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[S12]初めに言があった(世界は、どのような構造に創られたのか)

[S11]からの続きです。内容的に連続しますので、[S11]から続けてお読み下さい。

 ヨハネの福音書第1章冒頭と創世記第1章冒頭は、両にらみで、共通に統一的に理解されなければならない。(そして、仏教の実相構造とも)                      なぜなら、そこには天地がどのように創造されたのかが書かれているからである。

我々は、創世記の方は、しばらく置いて、ヨハネの福音書の方から、取りかかることにする。

ヨハネの福音書第1章冒頭(新共同訳)

【 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。                 この言は、初めに神と共にあった。                                                                     万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。                                                          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                                                       (14節)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

 イエス・キリストの一番原理的な正体(知の側から見た正体)は、『一即一切、一切即一』の実相構造、『神は我々と共にいる』の実相構造であった。

そこでは、「神と共にいる」のは、「我々」であった。このヨハネの福音書においては、「神と共にあった(過去形である)」のは、『言(ことば)』である。

《注》 ギリシャ語訳聖書では、『言(ことば)』は『ロゴス』と訳されていたので、そう言うこともある。『一番元にあるところの知恵』という意味にとりながら、『ロゴス』という訳を用いる方がいい、と私は思う。私は、仏教的に実相というところを、キリスト教的には、ロゴスと呼ぶかもしれない。もちろん、『ロゴス』を「構造」あるいは「論理構造(構造の論理)」と訳してもいいだろう。その意味するところは、同じである。

通常なされる、本家本元のキリスト教から聞くことのできる話は、この、『言(ことば)』とは、『イエス・キリスト』のことだ、ということであり、そしてそこで終わりである。

私は、さらに踏み込もう。そして、その『イエス・キリスト』とは、『一即一切、一切即一』の実相構造、『神は我々と共にいる』の実相構造を意味するのだ、と解釈する。何のことはない。我々にとって、これは[S11]で見てきたように『イエス・キリストの正体』なのだ。

そして、『はじめに』とは、[S2]で問題にしたアルファ、すなわち『一番元のところ』の意味であって、時間軸のはじめという意味でのはじめではない。

そこで、私流にヨハネの福音書を書き換えてみよう。

一番元のところ、それは、神仏の領域である。                        その神仏の領域というのは、『一即一切、一切即一』の実相構造、言い換えれば『神は我々と共にいる』の実相構造である。                                                万物は、一番元のところにおいては、この『一即一切、一切即一』の実相構造、すなわち『神は我々と共にいる』の実相構造にできているのであり、そうでないものは、なに一つとしてない。

《独り言》 ヨハネの福音書のこの部分が、過去形で書かれているのは、まず、実相構造・ロゴス構造が先にあって、そこから「我々」万物が生じた、という論理的順番を示すためであろう。

さて、ここで創世記冒頭に目を向けよう。

【                                                               初めに、神は天地を創造された。(旧約聖書・創世記1-1) 

アウグスチヌスは、『告白録(懺悔録)』において、この『はじめに』は、時間軸のはじめではない。自分は、この『はじめに』を『御子(みこ)において』の意味に理解する、とだけ言っている。

 しかし、もうこの一言さえあれば充分だ。『御子(みこ)=イエス・キリストにおいて』ということは、我々にとっては、『実相構造において』ということだ。

すなわち、旧約聖書・創世記1-1は、

    神は、『一即一切、一切即一』の実相構造、                                     言い換えれば『神は我々と共にいる』の実相構造に、天地を創造された。

   これで、統一的解釈が成立した。仏教もキリスト教も、同じ宗教的真理を、共有しているのだ。日本語で、本というところを、英語でブックと言ったって、それはそれでいい。

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  一応、これで本稿は、行き着くべきところまで来たのであるが、先々のこともあるので、ヨハネの福音書第1章に来たついでに、ちょっとだけ、付録をつけておこう。

《注》 以下は、この宗教の窓では、②の指令中枢の欠陥に位置づけられる問題である。先々、この内容はここから削除して、そちらに移すかもしれない。

 アウグスチヌスは、三位一体に関して、

『三位一体それ自体』まで、論ずることは不可能である。しかし、『三位一体の似姿』は、示すことができるとし、その『三位一体の似姿』とは、(正三角形の頂点のところが)存在、(下辺右の頂点のところが)知、(下辺左の頂点のところが)愛である、とする。

