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[M8] 新たな中枢構造における動的態様と方向性

前稿 [M7]で述べましたように、出発点Bにおいては、中枢における働きの主役は直観になります。
そこでは、内奥から湧き上がる一切の精神的エネルギーを包括的に含めて、直観と呼びました。

ところが、この直観なるものをもう一歩立ち入って捉えようとすると、まったく手がかりがなくなります。
どのような分類でもいいから、とりあえずなんらかの直観の分類があるのかと調べてみても、ほとんど皆無です。

他方、戒定慧といわれる場合の慧は、直観として発現してくるということがあります。
また、唯識で指摘されているように、浄化されていない末那識・阿頼耶識によって、どういう無明・煩悩に染汚された直観が発現してくるかもしれません。
すなわち、湧出する直観は玉石混淆しています。

そもそも、観の座が要求されてくるのは、そういった直観のうちの、無明・煩悩に染汚されているものの発現をなくし、あるいは浄化し、逆に望ましい直観の発現を促していくための中枢の構造・働きとしてである、と考えられます。
すなわち、こういった直観の判別・対処(対処しないことを含む)が必要になってくるわけですが、その手がかりを一体どこに求めたらいいでしょうか。

「自灯明、法灯明」。
自灯明で解決がつかなければ、法灯明です。

法の中には、あちこちに散在しておりますから、それを用いることはもとよりですが、当面思いつくのが唯識で先人がそれらを集め、検証し分類して整理されたものがあるのが思い当たります。私の持っているものですと、心所有法として六位五十一心所という形で、仏法の真理に照らしての、望ましい善なる心所、悪業をもたらす不善なる煩悩などの分類や、末那識・阿頼耶識の関係の仕方まで、ある程度の掘り下げがされています。

したがって、このあたりを手がかりにしながら、直観と向き合っていくことになるかと思います。

  [注] 考えてみれば、意識の表面に現れた心は、もともと心の内奥から湧き出した
     ものであるので、直観を直接分類しようとしなくてもよいわけである。


これは、一つ一つ取り上げてよく理解するだけでも、相当たいへんな作業でしょう(法門無量誓願学)から、さらにそれを身の上に実習していくのは地道な努力と精進を要求されることになります(仏道無上誓願成)。

また、初期的段階ほど、直観は無明煩悩に染汚されているもの(マイナス)が多く、末那識・阿頼耶識の浄化が進むにつれて、慧といえるような善(プラス)なる直観が多くなっていくことが予想されます。

いずれにしても、直観のキャッチ・直観の選別・直観別対処(対処しないことを含む)に明け暮れることになってくるように思われます。

御存知の通り、維摩経には『直心、是道場』という有名な言葉がありますが、出発点Bの地平は以前にも増してこの言葉が重みを帯びてくるところであると思われます。

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では、[M7]に述べた新たな中枢構造が、直観に対する対応を現実に行っていく場合の動的態様(いわゆる、「動中の工夫」相当のこと)は、どういうことになるのでしょうか。

   [後記]  動的態様および動中の工夫
     禅の方では、「動中の工夫」という言葉はあるものの、
        それ以上の手がかりになるものが、一切見あたりません。
     我々に与えられている最良のものとしては
、「天台小止観」があります。
        これを本文中に組み込むべきでしたが、後になって気がつきましたので、
    このような形で組み込んでおきます。


この点については、『窓の外は空』の[K13] に、洲崎さんと私との対話として行った参究があり、それを契機に洲崎さんが Wilbro 著「The Way of Inquiry」(観想の方法)という英文の小ガイドを日本語訳されました。
この翻訳に際しては、私も少し下働きをさせていただいたのですが、それがたいへん参考になるものと思われます。

[K13] の末尾にもリンクを張っておきましたが、以下のリンクからも参照できるようにしておきます。
それをもって新たな中枢構造における動的態様をつかんでいただくということにしたいと思います。
私も改めて、これを読み返してまいります。


 「観想の方法(The Way of Inquiry)」(Wilbro[ネット上の仮名] 著・洲崎清訳)
              (下記の赤い部分をクリックすると、開くことができます)
                http://www.geocities.jp/suzakicojp/guide.html     

   [注]
     ちなみに、洲崎さんのサイト(カテゴリー『偏見宗教情報』参照)は、
     直観の感覚を身につける上でも、たいへんお勧めです。
     私は、たいへん参考にさせて戴き、多くのことを学ばせて戴いております。


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そして、このような対応の中で、次第に末那識・阿頼耶識の浄化が進み、マイナスの無明・煩悩に関わる直観が減って、善い(プラス)の直観(慧というべきもの)が多く湧き出るようになってくると、その場合には(慧の直観の発現については)絶対受動性から一転して、絶対能動性ともいうべき働きの局面が現前することになるのだと思われます。
『大用現前軌則を存せず』というのは、この局面をいうのではないでしょうか。

慧は一種の全体智です。分別智とはケタが違うほどの無限の情報量とそれを背景にした判断を内蔵する智慧です。その純化されたものは、仏智に近づいていくと思われます。

この慧の現前からの絶対能動性の発現、すなわち『大用現前軌則を存せず』ということを彷彿させるものとして、無門関四十則の「てき倒浄瓶(てきとうじんびん)」の公案が連想されます。
周知のところですが、一応もう一度味わっておきます。

後に潙仰宗の開祖となった潙山の、まさにその開祖になる直前のテストシーンになる場面です。

後の潙山は、当時名は霊祐といい、百丈和尚下で典座(てんぞ=食事係)をしていました。
ある時、百丈和尚のもとに、その知己から潙山という山に道場を開きたく、その住職を求める依頼が入ります。百丈和尚は、かねてから目をつけていた霊祐を指名しようとしますが、これに対して首座(しゅそ)が異を唱え、では検定試験をしようという局面になります。

浄瓶(じんびん)とは、手を清めるための水を入れておく瓶だそうです。

百丈和尚は、浄瓶を地面において、こう言います。

「これを浄瓶と喚(よ)んではならん。では、汝はこれを何と喚(よ)ぶか。」

首座は、こう答えます。

「木とつ(もくとつ=木のかけら)というわけにはいかんでしょう。」

百丈和尚は、同じく霊祐に問いかけます。

すると、霊祐は浄瓶に近づき、その浄瓶をポーンと蹴飛ばして、
その場から立ち去って、どこかに行ってしまいました。

百丈和尚は、笑いながら首座に言います。

「お前さん、霊祐にしてやられたな。」

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出発点Aと出発点Bの中枢構造を想像するのにも、いい例だと思えます。

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