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[S22]十界(自我度と無我度)

   いまさら、十界などを取り上げなくても充分承知していると言われそうですが、私にとっては指令中枢の根源的・本質的欠陥(自我-無我)を考える上で、何回思いを巡らせても興味の尽きない問題なので、私の大まかで勝手な理解を書いておきます。一般的に十界として説明されていること(かなり曖昧な内容のようだ)を背景にしながら、私独自の理解を盛り込みますので、通常いわれる十界の説明内容を多少逸脱します。特に四聖においては、重要な点に触れます。

まず、十界とは、指令中枢の欠陥の程度、すなわち自我の有無・強弱(自我度-無我度)により、人間を十の段階に分けたもので、ちょうど白から灰色を経て黒に至る色の帯のようなものだととらえます。従って、個々的な厳密さというよりも、大雑把でも深く理解することが重要と思われます。

自我の強弱の程度から見た分類であるということは、どれくらい実相遊離的・実相攪乱的であるか、ということでもあります。指令中枢の欠陥、すなわち自己中心的に働く自我は、極論すれば、自己のために世界を利用し、その結果としての世界をかえりみません。中枢の出す指令は、自己のためにする計算で塗りつぶされています。

   これが誰の目にもわかるように最も顕著に現れるのが、三悪道と呼ばれる、地獄・餓鬼・畜生でしょう。この三段階の次元の人というのは、おおむね私たちが危険な人・恐ろしい人・悪い人というイメージを持つような部類に入る人で、こういう人が身近にいるだけで、私たちは不安を感じます。
   このような人は、飢え乾くようにこれが足りない、あれが足りない、という気持ちばかりが心の中を支配して、不平・不満だらけであり、内面は相当不安定な様相なのでしょう。他方でそのたりないものを手に入れるために、悪どいことばかりをすることになります。

   この範疇の人は、自己の欲望故に、法律のような最低限の規範さえ守られません。法律を知らないために守らないのではなく、知っていながら守らない、あるいは守れないのです。『自我的な方向に』規範を踏み外し、踏みにじります。
規範を踏み外すということでいえば、仏・菩薩も時としてやむを得ない場合には規範を踏み外します。しかし、同じ踏み外すにしても、それは、『無我的な方向に』踏み外すのであり、その意味で却って実相調和的な結果をもたらします。

  いずれにしても、このような三悪道にあたるような人々によって構成される世界は、道理が通用しない『闘争』の世界になります。そして、彼らは常に敵に囲まれて生きている、ということになります。
自分の欲望に対する執着が強く、その実現に没頭するあまり、恩を仇で返すというようなことは日常茶飯でしょう。

   地蔵菩薩といわれるような人は、このような三悪道をも救いとろうとして、地獄の底まで降りていく、とされています。「施餓鬼」というようなことは、そういった次元で問題になるのでしょう。『どのような精神において』そういったことが現実的に可能となるのだろうか、その時節因縁が到来したときには、一つの大問題です。

  多くの人は、修羅・人間(人)・人天(天上)の三段階の中に収まっています。私たちは、だいたいこのあたりを普通の人として意識します。

このうちの、修羅は、一応ル-ルは守りながら、競争に明け暮れている世界です。一応最低限のルールは守るので、闘争ではなく競争になります。
   競争だということは、周囲の人はやはり敵であり、ここはまだ敵に囲まれて生きている世界です。従って、三悪道に修羅を加えて、四悪趣と呼ばれることもあります。
我々の競争経済社会の常識的一般的水準は、この辺のところ、すなわち、修羅です。社会的に見て、一応容認される範囲内で自分の欲望追求・自己実現を図って生きていく次元です。

人間(人)にいたって始めて、周囲の人は敵ではなく、仲間であるという世界になってまいります。普通にイメージされる家庭・友人関係・共同体あたりです。常識的な意味で、普通の道理に従って動いている世界でしょう。法律のような最低限の社会的ルールだけではなく、道徳のような強制力のない自発的規範もそれなりに妥当してくる世界です。

そして、その上の人天(天上)までを含めて六道(りくどう)ということは、ご承知の通りです。ここまでが、娑婆世界です。人天(天上)は、非宗教的次元で至りうる最高のところです。

声聞・縁覚(独覚)・菩薩・仏は、まとめて四聖といわれ、ここからが悟りの世界である、とされます。声聞・縁覚(独覚)が、小乗グループ、菩薩・仏が大乗グループになります。

四聖からが、悟りの世界だということになると、
六道と四聖の境目のところに大きな関門があるということになります。いわゆる入処体験により大死底になる、というのは、ここであろうかと思います。

   
[注]
             青原惟信(せいげんいしん)は、言った、

           「 老僧(わし)は、30年前にまだ禅に参じなかったときに、
              山を見たら山であり、水を見ると水は水であった。
 
            そののち親しく禅匠に相見(しょうけん)して
             『一つの入処(にっしょ)』があって、
              そのとき山を見ると山は山でなく、水を見れば水は水でなかった。
 
            そして、今日『一つの休歇(きゅうけつ)の処(一切解決の無事の境地)』を
             得てみると、
             依然として山はただ山であり、水はただ水であった。    」



私の体系でいうと、ここで認識中枢の欠陥が超越され、
知的(英知的)な意味で、悟りの世界に入る、ということになるのだと思います。観念的認識の不完全性という問題を自覚し、実相を直観した段階です。実相を直観することによって、観念的認識というものは、不完全だということがわかるというのが、論理的順序でしょう。

