である』と読む大乗仏教の基礎を確立します。

表面上は娑婆世界からの離脱を説く釈尊の原始説法の曲調と、
娑婆世界とは離れた位置にいながら、娑婆世界への積極的関与を説く大乗仏教の曲調との、
一見異なるように見える調子の内在的統一は、深くこのこととの関連で捉えられ、理解されていかなければならないと思われます。
このようにして、大乗性の曲調は、『釈尊直説である』と納得される必要があります。

無色界も解体されてしまったところに立つところからはじめる竜樹(ナガールジュナ)の『中論』は難解を極めます。
無色界も解体されてしまったところ、そこには、一体手がかりにできる=立脚点の基盤にできる何があるというのでしょうか。
もとより、大乗仏教(「金剛般若経」)では、「無住のところ」=足場のないところ=心の構えのないところから心を発するのだ、とされています。
しかし、そのことが導かれる、ぎりぎりの大乗仏教的基盤、そしてそれは竜樹尊者自身が釈迦直説であると理解したところ、竜樹尊者はそこから説き起こしているということになります。

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このあたりのことが、たいへん気になっており、
これからしばらく、追求していくことになるのかと思われます。

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[MC13-1] 投稿  通行人 | 2008年10月13日 (月)

> キリスト教と仏教を統一的に理解しよう
> とする傾向性の強い私とすれば…

両者は異質です。
統一的に理解すべきものとは思われませんが。

[MC13-1-N]  西方法界 | 2008年10月14日 (火)

議論には適しませんが、この投稿には、たいへん基本的な意味があって、私の予想では、圧倒的多数は異なると思っており、
他方で、根強い少数派として、基本的に同じという方向で見る人たちがいるのではないかと思っております。
但し、何をどういう次元で見るのか、ということも絡まり、話は簡単ではありません。

同じという方向で見ようとする私の直感的感覚というのは、同じ根本問題に対して出てくる答えというものは、洋の東西を問わず、究極的には一つ(同じ)ではないのかな、という『読み(?)=予想』でしょうか。
ただ、一方で「エンピツ」と呼んでいる事象を、他方では「ペンシル」といっている、というような、対応関係の理解が容易なことではありません。
むしろ、その逆その対極で、対応関係が最後の最後まで見えてこない究極の問題である、というようなイメージを持っています。
「対応関係が最後の最後まで見えてこない」と思うタイプの人は、どちらかというと、後者の少数派になるのでしょうか。

では、結論は?

まだ、出ていません。ただ、ありそうと思う方向です。

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[MC13-2]  投稿 無条件 | 2008年10月19日 (日)

初めまして。
キリスト教と仏教を統一的に理解しようという点で、最近非常に興味深い内容の本を読みました。
バーナデット・ロバーツ著「自己喪失の体験」です。

キリスト教修道生活の末に、自己というものを失い、人格的な神が消失し、色界・無色界を超える体験を克明に綴っています。
ラーマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジの語る「真我」や仏陀の「解脱」の実体験が現実感をもって迫ってくるような内容です。

[MC13-2-N] 西方法界 | 2008年10月20日 (月)

興味深い情報をありがとうございます。
今まで知りませんでしたが、エックハルトに似ているように思えますね。

キリスト教と仏教を同じように見るのか、異なるものとしてみるのかという問題は、いずれの側にせよ、柔軟な見方をしていくことが大切であろうかと思っております。

少なくとも、統一的に見ていくというスタンス『を』(or 『をも』)持っている場合には、
同一問題=同一事項が、全く異なる表現として与えられていることになり、
全く異なる表現を同一問題=同一事項として読み解いていくという、ありがたい道筋と景観を手にすることになるのだと思います。これには無限の功徳があるにちがいありません。

我々の中枢には「自己(個)」というものが「ある」と見えてしまうこと、
そのことが原罪であり、無明であるなら、
実相は「非自己(非個)」であって、
「自己(個)」は、実のところ「非自己(非個)」であったという体験(実相に至る体験)が、原罪・無明から解放される体験であり、
それは当然に「自己喪失の体験」になってきますものね。

ただ、こんな理屈を並べても、体験にはとどきませんが・・・・。

ここは我々の存在と中枢のありかたが密接に絡む極限の次元・時空でのお話。
お互い、じっと見つめていきましょう。

なお、私が調べたところ、ご紹介戴きました書籍は、「紀伊国屋書店」から出ており、
また、ネット上では下記よりバーナデット・ロバーツさんの「自己喪失の体験」の概略を見ることができるようです。

http://www.geocities.co.jp/noboish/case/nobunrui/roberts.htm

無条件様、どうもありがとうございました。

[MC13-2-N2]   西方法界 | 2009年1月7日 (水)

   西方法界によるバーナデット・ロバーツさんの紹介

御紹介戴いたバーナデット・ロバーツさんに関して、その著書を読んだところ、
たいへん衝撃を受けましたので、改めて私の立場からここに紹介させていただきます。

バーナデット・ロバーツさんは、とりあえず一言でいえば現代版のエックハルトと理解していただければよいかと思います。
しかし、その到達点の体験を現代的表現で、かつ綿密・緻密にお書きになっているという点で、エックハルトをはるかに超える側面と意味を持っていると思われます。私がたいへん衝撃を受けたのは、この点によるところが大きいと思われます。

