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[S21]評価・自尊心(プライド)・面子(メンツ)

 表題にある、評価(を気にする心・よい評価を得たいという欲望)・自尊心(プライド)・面子(メンツ)というのは、自我を超越していく作業の中で、一番乗り越えるのが困難な問題の一つではないでしょうか。少なくとも、私にとってはそうでありましたし、現にそうであります。

 道元さんは、御存知の通り、正法眼蔵・現成公案の中で
         『仏道を習うというは、自己を習うなり。
     自己を習うというは、自己を忘るることなり。』
 と言われております。

 これと対比してみれば、よい評価を得たいという欲望・自尊心(プライド)・面子(メンツ)
というような心のあり方が、いかに自己というものを強く意識したものであり、『自己を忘れる』ということと正反対の対極に位置するものであるかがわかります。

 この辺の問題は、私の言い方では、『高次の欲望』([S17]参照)が複雑に絡み合うところで、一般には欲望という表現もされないし、また我々も自分でそうは意識していないのが普通です。
  しかし、『執着』、『囚(とら)われ』、『こだわり』という方向から観察してみれば、なかなかそこから解放される(解脱する)のは、容易ではない、ということは、敢えて指摘することもないと思います。
 我々の深刻な精神的悩みのほとんど、あるいは『鬱』『なんとか症候群』などという名称がつく精神神経科的病いの内のある種のものは、このあたりの問題が中心部分に必ず絡んでいるのではないかと、私は素人目に思っております。

 その意味で、難解な宗教書に取り組むこともあっていいわけですが、こういった自分の『のっぴきならない問題』において、少しずつでも解脱(解放)=自我の超越の方向に我が身自身を持っていく(そして、そのものになりきっていく)実存的修行をしていくことが重要なのではなかろうか、と思います。

  本稿では、このような点につき、殊更特別のことがあるわけではありませんが、雑談的に気がつくことを以下書いてみます。

   『評価』は、多くの場合『比較』とセットになって、我々に『襲いかかってきます』。
世間、すなわち普通の人間界では、右を向いても左を向いても、比較と評価がついてまいります。学校の成績・職場の人事評価はもとより、私たちは日常様々に人から評価されて生きています。また私たち自身も人を評価しています。この比較・評価に対して、『よい評価を受けたいという自分の欲望が絡んでくる(普通は、誰でもこう思う)と』、知らず知らずのうちに、そういう『比較評価』の中でがんじがらめに縛られ、動きがとれなくなってくるというのが、我々の実状ではないでしょうか。

  この問題については、一つだけ、自分でしっかりした理解を確立しておくと役に立つと思われることがあります。それは、『(比較)評価』というものの正体をしっかりと見極めておく、ということです。

   評価を構成する本質的な要素は、二点です。一つは、評価をする観点(=角度=基準)です。どういう物差しで測るかという、その物差しです。そして、もう一つは、評価の目的、その物差しで測ることによって、そこで意図されている目的です。
学校の入学試験という一番わかりやすい例でいえば、評価をする観点は学力で、評価の目的は、その学校への入学を認めるか否かということだ、ということになります。

 そして、さらにこの後が重要です。今度は、こちら側から、その評価の観点や評価の目的を、『自分の原点に立ち帰って』、逆に評価し直すのです。この『自分の原点に立ち返って』、というところが、たいへん重要です。

 私の場合は、こんな風に考えます。いつも、二つの角度から考えます。

第一は、評価の目的というものは、客観的に見てどれほどの価値があるものなのか、を自分なりに吟味してみることです。盲目的に囚(とら)われているのではなく、囚(とら)われの正体をできるだけ明確につきとめていきます。学力という観点から、入学を認めるか否かを目的としている。ノルマ達成度という観点から、勤務評定をし、給与・昇進等の基準にする。その他、・・・など、です。

第二は、その評価というものにとらわれること、ないし評価を意識することが自分にとって、どれほどの意味があることなのかを吟味することです。 
  ここが、たいへんむずかしいところです。視野が狭ければ狭いほど、その狭い囚(とら)われにもとづいた吟味しかできないのが、人間の常です。視野というものは、狭かろうが広かろうが、その当人にとっては基本前提であり、狭いとか広いとかいうことが本来的にはわからないものです。我々は誰しも、自分という世界の『世界内存在』に過ぎないのであって、その外に飛び出すことは、孫悟空がお釈迦様の手のひらから外に出られなかったのと同じように、困難を極めます。そういう中で同じところを何度も何度も堂々巡りしているのが、我々の姿です。それがある種の精神神経科的病いの正体ではないでしょうか。

