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[S30] 死と復活・・その五(親鸞上人)

   歎異抄をみると、親鸞聖人における「死と復活」のプロセス、特に親鸞上人における中枢の「死」というものがどのようなものであったのかが、くっきりと浮かび上がってまいります。よく御存知のところではありますが、原文を追いながら、これを「死と復活」という角度から見てまいりたいと思います。

『 親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし]と、
  よき人のおおせをこうむりて、信ずるほかに別の子細なきなり。』 

親鸞上人の信仰の根拠というのは、法然上人から、「ただただ、南無阿弥陀仏と唱えて(念仏して)、阿弥陀様に救ってもらいなさい」といわれた、ただその言葉を信じているだけであって、それ以外に特別に深いわけがあるのではない、ということがまず述べられます。

『 念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、
   また地獄におつべき業にてやはんべるらん、
   総じてもて存知せざるなり。』

  お念仏をとなえることで、ほんとうに極楽浄土に生まれかわることができるということがわかったから、そうしているわけではない。

『 たとひ、法然上人にすかされまいらせて
   念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべ からずそふらう。』

だから、地獄に落ちてもかまわない。

親鸞上人は、深いわけはないといわれましたが、この後に続く部分がその深いわけになります。
文の構造が複雑なので、私流に再構成します。

『 その故(わけ)は、自余の行(じよのぎょう)をはげみて
   仏になるべかりける身が念仏をばして地獄にも落ちてそうらはばこそ、
   すかされたてまつりてといふ後悔もそうらはめ、』
   
  「その故(わけ)は、」は、続きの文の方にかかるので、ここでは関係ありません。
   
ここでは、自余の行(自力の修行)をして仏になることが出来るような人のことを先に話されます。親鸞上人自身は、そちらには入りません。
自力の修行をして仏になることが出来るような人が、念仏して地獄に落ちてしまったというのならば、だまされたという後悔もおきるでしょう。でも、自分はそうではないのだ、と続きます。 

『(しかし、そういう人と違って、この私は)いづれの行も
    およびがたき身なれば、地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。』

有名なところです。そして、まさにここが問題の箇所ということになります。

「いづれの行もおよびがたき身なれば、」

親鸞上人は、比叡山で長い間、聖道門仏教の厳しい修行をされ、力の限りを尽くされました。しかし、その結果わかったことは、自分は「いづれの行もおよびがたき身」だったというのです。どんなに修行しても、どうにもおよばなかった、というのです。

親鸞上人の絶望感が、心の底から重々しく、そのうめき声が聞こえてくるかのように表白されております。

歎異抄ではありませんが、親鸞上人には以下のようなお言葉があります。

  自分は「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」である。
  自分の「こころは、蛇蝎のごとくなり。」
  「清浄のこころは、さらになし。」
 
これほどまでにきびしい自己認識があるでしょうか。 長きにわたっての厳しい修行の果てにたどりついたのは、このような自己認識でありました。

だからもう、自分は『いづれの行もおよびがたき身』であることがつくづくわかった。自分は、もう絶対に仏道を成就することなどできないのだ。自分は、これから一生、蛇蝎のこころの中で、生きていくほかはないのだ。と、こういうことなのでしょう。

ここに、親鸞上人の絶体絶命の淵が極まります。
ここにあって、親鸞上人には自分の中枢に寄って立つ力は尽き果てていた、と考えられます。ここが親鸞上人の、中枢の死の局面であると思われます。

そのような中で、ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけで、極楽浄土に往生できるという浄土門仏教と法然上人のことが聞こえてきたのでしょう。
そして、親鸞上人は長年修行をされた比叡山を下りることを決意され、法然上人を訪ねられたのだと思われます。
比叡山を下りる親鸞上人の心中は、あたかも夜鷹が力尽き、天空から落ち始めた([S27]参照)ときのごとくであったかもしれません。

親鸞上人はもはや自分の中枢に寄って立ってはおられない。頭の中は、真っ白なのでしょう。皮肉なことに、修行の力が尽きて、修行が終焉を迎えたときに(夜鷹が力尽き、天空から落ち始めたときに)、修行では至り得なかった『空(死)』になりきっている親鸞上人の姿がそこに見られます。『死』に至るまでの過程の終局に見られる逆説的事態がここにも見られます。それは、見切りをつけるとか、断ち切るなどという意識的操作を超えて、『力が尽き果てることによってのみ、自ずから断ち切られる』以外にはない局面です。

