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[S7]絶対矛盾的自己同一と『即』の意味

   《注》 [S5]から、内容的に続きます。検索で入られた方は、左欄のカテゴリー
      (宗教の窓)の[S5]からお読み下さい。


さて、即非の論理まで到達したところで、この項は、今までの補充と新たなことの御案内をして、知識見聞を広めていただくことにしたいと思います。なぜかというと、ここは、たいへん重要なところであるだけに、初心入門近辺の方で、御存じではない方は、一応知っておくべきだと思うからです。また、今後私も何らかの形で持ち出すかもしれません。

『一即一切、一切即一』や『(A)即(非A)』のこの『即』のところ、


ここは、「 [S2]一番元の、一番論じようもないところ(自覚) 」 でやりました『我々が、神仏に出会う場所』なのです。[S2]では、自覚体験的に出会う場所という意味合いを出したつもりですが、《そこを言語化・思想化して表現した場合の》『我々が、神仏に出会う場所』が、この『即』のところなのです。

そして、通常は、この『即』抜きで神仏の話がされることが多いのですが、これでは神仏に出会うことは本来できないのです。少なくとも、勝手に神仏というものを既成観念や先入観ででっちあげて、そういうでっち上げた神仏を問題にしているだけなのです。

我々が神仏に出会うのは、言語化・思想化して表現した場合には、この『即』において出会う以外に出会う場所はありません。しかも、『即』に出会うのと『神仏』に出会うのは同時なのです。『即』だけに出会って『神仏』に出会わなかったり、『神仏』に出会って『即』に出会っていない、などということは、ありえないのです。ですから、言葉・思想の上では、『神仏』、『即』というように二つに分けていますが、事柄としては一つであります。

《独り言》 西田幾太郎は、私の理解する神仏というものは、あくまでも『内在論的な』神仏である、というような言い方をしていた、と思った(『善の研究』の最後のほうだったか)。ちなみに、西田先生は、大徳寺で参禅され、見性もされた居士であり、大徳寺内の墓に永眠されている。

 そして、今や我々はその『即』に出会ったのです。[S5]の台風12号の例において、私が最後のほうに書いておいた、『無限に複雑な入り組み方』ということ、この『無限に複雑な入り組み方』というものが、その『即』なのです。                       

[注]従って、初心入門近辺の方は、『即』が出てきたら、台風12号を思い出して下さい。上級者?の方は、ある程度対象化・実体化してしまったこの論稿での話より、自覚体験的レベルの方に意識を向けながら、見ていくのがよいと思います。いや、上級者?の方には、こんなおせっかいなこと言う必要はないのか。失礼。

え~、では、神仏はどこで出てきたのか。それは、後回しにして、先に案内役を勤めてしまいます。

鈴木大拙が、即非の論理というところを西田幾太郎は『絶対矛盾的自己同一』という言い方で表現いたします。

《もう一人の私》 難しい表現だな、何のこと言ってんだか、まるでわからねえ。

即非の論理というのは、

       A は、A でないが故に、A である。

or    A は、非A であるが故に、A である。

ということでした。

前半の、

『A は、A でない』または、『A は、非A である』というのは、我々から見ると、絶対におかしいですよね。この茶碗は、この茶碗ではない、ということですから。すなわち、これは、『絶対矛盾』なんです。

《もう一人の私》 おまえ、今日は結構まともじゃないか。この間と言うことが違う。

そこで、そこの部分を『絶対矛盾』といったのです。

そして、私たちから見ると、『絶対矛盾』する《A》と《非A》すなわち《台風12号》と《台風12号以外の一切のもの》は、(宗教的宇宙観から見ると=超越者から見ると)『自己同一』である、すなわち、実は同一である、というのです。

前回の台風12号の話をもう一度思い出して下さい。

台風12号のまわりにある海や地球や太陽など《台風12号以外のすべてのもの》を全部取り去って無にしてしまったら、台風12号自体も消えてなくなってしまった。ということは、《台風12号以外のすべてのもの》が、台風12号の正体だった。絶対矛盾しているものが、実は自分自身と同一のものであった、だから、『自己同一』なんです。