日本語に翻訳されている書籍は、現時点では『自己喪失の体験』(紀伊国屋書店)と『神はいずこに』(日本教文社)の二冊です。そして、この二冊は内容的にもセットで理解されるべきものと思われます。

先に出版された『自己喪失の体験』は、『主客も、神も自己もない一元的世界』に踏み込んだところの記述そのものです。

これに対して、『神はいずこに』は、従来のキリスト教神秘主義の正統派理解(カトリック的理解?)では最終局面にあたるとされていたところが詳細に記述され、そこを通り越してその先に位置するのが『神はいずこに』に書かれているステージであることを詳細に位置づけたものです。

私にとって、バーナデット・ロバーツさんはたいへん重要な人になってしまいました。
しかし、『自己喪失の体験』が世に出てから二十年ほど経っていますが、名の知れたところからの、バーナデット・ロバーツさんへの評価は、未だ一切ないように見受けられます。

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[MC13-3-1] 投稿: gold | 2008年11月29日 (土)

はじめまして、西方法界さん

仏教で言う、色すなわち物質に対して、空は、何も無い、ことを指すのではありませんか?

それと、バーナデッドの自己喪失は、私も読みましたが、
主客を喪失した彼女が、話を語っていますが、誰が語っているのですか?

EO師の本の中で、紹介がありました。

それでは、失礼します。

[MC13-3-1-N] 西方法界 | 2008年11月29日 (土)

こちらこそ、初めまして。

私は、無眼子の凡人です。
また、ごく最近、検索の際に「無明庵EO師」を知りました。
無明庵EO師は、大悟見性されている方ということで、
私などとはとても比較になりません。
以下、そのつもりでお読み下さい。

<仏教で言う、色すなわち物質に対して、空は、何も無い、ことを指すのではありませんか?>

私自身仏教でいう「空」が明確にわかり、
これでよしという確定した理解に至っておりません。
最も難解なところで、現在その辺も含めて詰めている最中です。

中途では相互のフィードバックがあるとはいえ、
最終的には全体的・実質的理解が先行し、
理解と表現の道具に過ぎない個々の概念はそれに応じて決まってくるわけですが、
それよりなにより、言語的・思想的把握を超えた次元の事柄が扱われているわけで、
その辺がたいへん難しく、微妙です。
うかつなことはいえない難しさがあります。
(それを承知で、結構『うかつなこと』を言ってしまっているのですが。)

バーナデッド・ロバーツさんが書かれていることは、
私にとってはたいへん衝撃的なのですが、
仮にその地平(バーナデッド・ロバーツさんの到達した地平)が
確かなものだと前提して、
ではその場合「空」はどう捉えられることになるかというように考えたとしても、
容易に答えが導けません。お許し下さい。

<主客を喪失した彼女が、話を語っていますが、誰が語っているのですか?>

禅宗的に見ると、この種の問いは、問う側と問われる側の意図・水準・スタンス等により、一筋縄ではいかない性格のものですが、それはそれとして置いておきます。

小学生でもわかる次元で、このことを聞かれたのではないでしょうが、
なにからなにまで無明底、
すなわち通常の見方の次元(自意識メカニズム=主客・言語・思想底)にたてば、
語っているのはバーナデッド・ロバーツさんです。

自意識メカニズム=主客・言語・思想底で理解し、
バーナデッド・ロバーツさんが最終的に至った境地に即して答える次元にたてば、
行為というものは、主客もなく、「意図なしで行われる純粋行」であり、
したがって「行為は存在と同一である」、
すなわち、行為というより存在になってしまったものとされています(「自己喪失の体験」p.90あたり)。
従って、そこは、
<主客を喪失した彼女が、話を語っていますが、誰が語っているのですか?>
という問いが成り立つ余地のないところであり、質問自体が意味を失っています。
意味を失った質問に対する答えはそもそも問題になりません。

次にここから先の答え方あるいは対応は、
未証拠者である私がしても意味がないものですが、
そうお断りした上で付け加えますと、

禅宗的には、上記を禅的に表現するために、
例えば「手を耳にもっていき、私が gold さんの質問をよく聞き取れないふりをする」というようなものとか、
意地悪く「gold さんが答えれば、私も答えよう」と答えてみたり、
「gold さんの見ている前で、マル(三角でもかまわない)を書いて、わかりましたか」といってみる、
または、「私が、goldさん、と呼びかけ、はい、と返事をさせて、誰が語ったのかな、と逆質問する」
などいろいろあるのではないかと思います。

ただ、結局そんなマネをしてみたところで、何の意味もない(?)のであって、
私は結局自分自らのあり方がどれだけバーナデッド・ロバーツさんに近づいていけるか、ただそれだけが問題なのだと思っております。

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[MC13-3-2]  投稿: gold | 2008年12月1日 (月)

こんにちは、西方法界さん。

EO師は自ら、大悟した、と言われていましたが、凡人の私が、どうやって、判断すれば、いいのでしょうか?

バグワン。J・クリシュナムルテイ。ラマナ、マルハシ。
ダンテス、ダイジ。彼らは、少なくとも、100年以内の人々ですよね。

バグワン和尚は、私などは、もともと、いない、と言っています。

ヴェーダでは、神のリーラ。つまり神のゲームなのでは、と述べています。ますます、分からないですね。

畢竟、一休禅師が正しいのなら、この世は、夢のまた夢。
なのでしょうか?