だから、冒頭に言われたように、自分の中枢に寄って立つことができない親鸞上人は、ただ法然上人のお言葉のとおりに弥陀を信じるという一点に極まります。それは、『選択』というような意志的なものではなく、中枢の働きを超えた『自然の成り行き』であったのだと思われます。
それで、地獄に落ちてもかまわない。どうにもならない一点に極まり、それ以外はなにもありえない、もう来るべき所まで来て、あとは落ちるより仕方がないというところなのでしょう。

  歎異抄にはそれらしいことが書かれておりませんが、親鸞上人は「横超」ということを言われております。これが、親鸞上人の超越、親鸞聖人の悟りであることは間違いないでしょうが、おそらくその「横超」が親鸞上人の身の上に現成するのは、その先時間の問題であったと言うことができるのではないかと思います。
 
  ここに展開されている逆説に満ちた不思議な光景は、またよく考えてみると、道元禅師のいわれる『放てば手に満てり』ということにぴったり附合するかに見えます。聖道門仏教を典型的に登りつめた道元禅師のいわれることが、聖道門仏教に挫折した親鸞上人の姿・成り行きにぴったりあてはまるというのも、『中枢の死』ということが困難であるだけではなく、いかに複雑で、微妙なドラマ・消息を持つものなのかを思い知らされます。

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    結局悟りとは
   
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[SC30-1-1] 投稿 求道者 | 2008年5月1日 (木)

結局悟りとは、本当の自分と偽の自分との、「差を取る」ことであり、「さとり」と言う。その差とは、執着であり、それを取ることである。だから一切を空と理解できれば執着する必要性が無くなる。自身を含め何もかもが馬鹿馬鹿しくなり、捨ててしまいたい思いが究極に至れば、差が取られ、執着心が無くなり、真我が出てきて、個我と一体となり内外の2つの我の自己矛盾が消滅し、孔子が言った、「我、思うところにしたがいて、則を越えず」が実現し、悟りの瞬間である。
  だから中枢の死とは、中枢自体の死ではなく、間違いの中、無明の中にあり、現世を実相と勘違いしている我を、克服することである。それが知的理解だけでは相当の困難があり、親鸞などのように死ぬほどの自己嫌悪で苦闘しなければならないが、普通の人間では修行と知的理解の両方の相乗効果で進めようとするのである。勿論、親鸞にも十分な宗教的、知的理解があり、苦闘との相乗効果が正しく実現したので、厭世家とはならなかったのである。

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[SC30-1-1N] 西方法界|2008年5月12日(月)

《だから中枢の死とは、中枢自体の死ではなく、間違いの中、無明の中にあり、現世を実相と勘違いしている我を、克服することである。》

私は、真にB( 《間違いの中、無明の中にあり、現世を実相と勘違いしている我を、克服する》 )になるためには、A(中枢の死)を通過しなければならない。Aを通過してはじめてBに至れると理解しています。

ところが、上記論理は結果的にBになるのだから、AはAではなく実はBなのである、と言っていることになります。
すなわち、宗教的実存の論理、実存的超越の理解がここで抜け落ちてしまっています。Bという結果は正しく先取りできているといえばいえるかもしれませんが、そこに至るための「いちばん微妙な勘所というか消息」に対して極めて鈍感な論理になっています。そうであるが故に視点が移動してしまっています。

ですから、求道者様はアウトラインとしては、極めて卓越した理解を示しておられると思うのですが、おそらく随所で何かが少しずつずれていくことになるかもしれません。

しかし、求道者様がお考えのような論理というのは、確かに禅宗の中にも流れてはいるのですね。それは、わかります。間違いだ、おかしいといったら、言い過ぎなんですね。
取り出し方に問題があるのかな。乃至は、取り出したものだけで逆に説明しようとすると足らないものがでてくる感じでしょうか。う~ん。微妙ですねえ。

私から見ると、こんな感想になります。これはこれとして置いておかないと先に話が進みませんのでここまでにしましょう。

[SC30-1-2] 投稿 求道者 | 2008年5月13日 (火)

まあ、簡単に短略化すれば、認識中枢の死であり、指令中枢の死ではない、と言うべきでしょうね。死という用語にこだわる必要もないので西方さんの言われることも理解出来ます。先に進みましょう。

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