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[S2]一番元の、一番論じようもないところ(自覚)

[S1]で、これから言語化・思想化した宗教の世界に入ろうといったばかりですが、残念ながら、今回は始めるにあたって言語・思想ではどうにもならないところ、近寄りがたいところを扱います。表題にあるように、『一番元の、一番論じようもないところ』です

《もう一人の私》 ”そんなこといいながら、結局、言語で論ずるんじゃないか。”

 これから、言語化・思想化した宗教に入っていく上で、常にその根底になっているところです。ここが宗教の宗教たるゆえんになるところであり、宗教上の一切の事柄は最終的にここに収斂し、またすべてがここから流出します。ここは、神仏の領域のことがらなのです。しかし、かろうじて『自覚』することができる、というわけです。わかるわからないという角度からみれば、宗教の難解さの根元はここにあります。『不立文字、教外別伝(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)』の本命事項であるところ、『自覚』するしかないところです。これから入っていく言語化・思想化した宗教から見ると、断絶があり、近寄りがたいところです。しかし、常に言語化・思想化した宗教の根元になっているという、たいへんやっかいな非連続の構造になっています。言語化・思想化した宗教は、その影のようなものだ、という関係になっています。

      [独り言]”この非連続により、此岸と彼岸、六道(りくどう)と四生(ししょう)が隔てられる。三途の川(さんずのかわ)は、この非連続を意味するのか。?” 

 数学は、一番わかりやすい自明の理が元であり、そしてそこが出発点になります。ところが、宗教では、『一番元』のところは、一番わかりにくく、しかも宗教の道筋においては、そこが最後の到達点である、という構造になっています。そもそも、宗教の『宗』という字は、、『一番元のところ』という意味です。そして、ここでは、アルファ(はじめ=一番元のところ)がオメガ(終わり=最後の到達点)であり、オメガ(終わり=最後の到達点)がアルファ(はじめ=一番元のところ)なのです。

          [注]新約聖書・ヨハネの黙示録 21-6,22-12

              わたし(キリスト)は、アルファであり、オメガである。

  [独り言] ”宗教的実存の構造は、この意味におけるアルファ・オメガ構造をとる。それ故に、華厳経入法界品(にゅうほっかいほん)における善財童子の遍歴の旅では、出発点(アルファ)において文殊菩薩に出会い、いよいよ毘盧遮那楼閣(びるしゃなろうかく)へ入閣した旅の最終段階(オメガ)にあたって、再び文殊菩薩に相まみえるという構造をとることになる。すなわち、ここでは文殊菩薩が、アルファであり、オメガである。”

とにかく、『一番元』で、それでいて最後の到達点で、一番論じがたいところを、真っ先にやろうというのだから、無理があるのは重々承知してる。しかし、これを真っ先にやっておくと、それが、『一番元』なんだから、わからないながらも、わかりやすくなると思うし、わからないながらも全体の構造がしっかりつかめることになる。だから、ここを我慢して乗り切れば、長い目で見て後で、あまり方向をはずさないで済むことになる。そして、そのかわり何度も何度もここに戻らなければならない。そして、ここを見つめなければならない。しかしながら、それが真の意味においてはできがたいというのが、アルファ・オメガ構造、すなわち宗教的実存構造の宿命でもある。

《もう一人の私》 ”おまえ、話の順番、本当にわかってんのか。”

さて、 本筋に戻ろう。

『論じようもないところ』とは、考えようもないところであり、考える自分という主体の根底というものが、問われているため、考えるということがまだ登場できないところであり、『できることは、妥協に妥協を重ねても、せめてずばり、そういうだけ、それ以上に動きがとれないところ』です。
  ですから、「ウーン、なるほど」と一発で思ってもらえるか否かにかかっています。「ウーン、なるほど」じゃ、本当はいけないのかな。私だって、よくわかりません。でも、何回も何回もここにもどります。
 
  そこで、できるだけどの辺のことかを理屈をこねてみて、私としてできうることを尽くした上で、ずばりそのことを出してみます。もったいぶっているわけではありません。先に出しても、解説不能だからです。
 
《もう一人の私》 ”まあ、いい。進めろ。”
 
  問題は、私たちの今ここの、一番根底にある事実、世界のはじめ、世界がいかに創り出されるのか、という問題です。だから、『一番元のところ』です。

これは、自分の正体・自分とは一体なにものなのか、という問題でもあります。『一番元のところ』『一番根底にある事実』においては、言い方は異なりますが、同一問題なのです。
 
  神様が昔々、この世界をどう作ったか、などという俗流理解ではもう失格です。だって、そう書いてある、と言われれば、確かに神様が昔々、この世界をどう作ったと書いてあります。普通はそう読めます。(旧約聖書・創世記)
 