[MC13-3-2-N]   西方法界 | 2008年12月1日 (月)

本当に宗教問題っていうのは難しいですね。

まず、通常の中枢のあり方では問題がある(無明・原罪)っていわれます。

しかし、事は中枢の問題ですから、
問題を抱えた中枢自身が、どのように自分自身が問題を抱えているかということが
わからないという構造になっています。

そこで、中枢自身が修行して問題を解脱しながら、
解脱した中枢自らが自らを見ることによって「悟っていく」しかないようです。

すなわち、自分の悟りの程度は、中枢の解脱度と裏表の関係(比例関係)になっているということだと思います。
自分の中枢の解脱度に応じた悟りがその人に与えられるということになります。

ですから、自分も無自己となって自意識のメカニズムが停止・消滅しないと、
バーナデット・ロバーツさんのおっしゃることは真にはわからないという宿命に
おかれているわけで、これはもうどうにもならないことなのですね。

そこは、自他・主客のない世界だといわれますから、
「私などは、もともと、いない」という表現になるのだと思います。

でも、お互い、自らその地平になりきることによって、
それを実感しないことには最終的に決着しませんね。


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[MC13-3-3]  投稿: gold | 2008年12月2日 (火)

こんばんは、西方法界さん。

あなたのおっしゃる通りだと思います。
悟り、究極に到達し尚且つ、理解した人のみが、言及できるのだと、思います。

過去の大悟者は、人間は到達できるのだ、と言っています。

見ている人、観察者と観照者は、どう違うのでしょうか。
もしよろしければ、西方法界さんの考えをお聞かせください。

[MC13-3-3-N]  西方法界 | 2008年12月2日 (火)

精一杯やってみます。

まず、語感からいって、観察者の方は通常の無明底での見方をする人、
すなわち、自我と分別の仕組みを通して見ている人、
あえて付け加えれば、それ以外の見方には未だ到達していない人ということです。

観照者の方は、宗教の道筋の道中が深まるに応じて、
何重かの定義の仕方ができるのではないか、というような気がしております。

私のレベルは高くないので、
まず絶対受動性に映し出して見ることが観照であり、
そういう見方をする人を観照者と定義してみます。

絶対受動性とは、
まずは、意識の積極的・能動的働きを一切停止し、
受動的働きだけで受け止めることである、
としておきます。
要するに、非思量であり、止観の状態です。

この意味での「絶対受動性」のことを、バーナデッド・ロバーツさんは、
「沈黙」という言い方をされていると、私は理解しています。

そして、バーナデッド・ロバーツさんのいわれる「沈黙」が、段階的に深まるように
「絶対受動性」も段階的に深まっていくと考えられます。
「観照」は(仏教とキリスト教とでの違いが問題になりえますが、大胆にいうと)
バーナデッド・ロバーツさんのいわれる「観想」にあたります。
したがって、「観照」の意味もそれに応じて深まるということになるかと思います。

「絶対受動性」の深まりは、五蘊のうちの色(物質)を除いた「受想行識」を空ずること
と対応関係にあり、
空じられる順序は「識(の積極的・能動的働きとその生産物)・行(意思=我と所有)・受想(イメージ感覚)」ということになるのではないかと思います。
この点に関しては、ごく最近ある方によるお導きで理解できるようになったばかりです。

バーナデッド・ロバーツさんの場合、これとどう対応すると思われるかについては、
いずれ論ずるつもりでおります。

そして、そのことと関連を保ちながら、
いわゆる理事無礙法界がバーナデッド・ロバーツさんのいわれる神との合一段階(第一段階)に対応し、
事事無礙法界が無自己の段階(第二段階)に対応するのではないか、
というような気がしております。

無自己の段階(第二段階)は、見ることと見るものと見られるものが一つになり、
『純粋主体性』といわれているように「観照」という言葉が使えるか否かのぎりぎりのところになろうかと思われます。
まるで次元の異なる世界を、こちら側の次元の言葉を使って表現しようとするわけですから、やむをえないということでしょうか。

なお、仏教、特に禅においては、もっと早い段階で主客のないところに入る、ということがいわれるわけですが、バーナデッド・ロバーツさんの無自己の段階(第二段階)は、一時的一過的な体験あるいは静中(坐禅中)のみの体験というのではなく、日常も恒常的に続いているという「とてつもないもの」なので、相当に目のある人でないと正しい対比はできないのであろうと想像されます。

以上、私の位置から、想像も交えながら見ると、こんな風に見えております。

[MC13-3-4]  投稿: gold | 2008年12月3日 (水)

おはようございます、西方法界さん。

非常に丁寧な解説、有難う御座います。

質問ばかりして、すいません。

ところで、絶対受動性は、理解しましたが、

たとえば、止観の状態の時、絶対自由意志は有るのでしょうか?