このように絶対矛盾であったものが、『自己同一』すると、華厳経の宇宙観のように、自分の中に無限の宇宙がスッポリ入ってしまった台風12号になります。

従って、即非の論理の最後の『・・・が故に、Aである。』の最後のA。これは、絶対矛盾たる《A》と《非A》が、自己同一した《A》である、というように説明ができることになります。

すなわち、即非の論理は、

我々が見る《A》は、実相においては(超越者の目から見れば)《非A》であるが故に、《非A》と自己同一し、《非A》を自分自身の中に映し出している《A》である。

我々が個物と思っている《台風12号》は、実相においては(超越者の目から見れば)《無限の宇宙》であるが故に、《無限の宇宙》と自己同一し、《無限の宇宙》を自分自身の中に映し出している《台風12号》である。

《もう一人の私》 だいぶ、わかったような気がしてきたな。

こう理解しておいて、最終的に『絶対矛盾的自己同一』全体を『即』の意味だと捉えかえすと、

   例えば、『一即一切』は、「一は、一切と絶対矛盾的(に)自己同一している。」っていえるでしょ。

とにかく、即非の論理と絶対矛盾的自己同一は、実質的に同じ事。ただ、西田先生は、この『絶対矛盾的自己同一』の論理から『場所と逆対応の論理』へと深化していくことになる。

[注] 絶対矛盾的自己同一の論理も、即非の論理と同様、様々な次元の問題の認識に
       当てはめることができます。
   ここでは、即非の論理の説明を引き継いで、
もっともわかりやすい存在論的事例
   (現象)で説明しました。

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次は、滝沢克己の話。

《注》 滝沢克己は、若いとき学会誌に載せた西田哲学についての論文が、西田幾太郎の目に止まり、西田幾太郎自身が、自分の書いたものを理解しているごくわずかなうちの一人だ、と言った人物。後に、西田幾太郎のすすめで、弁証法神学のカールバルトに就く。

滝沢克己は、この『即』の意味を『不可分・不可同・不可逆』ということだ、とする。

《注》 なお、キリスト教では、『即』とは、どこの問題か、という点については、いずれ触れる。

滝沢克己のことは、これだけ。

《もう一人の私》 なんだよ、たった、それだけか。

但し、付け加えておくと、後に滝沢克己と八木誠一との間に、論争というか議論があり、その後、八木誠一と禅宗の秋月龍珉老師との間でこの問題が話し合われ、さらに二、三の方も発言され、この辺の書籍はたくさんある。

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その秋月龍珉老師であるが、老師は

   『一切』と絶対矛盾的(に)自己同一した『一』

      のことを、

  『 超個の個 』、というようにいわれている。

  台風12号に即して言えば、個が、台風12号で、超個とは、無限の宇宙。

  だから、『無限の宇宙の台風12号』ということ。

    もう少し補うなら、

       『無限の宇宙をその中に映し出している(宿している)台風12号』

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    最後に、即非の論理は、言語化・思想化されたものですが、その元になっている超越者の側での了解事項、その了解事項を、我々は自然に認識できるような認識中枢というものを与えられていない。その限度において、我々の認識中枢は、欠陥がある、すなわち、我々は、盲目だという単純な意味において、無明の状態に置かれている、と言うことができると思います。ただ、人類の中から、超越者が出てきたという事実は、我々も努力すれば、後天的にそこを超越できる可能性を持っている、ということです。これが、救いの光ということでしょうか。そして、そのことが気になっている我々は、おそらく既にその予備軍の中に入っているのです。 

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今回は、以上で終わりです。

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   [コメント対象事項]

       認識中枢の不完全性と神・悟りの問題
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[SC7-1-1]

投稿 sheepsato | 2008年3月27日 (木)

質問です。いいでしょうか?