  一流大学に入って、一流企業に就職して、出世して社長になる。そのスタートである
大学に入れない。あるいは、その途上で、自分の勤務評定が思わしくない。ああ、どうしよう。

私が、できるだけ『自分の原点に立ち帰って』、考えてみる、といったのは、こういうところで、視野をできるだけ広く持つということです。この世に生まれてきて、ひとときの間、この地球上で充実した幸せな人生を送る。そのためには、そんなことしかないんだろうか。自分が無人島に住んでいたら、そんなことに囚われるだろうか。自分の勝手な囚われが自分を不幸に陥れているのではないだろうか。
そのうちに、次第に自分自身に自分の囚われが少しずつ見えてまいります。

ゲーテは、ファウストの中で言います。「あの、海岸にうち寄せる波は、一つ一つは、一見皆違うように見えるが、じっと見ていると、それはいつも同じところにとどまっている。
・・・・・・自分はこれから、干拓事業にとりかかり、海岸線をずっと沖の方まで押し戻すのだ。」

こういうところをどう突破するのかが、哲学的に言えば実存主義の問題ということになります。こういうところがパラダイムシフトの真のしどころであろうと思います。

宗教では、先覚者によって、その実存の方向が極められ、明示されている。ここが哲学の実存主義とは異なる点です。これを「ありがたい」と感じるか、「束縛だ」と感じるかはその人次第でしょう。私は、「ありがたい」と思うほうです。
仏教では、『無住』のところ、『住するところがないところ』といいます。話は、徹底しています。どんな視野であろうが、なんらかの立脚点がある、足場があるということは、それが一つの囚われになります。『無住』のところというのは、そういう立脚点というもの、自分の足場というものが一切ないところから、自分の心を起こしなさい、といわれます。最後は、仏教ですら立脚点にしてはならぬ(殺仏殺祖)、というところまでいきます。一口に『空』になるといいますが、実際には容易なことではありません。

  [注] 「応無所住而生其心」(金剛般若経)は、
         『応(まさ)に、住するところなくして、その心を生ずべし』
      と読むのが一般である。
      
      私は、文字の並びの上からは、多少無理を承知で
         『応(まさ)に、無住のところから、その心を生ずべし』
      と読む方が、意味的にわかりやすくて好きだ。


 宗教の本来的空というところから言えば、評価・自尊心(プライド)・面子(メンツ)などには一切捕らわれないということが目標であることは、わかりきいています。すなわち、評価などは一切気にせず、自尊心(プライド)・面子(メンツ)などがなくなることです。

  しかし、わかることと実際に囚われから解放され、自尊心(プライド)・面子(メンツ)などというものが消え失せることとの間には、大きな距離があります。そこを埋めていくのが修行です。
  坐禅は、ずばり『空』そのものになる練習です。私がここで書いているように理屈をこねて、どうしたら囚われから解放されるかなどと思いをめぐらすのではなく、端的にずばりそのど真ん中になりきってしまう練習です。実習です。

自分の囚われから、自分の苦悩が出てきているのだ、とおぼろげながら気づいてくればしめたものです。大方は、自分の囚われを当然の前提にして=盲目的にその前提の上に理屈を積み重ねて悩んでいます。それが、その根底である自分の前提問題に目が向いてくるのです。土台を突き崩すのです。

こうなったら、あとは、一つは、自分の願いです。囚われから解放された、安らかな地平(ここが、極楽浄土といわれるところ)に生まれ変わりたい、という願い(キリスト教的には、祈り)を長く持ち続けることだと思います。敢えて方法という言葉を使えば、これが最高の方法です。そして、もう一つは、そのような願うところに、長い間そういう方向へ向かって努力(修行)することだと思います。それ以外には手はないと思います。

 私は、どれくらい解放されているか自分ではよくわかりませんが、お陰様で、この25年間の最初と現在では、結構ちがってきているという実感は持っております。ずいぶん、気楽になったというか、肩の荷がかるくなってきているという実感があります。

