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[S20]宗教における『ある』と『なる』の問題

 表題にあるような、『ある』と『なる』の問題という表現は、私の専用語で、お聞きになられたことがないのが当然です。これは、私が宗教に関わるようになってしばらくわからなかった問題を自分でこのように言い現しておりました。
 そして、後に、これから本稿で論じるように、この問題の整理が自分なりにできたとき、私の知っている範囲では一ヶ所だけ、この問題に触れている場所があることに気がつきました。それは、道元さんが、正法眼蔵随聞記の中でいっておられます。
 
まず、問題の所在を明らかにします。

 普通、成仏というと、仏に『なる』ことである。ここで、まず『なる』ということに出会います。

 しかし、同じ成仏という言葉を使っていても
 『山川草木悉皆成仏』 山も川も草も木も、皆そのままの姿で成仏している。
 の「皆そのままの姿で成仏している」は、もちろん「皆そのままの姿で仏となっている」でもいいわけであるが、意味的には「皆そのままの姿で(すでに)仏で『ある』」ということでしょう。
 また、如=『ある』がまま、というような場面でも『ある』が登場します。

 誰であったか忘れましたが、「仏になるより、仏でいる(ある)方が楽だ。」などと言った有名な坊さんもいましたね。

 先にも書きましたように、道元さんは、若い時「衆生は、本来仏で『ある』」のに、なぜ(仏に『なる』ための)修行が必要なのかが、わからなかった、と書いておられます。

というわけで、この他でも、注意しているとあちこちでこの問題に出会い、訳が分からなくなっていました。そこで、私なりに整理できたことを、ここに記しておきます。

   まず、第一段階目の解決は、既に、これも私独自の定義言葉でしたが、仏の意義を三つの意味があるという形で論じました([S10]参照)。この段階で、一つの解決が既に図られております。
すなわち、そこでの結論のみを記せば、

  我々は、太郎も次郎も、「第二の意味における仏」で『ある』。そして、普通は「第三の意味における仏」ではないが、修行すれば「第三の意味における仏」に『なる』ことができる。

このように、仏という語がいかなる意味で使われるかにより、『ある』になったり、『なる』になったり、することがあります。これは、仏の意味上から当然そうでなければならない。
ただし、これは形式的な解決で、例えば道元さんのいわれるような疑問に正面から答えられるようなものではありません。

   そこで、第二段階目の解決が、実質的解決になります。
この問題をすっきり行うために予め、今まで用いてきた自我の「自己中心性」という言葉を「自我中心性」という言葉に置き換えて話を進めます。いろいろな意味の『自己』という言葉が登場すると、それらが錯綜して問題の本質が見えにくくなるからです。

 前々稿および前稿([S18][S19])で、自我の問題性(根源的本質的欠陥)というのは、それが実相遊離的に、実相乖離的に、あるいは実相攪乱的に働くということである。そして、その結果として私たち自身が「自我的」である限度に応じて、「実相としての自己」・「無我的無相的自己」・「『ある』がままの自己」から遊離・乖離(=家出)している、という点まで、我々は、到達しています。

 ということは、我々は現在「『ある』がままの自己」ではないところにいる、ということになります。「『ある』がままの自己」からは遊離・乖離した自我的自己としてある。したがって、そういった自我的自己から、「『ある』がままの自己」・実相としての自己に『なっていかなければならい』。
 ここなのです。すなわち、『ある』に『なっていかなければならない』。『ある』に『なる』必要があるのです。なぜなら、現在は『ある』の状態から遊離・乖離してしまっているからです。
 すなわち、もし現在『ある』の状態ならば、それに『なる』ということは、おかしいわけです。しかし、現在は『ある』の状態から遊離・乖離してしまっているので、その本来の『ある』の状態に『帰る=還る=帰還する』とうことが、『なる』ことだ、ということになります。

 ということは、最終的に整理すれば、宗教において『なる』が、要求されるのは『自我的であること』が『無我的になる』ことだけであり、しかもその『無我的である』ということは、我々の『実相である』『実相としてのあるがままの自己』というところである、ということになります。
 ですから、これは見方を変えれば、宗教においては、何か『自分とは違った別物』に自分がなっていくなどということは、なにもない、ただ『あるがままの自己』に戻るだけだ、という話に過ぎないということです。ただただ、『あるがままの自己』に落在していくこと、宗教の道筋はそれだけだ、といえば、それだけのことになるわけです。
   注意すべきは、『あるがままの自己』とは、欠陥ある認識・指令中枢の問題をそのままにした自己ではありません。認識において実相に即し、指令中枢において実相乖離的・実相攪乱的ではない自己であるという点です。そして、それは究極的には、如来の智慧・徳相を具えた自己である、ということになります。

  宗教における『ある』と『なる』の問題の正体ということは、以上です。

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              [コメント対象事項]

   宗教における『ある』と『なる』の問題の正体ということは、以上です。

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[SC20-1]
投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

   これはあっちから見るかこっちから見るかの違いみたいなものだと思う。
   神秀と慧能の違いといってもいい。

[SC20-1N] 投稿  西方法界  2007年8月15日  

   多数の、適切なコメントありがとうございました。
   また、機会がございましたら、御教示のほどお願いいたします。

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[コメント対象事項]

「ある」と「なる」の全般
   
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[SC20-2] 投稿 求道者 | 2008年5月 1日 (木)

英語で言うと「ある」はbeingで、「なる」はbecomeであるが、この違いは悟りが、「差取り」であることを理解すれば分かる。聖書でも「貴方は、曇りガラスを通して見ている」と表現される。だから曇りを取れば、本来のbeingがそのまま反映され見え、真我と自我の2つが矛盾無く一体となることになる。だから「成ろう」と努力することは、付け加えることではなく、どんどん減らしていくことにある。何を減ずるかというと、現象界への執着であり、渇愛であり、肉体を自身と誤認することで自己保存本能に振り回されることである。自我は真我と一体となれば、消滅させる必要はなく、菩薩が現世界で人を導くときには使用しなければならない大事な道具である。曇りがなければよいのである。

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[SC20-2N] 西方法界|2008年5月9日(金)

  ヒンズー教的教義の枠組みを使っての御説明ですが、枠組みの問題に触れずに受けとめれば、おっしゃる通りだと思います。

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