《独り言》 体得された『三位一体それ自体』に対して、それを言語化・思想化したものが、『三位一体の似姿』である、と理解している。

これは、仏教における三尊像を連想させる。

中央に、釈迦如来、右に智慧を象徴する文殊菩薩、左に慈悲を象徴する普賢菩薩。

あるいは、

中央に、阿弥陀如来、右に智慧を象徴する勢至菩薩、左に慈悲を象徴する観世音菩薩。

 他方、一般に人間の精神作用は、知情意と表現される。

慈悲ないし愛(神の愛を意味する)というのは、また私のおおざっぱさの出番であるが、情意の側面の問題である、と理解しておく。すべてが、相互に支え合って、全体ができ、部分が出来ているという有機的関係は、情意的にいえば慈悲ないし愛である。

そうすると、宗教的実存というのは、知的実存と情意的実存の両面性がなければならない。                                                  あるいは、こうもいうことができるだろう。『存在』を知的側面から捉えてみると、『一即一切、一切即一』の実相構造、すなわち『神は我々と共にいる』の実相構造になっている。『存在』を情意的側面から捉えてみると、それは慈悲ないし愛(神の愛を意味する)である。または、『一即一切、一切即一』の実相構造、すなわち『神は我々と共にいる』の実相構造を情意的に表現すれば、それは慈悲ないし愛(神の愛を意味する)となる。

   このようにして、先ほど引用した、ヨハネの福音書の最後の部分

      『(14節)言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。』

この、『言は肉となって』という一般に『受肉』といわれるところは、これも本家本元のキリスト教でその先がどうなっているか、私は知らないが、私は、これを『知的理解が情意の面まで及ぶに至って』という意味に解釈している。

《独り言》 イエス・キリストをもっと神格化するキリスト教の教義では、ここを私のように解釈している可能性は、低いのではないかと思われる。

そして、『わたしたちの間に宿られた。』 この時、そこに救い主が出現(現成)することになるのである。

《独り言》 このように、キリスト教にあっては、イエス・キリストに、初めに、インマヌエルという知的側面での性格が付与され、後に情意的側面での愛の性格が付与される、という構造がとられている。

そして、仏教においては、『知的理解が情意の面まで及び始める』その開始時点で、その人は、声聞・縁覚の小乗的段階から、『菩薩』という大乗的段階に足を踏み入れることになる。[S2]で触れた、華厳経入法界品(にゅうほっかいほん)における善財童子の遍歴の旅が、ここにおいてスタートする。そして、その終着点である弥勒菩薩の居城にたどりつき、最後に慈悲の象徴である普賢菩薩に出会う。ここにおいて、善財童子は完成形である『仏(第三の意味における仏)』になるのではなかろうか。

《独り言》 この辺は、私はまだよくわかりません。華厳経は、買って持ってはいるのですが、入法界品をきちんと読んでもいないのです。解説書で概略の話を知っているだけです。今、ウエブ上で検索してみましたら、ざっと読んだだけですが、よく書いてあるものがみつかりました。下記にあげておきます。

http://www.kuniomi.gr.jp/chikudo/special/img/2006_img/koen_0227-1.html

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              [コメント対象事項]

  初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。              この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。      
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[SC12-1]

投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

わたしなりのいい加減な受け取り方ではこうなります。つまり、、、

「はじめ」は初めのないところ(不生)からのジャンプであり、
言葉ができたのは、、、エデンの園を去る(分別智のはたらき)というのに相当するのじゃないかと言うことです。

すると、神もできるし、万物もできる、、、煩悩も無明もできるという構図です。

悲喜劇の幕が落とされ、われわれが登場と言うシーンと言うことになりますね。(いいか悪いかわからないけれど、、おっとっと、いいか悪いかは関係ないか!)

>言によらずに成ったものは何一つなかった。

がその実は何もないと「わかる」と、これは面白いですね!(やんや、やんや!涙を流しながら、拍手喝采!)