絶対自由意志とは、たとえば、全宇宙を、絶対自由意志で、

もって、破壊できるのか、と言うことです。

所謂、人間種族に、その能力を付与しているのか。

はなはだ、疑問ですね。

如何でしょうか。それでは。

[MC13-3-4-N]  西方法界 | 2008年12月3日 (水)

絶対自由意志というのは、いわゆる西田哲学の西田幾太郎先生が一時いわれていた「絶対自由意志」のことでしょうか。

もっとも、そうであっても、そうでなくても、この問題は私にはコメントできそうもありません。

私が当面「意思」の問題として関心を持っているのは、自性があるという意味での「個=自己」の解体、すなわち無自己へのプロセスにおいて、自我的意思を消滅させ、無我になるという消極面の方向からだけの修行にとどまらず、大乗的意思=宇宙的愛(すべてを包み込み、見捨てないという意思=阿弥陀如来の誓願)という積極的意思にまでなりきっていく必要があるのではないかという点です。

自意識のメカニズムが恒常的に機能しなくなるためには、この意味の大乗的意思になりきることが必要条件になるのではないかということです。
なぜなら、そこまでいかない限り、何らかの意味で『個=自己』(としての意思)が残っており、そうであるかぎり、自意識のメカニズムから解放されることはありえないのではないか、と思われるからです。
西田先生は、「どこまでも包み込んでいくもの」を絶対無の中に見ておられますね。
この辺、むずかしくてよくわかりません。

なお、禅では初期の見性の状態(一時的ですが)を、「主客がない状態」としており、このあたりとバーナデッド・ロバーツさんの到達したところとをどう理解し位置づけていくかが、私にはまだよくわかりません。

[MC13-3-5] 投稿: gold | 2008年12月3日 (水)

こんばんは、西方法界さん。

今日は、ちょっと、呑みました。(厭なことがありまして)

丁寧な解説いつも有り難う御座います。

ところで、西方法界さんの、究極の目的は、何なのですか?

[MC13-3-5-N] 西方法界 | 2008年12月4日 (木)

究極の目的などといわれましても、
最近はあまり強い関心を持つようなことはなくなってしまいました。
せいぜい、宗教ぐらいのものなのですが、
それも、この歳になると昔のようにエネルギーが出なくて、
これまで歩んできた道の延長線を自分なりに行けるところまで行く
以外にやりようがありません。
敢えて言えば、到達した身の丈相応にというか、等身大にというか、
そんなところで精一杯生きるということでしょうか。

ブログをやっていると、表面上は「ファイティング・ポーズ」をとって
進行させていくような形になってしまいますが、
実のところ、成り行きで動いているだけで、
どうなっていくのか、自分でも見当がついておりません。

[MC13-3-6]  投稿: gold | 2008年12月5日 (金)

こんにちは、西方法界さん。

蛇の種族について、ご存知ですか? 
ネットで軍師という方が、言及しています。
大蔵経の経典の中で、釈迦が悟りを開く前に、
蛇など魑魅魍魎にまとわれている、描写がありました。
実は、私も、霊眼で見たことが、何回かあります。

M/ドリール(確か、かすみが書房)のカバラの真義か等でも
書いていました。
4次元の下層にいる、とのことです。

ちなみに、私は48歳です。それでは。

[MC13-3-6-N]  西方法界 | 2008年12月5日 (金)

超能力・超常的現象・霊感・霊能力という方面に魅力を感じて、宗教に関わられておられる方もおられますが、私は、宗教にそういった超能力・超常的現象・霊感・霊能力を一切持ち込まない立場です。

ではどういう立場かというと、我々の中枢に根本的な欠陥(無明=原罪)があるために、「自性がある(固有の実体をもつ)個=自己」というものがあるように見えてしまう。
しかし、悟りの目で見ると、そういう「個=自己」などというものはない、すべて宇宙(永遠のいのち)と不可分に続いている因果的現象があるだけだ。
そこで、我々の中枢が修行を通じて、真実相を見、真実相に即して働くように、自覚してそのものになりきっていくこと、宗教とはただそれだけのものであると捉えております。

もっとも、確かに経典にはそういった超能力・超常的現象・霊感・霊能力に関係する記載が登場し、また実際の修行の過程でそのような記載に相当するような感覚が生ずることも確認されています。
禅宗では、このような現象・感覚・知覚はすべて魔境として相手にしないようにということになっております。
バーナデッド・ロバーツさんも、空中浮遊など、いくつかの一過性の幻覚・超常現象を経験されたことが「自己喪失の体験」でも書かれています。しかし、やはり同様にそれらを相手にしないというスタンスを一貫してとられました(同書 p.86~89)。

行者の中枢が「個=自己」というところを振り切って、「無自己」になりきっていく過程は、中枢自体が従来のありようを捨て去って、未知の領域へと変貌・突入していくのであって、そこには恐怖・動揺・驚き・衝撃・法悦などの付随的な感情からくる、様々な一過性の幻覚その他超常現象がともないやすいのだと考えられます。しかも、中枢にこういった現象が起きると、中枢の側では『リアル』にそれを受け止めざるをえないので、実際にそういった現象が起きているかに感じられるでしょう。

宗教にあっては、これに加えて象徴的表現が加わってきますので、現実の事象と架空の事象の判別ができにくくなります。

他方、自分の力の拡張を図るという見地から、超能力的な力を求めるということがあるとすれば、これは自我の拡張として本来の宗教の道筋に背く事態であると言わざるを得ません。