 そして、知らぬうちに、一つおまけがついたように思えます。
長い間わからなかった、無門関の二つ、三つの則が、「ははん、プライドとかメンツをある程度超越すると、なにが問題になっているのかが見えてくる」則だ、と思えるようになってきました。その真偽は別として(とにかく、私は、ひとりよがりなのです)、心密かな楽しみを感じるようになってきました。一人で、勝手に納得している、というところでしょうか。
いい気なもんですが、ただ言えることは、少なくとも25年前よりも私は太平だ、と自分では思っていることです。

カテゴリー『宗教情報の窓』にあるように、私は飯田とう隠老師が大変好きなのですが、
それは、どんな古則の提唱であっても、常に繰り返し繰り返し、『己を空じろ、己を空じろ』と、口を酸っぱくして言われている点がその理由の一つです。結局これ以外にはないのだな、ということを深く納得させてくれる、迫力に裏付けられた真実性と限りない親切さを私は感じます。
今後もこの基本線で、私は、評価・自尊心(プライド)・面子(メンツ)という問題にも向かい続けていこうと思います。

『己を空じろ、己を空じろ』。観念的理解を超えて、生身の自分を空じていくこと、これこそが、この『宗教の窓』の水準を乗り越えていく王道であるかと思います。


最後に、趙州和尚と投子和尚の禅問答で締め括ります。
趙州和尚と投子和尚は、地理的に比較的近いところにいたらしい。
趙州和尚は、投子和尚をたいへん気に入っていたようで、行脚の修行僧に「俺の言うことでわからなければ、投子和尚のところにいって同じことを聞いて見ろ。」とよく言っていたようです。
以下は、趙州和尚が、初めて投子和尚を訪ねたときに交わされた禅問答の一つです。
[宗教情報の窓にある、山田無文老師の碧巌録第5巻P49よりの引用]

投子和尚は、油を作り、街に出てそれを売って生活をしていた、といいます。
留守中に到着した趙州和尚が勝手に上がりこんで待っていると、投子和尚が油の壺を
ぶら下げて帰ってきます。そこで、趙州和尚が仕掛けます。

  趙州: 投子、投子と、久しくその名声を聞いていたが、こうして来てみると
       ただの油売りの爺さんに過ぎんではないか。

  投子: あんたには、油売りの爺さんだけが見えて、投子が見えんのだ。

  趙州: それならば、投子とは何者だ。

     投子: あぶらーえ、あぶら。あぶらーは、いらんかい。

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[SC21-1-1] 投稿: 聖 | 2009年4月3日 (金)

はじめまして、聖と申します。
ブログ大変興味深く読ませていただきました。
最近「自分のプライド、メンツといったことを考えてました」
その結果、

心の平静、安らぎ、ゆったり感

そんな天国にでもいる状態を

「疑わない」

それは「すべてを疑わない」

ということに繋がりました。

一般的に「すべてを疑わない」とは誤解しやすい表現なのかもしれませんが、
囚われから解放されるという観点からすれば・・・
という思いが致します。

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[SC21-1-1N] 西方法界 | 2009年4月3日 (金)

ご投稿いただき、ありがとうございます。
「すべてを疑わない」というのは、「すべてをありのままに肯定する」というように受け取ってよろしいのでしょうか。この問題は、心の平安ということが一つの要点であることは、おっしゃる通りだと思います。

私は、二十代後半から三十代前半のときに、本当にこの問題に振り回されました。
今は随分楽になりましたが、時折心の奥底にプライドがうごめいているのに気づき、
この問題の根深さを思い知らされます。

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[SC21-1-2] 投稿: 聖 | 2009年4月3日 (金)

お返事ありがとうございます。
取り急ぎで書き込みをしてしまい
内容が解かり難かったことお詫びいたします。

私は今年、三十三才になります。

日頃から老荘思想に心惹かれるものです。
その思想を体現するという太極拳を習っています

その中で、立ってする瞑想「タントウ功」というものがあり、静かに心を見つめたりしています

それはとても気持ちが落ち着き、安らぎを感じます

以下の様に、今日思ったことをメモしていました。

大変長文で、言葉も不適切で申し訳ないのですが
お時間ございましたら
アドバイス宜しくお願い致します。

自分的には安らかなのだけど

周りとの温度差がなんだか気になる

社交性、建前の仮面をつけること

ホントはそんなことしたくないけど

じゃあ

「山にでも、こもりなさい」

と言われそうな感じです

接客業という立場から

「お客様に満足して頂けるように」

というのが・・・あるけど

なにをもって

社会的に

個人的に

なんだか煩わしく思ったりします

けれど、そういう仕事を通じて

気づきは得られたりします

安らぎ続けたい気持ちに

他人へ気を使う仕事

給料が今の三倍でもあったら

すんなり我慢も出来ちゃうかも・・・

と、否定してきた物質主義。。

ま、あるにこしたことはないけれど

でも、それで今の思い煩いが軽減されるって

何でしょう?

