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[S8]西方法界の立っている位置(その転換点)

ここで、先延ばしにしていた私の立つ位置について述べておきます。

  私は、33歳までは無宗教でありました。その頃、私は勤めていた銀行を辞めて、司法試験の勉強をしておりました。不思議ですね、そう、ちょうど今頃でした。三月の上旬頃です。その当時たいへんいきずまっていた論文の答案練習をしている最中に、かつて経験したこともないような出来事が起きたのです。

  その時、私の目は、書いていた答案の、書き続けてきて行きづまっている現在の場所を見ていましたが、私の意識は、一見それとは直接的には関係ないと思われる2ページほど前の最初の書き出し部分に釘付けになっていました。
  我を忘れて茫然とするような状態の中で、じっとそこを見つめているような状態がしばらく続きました。それが、どのくらい続いたかは、自分でもよく憶えていないのですが、そんなに長くはありませんでした。といってそんなに短いという記憶でもありません。
  そのときの頭の中は、何か考えるというような状態というより、ただ白紙の状態で、意識だけが何かをみつめていたというような印象だったのですが、それを敢えて思い出して言語化して見ると、その時の意識の方向は、『この今いきづまっている答案の、このいきづまりは、一見それとは直接的には関係ないと思われる、あの最初の書き出しの部分と、何とも言葉では表現できないような、無限に有機的な関係で繋がっているんだ、え~、そうなんだ~。』という感じであったのだろうかと思います。
  そして、どのくらいそこを見つめていたかはよくわかりませんが、次に移ったのは、ここからは、はっきり言語化していたと記憶しておりますが、『部分と全体の関係っていうのは、こうなってるんだ。え~、そうなんだ~。』ということでした。

   そして、そのことにどのくらい時間をかけたかはわかりませんが、茫然とした感覚の中で、意識だけがハッキリしていて、自分の意志とは言えないのに普段では考えられないような集中の中で、 ただそのことだけを見つめている時間が流れました。

   そして、次に意識が移ったのは、『部分と全体の関係がこうだというのなら、有限と無限ということも同じなんだ、しかも、いままで考えていた有限というものは、実は有限なのではなく、それ自体無限なんだ。この世の中に、本来有限などというものは、本当の意味では何一つないんだ。すべては、無限なる構造をしているんだ。』ということでした。『そして、そうだとすると、その無限なるもののかなたに、神というものが自然と立ち現れてくる、というか、神という言葉でよんでいいものを自分なりに観念できる。』ここまでは、今でもはっきり記憶しております。

   それから、先は何をどう考えたか、自分ではよく憶えておりません。自分の意識では、夢遊病者のように思えました。私は一種の興奮状態の中で、今気付いたそのことを中心として、従来のものの見方を再編成するべく、考えてはそれを書きつけ、また考えては書きつけ、一週間くらい、そういうことが続きました。もう、試験の勉強など、まるで眼中には入ってきません。興奮状態の中で、夜になっても、眠くならないのです。一日のうちのどこかで、眠くなることがあって、寝たことは寝たのですが、それも2時間くらいすると自然に眼が醒めてしまって、そうするとまたすぐ興奮状態になります。

   やっと、そういう状態から脱して、普通の状態に戻ってきたのが、1週間後あたりではなかったかと思います。

  そのちょうど10年後の43歳のときに、程度は軽いのですが、似たような状態にもう一度なっております。それは、たまたま、電車に乗っていたときに起こりました。女房がクリスチャンというだけで、それ以上はそれまでは縁のなかったキリスト教なのですが、ある縁でキリスト教会に通い、聖書を細かく読むようになっていました。そしてその日も、ある家庭集会に参加するための途中であったのです。ふと、気がつくと、電車に乗っているはずの自分が駅のプラットフォームのベンチに腰かけているのです。意識が戻った瞬間、『あれ、何で自分はここにいるんだろう。ここはどこだ。』と思ったのを憶えております。そこは、下車してはいけない途中駅でありました。このとき、仏教とキリスト経との統一的理解が成立するのですが、この時の興奮状態は、最初の時ほど強くなく、また2日程で自然に消えました。
 
  後にも先にも私がこういう状態になったのは、この二回だけです。ただ、最初の方は、自分にとってはパラダイムシフトでした。後の方は、あまりそういう実感ではなく、わかった、という感覚です。ただ、普通のわかった、という時とは違って、それなりの興奮状態が2日続いたということで、自分では一つの事件という意識を持っているという程度です。
 
  それで、最初の33歳の時にもどりますが、その時から私の人生は、はっきりと転換することになります。試験勉強はそっちのけで、次にとりかかったことは、昔読んでよくわからなかったゲーテの「ファウスト」が読めたかな、と思ったのです。それで、本棚から、引っぱり出してきて、ここはこういうことだ、ここはこういうことだ、というように、書き込みをしながら読み切り、さらに、何日間かあっちを開き、こっちを開きということを繰り返しました。
  そして、次はハイデッガーの「存在と時間」を読み始めました。『世界内存在』という言葉もフムフムと直観的にわかり、何を論じているかもそれなりにわかり、面白かったのですが、ちょっと、読み始めると、哲学はたいへん、「まどろっこしい」、これではいつになってもらちがあかない、頭で掴むんじゃない、体で自ずから掴むんだ、と突然思うようになり、なぜか、宗教だ、しかも禅だ、という思いがどこからか根拠もなく湧いてきて、電車の駅の看板に出ていたお寺の座禅会に飛び込んでしまいました。そして、宗教的に生きてみようか、ということになり、司法試験は決断するまで多少時間はかかりましたが、やがってやめてしまいました。
 
  そんなわけで、33歳の時の出来事は、私の人生を予想だにしない方向に変えてしまい、今日に至っております。ただ、私は、その後の経過の中で、私のこの出来事は、禅宗で言う見性ではなさそうだ、ということは、自分でほぼ確認しております。
  しかし、私にとっては、一つのパラダイムシフトであり、人生の中での最大の事件でありました。それで、自分では、これを一種の小さな中途悟りくらいに位置づけております。
  ただ、それは、自分で勝手にそんな感じかな、と思っているのであって、あるいは、悟りなどと呼べるものではないかもしれません。頭のいい人なら、普通にわかることにただ気付いただけなのかもしれません。
 
  それで、他人のことはよくわかりませんので、その『中途悟り』後の自分と、『中途悟り』前の自分を比べてみると、、[S5]の冒頭で書きましたように『事柄をある程度、対象化・実体化しながら、かつ宗教的世界観に迫る』という現在書き進めている次元の問題であっても「一種の自覚体験(いわゆる悟り)が必要となるのではないか。」いうことになるわけです。
 
  だいたい、これが私から自分を見た、『私の立っている位置』ということになります。

もし、私の体験ないし位置は、「いやそうではない、こうだ、」ということが、おわかりの方は、それがどんなことであれ、教えていただけますと、私の自己認識に役立ちますので、この場を借りてお願いしておきます。

《独り言》 ここでいう私の立っている場所というのは、この宗教の窓の私の論稿における〈私の立っている場所〉であり、現在、私が自分自身の内奥で自分の宗教的実存の対象として問題にしている、〈目指すべき場所〉、〈私の立ちたい場所〉というのは、《どこにも、立たないところ》、というように思っている。

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