従って、おっしゃられるような魑魅魍魎は、釈尊が最後にそれだけしぶとい絡みつきを空じられたのだというような意味に受け取る程度にとどめます。


[MC13-3-7] 投稿: gold | 2008年12月6日 (土)

こんばんは、西方法界さん。

禅では、釈迦に会ったら、釈迦を叩き切れ、と書いておられる方が、おられました。

つまり、何人にも依存するな、と言うことなのでしょうね。

六神通に囚われていたら、悟りには到達できない、と言うことだと。

私自身は、超能力などは、子供の遊び道具だと、思っています。

誤解なされぬように。

しかしながら、禅でも、魔界のことは、言及しているのでは。

本旨の結論としましては、体験して理解していない者には、

解らない、と言うことです。

悟りのまだ上が、厳然として、存在するという事です。

私自身は、貴方と論争をするつもりは、ありません。

道は我々自身が、たった一人で行くしかないのです。

故に、西方法界さんも、数々の書物を、読まれるのではありませんか?

厳しい事を言えば、如何なる書籍も読まずにここまで、これましたか?

原田雪渓曰く、座を温めている、自身を忘却せよ、と。

つまり、自我を無くせ、自我から分離せよ、と言うことですよ。

分離して、分離して、つまり、捨てて、捨てて、

最後に、捨てるものが無いとき、悟りの境地に到達するのです。

そのために、禅があるのです。

そこには、肉体も、感情、精神(人格、自我)、他の高次元の乗り物も、

ゴールドの光球も、シルバーの糸も、すべてから、分離しているのです。

悩みも、思考も、想念からも、分離しているのです。

それを、無為自然と言うのです。

自由意思、自由意志も、ありません。(J・クリシュも)

大事なことは、申し上げましたので、これで、もう、アクセスしません。

さようなら。

最後に、一言だけ、言ってもいいですか。

貴方のことではありません。怒らないで下さいね。

私は、神戸生まれですので、アホばっかりや。が本音です。

レベルが低い。しかし、千里の道も、一歩から。

以上

[MC13-3-7-N] 西方法界 | 2008年12月6日 (土)

私の理解が誤っていたようです。
たいへん失礼致しました。
守備範囲に入っていない事柄・用語ばかり出てきたものですから。

「捨てきる」ことに尽きるというのはよくわかりました。
言うは易く行うは難きところですが、
私もその方向で一層精進していきたいと思います。
いろいろありがとうございました。

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[MC13-4-1] 投稿: 無着 | 2009年5月25日 (月)

いやー驚いたなあ、西方殿大丈夫ですか?西方殿があまりにバーナディッド・ロバーツを取り上げるものだから、ウエブ検索で「バーナディッド・ロバーツの体験の諸相」を見つけ全文を読んだが、いやー驚いた。これは一種の「魔境の諸相」ではないですか?
まず全文に漂う虚無的でエネルギーに欠如した雰囲気に驚いたのだが、これは瞑想の修行の過程で落ちる「虚無的な魔」、特に長年に亘り宗教や悟りについて学んできた人が陥りやすい状態だね。釈迦の阿含経やイエスの言動を読めばその違いは歴然であるのが分かりませんか?

空無辺とは「空っぽ」ではなくまったく逆で、表面的依存関係(縁起)の化態性を見抜き、すべての現象的事物に自性がなく依存関係と因果関係にあることを知り、すべての現れ(現象)の元が満ちあふれていることを認識することであり、欠如や無ではない、空と無とは根本的な違いがある、だから空性と呼ぶのである。次の識無辺もそうであり、そもそも「無辺」というのは欠如や絶対無とは反対の「無限の辺に亘っている」ことだよ。

だから悟りを得た者が、主客を一元化しているとは、個を失うことではなく、一滴の水が大海に混ざっても、元の水滴は消滅するのではなく、依然として大海の一部であり、本当の意味は、大海の一部となって大海と溶け合い大海のすべての領域で起こることが理解把握できるようになることであり、全知、金剛智を個として獲得することである。だから主客が一体化することと、個体性が存続することは両立するのである。主客が一体とは認識中枢のそういった変容であり、認識主体が消滅したりはしない。ここが悟りにおいてよく勘違いされる点である。

だから非想非非想の最終段階で悟りを得て法身となれば、再び報身、応身として下降することも出来るが、決して個体性を失ってはいない、釈迦は釈迦、イエスはイエスであり、明瞭な認識主体を持って活動している。バーナディッド・ロバーツ氏は気の抜けたまるで影のような存在になってしまっている、とは思いませんか?