所詮、わたくしも・・・

って偉そうに思う。

何かが足りない

というか

なにか

腹に据えていない

感じです

「周りと馴染むには」

という思いは

どこか違う目線

上目線です。。

とまで言わなくても

異質。

変態

ここで思うことは

小さい頃から

なんだか、孤立感を感じていたのは

プライドが高かったってことだと

思ったり。

その異質感の解消というか

周りとの温度差の解消。

「そんなことどうでもいいよ」
「考えすぎ」

という声も聞こえる。

しかし、その先に何かがあるような気がして・・・

今、自分に病名をつけるとしたら

「気づきたい症候群」

症状:小さいことを終ることなく掘り下る。また、探求的な螺旋から抜け出せない。

偉そうにこう言います

「これが悟りへの道」(笑)

書くことで滑稽にしたり

そして、軌道修正を図ったり・・・

今の状況は、自分を高い所に置いている様な気がすること

自分を掻き回されたくないという自我

「掻き回されても一向に構わない」

時にイラッってなります・・・

それも、超越したいっていう思い

行き過ぎかな・・・

一瞬でもイラッってしたくない

それは、「みっともない自分」

そういう意識が心にある

イラッってすることって

みっともないの?

それを隠したいと思うと、そうなのか

いや、そこらへんに深い理解が必要かも

その「怒り」、ひとにコントロールされるという「怖れ」

それに対抗するのは「私の自我」

それを消すのに老荘思想的「虚」を使った

(使えてると思ってることが、そもそも間違い?かも・・)

そうして、周りとの温度差を異質感を感じた。

回りまわって同じ場所だ・・・・

迷路。。

なんだか面白いと

独りで興奮したりします。

自我のコントロール、安らぎ(入静)→回りとの異質感→謙虚でありたい思い→掻き回されたく無い自我の怖れ→自我を消す

迷路のような螺旋・・・

打開策として、常に自我を意識し入静状態を維持する(周りからの評価を気にしない)

自我の善い面と悪い面が、かわるがわる頭を出すけれど

以前から使っているのが「比喩」でした

この迷路の螺旋に必要だと思ったのが「プライドの粉砕」という「この世の中で最底辺の人間になる気持ち」
最底辺といっても自分の何もかもを捨てるというものではなく
この世の誰に掻き回されてもいい
「私は、その最たる人間だ」ということに
神の前=謙虚
右脳に繋がる=聴覚=集中力
虚の状態に安らぎを満たす=神の祝福