   《もう一人の私》 ”おまえ、俗流理解などと言ったら、怒られるぞ。自分の理解をなんだと思ってるんだ。”
 
  しかし、そういうことではないのです。と、私は理解しています。世界のはじめとは、『私たちの今ここの、一番根底にある事実』という方向で見るのです。時間軸の始まりという意味でのはじめではありません。時空(時間空間)を超えたところで見るのです。いや、本当は、『見る』ということでもない。『体験』ということ、自覚体験的に見ることだとされています。

  ここに、今『自分がいて、向こうに松の木がある。』 この問題なんです。このことが大問題なのです。
 
     《もう一人の私》 ”なにも問題などありゃせん。ただ、松があるだけだ。”

なんで、これが世界のはじめ、世界がいかに創り出されるのか、という問題になるのか。あるいは、自分の正体に関する問題になるのか。

とにかく、まず、向こうに松があると本当にいえるのか。

《もう一人の私》 ”「ある」といっておいて、「ない」っていうんじゃないだろうな。”

向こうにある松が、自分の認識中枢に映っているだけなんじゃあ、ありませんか。

《もう一人の私》 ”松が、向こうにあるから、映ってるんじゃ。”

自分の認識中枢に映っているから、そのとおりの実体が向こうにある、そしてまた、それが向こうにある松の正体であるということが『当然に』『絶対に』そうだと断言できますか。

太郎にも次郎にも、そう映っているから、太郎と次郎の間では、『そういうものが、あることにする』ことはできるでしょうが、本当にその実体というものがあるのだろうか。

《もう一人の私》 ”行って触ってみれば、確かにあるぞ。”

見た映像と触った映像(触感というべきか)とは、同じものではない。どちらの実体が本当の正体なのか。そしてそれを実体といっていいのか。

    《もう一人の私》 ”そりゃ、両方合わせたものに決まってる。”

人間の五官というのは、限られた認識能力しかない。それで真実の実体がつかめるのか。そもそも、実体ってなんだ。ほんとうに、実体なんてものがあるのか。

《もう一人の私》 ”まあいい、もっと話して見ろ。”

じゃあ、これは、これでとりあえず、置いといて、もう一方の方向から見ることにする。

この自分というものは、よくよく考えてみると宇宙の現象だ。宮沢賢治も「春と修羅」の中で、自分とは現象である、といっている。

《もう一人の私》 ”宮沢賢治を持ってこなくたって、そのくらいわかるわい。”

人間の五官に松が映っているのも現象だ。松があるのも現象だ。松が自分に映っているのも現象だ。そういう現象を引き起こしている自分そのものが現象だ。現象などという言葉をもてあそんでいるのも、現象だ。さあ、松という実体はそこにあるのか。
 
《もう一人の私》 ”ちくしょう、詭弁をろうして、ひとを煙にまこうというのか。”

しかもだ。自分が生まれる前を考えてみると、そのとき世界はあったのか。真っ暗闇でも世界があったのか。他人を持ち出さないで、自分の立場だけで言って見ろ。

《もう一人の私》 ”一切が無というのと、真っ暗闇の世界がある、というのとは、ちょっとちがうな。
          だいたい、一切が無というのは想像できんわ。”

今、母親の胎内から出てきたばかり。そこから世界が始まるんだろう。パッと出てきて、世界を見た時って、自分と世界は、こちらとあちらというふうに分かれていたのかな。そこがヒントといっていいか、いけないか・・・。

《もう一人の私》 ”おいおい、急にトーンダウンするなよ。どっちなんだ。”

言葉と思考で行けるのは、この辺が限界です。そして、これでなんとか『とどく』かというと、『とどかない』のです。しかし、それはわかっていても、やってみるしか方法のないところまで来ました。

さあ、そこで今までのことを全部ひっくるめて思い出しながら(《独り言》”本当は、こうじゃないんだ”)、次の言葉を見てみよう。
               
『尽大地(じんだいち)、是(これ)沙門(さもん)の一隻眼(いっせきげん)』
(この天地は、私の眼(まなこ)だ。)

 《独り言》 ”使われている言葉にとらわれずに、『私の心が世界そのものだ。』、あるいは思い切って『私が世界だ』と訳したい。” 天上天下唯我独尊って、この意味なの?”   

