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[S23]隠れ蓑(みの)と無防備

   おかしなタイトルですが、私が気になっていることの一つです。
私たちには、『隠れる、または隠すという心の構え』があると思います。そして、その一つ奥には『隠れたくなる、または隠したくなる、なんらかのやましさ』が潜んでいるようにも思われます。

   自己意識(自意識)と他者からの目に対する意識に関係しているらしいという意味では、[S21]で取り上げた評価・自尊心(プライド)・面子(メンツ)などと共通するのですが、もっと微妙な問題にも思えます。しかし、実質的には同じ根拠を持っているような気も致します。その辺のところは見極めがついておりません。ただ、『自己を忘れる』ということとの関係では乗り越えなければならない課題であることは確かだと思っています。

 誰でも御存知のあの聖書の一節、しかも未だかつて私は納得のいく説明・理解に出会ったことがないこのところが、思い当たります。
旧約聖書・創世記第3章冒頭の、アダムとイブが禁じられていた認識の木の実を採って食べたあの有名なシーンの直後のところです。 

 「 (7節) 二人の目は開け、『自分たちが裸である』ことを知り、二人はいちじくの葉を
   つづり合わせ、『腰を覆うもの』とした。
       ・・・・神が・・歩く音が聞こえてきた。
   アダムと女(イブ)が、・・・神を避けて、・・・『隠れる』と、・・・・   
       ・・・・・『隠れております。わたしは裸ですから。』            」

ここは、単なる性的羞恥心などということにはとどまらない、重大な何かを暗示しているように思えているのですが、先ほど述べたこと以上には自分でも明快に解明することができません。
自我的であること自身の中に、私たちは無意識のうちに何らかのやましさを感じているのでしょうか。そんな気もしますね。でも、はっきりしない。どなたか、わかる方がいらっしゃいましたら、御教示戴ければと思っております。

 とにかく、この問題は私の実参実究の課題であり続けているわけですが、この点について超越した側から投げかけられる言葉、私たちが向かうべき方向性を指し示してくれている言葉というものには、既に出会っております。

一つは、私の師、和田重正先生(宗教情報の窓の中を参照)がおっしゃられているお言葉で、『無防備に生きる』というものです。
『隠れる、または隠すという心の構え』と『防衛するという心の構え』は、多少ニュアンスが異なるような気もしますが、『隠れる、または隠す』というのは、それによって何かを『防衛している』ともとれますから、同じことのような気もいたします。その辺の分析云々を言っているより、まとめて超越してしまった方が早そうです。理屈は後からでもかまいません。

『無防備に生きる』というと、ずいぶん肩の力が抜けている感じがします。なんとなく、イメージはあるのですが、ボヤーとしているといえばボヤーとしています。

もう一つは、有名な良寛さんの辞世の句とされている、

    『裏を見せ、表を見せて、散る紅葉』

これは、お好きな方がたくさんいらっしゃると思います。キリスト教の方も、これが好きな
人が多いという話もあります。

私も、そういう願望があります。しかし、願望があるのと、実際に「裏も表も見せられる」こととは、かなり距離があります。これをどう埋めていくか、どのような精神においてそれが可能となるのか、とにかく一つの大きな課題ですね。

 事柄の消極的側面を美しい言葉で表現した良寛さんの歌に対して、積極的なきびしい側面も見ておきましょう。

  [K7]で現代語訳を試みた洞山の五位における第四位・兼中至の頌の冒頭に

           『両刃鋒を交えて避くることをもちいず』

というのがありました。私は、(鈴木)大拙先生の解説を参考にしながら、以下のように
現代語訳(現代語的に意訳)してみました。

『自と他が出会ういかなる局面でも(両刃鋒を交えても)、絶対に、その出会いを避ける  
 というようなことはしない。
  菩薩(蓮)は、その身をいかなる出会いの局面の中にも(火中に)投じていく。
 避けることなく、真っただ中に入っていく。』

