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[S10]「実相」の定義と心構え・「仏」の三つの意味

    《注》「です・ます調」から、「である調」に戻ります。

仏教では、本来的には『実相無相』である。実相は、無相である。無相であるのが、実相である。

他方、[S5]で 私は、『事柄をある程度、対象化・実体化しながら(何らかの意味で相にしないと、分別知では理解できない)、かつ宗教的世界観に迫る』、と書いた。すなわち『事柄をある程度、対象化・実体化』します、と書いた。

そして、同じ稿で、台風12号の説明に入る直前で、私は、「 以後、真実相のことを実相といっていく」、とした。

従って、この意味でこれから私が真実相や実相という言葉を使うときには、本来的な次元での無相を意味する実相のことだ、と特別に断らない限り、それは、『事柄をある程度、対象化・実体化した次元における実相』であって、本来的な次元での無相を意味する実相とは、ズレていて、そのズレの限度において、本来的な次元での実相から見れば、『間違っている』のである。

  しかし、本来的な次元は、宗教の世界では、オメガ、すなわち、最後に到達できるところであって([S2]参照)、その本来的なところが容易に掴めないから、『間違っている(ズレがある)』のを承知で、しかし、できるだけ本来的な次元に似せて、何とか本来的次元に近ずこうというのである。
 
  それ故、今後、実相としての xx を**という、というような定義をしていくことになるが、その場合には、その定義された**も、実相という定義が始めから、本来的な次元からズレているのを反映して、その分だけズレていくということを、しっかり意識しておいて戴きたい。
 
  これは、この「ひとりよがりの窓」で、しかも私が使っている場合のみ、通用する用法であり、ここを離れた他のところで同じ言葉がでてきても、それは本来的次元で使われているのだ、ということである。ただ、それがなかなか理解しがたいために、何とか理解しようとしてこのようなことをやっているのであるから、このことをよく意識した上で、他のところで、ここでの理解をあてはめ、ああ、そういうことか、とそれなりに納得するのに使わないことには意味がないわけである。だから、よくこのことを意識しておいて下さい。
 
《独り言》私が、未だに『色即是空、空即是色』という言葉を出さないのは、このことに関連する。『空』と書いてあるのに、『空』をなにがしかでも対象化・実体化して扱うのは、たいへんやりにくいし、気が引ける。『空』という言葉は、この論稿でも本来的な次元のものとして、崩さないでとっておこう。

  それから、もうひとつ、極めて重要なことを忘れてはならない。分別知を通して、できるだけ納得できるように宗教的世界観に迫ろうという企画は、それ自体の中にたいへん危険な要素をはらんでいる。
  既に述べたように、宗教問題は、ある意味で、認識・指令中枢の根本的本質的欠陥をいかに超越するか、という問題である。今、指令中枢の問題をはずして考えるとして、認識中枢(分別知)の根源的・本質的欠陥を超越していこうという大目的に対して、その根源的・本質的欠陥のある分別知それ自体を使うということは、椅子に腰掛けながら、自らを持ち上げるようなもので、最終的には、決定的に無理なことをしているのである。従って、どこかで最終的にこれと決別し、縁を切る必要がある、ということをよくよく自覚しておかなければならない。このことについては、先々、必ずもう一度触れる場面があるはずである。
 
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  さて、そこで残しておいた事柄をかたづけてしまおう。そして、同時に今後私が使用していく重要な概念もここで定義することにする。

[S7]において、『即』に出会うのと『神仏』に出会うのは同時であり、『即』だけに出会って『神仏』に出会わないということはない、ということであった。では、[S5]の台風12号の例で、我々が出会った『神仏』とは、何であったのか。

それは、空間的に無限であり、時間的に永遠である宇宙である。これが我々の出会った『神仏』である。                                                                                                      それは、即非の論理における 《非A》、『一即一切、一切即一』における《一切》、『超個の個』([S9]参照)における《超個》がそれにあたる。

《注》この意味での『神仏』も、実相と同様、それとパラレルな関係で、対象化、実体化されたものである。

そして、この意味での『神仏』のことを、私はこれから『永遠のいのち』という言い方を使って表す場合もある。

そして、神はとりあえず除外して、『仏』についてであるが、この宇宙を意味する「仏」を、私は、これから『第一の意味における仏』(私は、自分でブツと読んでいるが、ホトケと読んでもかまわない)ということにする。毘盧遮那仏・大日如来は、この、『第一の意味における仏』にあたる。そして、この『第一の意味における仏』は、キリスト教の神(父なる神)と同列のものと理解していただいてさしつかえない。フランシスコ・ザビエルは、日本での布教の初期の段階で、神のことをいうのに『大日様』という用語を使っていたそうである。