これは知識の豊富な修行者に修行中によく起こる「魔」の一種である、魔境に入っているのである。バーナディッド・ロバーツのことはよく知らないが、こういった状態から醒めず永続すれば、決してまともな生活は出来ないではないはずなので、まことに失礼ながら、現在の彼女の状況を調べてみた方がよい。また、よくよく阿含経典に書かれていることと比較されるとよい。天と地の差がある。

また高度な悟りは決して偶然に起こることはない。すべて意識的な修行の結果であり(結果として偶然に見えるようなことや記述があっても)、無意識的な自動作用は修行者が最も警戒すべき魔として語られる。だから釈迦は再三再四、注意力を働かせ分析し疑いを持って修行せよと警告する。実際に修行をすればするほど、意識は益々明瞭明晰になりエネルギーレベルが上昇し活力が増大するのであり、気の抜けたような状態は一瞬たりともあり得ない。特に修行のレベルが上がるほど止観には精神的集中力が要求されるのである。あー、何ということかね、貴殿はいったいどこを迷走しているのかね。

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[MC13-4-1-N] 西方法界 | 2009年5月25日 (月)

そう、迷走ね。

宗教の窓で、正面から問題にした「認識中枢・指令中枢の双方に根本的・本質的欠陥がある」ということと、「自分は迷走している」ということとは表裏であり、
迷走しているという認識・自覚があるから、宗教が問題なんであって、それは覚者になるときまでは完全には解消しません。
だから、その状態で、いかに道中を進むかという宿命づけられたむずかしい問題の渦中、そのど真ん中ですね。

道元さんに「迷いを大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは、衆生なり」というのがありますが、これも話は複雑ですね。とにかく、迷いを大悟したいけれども、悟に大迷なる衆生のほうであっても、それを甘受するほか、やりようがありません。

バーナディッド・ロバーツさんに関しては、確かに無着さんがおっしゃられるような問題があることは、私も感じております。

ただ、ある種の通過点(完成点ではない)におられる方だという感じも持っており、
彼女の主客が解消した状態というのは、魔境とはいえないという見方をしており、
この点の記述が『主客がなくなった状態というのは、そういうこととしてあるのか』という意味で、私にはたいへん参考になっております。このあたりは、解釈ではなく、状態の記述とでもいうべきところです。

また、魔境と言うことに関しては、随分注意を払っておられ、私はバーナディッド・ロバーツさんの魔境の説明と解釈(本を読まないと出てこない)はかなり納得しております。

自分としては、バーナディッド・ロバーツさんだけにのめり込むわけではなく、全体として、さまざまな俗諦との整合性を見ながら進んでいますので、おかしいことがあれば自ずから排除されることになると思っています。

それから、個についての見方、これは必ずしもバーナディッド・ロバーツさん絡みでそう思うのではありませんが、
無着さんとちょっと違っているような気がします。
個は、やはりいったん解体し、なくなります。
但し、その上で最終的には、中道的に位置づけられ、最終的には「個はあるでもなく、ないでもない」というところに落ち着くという理解をします。したがって、「個はあるのだ」と一面的に言われるのだとしたら、ちょっとひっかかります。

[MC13-4-2] 投稿: 無着 | 2009年5月25日 (月)

とにかくのめり込まないように注意することだね。ロバーツ氏の状態は明らかに悟りの境地とは異なる、ということを理解できる事が慧眼を育てる上で重要な一歩となる。西方殿を決して批判しているわけではなく、むしろ反対で残念至極というのが本心だからです。

仏道は文字通り仏(悟り)の道であり、釈迦という希有の貴人が到達した真理であり、ある意味で彼独自の説明方式、彼が生涯を掛けて説いた方法論です。たとえ理論だけでも間違いなく修得してもらいたい。折角、1年前頃の文章ではかなりの解析ができていたではないですか?なぜ劣化するのだろうか?

まず、ロバーツ氏の状態は過去においても邪宗の教祖達が陥った状態と同じであり、つまり自分の取得し想定した宗教観の中に、バーチャルリアリティーの中に落ち込んでしまう、仮想現実を想像し創造する、これが通常の魔の正体である。気の毒だが現代では精神異常を来してしまっているとされる。誰かが目を覚ましてやらなければ結局放心状態になり、心の扉を閉じてしまい、自活できなくなり廃人となる様相である、哲学者のニーチェなどもそうなって廃人となってしまった。昔の人はそう言う人のことを魔物(マーラ)に憑依されたと表現した。

従って彼女の語る文言のある分は、彼女が過去に勉学し習得したものであり、悟りの状態に関する正しい理解も含まれているので有用であるが、問題とは、彼女が陥っている精神状態自体のことだね。西方殿はその正しい部分を読んで「正しいと思う」と感じることは当然であるが、この種の理解度ならば、推奨されている鬼和尚殿の方がまだ正確である、彼も問題はあるが遙かに高度である。

そして「個は解体する」とすれば、まず「個の何かが解体する」と考えることができれば、それは正解である。自身で研究してみなされ。もしもだよ、個のすべてが悟りにおいて解体すればだよ、つまり法身が実現すれば、そこから再び衆生を救うために応身、報身となって化身するかしないか選択する意志の拠り所はどこから来るのか、一体その者の同一性はどうなるのかね?釈迦はそれを阿含経でどのように順を追って説明しているのか読んでいるのでは?

