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[S11]神は我々と共におられる(イエス・キリストの正体)

 華厳経の中心思想である『一即一切、一切即一』と全く同じ宗教的世界観が、聖書の根幹を貫いている。

  私はキリスト教には、ほんのわずかしか関わらなかったので、はっきりしたことはいえない。しかし、私が『そういう眼で確認しようとして見ていても』、未だに本家本元のキリスト教が、そこをはっきりとそういっているかどうか確認できていない。ということは、結局明確にはそうはいっていない、ということかもしれない。しかし、私の理解に反することもいってはいない。私から見ると、はっきりした解釈が聞かれないから、たいへんもどかしい。                                                                                                          
 ただ、カールバルトに就いた滝沢克己([S7]参照)は、基本的に、これから私が書くことと同じ方向のことを言っておられる。そして、あの『神の国』を書いたアウグスチヌスも同じだ。(私のきわめて限られた読書範囲から拾い出せば、という限定付き) あるいは、私の解釈は、この二人の解釈がヒントになって導かれたのかもしれない。順序がどうなっていたか、先後関係を忘れてしまった。でも、そんなことはどちらでもいい。

マタイの福音書1章23節。このあたりは、マリアからイエスが生まれる有名なシーンにあたるところだ。

   このことが深い問題につながるとは思えないのだが、ちょっと、おかしなことがあるので、先にそれをかたずけてしまおう。このイエスの誕生シーンが、二重命名、すなわち、二つの名前が平行してつけられる、というおかしなことになっているのだ。一つは、もちろん、イエス、もう一つは、インマヌエル。                                                                  私もこの二重命名のおかしさを説明することはできない。敢えて私の勝手な解釈を言わせてもらえば、二重命名のおかしさをおかしても、インマヌエルという名を持ち出したいほどに、この問題は重要だったのだ、と解釈することである。これなら、これから行う私の解釈がより一層根拠づけられることになる。それなら、私はそのように解釈しようか。

   [注] 滝沢克己の「第一義のインマヌエル(超個と個の接触)」と
     「第二義のインマヌエル(超個と個の接触)」を区別する立場からすると、
     インマヌエルは前者の関係での名(実は体)、イエスは後者での関係での名で
     あると説明できる。
      そして、[S13]あなたの名は何というか、で問題にしているように、
     「本寂(ほんじゃく)」に相当する名(『適来(さきほど)の本寂』)が、
     イエスなのであり、言うことはできないとされた《真箇の本寂》に相当するもの
     が、インマヌエルだということになる。
                             
とにかく、話はこのもう一つの名インマヌエルから出発することになるのだ。そこで、この二重命名の問題は不問に付しておいて戴きたい。

 このイエスにつけられたインマヌエルという名前は、ヘブライ語であって、

この名は、

    『神は我々と共におられる』

という意味である。

こう、聖書には書かれている。すなわち、イエスの方と異なり、インマヌエルの方には、名の意味まで書かれている。

『神は我々と共におられる』という言葉は、旧約聖書の中(イザヤ書7章10節)にも出てきている言葉で、このイエスの誕生シーンで始めて聖書中に出てきたものではない。それが、イエスの名としてつけられた。

  そして、解釈は、ここから始まる。しかも、直観的にこういうことだ、と閃く以外に解釈の根拠は何もない。                                                                                                  もちろん、ここだけでその直観が生ずるのではない。他の関係箇所すべてと全部を同時に、にらみながら、それらの箇所すべての解釈が同時決着するのである。                   その関係箇所と同時決着した解釈を筋道立てて、順番に話すとすると、ここから始めるのがよい、というだけである。                                                                             そして、関連箇所すべてが整合性のとれた解釈になる。                                        従って、その直観的に導かれた解釈は、こうだ、こう解釈されるのだ、と説明する以外に説明のしようがない。

 『名は体を表す。』 これが、一つのキーワードになる。これに続く論稿でも、やはり、これがキーワードになる例をとりあげる予定であるが、ここでもそうなのだ。仏教でもキリスト教でも、そうなのだ。                                             宗教の肝心な局面で『名』が問題になるときは、名が問題では「ない」のである。常に問題になるのは、『名』ではなく、その『体』である。その正体が問題になっている。すなわち、ここでは、イエス・キリストの正体がなんであるか、ということが示されるのである。

 私の解釈は、こうである。

『神』は、超個、我々は、個。

    超個は個と共にある(おられる)。                                   

    一切は一と共にある(おられる)。

この、『と共にある(おられる)』が、仏教における『即』に相当する。

我々は、神と、絶対矛盾的自己同一(逆対応)的関係において、共にいる、というのである。

ここで、[S2]にあった、あの大燈国師の言葉を再掲しよう。

『   億劫(おくこう)相別れて、須臾(しゅゆ)も離れず。                           尽日(じんじつ)相対して、刹那も対せず。                                  この理、人々これあり                                        』

(億劫(おくこう)は無限の時間。須臾(しゅゆ)と刹那は、共に一瞬。尽日(じんじつ)は、一日中)