 
[注] カテゴリー『窓の外は空』の[K7]に「洞山の五位・不完全現代語訳」が
     あります。


私は、こんなところに触れるような立場ではないのですが、本稿のテーマは、ここのところに関連するものがあるように思います。
『自分を防衛するという心の構え』があるということは、『両刃鋒を交えて(自と他が出会う場面のどこかで)避くることを
もちいているということになるのではないでしょうか。自分の側に『まもるべきもの』があるうちは、我が身をいかなる出会いの局面の真っただ中に投じていく、ということはできない(どこかで、避けてしまう)のではないでしょうか。

例えば、散歩していたら、捨てられた子犬に出会いました。ここですね
。『両刃鋒を交えて』というのは。ここが、事事無礙法界的実存の場所、現実の歴史的世界の中で、自己の死において=逆対応的に絶対無に接し、逆限定的に自己表現的、自己形成的に、現実の歴史的世界の中へ、どう働き出せるか(西田幾太郎)が、問われるのではないでしょうか。
 犬ではなく、猫だったらどうでしょうか。一刀両断にされそうな猫を目のあたりにしたとき、『自分の悟り』のほうが大切で「ハテ、ドウシタモノダロウ」と考え込んでしまう、その自分というもののあり方そのものが根底からひっくり返らないといけないように思うのです。私は、公案一つわかるより、猫一匹助けたいと思います。


≪独り言≫『思います』などというところでは、禅から遠ざかること、何千里ということになってしまったようです。体究錬磨!!!

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[SC23-1-1] 投稿 求道者 | 2008年5月1日 (木)

正直なお話すばらしいことです。私の好きな言葉に「沈黙は金なり」というのがあります。これは消極的ですね。外見上は!一見ズルく見えるし正義心に欠ける。しかしこの言葉の真理は非常に深く、「悪に抗するな」というイエスの言葉と呼応する。この本当の意味は、相手の攻撃心が強い時に、こちらが刃を見せると、相手の攻撃心が増し、自他共に戦いとなり他人にも迷惑となるからである。これは因果をよく知れ、ということで、つまり、その結果がどうなるかよく分析してから行動せよ、である。そして真理に基づいた価値判断をせよ、である。物事はケースバイケースなので、逐次事象に応じて臨機応変さが重要だが、自分を犠牲にする場合も状況と相手に応じた方法が肝要である。猫を守ることで自分が傷害を受ければ、猫は救われるが、自分の進歩は遅れ、死ねば出直しである。優れた魂と知能を持つ人間は猫より上である。一人が悟れば遙かに多くの衆生を救える。これは釈迦が説く言葉である。だから相手を制する力があれば、猫を助ければよい。自己犠牲は悟りへの必定ではなく、真理に基づく判断を疎外しない。 『両刃鋒を交えて避くることをもちいず』は真理追究への妥協のない姿勢であって、玉石混交してはいけない。

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[SC23-1-1N]
西方法界|2008年5月9日(金)

  前半部分ですが、たいへん感じ入ります。そういうことですね。
しかし、なかなかできがたいことで、承知していても実際問題となると、すぐはずしてしまいそうな気がします。修行!修行! 
 
後半部分は、私などはまだ未熟でだめなのですが、仏教では、慧としてその場に応じて直観的に飛び出してくる感覚がまずあって、分別を使うにしても、その飛び出してきた直観に沿った分別の働かせ方になってくるという理解をしています。

 猫の例ですが、これは「南泉斬猫」という禅宗では誰でも知っている有名な公案があり、師と弟子の禅問答の場面で出てくるものです。「猫だったらどうですか。」と言えば、通常私のブログの読者はみな「南泉斬猫」の話を思い浮かべますし、私もそれを想定して書いていますので(さもなければ、犬の次に猫を出す意味がない)、一応そういう局面が前提になっているということです。

[SC23-1-2] 投稿 求道者 | 2008年5月11日 (日)

失礼しました。禅の公案も面白そうですね。頭の体操で、時間があれば研究してみます。

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