例によってお粗末なコメントですので、あしからず。

[SC12-1N]

投稿  西方法界  2007年8月15日

禅的立場からすると、洲崎さんの上記解釈はすばらしいですね。解釈というのは、こういうように直感的閃きがどうしても必要ですよね。これはこれで、たいへんよくわかります。楽しいです。

ただ、本家本元のキリスト教の教義体系から外れ過ぎ、キリスト教の人たちと、これで話しができるか、という点があるかと思います。
私の解釈は、そういったバランスをそれなりに配慮した面があるのですが、仏教的に見ると少し鈍いのでしょうか。

洲崎さんの解釈でうまくキリスト教の教義体系に合わせられるか、私も一応宿題にしておきたいと思います。

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[コメント対象事項]

    ロゴス・言葉
    初めに言(ことば)があった。
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[SC12-2-1]

投稿 求道者 | 2008年4月30日 (水) 

この解釈は少しまずいね。まずキリスト教のロゴスというのを言葉と訳しているが、これはギリシャ語で理性、論理(法則、法)を意味する。なぜキリスト教が言葉と訳したのかの理由は重要だが批判になるので今は避けたい。またロゴスの発生と人間の堕落との間には明らかにかなりの時間差があるので、失楽園が分別知の発生とはならないし、また明らかに異なる事象を意味している。人間が堕落したときに食べたリンゴの木は善悪を知る木と呼ばれるが、正確には悪を知る木である。その実を食べるとは、それに染まることを意味する。また分別知は無分別知からの降下であり、まさに人が生存するため、悟るための道具であり、これなくして分析思考も何も出来ない。また世界が創造された時点では、無明はなくエデンの園がそれを象徴している。この人間の堕落が原罪と呼ばれるが、悪の生命の木の意味を理解できれば、疑問が解消する。これはキリスト教で暗示される自由意志と関係がある。悪に染まる行為への自由意志が存在した。なぜ?その答えは「神はなぜ世界を創造する必要があり、人間を創造する必要があったのか?」という意味を解読すれば答えが可能となる。

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[SC12-2-1N]

西方法界|2008年5月7日(水)

このブログを「色即是空、空即是色」から入らず、「一即一切、一切即一」から入ったのは、即非の論理や絶対矛盾的自己同一の意味がよくわからない人にできるだけやさしくわかりやすく説明してみたいという意図からでした。
「空」に関しては、求道者様と理解を異にするのですが、それは他の場所で述べるとして、仏教では、「空」には、「法空」と「人空」の二義があるとされています。事柄を存在論的に捉える「法空」の方が入り口でわかりやすく、自覚の論理を正面から問題にするときは「人空」となります。しかし、「法空」で説明するなら、「一即一切、一切即一」の方で説明する方がよりわかりやすいという判断が働いた訳です。

その延長線上に「神は我々と共におられる」を持ち出すというのは、ある意味で無理があり、御批判を受けることはもっともであると承知しております。本来的には「人空」としての「色即是空、空即是色」をもってこなければなりません。いずれそのことに触れなければならない時期、場面がくると思っておりました。
  しかし、「法空」と「人空」の両方に「色即是空、空即是色」が成り立つのと同様に、「法空」の局面においても「神は我々と共におられる」ということができる(その意味で二重の解釈をする)という理解で、「『万物』は、言葉によってなった。」とも記されておりますので、冒険的に統一的解釈を試みてみたのですが、おかしいですか。

旧約聖書の創世記を充分わかりきってはいないので、おっしゃられることも参考にしながら、長い目で参究を深めていきたいと思います。

そこで、話を「人空」の方向に展開してみます。

部分的な取り上げ方しかできず、恐縮なのですが、おっしゃられることの中で、《分別知は・・・悟るための道具》というところは、禅宗の近辺にいる者から見ると、かなり違和感を覚えます。
  その根拠とされる『分別知は無分別知からの降下であり、』というところは、「無分別知を具体化していくのが分別知だから」という意味なのでしょうか。
   そうだとした場合、それはそれでよいのですが、無分別知、分別知、そのつながり方あたりのところが大問題であると感じています。ここを眺めるのが大きなポイントで、その無分別知、分別知、の奧というか、その向こう側に絶対無(但し、この意味は、虚無ということではなく、求道者様がいわれるブラフマン的な感覚で私は捉えていると思います)が位置していて、絶対無への対し方というか、接触の様子というのは、大燈国師のいわれる「対して、対せず」というようなあり方になってくる、というようなイメージです。
    そしてこの「対して、対せず」というあり方が上記のポイントの場のようなことになってくる、と捉えております。