確かに個は解体するのだ、しかし個の何が解体消滅し、最後にいったい何が残っているのか?ということを、よくよく注意して分析することだ。それが「絶対無」とは表現上のあやであり、実際には対象の完全な空性と認識主体との融合こそが真の悟りである、という文言の理解が出来れば完了する。確かにこの理解は高度であるが、自分が人に騙されないため、そして何よりも自分自身が自分自身に騙されないために、道を探求する者には必要な要件である。それが神と一体となり、神の力を発揮できること、全知、仏智、金剛智であり、一瞬たりとも恐怖や無などを感じることがない意識の明瞭な遍満性の中にある。ロバーツ氏の言うような矮小で日常的なな主客一体感では毛頭無い。その時に彼女が恐怖と無力感と自己喪失を感じたことを決して見逃してはいけない。それこそその瞬間に全宇宙と自身との融合の歓喜で満ちるはずだからだ。

心こそ心惑わす心なり、心、心に心許すな、である。

[MC13-4-2-N] 西方法界 | 2009年5月25日 (月)

無着さんが心配して下さっているところは、それなりの理由があることとしてわかります。
それから、多少理解に隔たりがあるところは、臨機応変に必要なときに違いを明確にしながら、
それ以上議論しても、今はどうにもなりませんから、先に持ち越していきましょう。
私も次の問題にエネルギーを振り向けなければなりません。
また、そちらの方でよろしくお願いします。

[MC13-4-3] 投稿: 無着 | 2009年5月25日 (月)

それからちょっと気になるが、西方殿がよく使う、「・・・ないでもない、・・・・あるでもない」と言う表現法はどこで学んだのですか?龍樹にせよ釈迦にせよ、中道にせよ、そんな表現法は見たことがないのだが?禅的な感じかもしれないのだが?

まず仏教というのは一面では論理哲学であり、龍樹も中観帰謬論証法を駆使する哲人と言って間違いなく、曖昧な表現はしていない。微に入り細に入り論理していかないと、自他共に迷走し、させてしまうのでは?

自分を迷わせるのは自分自身である。

いつも穏和な西方殿に、今日の私はどうも厳しいですね。

[MC13-4-4] 投稿: 無着 | 2009年5月25日 (月)

分かった、ローバーツ氏についてはこれ以上は止めましょう。

西方殿が書いている「このことによって、欲界・色(=物質)界がすべて解体してしまいます。のみならず、釈尊は無色(精神・中枢)界の極限を実証し、無色界の解体も確認され、その上で、一見無色界の「想受滅」が到達点のようにも見えますが、そうではなく、再び初禅に戻り、第四禅で「般涅槃(死)」されます。

この解釈は不完全だ。

「想受滅」は悟りの到達点である。

しかし再び初禅に戻り、第四禅で「般涅槃(死)」された、というのは、悟りに達した後、釈迦は衆生を救いたいとの誓願を持っていたので、再び俗世に肉身(色身)として再び現れる必要があった、なぜなら法身や報身の状態では衆生から見て姿形がないないからでる。

そして色身として再び現れる場合は大概は色身での最高到達状態である初禅から第四禅までをもう一度修するからである。またもう一つの目的は、弟子への説法を兼ねた実施としてその初禅から第四禅への至り方を見せるためでもある。

そして死の前に再び第四禅の次の空無辺から想受滅まで、つまり報身を経て法身に至ることを弟子達の前で教えるために再現した、だから涅槃死、つまりニルバーナー死、ということなのである。勿論一度悟っているので一瞬のことである。だからゴータマは人生の中で二度、一度は自身のために悟り、二度目は弟子達や衆生に教えるために彼等の前でそれを再現して見せた分けである。

だから阿含経のそこの文章はそのように書かれている。徹底した深度の解読を要する文章である。

[MC13-4-3-N] 西方法界 | 2009年5月26日 (火)
[MC13-4-4-N] 西方法界 | 2009年5月26日 (火)

まず、無着さんの二つのコメントにそれなりの応答をするためには、
この二つはまとめて論ずることなど出来るわけがありません。
いずれも大問題です。

ただ、現在の私には、これをそれなりに論ずるだけの力がありません。
無着さんのほうが、はるかに進んでおられ、私の方が追いついていけません。
そこで、それだけをここに書くしかないので、まとめさせていただきます。

まず、[MC13-4-3] のほうですが、中論がまだまともに読めておらず
、どうしようか、その前にたたずんでいる状態です。
無着さんからこういう指摘を受け、え、そうじゃないの?と単純に思っている段階です。
ほんとうに、それだけなんです。無着さんのこの御指摘で、あれ、考え直さなくちゃというより、
とにかく、中論にしっかり入り込まなくちゃ、と問題意識を新たにさせられている段階です。

また、[MC13-4-4]については、元々どういうことなのかという問題意識自体は阿含経を読んだ時からかかえてきましたが、
まだいっこうに埒があいかない状態です。

というのは、欲界の問題、すなわち、(1)初禅から第四禅までは、色界・無色界の(2)空無辺から想受滅までと『直列』に並べてあるということがどうしてもすっきりしません。
(1)と(2)は、切り離して、(1)の進行が(2)の進行に影響を与え、(2)の進行が(1)の進行に影響を与えるというような『並列的相互関係』でとらえないとうまく理解できないのではないかという疑問です。

この辺もまだ自分の中で、はっきりしていませんので、[MC13-4-4]のようなお話しを戴いても、
よくわからないとうのが正直なところです。

一応、私は現在そういう段階でしかない、ということを申し上げておきます。

ある程度、何か表明できそうになりましたら、そのときには触れたいと思います。
特に、[MC13-4-3] のほうは、喫緊の問題であると思っております。

この問題は、現時点ではこれでご容赦を!。
とにかく、無着さんより、あちこちたくさん遅れていますので・・・。

[MC13-4-5] 投稿: 無着 | 2009年5月26日 (火)