  次に、即非の論理、すなわち

A は、非A であるが故に、A である。

我々が見る《A》は、実相においては(超越者の目から見れば)《非A》であるが故に、《非A》と自己同一し、《非A》を自分自身の中に映し出している《A》である。

我々が個物と思っている《台風12号》は、実相においては(超越者の目から見れば)《無限の宇宙》であるが故に、《無限の宇宙》と自己同一し、《無限の宇宙》を自分自身の中に映し出している《台風12号》である。

における、最後の『A であるの A』

《非A》と自己同一し、《非A》を自分自身の中に映し出している《A》

《無限の宇宙》と自己同一し、、《無限の宇宙》を自分自身の中に映し出している《台風12号》

すなわち、我々が個物としてとらえるものの実相

これを、『第二の意味における仏』と定義することにする。

ここは、『第一の意味における仏』(無限永遠なる宇宙)の作用が、この個物(台風12号)という一点に現れだした(現成した)ところであり、逆にその一点(台風12号)は、『第一の意味における仏』(無限永遠なる宇宙)をその中に宿し、映し出している。その一点のところで捉えたところが、『第二の意味における仏』である。                            従って、台風12号も、太郎も花子も、皆そのままで、『第二の意味における仏』である。

《独り言》 西田幾太郎は、この一点のところを『場所』として捉える。                            こうして、自分としては一応これでよいと思うところ“だけ”を、チラチラと出していくと、何となく私は西田幾太郎をよく読み込んでいて、それなりにわかっているという印象になってしまいますが、実は全然そうではないのです。

 『一切衆生悉有仏性』(涅槃経)を、一般には『一切衆生は悉(ことごと)く、仏性有り」と読み、「一切の衆生は例外なくみな仏になる可能性を持っている。」と理解する。

しかし、道元は、「正法眼蔵」仏性の巻で、これをそうは読まずに、

「一切衆生の悉有(しつう)は仏性なり」と読む。

   《注》 悉有(しつう)・・・存在全体

私も、この読み方でよいのだと思う。これは、仏性を仏と置き換えて(その方が、私の定義との関係で、ここではわかりやすいから)

「一切衆生の悉有(しつう)は仏なり」 としておき、

この「仏」は、『第二の意味における仏』である、と理解する。

一切衆生の、その存在しているその姿全体が、(実相においては)仏(仏性)そのものである、『第二の意味における仏』である。

「山川草木悉皆成仏」(大乗起信論の本覚思想)も同じです。

山も、川も、草も、木も、(実相においては)ことごとく皆、(そのままの姿で)成仏している。

この場合の、成仏の仏は、『第二の意味における仏』を意味する。これは、先ほどの説明そのままである。

『第二の意味における仏』は、このように我々の認識中枢が個物と捉える一点を、宗教的世界観=超越者の側から捉え直したその実相である。そして、この『第二の意味における仏』というコンテクストで使われている「仏」が、通常我々がその意味を一番理解しがたいと感じているところであるはずである。

『第三の意味における仏』は、主として、指令中枢の欠陥のほうで問題になり、今のところ出番はないのであるが、一番我々にとってわかりやすい使用法であり、説明は要らないであろう、修行の道筋を歩んで、最終的に完成した人格であるところの仏である。菩薩・仏という場合の仏である([S22]参照)。

  《注》 我々は、日常「死んだ人」「死んだ御先祖様」のことを「仏様」というが、この意味の『仏』は、仏教では、本来的に問題にはならない。

 従って、太郎は、いかなる意味でも、『第一の意味における仏』ではありえない。しかし、そのままの姿で、実相においては、『第二の意味における仏』である。また、修行を積んで、『第三の意味における仏』になることはありえる、ということになる。

 このように仏の意味は、三つの意味があり、文脈からどの意味で言っているかということを読み分けていかないといけない。ところが、実際には、私は今まで一度もこのような区別を明確に述べたものに出会ったことがない。そこで、自分では、このような言葉の使い方で、三つの意味を区別している。

《独り言》 書いた後に、従来気付かなかったわからない問題が発生しました。当面、未解決、留保事項ということでご容赦下さい=>前記、「太郎は、いかなる意味でも、『第一の意味における仏』ではありえない。」と、従来私は考えてきた。今、我々は分別知の土俵上で、これを問題にしている。他方、分別知が登場する前段階、すなわち[S2]のレベルで、『天地、我を待って運行し、・・・・・』、これって、『我(太郎)』と『天地(第一の意味における仏)』が、未だ分れていない一体のとき。すなわち、一体だから、太郎が、第一の意味における仏(天地)でもあるとき。ということは、太郎が、、『第一の意味における仏』であるときがでてきてしまった。この時点では、太郎と天地は、絶対矛盾ではない。主客未分だから。この関係、どうなるか、わからな~い。主客未分の次元の問題と分別知上での対象化後(主客がある次元)とが変なふうに、クロスしている。留保。誰か、助けて!! <== 書いた後で、従来気付かなかった問題発生。でもなにか、重要そうな気配がするあたり。

《上記関連メモ》 主客未分の次元に、主客がある次元=分別知の次元の論理をあてはめるのがおかしい、というのは、わかる。分別知から生まれた論理の守備範囲は、あくまで、主客のある世界でのみ通用。[S2]は、超越の世界故、分別知では、通用しないことが、そこで起こる。だからこそ、超越なんだが。???