一瞬一瞬に対応するべく比喩でシンプルにすると

「最底辺を神に祝福される」

ここまで、まとめて思ったのが

その「最も低いプライド」であること

ここの理解をどうするかが選択されていない

ここでの注意が多分「最も低い場所でどう心を満たすか」ということ

「生きていくだけの財産」があればと思ったりするが

しかし、それを実現したときに起こりうる新たな問題は「ある」

そう、それなしで実現できないということは

それに依存すること、即ち「囚われた答え」だとすると

「形無き答え」が答えなのだろう。

「答え」という到達点的な表現もどうかと思うが

色々と考えてみると

「最も低いプライドでいるためには」

パラダイムシフト・・・的な・・・

心の平静、安らぎ、ゆったり感

そんな天国にでもいる状態を

「疑わない」

というところで

「相手を疑わない」

裏切られたりすることよりも

「疑う」という選択よりは自分的に良い

自我には前向きな志向とそうでない志向がある

とすると

僕は「前向きな志向の自我」をいつも選択していきたい

もし裏切られたときでも

「これでよかった」と前向きな自我と共にいたい・・・というように

虚に入静し

安らぎで満たし

前向きな自我と共に

誰をも疑いえない

「平静を掻き回されたくない」

というのは

前向きな自我ではない・・・

そういう選択は必要だと思った。

「最も低い場所で自分を満たす」
「平静を掻き回されてもいい」

それは心に

どんな境遇でも自分がどう選択するか

自我の動向を見つめる

自分との対話

息を吸い 僕らはこの世を味わい

息を吐き 僕らは解き放たれる・・・

今日、長々とこういったメモをしていた時に

プライドやメンツというキーワードで検索をかけ

西方法界様のブログを拝見させて頂きました。

日常、色々なキーワードが浮かびます

それを導いてくださる西方法界様と色々な方々の

お言葉に日々感謝しております。

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[SC21-1-2N] 西方法界 | 2009年4月4日 (土)

お話の内容、たいへんよくわかりました。
[SC21-1-1N]の私の「すべてを疑わない」に関する記載は、撤回いたします。

「接客業」というお仕事の中で、自分のあり方について探求しておられる重さと深さを感じます。

老荘思想に基盤を於く太極拳をされているということで、
これは仏教と坐禅の関係に相当するようですし、
禅と老荘思想は、極めて接近しているといわれます。
従って、私は老荘思想も太極拳もよく知らないのですが、
かなりの程度、平行的に論じてもいいという前提でお話することに致します。

といいましても、この問題に特効薬のような「うまい方法」などあろうはずがなく、
また、私には本文に書いておいた以上に特別の何かがあるわけでもありません。

『虚に入静し、安らぎで満たし・・・・』というところは、
仏教で言えば、定中(坐禅中)において、『空』になっていくことにあたるのでしょう。

ちょっと枠組みとして言い方が違うのかなあ、と思われるところは、仏教では「前向きな志向の自我」と「そうでない自我」をわけるのではなく、「自我」から「無我」へ、という流れになります。
激しい言い方をすれば、仏教では最終的には「自分(個)」というものは、実は「存在しない」というところに行き着きます。
逆に言えば、自分の大きさというのは、自分の肉体の範囲であるというのは誤り(=無明)で、
宇宙(世界)全体の大きさと同じなのだ、というところに行き着きます。
正確に言うと、宇宙の『部分』ということです。
宇宙の中に、『個(独立のもの)』としての自分というものがあるのではない、ということです。
宇宙の『部分』というのと、宇宙の中に、独立のものとして個=自分があるというのとは、大きく違います。

  [注]  この点については、
        カテゴリー『宗教の窓』の、 
                 [S5]一即一切・一切即一と即非の論理(1)
                 [S6]一即一切・一切即一と即非の論理(2)

            で、台風12号の例を用いての説明がありますので、
            参考にしていただければと思います。
            私の説明は、仏教的な用語でしているだけで、
            実質的な内容としては老荘思想も同じものを見ているはずだと思います。


このことは、個=自分と思っていたものは、実はそれを超えた「超個」であったということで、
個=自分という認識と意思から、個を超えたもの(超個)としての、認識と意思へ、という方向性になっていくのだと思います。

プライドやメンツも、このような位置づけの中にあって、「個=自分という認識と意思」の最も強力な現れ、すなわち強力な自我の現れだと思います。

ですから、太極拳を通して『虚に入静し、安らぎで満たし・・・・』ということは、私が本文中で書いている言い方では、坐禅によってズバリ『空(老荘思想的虚)』になるというところに対応しているわけで、
ここを中核にされているということは、プライドやメンツへの対処の仕方として最も核心に触れており、私からは何も申し上げる必要はないと思われます。
『プライドとメンツ』が問題であるという自覚をお持ちであるということ自体が、既に問題の半分を解決しているようなもので、そういう自覚が全くないままに、『プライドとメンツ』に囚われているのがほとんどの世間の実情でしょう。

ただ、だからといって、一朝一夕にはこの問題は解決しません。
お書きになられているように、その時点その時点で、いろいろな葛藤が生じ、
いろいろな対処の仕方が模索されます。
おっしゃるとおり、螺旋的に進むよりほかにありません。

しかし、長年月にわたり、自己を空ずるという形で、この問題に取り組んでいると、
その時々の『直観』という形で、具体的事情に即して全体的解決が図られるようになっていくのだと思います。
仏教では、このような直観を『智慧』と言っていますが、この直観の中には膨大な情報量が背景として含まれることになります。
おそらく、おっしゃられている「すべてを疑わない」というのも、これまでに培われてきた『智慧』の一種であると思われますが、自分を空ずること(虚)が進むにつれ、智慧も深化します。より完成度を高めていきます。そして、それと同時に『プライドとメンツ』は、消滅する方向に向けて、次第に弱まってまいります。
そして、その進展に応じて、問題を構成している様々な葛藤も解消していきます。