  これは、禅宗の坊さん雪峰(せっぽう)和尚の言葉です。
 
『光あれ。こうして光があった。』 (旧約聖書・創世記・1章6節)

  《もう一人の私》 ”そこで、黙んないで、もっと何か言えよ。”

『松の木あれ。こうして松の木があった。』
      
   《もう一人の私》 ”光と松の木の差の分だけ、格調が低くなったな。”
 
《独り言》  ”『こうして』が、ないほうがいいような気もするが。間延びしすぎる。同時っていうか、裏表っていう感じなんだがな。いや、西田先生のいわれる逆対応・・・”

《もう一人の私》 ”一人でブツブツ言うな。”

逆もあるぞ。
  不意に、紙ろうそく(紙燭=ししょく)を吹き消されて、真っ暗闇になったやつ。
  (無門関28=禅宗の禅問答集)
 
  《もう一人の私》 ”突然、停電で真っ暗闇だ。”

栄西禅師、昔、臨済宗は栄西、曹洞宗は道元と憶えたあれ。
こういってる。

『天地、我を待って運行し、四時我を待って変化し、万物我を待って発生す。』

《もう一人の私》 ”我を待たなくったって、天地は、運行してんじゃないのか。”

 
  まあ、世界のはじめって、こういう問題です。時間軸のはじめじゃなくって、時間も空間も含めて、時間や空間や、とにかく一切合切が生じてくる根底。

それは、また自分というものの根底。自分と世界とがまだ、分かれていない元のところ。

ただ、分かれる、分かれないのスレスレの表現になっているこれ、ここで出しておけると、ちょっと次に繋げやすくなるかな。

西田幾太郎が好んだ大燈国師の言葉。

『 億劫(おくこう)相別れて、須臾(しゅゆ)も離れず。尽日(じんじつ)相対して、刹那も対せず。 この理、人々これあり』

(億劫(おくこう)は無限の時間。須臾(しゅゆ)と刹那は、共に一瞬。尽日(じんじつ)は、一日中)

     大燈国師   : 応燈関といわれる日本の臨済宗の基礎を築いた三人の内の一人。大徳寺開山。一休さんの大先輩にあたる。

     西田幾太郎 : 宗教の核心を哲学的に表現することに生涯取り組んだ哲学者
           

《もう一人の私》 ”おまえ、こんなこと言って、自分でわかってんの。”
 
  いや、わかってはいないが、大方こういう方向の話になるということは、わかる。しかも母親の胎内から出てきたばかりというのは、想像しやすくしただけで、時々刻々この問題があるのだということも。
  少なくとも、文字通りに、人間みたいな神様が、光あれ、とおっしゃって、そしたら世界がパッと明るくなった、というようには読んでいない。そういうことだとは思っていない。

《もう一人の私》 ”素直じゃないなあ。勝手にせーや。”

 それよりなにより、普通にわかる、ということじゃあなくて、そのものになって、その結果として、おのずとわかるということでないと、わからない。そういうことになっている。
 
  《もう一人の私》 ”どうちがうんだよ。でも、それは、まあ、いいわ。それより、だいたい、『一番元』のところというのは、一番はじめに神仏の領域の問題だ、などと言っておきながら、おまえの話には全く神も仏も出てこないじゃないか。”

いや、これでちゃんと、神仏に出会ってるんだ。

《もう一人の私》 ”えー、どこでー。”

ここ以外に神仏に出会うところはないんだ。とにかく、ここは言葉も思想もとどかないところってことなのよ。無理を承知でやったのよ。でも、これで、それなりの意味は一応、あるってわけ。

《もう一人の私》 ”悟り型ではなく、信仰型で行ったほうがよさそうだな。”

悟り型だって、信仰型だって、問題の構造は同じさ。ただ、信仰型は、「信(信仰)」ということで、非連続のところを埋めていく。悟り型は、埋め合わせるのではなく、直接その非連続に向き合うことになる。その結果、アプローチの仕方や雰囲気に違いが出てくる。長い道のりになるから、自分の体質に合うほうでいくしかないってことだ。どっちがいいかっていう問題じゃないと思うよ。ただ、悟り型の場合は、しっかり非連続があり、非連続の向こう側があるということ(彼岸)、そしてそれは自分の根底の問題なんだ、ということを意識してかからないと、迷路に入りやすいからね。

とにかく、ここが到達点で、それを真っ先にやったんだから、そうがっかりするなよ。だから、無理を承知でやってるんだって、言ってるだろう。

《もう一人の私》 "しかし、おまえ、よく知ってるなあ。こんなこと、どこで勉強したんだ。"

長いこと宗教とつきあってると、自然とたまってくるんだよ。俺だけに限らないよ。ただな、宗教は知っていることが、力になるわけでもないんだ。文字の読み書きすら、できなかった禅宗六祖慧能(えのう)みたいな例もあるしな。

とにかく、さあ、ここからが、始まりだ。

始まりだ、始まりだ。カツゥゥゥー。

おまえは、俺の分身だ。おまえもやれ。

《もう一人の私》 ”始まりだ、始まりだ。カツゥゥゥー。”

《密告者》 ”初心入門近辺のみなさん、だまされちゃいけませんよ。実は、ここは『悟り』の話だったんでっせー。”

《独り言》 ”あいつめ、あからさまに、もらしおって。やむをえん。まあ、そういうことなんだ。 ”

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