 なお、仏教では、仏のかわりに、如来、という言葉を使うこともある。私は、単純にそう思っているが、それでいいのでしょうか。

  ただ、如来の場合には、『如』とは、『ありのまま』ということであり、それは実相を意味していて、『如=(ありのまま、実相)からやってきたもの』という意味が込められているのか、という捉え方をしております。

《注》 なお、法身仏・報身仏・応身仏さらに化身仏を加える仏概念がある。私はこれらについて、一応漠然たるイメージしかもてておらず、私にとってはまだよくわかっていない概念である。一般にいわれる説明もどうもすっきり理解できないでいる。ただ、私の言う仏の三つの意味は、これらとは別の角度からのものだとご理解下さい。

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         《独り言》 書いた後に、従来気付かなかったわからない問題が発生                      --------------------------------------------------------------
[SC10-1]
投稿 海 | 2007年3月12日 (月)

   第一の意味における仏は無相。
   第二の意味における仏は仮設、出来事。第一の意味における仏(無相)の同時現成。
   第三の意味における仏は修行により個(実体)が第一の意味における仏に化ける。

   一切即一・一即一切
   前段の一切は実体。後段の一切は仮設、出来事と考えます。

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[SC10-1N] 西方法界

    コメントありがとうございます。                                                                        私は、この御指摘は、どうも、私を超えたかなり高いところからなされているようだ、と直観しております。『どうも、・・・ようだ、と直観』し、それ以外に何も出てこない、ということは、将にそういうことである、と受け止めております。
  すなわち、御指摘戴いた方向で、私の根本的な理解を私自身が参究していかなければならないと感じております。これは、多少のやりとりで簡単に解決できるようなものではなく、根本的な溝をまず私が埋めないことには、それができるような段階にはならない、そして、その溝が埋まったときに、始めて私は、上記の、「どうも、・・・ようだ」から、「なるほど、そうだった。」と言えることになるのだろう、と思われます。
  そういう方向で参究を開始致しますので、時間を戴きたいと思います。

  なお、このような場合、コメントしていただいた方の側では、私に対する何らかの追加コメントが、おありかも知れません。もし、そうである場合には御教示いただければ幸いです。

[SC10-1N-2] 西方法界 | 2007年8月14日

   
時間的間隔が空いてしまいました。仮設(仮象)、出来事の意味等、海さんからメールで(ブログ外で)説明を受けてみますと、それはそれでわかります。
その上で私から見ると、説明の仕方・使用概念の違いはありますが、海さんの理解と
私の理解は実質的に同じところを捉えているように思えるのですが。

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[SC10-2]
投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)


前記、「太郎は、いかなる意味でも、『第一の意味における仏』ではありえない。」と、従来私は考えてきた。今、我々は分別知の土俵上で、これを問題にしている。他方、分別知が登場する前段階、すなわち[S2]のレベルで、『天地、我を待って運行し、・・・・・』、これって、『我(太郎)』と『天地(第一の意味における仏)』が、未だ分れていない一体のとき。

」(S10 本文中より)

大雑把に読んでいて申し訳ありませんが、このところ読みながら上記の意味でおかしいなと思っていたところでした。1,2,3と言うのはめんどくさいので、2と3で事がすむのではないかというのが直観です。

なんといっても、太郎さん、悉有仏性だからね。

(さらっと読んでいるので、無責任なコメントですが、あしからず。)
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[SC10-2N] 西方法界| 2007年8月14日 (火)

秋月龍珉老師のように、「超個の個」を『一息に読む立場』、「絶対矛盾的自己同一」を途中で区切らずに読む立場=主客が分かれる以前というところを表現しようとする次元で問題にすれば、その通りだと思います。
『第一・第二・第三の意味における仏』は、最終的にはキリスト教でいう「三位一体」の議論があてはまってくるところだと思っておりますが、いずれにしても、そうなってくると『宗教の窓』の水準を超えてきます。逆に申し上げますと、[SC10-1]の海さんのコメントもそうなのですが、こういった御指摘を受けること自体が『宗教の窓』と致しましては本望です。
こういったところは、私も今後自分の中で温めてまいりたいと思います。

なお、自分としては[K2]末尾で概念的混乱を整理して、それなりに納得したつもりなのですが、分別知上での説明の仕方でいろいろな説き方がありうるので、基本がわかっていればそれ以上細部のつじつまを相互に合わせる必要はないように感じております。

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