(2)の進行が(1)の進行に影響を与えるというような『並列的相互関係』でとらえないとうまく理解できないのではないかという疑問です。・・・・・

・・・さすがに発想・思考能力はすばらしいですね。勿論影響を与えないはずはない。(2)以降は悟りに入っていてその深化を説明している。但し第四禅までは色界であり、無色界ではないよ。そして空無辺から色界の奥にある空性を体得し始める、なぜなら、この色界が「空と縁起」によって成立すると体得し、識無辺からは無色界も「空と縁起」によって成立すると体得し始めるからだね。それ以降はその深化であり、最後は空性自体の空性化、要は粗雑な概念から微細な概念の空性化へとやりやすい順番に修練していくわけで概念の消滅化と言える、とても一挙にできるはずはない。

だから大体自分が悟った、と勘違いする人は、空無辺を一瞬間だけ味わったぐらいである。この現象は誰にでも起こりうる。ロバーツ氏もこの空無(辺)は覗いたかもしれない、記述を読めばそんな実体であったが、実際には空無辺に達せずとも、仏教が中有と説明する感覚の中で同じ状態を幻想として呈するのである。

本論に戻ると、(2)以降を体得すると、当然に(1)での輝き(あまり良い表現ではないが)が違ってくる。しかし色身の中では(2)で体得した状態を言語表現できない、すれば黙示のようなことになってしまう。天使だとか真如だとか、訳の分からない暗示になってしまう、つまり世界や次元が異なってしまうのである。

だから釈迦が衆生済度の誓願を果たすべく、つまり衆生を導くためにはどうしても色身で語る必要がでてくる、そしてそれは方便であり俗諦的な語りである、がだよ、当然にその語りには間違った道理は一切なくすばらしい、ということになる。しかしだよ、あくまでも本当のことは語れない。貴方達も悟るしかない、ということである。

だから(2)を完了したゴータマは、衆生と語り導くために再び色身へと戻り(三身を同時に呈することは出来ないので、報身と法身は一度あきらめなければならない、これが犠牲の意味である)、そして色身へ戻ったゴータマは再度(2)の経験を持って色身を調整することになる。その理由は色身というのは常に衣食住の必要があり、主に食物摂取によって外部から汚れを受け、また色身はどうしてもその低レベルの感覚器官によって五蘊的影響下にあるからでもある。だから想受滅を越えて完全な悟りに入るまでは、常に劣化と堕落の危険性は残っている。そしてその後は涅槃と般涅槃の選択が待ち受けている。

だから我々にとって大事なことは、常に汚れのない理念に触れ続けることであり、迷いの混入した書物を摂取していると、迷い続けることになる、一般の人はそれに我慢が出来ずにあれやこれやと渡り歩くが、結局同道巡りをしていて、ほとんど進歩しない。その理由のもう一つは、同時に修行をしないからであるが。簡単な瞑想を習慣にすれば頭脳は自ずと整ってくるのであるが、これも一般の人は我慢が出来ないのが実情である。瞑想というのは脳の働きを極性化するのである、バラバラになっている状態に指向性、ベクトルをもたらすのである。

仏教では釈迦が直接語る書と龍樹の書には迷いが一切無いことは読めば分かるはずだね。仏教徒ならば龍樹は何としても、百回読んでしてでも吸収しなければ慧眼と霊眼がでてこない。そうすると勝手に知識の方が我々に近づいてきてくれる。

(内容から見て、追加なので、別投稿を合成します・・・西方法界)

完全な説明になるための追加。

従って、ゴータマが衆生済度の誓願を持たなければ、再び色身となて、つまり悟りを犠牲にしてまで、現れる必要はなく、涅槃を越えて般涅槃まで達し如来として留まることもできた。(科学的説明ではなく、あくまでも仏教的に説明をさせていただいているのでご容赦を)

そして色身として再度降下したゴータマは出来る限りの衆生済度に努力し、彼独自のユニークな説法と論理を残し、色身の身の状態で80才まで弟子や衆生を導き、最後に、今度は涅槃も越えて般涅槃した、というストーリーである。

そして主客と個体性の問題であるが、再度色身として現れたゴータマは、悟り以前のすべての記憶も習慣もまったく以前のまま保持していて、何も一切消滅していない、ゴータマである。個体性も個性も何の消滅のかけらもない。このことの真理は第四禅か空無辺のあたりまで修すれば、自ずから解けてくるので、あえて知ろうとしたり議論するだけ無駄かも知れない、しかし知ることは出来る。が、無駄な努力よりも修せよ、とは釈迦の言葉である。

[MC13-4-5-N]  西方法界 | 2009年5月26日 (火)

一応、目を通して、う~ん、と思うのですが・・・。
この辺になると、完全に私のレベルを超えてしまっていて、
何も言いようがありません。

ただ、虚心に読ませていただき、頭に入れて、今後に役立つようにしておきます。

[MC13-4-6] 投稿: 無着 | 2009年5月26日 (火)

それほど難しい文章にはしていないので、理解を超えていると言うよりも、
確かに、未だその時期と波長にはないということだね。

[MC13-4-6-N]西方法界 | 2009年5月27日 (水)

そういうことになると思います。
いかんとも、反応のしようがありません。

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