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[M7] 中枢における主役の交代と世界の見方・見え方の転換

出発点Aから、非連続的に超越して到達点B(=次の出発点B)に至る([M6]参照)ためには、『死と復活』の手続を経なければなりません(『宗教の窓』[S26]以下)。

これは、従来の出発点Aにおける根底的土台が崩壊(死)し、新次元の世界が開示され、そこへと生まれ変わること(復活)を意味します。
西田先生のいわれる『(自分の)おいてある場所』が、次元転換することです(『宗教の窓』[S32])。

まず、キーワードを示すことにします。
①(主役) 意識から、観の座(観察の主役)と直観(働きの主役)へ
② (世界) 二元的世界から一元的世界へ

そして、その場合の核心は、前項[M6]でも書きましたように、「識を空ずること」です。

  [注] 「中枢の死」の再定義
   私は、従来「宗教の窓」を、中枢の死ということで展開して来ました。
    この「中枢の死」という枠組みは維持していってよいと思いますが、
      「死すべき中枢」の具体的内容は、『窓は空・空は窓』のカテゴリーに あっては、
      「五蘊」中の精神的要素である四つ、すなわち「受想行識の四つの蘊」であると
      再定義し直すことになります(『宗教の窓』[S32]内のコメント[SC32-1-1]
      参照)。
      出発点Aは、物資的要素である色はすでに空じている地平ですので、
      解決済みで問題にする必要はありません。

  
厳密に詰めます。といっても、私もそう厳密にはわかりませんので、こう致します。

第六意識を内外の刺激を受け取る受動的意識と認識・判断・感情などの積極的作用を営む能動的意識に分けます。
受動的意識をより明確に定義すると、定からもたらされる絶対受動性の意識をいい、これを私は「観の座」というように呼ぶことに致します。
そして、この観の座である、絶対的受動意識を除いた一切の第六意識の作用を能動的意識に含めます。
そうした場合に、この意味で定義される能動的意識が、五蘊としていわれる識であると理解します。

    [注] 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識とあるので、この辺の関係を考えていくと
           わからなくなってしまいます。
        とりあえず、本文のように理解しておくということで、進みます。

そうすると、とにかく観の座とそこに映る映像だけを残して、第六意識内の一切の作用とそれから生じる生成物を空ずる、ということになります。

さて、この点に立ち入る前に出発点A(空無辺処=世第一法・・[M6]参照)の地平を
確認しておきます。
ここでは、第六意識がまさに中枢の働きの中心であると、自ら意識しています。
従って、上記の能動的意識が中枢の中心として働いております。
その結果、分別知が中心をなし、言語的・思想的世界はその上に形成されています。
すなわち、ここは主客二元の世界でもあります。

凡夫が凡夫に呼びかける唯識(太田久紀著・大法輪閣)p.504 から引用します。


《 この世第一法は、仏教の真理が本当にわかる直前なので、・・・出世間への直前である。
(名前・言葉などの)名・義が約束にすぎぬものであること、主客対立の認識は相対的なものにすぎぬこと、
私たちの認識は、・・・決して絶対的なものではないこと、そして、私たちの存在も空の真理から除外されるものではないことなどを体得して、一挙に証(さとり)に突入していく。・・・分別起の煩悩・・・は、ここでは働かなくなる。
だが、である。・・・あと一歩の致命的な限界がある。それは、最後の最後まで対象化を脱しきれぬということである。
能取空も所取空も印忍されたはずである。だから、自分を別の立場において、特別扱いをするということの間違いは会得されているはずである。

それであるのに、その二取空をなお且つ向こうにおいて対象的に捉えるという動きを脱することができないのだ。・・・・自分の作り出した認識の対象を固定化し、実在化しないこと・・・そういいながら、「固定化し、実在化しないということ自体」を対象化してしまうのである。・・・「空だ」「空だ」といいながら、その「空」が有化されている。・・・空が本当にわかっていながら、空が非常に深いところで有に転換してしまっている。》


この自分の極限に残る対象化の作用を自覚しながら、もがいても、もがいても、そこから脱することができない牢獄・地獄の苦しみを、私は長い間味わってきました。これになんとか終止符を打とうというのが、このカテゴリーの試みなのです。
そして、その決定打であると思われているものが、観の座のみを残して、第六意識の能動的作用およびその生成物を一切空じること、そしてそのことにより、自分と世界の大きさが重なりあい、一元の世界入りを果たせるのではないか、ということなのです。

話を第六意識内の能動的な一切の作用とそれから生じる生成物を空ずる、ということに戻します。
ここが、突破口です。
そこで何事が起ころうと、そのことを相手にしない、影響を受けない、反応しない、そういう決意を固め、そのことになりきります。
何事が起ころうと、そのことを相手にしない、影響を受けない、反応しないことを、私は透過的である、という言い方を使います。素通りさせてしまう、という感覚です。内容的には、絶対受動性の場である観の座に映しだし、単に受け止め見つめるだけということと同義です。見つめるだけで、影響を受けない、反応しないという意味で、素通りさせてしまうということです。すなわち、一切の能動的意識作用・意識現象に対して、意識透過的であること、観の座で絶対受動的に受け止め、見つめるだけ。
  すなわち、従来の中枢の中心的働きそのものを停止します(非思量・念想観の停止)。仮にそれに失敗したことに気づいたら、気づいたときに観の座にもどります。

