« [S2]一番元の、一番論じようもないところ(自覚) | トップページ | [S4]認識中枢の根源的・本質的欠陥(分別知・認識の木) »

[S3] 宗教を論ずる枠組み(中枢の欠陥・・・無明・煩悩・原罪)

   さて、それではいよいよ、言語化・思想化した領域に入っていくことにする。

   宗教問題とは、ある意味で『人間の存在構造に根源的本質的に根ざしている欠陥』をどう超越(克服)していくか、という問題である。キリスト教では、これを原罪と言っている。仏教では、無明・煩悩という。ここを私は、以後『人間の存在構造に根源的本質的に根ざしている欠陥』という表現と理解で捉えていく。

  人間の『存在構造』に根源的本質的に根ざしている欠陥とは、突きつめれば、人間の『認識・指令中枢』の根源的本質的欠陥である。その意味で宗教問題というのは、常に人間の認識・指令中枢の問題であり、人間の認識・指令中枢の『極限に』位置する問題である。 認識中枢と指令中枢は区別できるので、両者は密接に関係し合うが、二つに分けるのが便宜である。

            ① 人間の認識中枢の根源的本質的欠陥

                       人間の認識中枢は複雑である。 私の理解を通して、                                                                                                                      以下のようにまとめよう。これで充分に話と理解が進められる。                                  事物を認識し最終的に受け止める座ということで、観念という枠を                          用いて事物を認識する作用                                                                                      すなわち分別知を人間の認識中枢ととらえ、その分別知というものが                            そもそも根源的本質的に欠陥を持っているということ

            ② 人間の指令中枢の根源的本質的欠陥         

                      こちらも、同様に複雑であるが、様々な欲望を統括しているのは、                                                                                                                                自我であるととらえておけば、やはり充分に話と理解が進められる。                           すなわち、人間の指令中枢が自我によって統括されていること、                               あるいは、人間の指令中枢を統括する自我というものが、そもそも                           根源的本質的に欠陥を持っているということ

仏教では、①が『無明』、②が『煩悩』にあたろう。厳密な宗教学的概念がどうなっているかは知らないが、私の総合的理解から位置づけると、ざっと考えて、こうみるのが落ち着く。 根幹的大局的理解を確立するために、かつ、根幹的大局的理解を損なわない限度で、私はかなり大胆だ。

《もう1人の私》 ”おいおい、そんな理屈が世間で通ると思ってんのか。”   

キリスト教で原罪といわれるところは、こうなる。

 『 アダムとイブは、蛇にそそのかされて、 神からそこからだけは取って食べてはいけないと禁じられていた認識の木の実を 取って食べた。 その罪により、エデンの園から追放された。』(旧約聖書・創世記2章~3章 ポイントだけ要約)

 『認識の木の実を取って食べた』ということが、①の、我々人間は誰しも『認識中枢(分別知)に根源的本質的欠陥』があるということにあたる、と解釈される。

  それを、『蛇(=サタン・悪霊)にそそのかされて』した、という。                             そそのかした、『蛇(=サタン・悪霊)』とは、②の、我々『人間の指令中枢(自我)の根源的本質的欠陥』を意味する、と解釈される、。

   とにかく、宗教の問題は、常にこの二点を軸として展開する。                               

  そして、これらの欠陥の対極が超越者たる救い主であり、仏である。

   分別知の対極は、無分別知であり、自我の対極は無我だ。                                   無我ということをキリスト教的に言えば、「神の栄光のために」あるいは「神の名において」だ。

          (注)  ここでいう「仏」とは、いずれ述べる([S10]参照)が、                                    そこにおける「第三の意味における仏」を意味する。                                             

 《もう1人の私》 ”後で説明することを先に出されても、わからんぞ。”

そして、宗教の道筋とは、ともにエデンの園の中心にあるという二本の木の、「認識の木(根源的本質的欠陥)」から「いのちの木(阿弥陀仏=無限の光・永遠の命)」に至る道筋である。(創世記2章9節)

ここでは、とりあえず枠組みを提示するに止める。いずれ、これらの意味は詳述していく。

なお、宗教問題をこのように捉えるということと、その問題の解決([第4章]中枢の欠陥
の超越  ・・・  [S26] 以下)がどのようなことになっていくかということとは、表裏の関係になっている。
   すなわち、問題がどこにあるのかということ(の認識)と、それがいかにして超越されるのかということ(の認識)は、同時的に解決される(解決されていく)事柄なので、本稿で提示したような宗教問題の捉え方をする根拠は、真の意味では上記[第4章][S26] 以下をまたなければならず、その中におのずから示されるのであって、この場で納得のいく説明をすることは不可能だということになる。

 《もう1人の私》 ”もうちょっとシンプルに説けないのか。前と後を同時に読むことは
            できないぞ。真ん中だってあるんだし・・・

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【宗教の窓】 をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

|

« [S2]一番元の、一番論じようもないところ(自覚) | トップページ | [S4]認識中枢の根源的・本質的欠陥(分別知・認識の木) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« [S2]一番元の、一番論じようもないところ(自覚) | トップページ | [S4]認識中枢の根源的・本質的欠陥(分別知・認識の木) »