認識中枢が不完全だとは全く思います。
未来永劫神を認識する人もいないのではないか?
認識する能力は与えられてないが、
人はその事実を体感する能力は先天的に与えられていると思うんです。
一つ次元が上の事象は、人は味わう、体感するしかできませんし、神や悟りも、認識能力の範囲外のことなのですが、
でもだれでも皆それを味わう能力がある、と思ってます。
まだよくわかっていませんが、心のメカニズムを考えたとき、
そもそもこれが認識=把握できたらおかしなことになる、
と思うんです。
つまり、人が全力で生きながら、その全力で生きている自分を同じその瞬間外から把握する、などということは、意識として一つの小さな点である、人にはありえない、と感じます。
強く集中する意識が宇宙に広がる神ならばそれもありと思いますが。人は一つに集中したら、その自分を把握などできない、ということが、認識能力の不完全さのゆえんだとおもうんです.
お返事お聞かせいただければちょっぴりうれしいです。

なんか長々と語ってしまいすみません。僕も視野が狭いので困っています。では失礼します。  

[SC7-1-1N]

  西方法界  2008年3月27日(木)

はじめまして。私よりずっとお若い方とお見受け致します。若い人が全然関わってきてくれないので、最近の若い人は一体何しているんだろう?、と思っておりましたが、あなたのような方がいらっしゃって、安心しました。私にとっては待望の第一号です。
 
 ところで、御質問ですが、こういった問題は長い歳月をかけて取り組んでいく必要があると思います。私の述べることも正解ということではありませんので、そのつもりでお読み下さい。

基本的には、御質問でおっしゃるとおりだと私も思います。
西田先生の引用される大燈国師のお言葉『億劫(おくこう)相別れて、須臾(しゅゆ)も離れず。尽日(じんじつ)相対して、刹那も対せず。 この理、人々これあり』([S2]内参照)などというところを『体感する』分別知を超えたある種の能力はみなそなわっているのだと思います。お釈迦さんは、誰にも「如来の智慧・徳相」までそなわっている、といわれていますし・・。ただ、道元さんが言われるように「修せざれば現れず。」という面もあるかと思います。ここに自分の内面を深く見るというたいへんやっかいな問題が出てくるわけですが、とにかく、目に見えない心の中の話だから、わかりにくいですね。

<人が全力で生きながら、その全力で生きている自分を同じその瞬間外から把握する、などということは、意識として一つの小さな点である、人にはありえない、と感じます。
強く集中する意識が宇宙に広がる神ならばそれもありと思いますが。人は一つに集中したら、その自分を把握などできない、ということが、認識能力の不完全さのゆえんだとおもうんです.>

ここのところは、「集中」ということをどういう意味で使うかにも関係しますが、もしそれを座禅などで問題にする『定』というような意味での集中をいうとすると、これは絶対受動性ということであって、意識のポイントをどこにも置かずに、それでいて集中しているという集中ですから、「観」の座として、自分のありのままの姿を把握できる状態なのではないでしょうか。ただ、その場合の「把握」とは分別知的な把握ではありませんが。その意味で、分別知を超えた、それとは異なる「認識」の形式があるということになります。

また、禅などでは、この「観」の座から自己の根底(意識の底の無意識=アラヤ識の方向)に絶対無の神を見ますので、全力で生きているときにこそ、神に触れている、神に触れなければ全力で生きている(全機現)とはいえない、というようなことにもなってくるのではないかと思います。ただ、ここでいう「神に触れる」とは、大燈国師のいわれるように「対して対せず」というような微妙な接触の仕方ですね。西田先生の言葉でいえば、神とは、絶対無の場所にほかなりませんから(なお、滝沢先生によれば、神と人との接触には、第一義の接触と第二義の接触があります)。