  能動的意識作用・意識内容を空じておいて、静かに絶対受動性の場である観の座に意識を集中すると、そこに世界の枠がある。その枠こそが自分であって、自分と枠が重なり合い、見るものと見られるものが一つである、という意識に暗示的に自己誘導します。
本当にそうであるかどうか、というような思考が働いてしまうと、すでに絶対受動性の場である観の座はくずれているとみなして、その思考を追いかけずに、また元に戻るようにします。
ここが、出発点Bの世界です。この世界が『窓は空・空は窓』のカテゴリーが見立てる世界(一元の世界)です。そして、それになりきっていこうとする世界です。
 
  すなわち、識という中枢部分が死んだ(=空じられた)世界です。この世界を証しもていくことが要点になります。
「識即是空」です(出発点Aの人は、「色即是空」はすでに体得していることはすでに述べたとおりです)。

そうすると、「え、自分の人間としての作用はどうなるの」という疑問が当然に出てくるものと思われます。次に、この疑問を解決します。

この出発点Bの世界は、自分が観の座になりきってみると、そう気がつくのですが、外と内とを同時に観察する(できる)世界になっています。
   いままでは、能動的意識作用が頭の中を覆って波風を立てていたために、その下に隠れてしまっていたと考えればいいのだと思います。
  能動的意識作用を空じて頭の中を波風たたないようにした結果として、その下で働いていた世界を観の座から観察することができる世界が一元的な自分=世界という意識の中で現前します。ないしは、現前しているかのごとくに、自己暗示的に誘導してイメージトレーニングします。

そうすると、観の座は、自分の内なる奥から湧き上がってくる直観を捉えます(簡単ではないが)。
観の座とともに、この直観が出発点Bの中枢の働きの主役を演じます。観の座が観察の主役なら、直観は働きの主役です。
それと、もう一つ、観の座と重なり合いながらもその奥で、観の座をさらに眺める「奥観の座」(私の用語法)ともいうべきところがこの直観の扱いの当否を判断するというような構造になると、とりあえず理解してください。
この点については後に触れます。

[注] この「観の座の構造」(仏教で言う鏡の構造)は、
         キルケゴールのいう「関係の関係の関係」とパラレルであると思われる。

そして、そこで選り分けられ、肯定された直観が能動的意識作用を動かすことになります。ここに能動的意識作用は復活致します。
全く能動的意識作用を空じてしまって使わないのではなく、また使うようになります。
しかし、第六意識の位置づけが従来と全く違ってまいります。「空即是識」と、以前とは異なる「識」に復活します。

従来は、第六意識自身が自分である、すなわち第六意識自身が自分の最終的中枢なのだ、という認識をもって活動しておりました。
  実は、そうではなく、第六意識は第七末那識・第八阿頼耶識の支配を受けていることは、知識・理解として重々承知していても、能動的意識作用が完全に空じられていなければ、能動的意識は自分が主役として働いてしまわざるをえないという仕組みになっているのだと思います。

ところが、それが空じられ、観の座が主役に出てくると、直観が観察され、直観が働きの主役に座ってきます。
  そして、第六意識の能動的作用は主役の座を降り、奥観の座によって選択された直観の指令を受け、それを具体化して実現するべく働くようになります。
   中枢機能の中では第六意識の能動的作用は従属的な位置づけになります。この位置づけになるとき、第六意識は妙観察智化するということができます(但し、唯識の説明によると、まだ一部だけらしいです)。

意識には何重もの重層構造を取り得るという性質があるとおもわれますが、観の座も重層構造をとることができ、凡夫が凡夫に呼びかける唯識(太田久紀著・大法輪閣)p.391 以下では、四分説を採用しております。私も、それにならっておきます。
  その場合の、三番目(自証分)が「観の座」で、それを眺める四番目(証自証分)が「奥観の座」にあたります(下記の注参照)。
  「観の座」と「奥観の座」とは相互に映し合うので、それ以上何重にも観の座を設ける必要はないとのことです。

但し、「観の座」一つで済ます立場もあるようで、この辺をどう見るかは微妙なところなのでしょう。

  [注]
   見分(認識する働き)と相分(認識されたもの)が、第一・第二である。

とにかく、観の座ができ、内奥から湧き上がる直観の指令を受けて第六意識(の能動的作用)が動くという中枢の働き方になってくる、ということです。

出発点Bの世界の静的構造は、一応こういうものとして見立ててまいります。
この構造に自分を導くべく、しっかりイメージトレーニングし、自己暗示的に一元の世界になりきっていきたいと思います。

  [注] 進んでおられる方で、いや違うぞ、ということであれば、
        是非アドバイスをお願いいたします。

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