[SC12-2-2]

投稿 求道者 | 2008年5月10日 (土)

非常に内容が多いので、まず、「分別知が無分別知から出た」というのは貴方の解釈の通りで、「そこから出てはいるが、質的には全く異なるもの」ということであり、「分別知によっては無分別知は理解不能」ということも事実です。
これを現代流に表現すると、無分別知とは無限界の中にある知であり、分別知とは有限界の中にある知である。無限界を海とすれば、有限界にある私の分別知は一滴の水であり、一滴の水には海は理解不能であるが、実は海から出たものであり、依然として海の一部である・・ということです。
有限は無限の中には含まれ得るが、有限の中に無限は含まれ得ない・・・とも言える。だから(無明を克服した曇りのない)分別知の理知によって無分別知を極限まで分析理解できるが、結局は海と溶け合わない限り無分別知を理解することは出来ない・・・というのが言わんとするところです。それが、悟りへの瞑想修行の最後には、「(分別知の持つ)想念、思念自体を消滅させる必要がある」理由です。
つまり無分別知とは、想念、思念の界を越えたところにあるからです。
それは意志意識の界であり、時間も無く「意」willのみが存在する。次元が異なると現代流に言える。

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[SC12-2-2N]

西方法界|2008年5月13日(火)

はい、これはこれで一通りわかりました。

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[コメント対象事項]

    三位一体
   
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[SC12-2-3]

投稿 求道者 | 2008年4月30日 (水)

アウグスチヌスの三位一体は、彼がキリスト教の原典となるある宇宙論に関する書物を読んでいたことである。三角形とは生命の木の最上部の三角形で、ケテル、チョクマー、ビナーと呼ばれる。ビナーはビーナスであり愛の女神、チョクマーは知識の象徴であり、ケテルは頂点だから、宇宙が存在しる最初の顕現点のことである。これが本来の三位一体の原理の原点であるが、この原理は、神の降下展開を示すので、様々に応用され、父と子と精霊とか言われたりもするがキリスト教徒でこの真の意味を理解できる人は少ない。調べれば日本の神道も同じ原理の展開であることが分かる。勿論仏教もヒンドゥー教の基礎を持つから同じである。

投稿 求道者 | 2008年5月 1日 (木)

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[SC12-2-3N]

西方法界|2008年5月7日(水)

神の降下展開というのは、我々が宗教の道筋を歩む場合、この順序[父(存在)->子(知)->聖霊(愛)]で認識乃至体得をしていくということですね。

[SC12-2-4]

投稿 求道者 | 2008年5月10日 (土)

いいや、かなり異なるものです。父子精霊というのは、一面的解釈は出来ない。聖書の面白いのは、常に多面的な解釈を含んでいるということです。存在、知、愛というのも一つの解釈です。仏教的視点で見れば、梵、我、エネルギー(仏教用語で何と言えばよいのか知らない)ということになる。あるいは、宇宙(神)、心、物質としてもよい。また仏像は頻繁に三身を並べて表現されるし、神道も造化三神と並べられる、老子も三よりすべてが造られた、と表現する。この三というのはほぼ世界共通の創造原理であることが解る。続いて4,7,12と続くが、世界中共通なのである。

神の降下展開と言うのは、簡単に言えば、「神の化身が上から下へと劣化降下していく様」を意味していて、仏教でもその通りである。
この点については遙かに多くの事があるが、紙面の都合もあり、徐々に出していく機会があるでしょう。

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[SC12-2-4N]

西方法界|2008年5月13日(火)

神の降下展開は、とりあえずわかりました。
三位一体は、また流れに従ってお願いします。

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[SC12-3N]

西方法界|2009年5月17日(日)

「初めに言があった(ヨハネの福音書)」の最終的解釈・意味確定は、
仏教との統一的理解をも含めて、本日カテゴリー『窓は空、空は窓』の
[M21] 俗諦の仮設性と世界の被造性(仏教とキリスト教の平行理解の根本)で
展開するに至りました。
但し、そのかなり前の稿から読まないとわかりにくいかと思います。

 http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-ffe1.html



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