こんなむずかしい言い回ししかできないということは、私もまだよくわかっていないのかもしれません。

《僕も視野が狭い》

この認識が成立するということはたいへんなことなのだと思います。この認識が成立するということは、逆に視野が広いという意味を併せ持つからです。
ハイデッガーは、我々は『世界内存在』である、といいました。私流にいうと、「自分の精神世界は閉じている(出口がない)」といことになります。考えを進めているようであって、その内実は閉じた世界の中でどうどうめぐりしているだけである。

我々の精神世界はそういうことになっているということに気づくと我々は、一歩進んで、『脱自的存在』という段階に入ります。どうしたら、そこから脱出できるかと。パラダイムシフトしないと進歩はありえないのだと。卵の殻の中から、それを突き破って出なければならないのだと。進歩は連続的ではなく、非連続=飛躍・超越しかありえないのだと。そこが実存の世界の入り口です。

ざっと、こんなことが思い浮かぶのですが、いかがでしょうか。 

[SC7-1-2]

投稿 sheepsato | 2008年3月28日 (金)

こんばんわ。わざわざお返事ありがとうございます。
ブログの文章を、書き込んだあと読まさせていただきました。
読んでていて一番強く思ってるのは、スタンスの違いです。皆個性があるので当り前なんですが、僕の、心にたいする切り口と角度が違うので、参考にさせてもらっています。



[SC7-1-2N]

僕の立ち位置は、生活実感の論理的構造です。
心の働きで大事なのは、集中と、大局観、の2つだと思っています。
なんでもいいのですが、教訓が含まれるような文章ーには、生きるすべてが含まれてる、と感じてたので、それを、普通の人は、アドバイスや、示唆という形で実生活の中で、行ってるんですが、僕はそれを論理的な形で作ろうとしてます。
この切り口でも、こちらに書かれてるような、絶対矛盾・・・というところに来てしまうからおもしろいです。
というか、検索できてしまいました。
普通の人が普通に使う言葉日常会話ーには生きる全部が入ってると感じてたので、それを継承するだけでなく、構造をはっきりさせたら、さらに自分にも役立つかな、と思いました。大まかに、こういう切り口で考えてます。

具体例をー別にどうってことはないんですが、まじめな小説なら、宮沢賢治とか、志賀直哉とかーーこんな古典は数えるほどしか読んでないですが、なんというか、生きることに最高に集中していて、神を意識して無くても神と一体だなーというところが描かれてるものは身の回りにあふれてるなーと思います。なので、それらは全部教材になっています。
一方、哲学はほとんど知りません。でも、家族にそういう生活実感のまとめ構造を話したら「あんた哲学的やなー」と言われるので、ここ半年ほど哲学に興味があります。ごちゃごちゃ考えんでもいいのに、とも言われますが。

とにかく、僕は簡単な言葉ー日常会話や、理想は小学生が分かる言葉での説明、としています。まだ全然ですが。
真理の内的感覚は日常普段誰もが感じていて、ただ言葉にできないだけなので、的確にその感覚を指摘できれば、みんなが普段使ってる日常会話で説明できる、と思います。
心の理論は、自分の生活の360度と、過去現在未来に全部適用できないと意味がないと思います~~偉そうです。まだ現在適用の途中なのに。ぼちぼちです。
日常、いろんなところでいろんな人が感情表現をしてますが、それを見てたら、普通の人はやはり分かってるんだなーと感じます。理屈ではなくて。なので、それを理屈にしよう、というへんな試みです。自分のためなんですが。
そうすれば、普通の方は、実生活での体感で分かっているので、行き届いてない部分があるなーと思います。逆に僕は、全く逆のところが駄目なんですが。

こんな感じが今の流れなんです。ようするに哲学の人ではない、ということになりますか・・。なので、ブログを読んで、考えは似てると思ったんですが、表現方法がかなり違います。

こちらのページ、しばらく前に見つけてうなっちゃったのですが、どう思われますか?
 
http://www.tomabechi.jp/archives/50316486.html

切り口が、やや僕に似ておられるなーと思ったのです。

あとは、主観世界の構造とか、自覚のメカニズムとか、今はまだそんな辺りなんです。

全体の流れまで考えて書いてないので、詠みずらくてすみません。
いつも思いつくままなので。では失礼します。

  西方法界  2008年3月29日(土)