しかし、
声聞・縁覚(独覚)は、まだもう一つの欠陥である指令中枢の欠陥=自我の問題が充分解決されていない段階です。自我の問題は、年月をかけて地道に修行していかないと超越できません。英知的に悟れば済むという問題ではありません。声聞・縁覚は、まだ世界を愛することが出来ません。まだ自分というものに囚われています。
   自分が自分というものに囚われているうちは、純粋な意味で他人の立場に立つことは出来ません。ですから、深い意味で他人の役にたったり、その人を救っていくことはできません。そうしようと思っても、『自分の立場』がそれを邪魔します。その意味で、小乗(小さな乗り物)のグループに属します。


仏・菩薩の大乗グル-プと声聞・縁覚(独覚)の小乗グループの境目のところには、もう一つの大きな関門があることになります。行者が大悲心を起こすことをもって、この大乗グル-プ入りすると考えられます。
自我の超越が進むにつれ、菩提心(慈悲心)が生じます。自分だけではなく、みんなも救われなければならない、幸せにならなければならない、と思うようになります。ここは、知的(英知的)にとらえた「一即一切・一切即一」「色即是空・空即是色」ということが、情意にまで及び(ロゴスが肉となって)、『衆生病むとき、我もまた病む』(維摩経)ということになります。自然に他者のことも気にかかるようになってきます。こういう心が生じたとき、そこが、菩薩の入り口ではないか、大乗の世界の始まりではないか、私はそう思います。


  華厳経十地品は、歓喜地から始まりますが、私は菩薩の入り口には『懺悔と誓願』
が伴うものであり、それが一つのメルクマールになるのではないか、と考えております。
懺悔と誓願は、表裏の関係になっていて、この場合の懺悔とは、生まれてからこの方自分がいかに自己中心的に自分本位に生きてきたかということに向けられると思われます。そして、「懺悔する」のではなく、「おのずから懺悔してしまう」のではないでしょうか。
   そして、これと表裏の関係で誓願とは、「これからは、もっとみんなのために生きていこう」というような内容になると考えられます。菩薩の誓願として、私は宮沢賢治の「雨にも負けず」をあげたいと思います。私はある時期から、あれは単なる詩ではなく、賢治の菩薩の誓願なのだと思うようになりました。


  ある程度の自我の超越(=無我)が実現したからこそ、菩薩の世界に入ってきたわけですが、未完成段階の菩薩の道筋は、より一層の自我の超越(=無我)に向けられることになります。無我と慈悲は、ひとつことの裏表に過ぎません。華厳経入法界品の善財童子の旅、あるいは華厳経十地品は、この菩薩の歩む道筋を描いたものであるとされています。

菩薩はまだ未完成段階であり、自我の拘束が残っております。
自我が完全に超越された完成段階が、最後のということになります。
   そして、仏という用語の私の定義からいえば、ここでいう仏は、『第三の意味における仏』すなわち、修行の道筋を歩んで、最終的に完成した人格であるところの人である([S10]参照)、ということになります。

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[コメント対象事項]

自我の問題ではなく、認識作用の問題

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[SC22-1-1投稿 求道者 | 2008年5月1日 (木)

人間の間違った認識作用がどこから来るのかを知る必要がある。それは人間自体が自性と他性との唯一の複合体であると知ることにあり、間違った認識の根源は、その複合体の中の他性である肉体を自分自身である魂(自性)とは別のものであり、肉体は現象界の他性であると認識できない状態に陥ったことである。だから肉体が動物体として持つ自己保存本能、防衛本能、さらにいえば五?である五感を魂自身と混合し自分のものであると誤認することにある。だから五感に振り回されないように五感を制御する必要がある。だから肉体のことを抜け殻、亡骸、仮の宿と言うのであり、肉体とはそれ自体の本能を持つもので、魂が抜け出れば単なる殻、骸に過ぎない。肉体の本能に振り回されるから六道を輪廻することになる。だから自分の肉体を含め現象界を他性であり空であると真に認識できれば、執着から解かれ自由となり、解脱に至るということになる。実際に解脱が難しいのは、釈迦も説くように、「人は太古より輪廻転生を悲哀の中で繰り返し、流した涙の量は、七つの海より多い」であり、現象界への渇愛のしつこさが分かる。

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[SC22-1-1N] 西方法界|2008年5月9日(金)

[後記注] 求道者様は、特定の宗教に属さず、東西の宗教を幅広く共通的原理の内に
             捉えようとされている方でいらっしゃいます。


心身一如・心身不二といった感覚の方が私はピッタリしますし、肉体と魂を分ける感覚は、ちょっと馴染めないのですが、私がよくわかっていないからかもしれません。将来の課題かも・・・。
  私は、このブログ全体の骨格が認識中枢と指令中枢の両方が問題であり、むしろ指令中枢の問題の方が根が深いというように理解していますので、ここは見方が根本的に異なるかもしれませんね。ただ、微妙な概念の捉え方、使い方の問題も絡むし、もっと抽象度を上げた次元で、的確な観点を選ばないと、異宗間で対話するのはむずかしいし、また意味がないのではないでしょうか。

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[コメント対象事項]

    心身一如
   
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[SC22-1-2] 投稿 求道者 | 2008年5月11日 (日)

なるほど禅の考え方が少し見えてきました。しかし禅は仏教の梵dhayanaの音写である禅那のことです。だから、本来の意味するところは、心身一如ではなく、梵我一如のはずですが?そして梵と我を分ける考え方の背景には肉体と心(正確には自我)とが別のもの(出生)であることの認識にあるようですが?まあ一足飛びに進めるのは少し押さえて、徐々に進めましょう。いずれにせよ禅とは梵です。

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[SC22-1-2N] 西方法界|2008年5月12日(月)

そういうことですか。いや、私は通常東洋思想では「心身一如」「心身不二」であり、仏教も当然そうであると思っていました。
そして、それ以上にこの点を意識的に問題にしたことはありませんし、問題にするような局面にも出会わず来ましたから、深いところでどうなっていくのかはわかりません。

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