 すなわち、ここでイエス・キリストの生まれたときの、一番原理的正体(なぜ、一番原理的というかは、まだ後の続きがあるからである)は、実相構造、すなわち『一即一切、一切即一』構造だというのである。                                                       もちろん、言葉上は、そういわずに、『神は我々と共にいらっしゃる』構造と言おうが、あるいは、この後に出てくる用語であるが、『ロゴス(『ことば』)』構造といおうが、はたまた、絶対矛盾的自己同一構造とも即非構造ともいえるであろう。

《独り言》 ここは、いろいろな事柄が、関係する。後のどこかで触れることになるが、仏教で言えば、智慧(文殊菩薩あるいは勢至菩薩)と慈悲(普賢菩薩あるいは観世音菩薩)の側面、キリスト教で言えば、知恵と愛の側面の問題。ここでは、イエス・キリストの知恵の側面からの正体が、問題になっている。すなわち、「一番原理的正体」と言ったのは、「知恵の側面からの正体」を意味する。旧約聖書・箴言8・22‐36(知恵)              この宗教の窓においては、知の側面は、①認識中枢の欠陥、愛・慈悲の側面は、②指令中枢の欠陥の位置で、主として論じられることになる。

とにかく、イエス・キリストの一番原理的正体(知の側面から見た正体)は、『一即一切、一切即一』の実相構造である、と解釈される。

ここで、項をあらためよう。内容的には、次に連続します。

 

[S12]に、内容的に連続します。続けてお読み下さい。

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         『神は我々と共におられる』
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[SC11-1] 投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

  ここまで読んだ限りでは、エッカートを読まれたかどうかわかりませんが、この辺に絡んで読むと本当に面白いとおもいます。

ちなみに大拙のエッカート観(英語)は例えば:
http://www.sacred-texts.com/bud/mcb/mcb03.htm#page_3

にでています。日本語だと禅の思想と言う本にも入ってます。

不思議なものです!   

[SC11-1N]
投稿  西方法界  2007年8月14日

エッカートとは、エックハルトですね。一通りは読んでおります。
キリスト教で、あそこまでいくというのは、驚きでした。

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[コメント対象事項]

    「神は我々と共におられる」の意味、およびキリスト
   
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[SC11-2-1投稿 求道者 | 2008年4月30日 (水)

「神は我々と共におられる」というのは平易な言葉で表現すると、梵我一如ということであり、宇宙(ブラフマン)、光と一体である真我と個我(アートマン)が溶け合って一体である、またイエスは生まれたときからそうであったか、またはそうなるべく生まれた、ということになる。またキリストと言う言葉は個人名ではなく、仏陀とほぼ同じ意味で覚醒者を意味する。

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[SC11-2-1
N] 西方法界|2008年5月7日(水)

[後記注] 求道者様は、特定の宗教に属さず、東西の宗教を幅広く共通的原理の内に
             捉えようとされている方でいらっしゃいます。


  ブラフマン・アートマン・梵我一如・・・ということは、求道者様は、ヒンズー教とお見受け致します。
私は、この程度の言葉を知っている程度で、ヒンズー教のことはまったくわかりません。ネットで検索して二つ三つ読んではみたのですが、コメントを読ませていただいていると、仏教と大変よく似ているような、ちょっと違うような感じが致します。おっしゃられることを私の仏教理解の上で捉えるほかありませんので、少しトンチンカンになるかもしれません。
 
  個我というのは自我で、真我というのは臨済のいう「一無位の真人」というような感じでしょうか、それとも「永遠のいのち」というイメージでいいのか。個我が消えるのではなく、溶け合うというのは「煩悩即菩提」のような感覚でもあり、「両鏡(意識と無意識)相照らして中心影像なし」というような感じでもありますが・・。


[SC11-2-2] 投稿 求道者 | 2008年5月10日 (土)

これは厄介だですね。言葉の意味からして私自身が禅宗をよく理解しないと通じないですね。私は無宗教ですが、古今東西の宗教(宗派ではない)を統一統合的な視点から模索している者です。使用言語としては出来る限り、現代人に理解しやすい科学的、物理学的、心理学的用語を使って説明しようと努力しています、でなければ若人にはもはや受け入れられる時代ではなくなってきているし、またそもそも宗教用語はその時代の人々の理解できる言葉で書かれたものであるから・・・と言う理由です。ヒンドゥー教に見えるのは、古代の主要な宗教は例外なくすべて宇宙観に基づいているからです。明らかに、エジプト、シュメール、バビロニア、古代インドは同じ考え方を源泉としている。そしてその上に、ユダヤ教やマニ教やキリスト教や仏教が確立されている。仏教もその根底はヒンドゥー教であることは疑いない事実であるが、異なる言語体系の中への翻訳を通じて、失われたり追加されたりしている。しかし根本を見れば見るほど、理路整然とした哲学体系でもあるし、個と宇宙との関係を解いている。まったく疑いなしに!ということですね。

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[SC11-2-2N] 西方法界|2008年5月13日(火)

やっとお立場がわかりました。てっきり、ヒンズー教の方だと思っておりました。失礼いたしました。

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