「絶対矛盾的自己同一」というのも、私がブログで説明しているような存在の論理として、まず理解することができるわけですが、宗教上は最終的に、神(仏教では絶対無の神・キリスト教では絶対有の神=超個)と人(=個)との関係を問題にする場合に使われることになります。ただ、これはたいへんわかりにくい概念なので私は台風12号の例を使いながら存在論的に説明してみたわけです。

 この面からの理解は、滝沢克己先生のいわれる神と人との第一義の接触(仏教的に言うと、一切の衆生はそのままで仏である)という側面、平たく言うと「有限と考えられている個」(つまり、私たち)も無限なる宇宙の現れである、という方向での理解に役立ちます。
 《生活実感》という身近なところから出発しても、それは神と人とが第一義に接触している場面に他ならないのですから、話はやがて通じ合ってくるのだと思われます。
 そして誰しもみな平等に共通の基盤の上に立っているのですから、本来的には理解を共有しあえる仕組みになっているのだと思います。
 「ドクター苫米地さんのブログ」は、この神と人との第一義の接触という観点で書かれているようにお見受け致します。『矛盾がない』ということを繰り返されておられますが、この神と人との第一義の接触のみを問題にする限り、まさに『矛盾がなく』すべてを理解することができます。
 
 ところが、そこでめでたし、めでたしにはならない、ということになっています。
 
というのは、人間の「中枢」、その中で「分別知」と「自我」が問題なのですが、この二つの中枢は相互に関連しながら、上記の第一義の接触(一切の個物は、無限の宇宙=永遠のいのちの現れであるということ)を通常認識しない(実相に対して無明的)だけでなく、第一義の宇宙的秩序に反逆するような(実相反逆的・実相攪乱的・実相乖離的)動きをしてしまうようにできてしまっている。そのようなでき方になってしまっていることを私は「中枢の欠陥=不完全性」(キリスト教的には、原罪、仏教的には無明・煩悩)と呼ぶわけです。すなわち、第二義の接触局面(中枢が第一義に対してどういう態度・スタンスをとるかという局面)では、本来の第一義の接触に反逆し、それを攪乱し、あるいはそれから乖離してしまう方向に我々の中枢は働いてしまう。法華経にも新約聖書にも書いてあるよく似たたとえ話、「父(第一義)のもとから息子が家出する(第二義)が、やがてはそれに気づいて父(第一義)のもとに帰る」というたとえ話は、このことを示していると考えられます。「父(第一義)のもとに帰る」のは、宗教的道筋です。『南無阿弥陀仏』の、阿弥陀仏とは、無限の光・永遠の命、つまり第一義のことで、南無とは、「帰る」という意味です。

すなわち、我々も、我々の中枢も、そもそも第一義の現れとしてできているのに、その動き・働きは第一義に対して、無明的・反逆的・攪乱的・乖離的であるという『大矛盾・根本的矛盾』が生じてしまっているわけです(一切の人間的諸問題の根底には、この問題があります)。これ=我々・我々の中枢を本来の姿・第一義に調和・融和させようという問題が宗教問題である、ということになります。これも、第二義の接触の問題です。第二義の接触を本来あるべき姿に正す、という問題です。
この面があるので、《生活実感》から出発する以上、絶対矛盾にも出会わざるをえなくなるわけです。あるいは、絶対矛盾に出会うことになってしまうわけです。この第二義の問題は人間一般の問題ですが、「ドクター苫米地さんのブログ」では、「第一義から家出した状態=人間基準主義」を、カルトや御利益宗教の問題として論じておられるので、私からみるとちょっと焦点の合わせ方が普遍的ではないという感があります(ただ、そこでのテーマ上、そういう論じ方をするしかないでしょう)が、「第一義から家出した状態」のひとつの現れが御利益宗教・人間第一主義(自我中心主義の意味)であるという意味で、まさにその通りであると思います。