長い時間がかかります。そううまくはいきません。
しかし、地道に取り組んでいけば、振り返ってみると以前とは随分違ったな、と感じられるような時が必ずやってくるものと思います。

私は、過去を振り返るとそう感じますが、そうでいながら、なおこの問題を抱え、問題として取り組んでいる途上でもあり続けています。
人生、一生修行です。お互いにがんばりましょう。

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[SC21-1-3] 投稿: 聖 | 2009年4月 4日 (土)

昨夜、家に帰り色々と考えました。

家に帰ると嫁とのやり取りの間、以前のように煩わしさを感じていました。
今朝思ったのが、そういう思い煩いは
面倒だなとか
未来を予測し計算高くなって
結果、気が重くなったり・・・
「予測しないこと」
それは
「今」という瞬間に居続けるということ
「安らぎ満たし予測せず今に居すわる」
ということを何処かに飾っておけば・・
より願いを長く持ち続けられそうな気が致します。

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[SC21-1-3N] 西方法界 | 2009年4月 4日 (土)

そうですね。
聖さんの言われることには、私も絶句してしまいます。
どうして、人間というものはこういう宿命を背負わされているのかと・・・・・。

これらの問題は、つきつめればつきつめるほど、もがけばもがくほど、私たちはどうにもしようがない『絶体絶命の淵』へと追い込まれることになります。そして、そういう道筋を通らなければならないようにできているようにも思えます。

とにかく、あらゆる人間的営為(中枢の自力的営為)が最終的にいきづまって、最後に自らの中枢がその活動を停止するときがやってきます。それは、『中枢の死』とでもいうべきものです。そのとき、一体何が起きるのか・・・・。

ここに、宗教の最も核心的部分があるように私は思っております。

カテゴリー『宗教の窓』の[第4章]中枢の欠陥の超越([S26]~[S32])
は、この観点から宗教を眺めてみたものです。
もっとも、宗教の世界にある程度首を突っ込んだ後でないと、内容的にちょっとむずかしいかもしれません。
ただ、この中の初めの二つ、
  [S26] 死と復活・・その一(宗教の核心)
  [S27] 死と復活・・その二(宮沢賢治・よだかの星)
を読まれると、なんとなく私が述べようとしていることがわかっていただけるのではないかと思います。

それ以上のことは、何も言えないかな。

   ---------------------------------------------------

[SC21-1-4] 投稿: 聖 | 2009年4月 4日 (土)

ありがとうございます
人生、一生修行ですね
共に参ります。

お返事を読み、嬉しくて
心に込み上げるものがあります。

>正確に言うと、宇宙の『部分』ということです。
 宇宙の中に、『個(独立のもの)』としての自分とい うものがあるのではない、ということです。
 宇宙の『部分』というのと、宇宙の中に、独立のもの として個=自分があるというのとは、大きく違います。

というのは理解できませんでしたが

[S5]一即一切・一切即一と即非の論理(1)
[S6]一即一切・一切即一と即非の論理(2)

を拝見し、参考にさせて頂きたいと思います。

昨夜、西方法界様のリンクからドクター・ルークさんの
ちょっとディープなトピックから「意識の扱い方」

http://www.dr-luke.org/Topics/consciouness.html

というトピックの中の「意識のポインター」という概念は解かりやすくて参考になりました。

ありがとうございます

饒舌ですが、最後の日まで探求し続けたいと思いました
それは、焦らずに安らぎに満ちた心と共に
そして貴方様を初めとする、この世で修行に励む仲間達と共に・・・

私はあなたであり、あなたは宇宙であるように
自我はどこまで飛んで行けるのでしょうか・・・

今後とも宜しくお願いします。
それでは・・・

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[SC21-1-4N] 西方法界 | 2009年4月 4日 (土)

キリスト教のサイトで、ドクター・ルークさんのところほど論理的にわかりやすく書かれているサイトはそうないと思います。気に入られたら、熟読されるとよいと思います。
「意識のポインター」の話もたいへんいいですね。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

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