私の大局観を示しながら、コメントしてみると、こんな感じになります。今書き始めている解決編の根本問題(「(中枢の)死と復活」)が抜けていますが、『宗教の窓』全体を圧縮するとこういうことになります。
御参考になりますかどうか ・ ・ ・ ・ 。

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[コメント対象事項]

    「主観知」の世界
   
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[SC7-1-3]

投稿 求道者 | 2008年5月11日 (日)

重要なポイントですね。つまり「帰る」ということですね、老子も「根に帰る」と説く。実はこの根とは宇宙的認識をする我である「真我」の状態であり、真我とは認識中枢を越えた「主観知」の世界であり、絶対的受動状態のことである。主観知の中では客体はなく主客が一体となっている。客体が認識されるのは自己の外に他の存在物があるとの認識であるが、主観知はすべての存在物は同じ意識の顕現であることの直感知であり宇宙的一体性の感得とも言われる。これでなぜ絶対的受動であるかが自明となるが、それは他である客体との摩擦が一切無く、それ自体の中ですべてが充足される大楽の状態だからである。一滴の水がすべてである大海の中に混ざるのである、しかし重要なことはその一滴の水は依然としてその中で調和して存在するのである。だからニルバーナとは無我ではない、ここが後世で誤訳された重要ポイントである。決して無我なことではない。

      - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
      
[SC7-1-3N]

西方法界|2008年5月12日(月)

そうですね。違和感なしです。
最近の私の問題意識で展開すると、[S25]私は、世界を愛することができるか、で書いた問題の発展先になってきます。
世界全体が自分である。映っているものと映し出しているものは同一(ここが、本来的意味での絶対矛盾的自己同一)なのだから、そこに映っているものすべてが幸せにならなければ、自分も幸せになれない。映し出されるものの中に病むものがあれば、自分もまた病む。これは大乗の精神です。
あるいは、世界の中に自分があるのではなく、自分の中に世界がある。したがって、すべては我が子であると。ここで、やっと阿弥陀如来の誓願である「摂取不捨」ということが視野に入るようになる。

ちょっと、コメントしたいとおもうのが、最後の二文。
《だからニルバーナとは無我ではない、ここが後世で誤訳された重要ポイントである。決して無我なことではない。》
誤訳なんですか。

自覚の論理として、「色即是空」と行きっぱなしではなく、その後「空即是色」とまた戻ってくる。最初とは同じところではないけれども「色」のところ、「個」のところにもどる。洞山の五位でいうと第二位のところ。「超個の個」というような言われ方をする人もいるから、「超個」だけが残っているわけではない、しかし、元の「色」「個」でもない。そんな風に理解しています。

ただ、この辺になると、「人(主観世界)」「境(客観世界)」の組み合わせ、切り替え問題も出てきそうですね。

[SC7-1-4]

投稿 求道者 | 2008年5月13日 (火)

ニルバーナとは元来ヒンドゥー教の用語ですが、従って取り敢えずヒンドゥー教の解釈に従うと、ニルバーナの先はパラ・ニルバーナーと言い、つまりニルバーナを越えたところにある。これが重要なのは、ニルバーナを越えると決してこの現象界に戻ることが無く、所謂「個」としての存在を終えるからである。だから他の衆生を助けるために現世界へ戻る道を選択すれば、ニルバーナを越えずに、そこから再び「個我」として戻ることになる。しかしその「個我」は当然以前の個我ではなく、梵を体現した個我である。鬼和尚が書いているのはこのことであるが、後が良くないようだ。
      
[SC7-1-4N]

西方法界|2008年5月14日(水)

 ヒンドゥー教では、ニルバーナの先にパラ・ニルバーナーという、ニルバーナを越えたところがあって、そこを越えると「個」としての存在を終えてしまい、現象界に戻ることがない。・・・はあ。
そして、「個」を残すか否か、どちらに行くかの選択の問題がある。

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