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[S14]西方法界、混乱する(その内容)

《西方法界から、お読み戴いている方へ》
  一つ前の[S13]を記載した直後から、私の中で疑義が生じたため、この[S14]を記載して問題を整理した上で、コメント投稿して下さった海さんの御教示([SC10-1][KC2-1])に導かれながら、しばらく自己参究に入り(K1~K3)、それなりの結論を得て戻って参りました。海さん、適切ですばらしいお導きをいただき、たいへんありがとうございました。また、引き続き御指導の程、宜しくお願い致します。


参究では、私の理解がそれなりに従来より拡大しましたが、その前後で、[S13]に関して特段に変化はありません。私の解説は、あれはあれでよいのだと思います。 なお、[S10]についても、私としては問題が解決しましたが、この宗教の窓に関する限り、従来のままで一応問題ないという判断です。これらすべては、宗教の窓を土台にして、次の地平をめざす段階で問題になります。その手当については、この宗教の窓の最後の方で、きちっと取り上げる予定です。

その結果もふまえまして、このまま宗教の窓の記載を続行致します。
つきましては、初心入門近辺の方は、この[S14]は現在読まれる必要はないと思われますので、とばして、[S15]に進まれることを、お勧め致します。


  《独り言》 読まなくてもいい、と言われると、人間誰しも見たくなるものです。見てもかまわないんですよ。でも、何のことかわからないことが多くてもがっかりしないで下さい。私は、この『宗教の窓』で、次にそういうステップに進むための重要事項を書こうとしております。そして、最後の方で、次はどうしたらよいかに触れていく予定でおります。

   既に宗教にある程度馴染んでおられ、私がどう混乱し、何をどう参究してきたかを垣間みたいと思われる方は、この[S14]から、カテゴリー・『窓の外は空』中の[K1~K3]にお進み下さい。

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 [S10]に引き続き、[S13]でも記載後に重大問題を発見、しかもそれが先日の[S10]とも関連する一連の事柄です。それは、[S8]で明らかにしましたように、私の『自己免許・中途悟り』の欠陥が露呈している、ということに他なりません。
   その結果、緊急の「お知らせ」で予告しておきましたように、私の記事の進行が予想もしない方向に進むことになります。

しかし、それはこの宗教の窓で設定した『自分免許・中途悟り』の私が、『事柄をある程度、対象化・実体化しながら、かつ宗教的世界観に迫る』という目的で、かつ『私が宗教全体を一貫して記述できる次元』で記述していくことが、不可能になったということではありません。船が沈没してしまった訳ではありません。ある極限部分が、《この次元で話を進めていく上では》「ちょっと」破綻し、上記の『一貫して』の一貫性がやや崩れただけです。いや、それすら意識しないで進めても問題ない、と思われます。少なくとも、私が宗教の窓でこれから書こうと思っていたことを書き続けることに支障はない、と思います。

《独り言》 宗教の窓の水準から、そこで設定した前提を取り外した本来の、究極的地平をめざす段階では、「ちょっと」破綻では済まない。

だだ、この記事を載せ、西方法界が何を発見し、新たに設定したカテゴリー『窓の外は空』が始まり、そこで何をしているのかを、おおよそ推定がつくようにしておきたいと思います。

《独り言》 以上のようにしようと思って書き始めたのですが、書いているうちに内容がかなり細かくなってしまいました。以下がよくわからなくても、当面は心配ありませんので、わからない方は今無理に読む必要はありません。ここは、飛ばして次をお読み下さい。

   私は、自分の感覚で、[S13]を書き上げ、その後に鈴木大拙の解説文に接し、それを末尾に追加した。その時は、内容的に食い違っているなどとは、思ってもいなかったので、無造作にそれをした。ざっと読んだがそれはそれで、『別に違和感なく』、まあ、そういうことだ、くらいに感じていた。ところが、翌日になってだろうか、その次に読んだときに、『あれ』と目についたのだ。

 [S13]で私の解説文では、曹山が『本寂と名づけず』といった「向上の不名本寂」とは、《第二の意味の仏》、三番目の Aである、となっている。

   ところが。鈴木大拙の解説では、「向上の不名本寂」は即非の論理の《非A》を当てており、《第二の意味の仏》、三番目の Aは、《真箇の本寂》である、と説明している。

   私の感覚では、禅問答中、登場するのは、鈴木大拙の解説用語を用いれば、即非の論理の最初に出てくるAの『適来(さきほど)の本寂』と、『向上の不名本寂』の二つである。従って、これを『名と体(正体)』の二つの問題と捉え、「名をきいているのではない、正体を言え。」という問答と理解して、『向上の不名本寂』=正体のこと=《真箇の本寂》であり、それは、《第二の意味の仏》、三番目の A のことである、と理解した。ただ、それだけのことだ、と思った。そして、おそらく読者の方も、下の鈴木大拙の解説より、私の解説の方をわかりやすく、お感じになられるのではないかと思う。

 しかし、鈴木大拙の解説では、問答中に登場する『適来(さきほど)の本寂』と、『向上の不名本寂』の他に、問答中には用語のない、しかも三つめの《真箇の本寂》が登場する。問答では、問題は三個ではない、前段と後段の二つだ。それなのに、三個の本寂が登場する。それは、即非の論理の三個だ。
  そして、鈴木大拙の解説によれば、洞山が『 向上(こうじょう)に更(さら)に道(い)うべし。』というのは、正体=《真箇の本寂》のことを言え、というのでは 《なく》、非A、すなわち『名が本寂ではないところのもの』=『名が本寂であるところのものとは絶対矛盾するところのもの』をいえ、というように理解しているのである。

 だから、たいへん不遜に聞こえるかもしれませんが、これに気付いたとき、『え~。』と私はおもいました。鈴木大拙の解説はわかりにくくありませんか。ただ、即非の論理を説明するためにこの例を使おうとすると、足りない三つ目をどうしても補わざるをえない、というのはわかります。

 そして、『 向上(こうじょう)に更(さら)に道(い)うべし。』の単純な文意を、本当の正体ということではなく、『適来(さきほど)の本寂を超えたところ(超個)を言ってみよ』と理解すれば、わからなくもありません。ただ、これは国語的意味をどうとるかで、答えがどっちになるか、というだけで、根本的な問題には思えません。

 ここまでは、こう思ったのですが、その後私は何の気なしに、即非の論理を頭の中で繰り返しました。

   A は、《非A》 であるが故に、《A》 である。

 そこで、『あっ』と思ったのです。このうちのある部分だけ、抜き出します。

A は、《非A》 である。

ここだけ、抜き出すと、即非の論理でこう言い切っている。

 そして、ここで話は、[S10]の《独り言》 書いた後に、従来気付かなかったわからない問題が発生、にポンと飛ぶのですが、

 太郎が、《第一の意味の仏》になることは、絶対ない、と私は考えてきた。
しかし、わからなくなった、と。

『A は、《非A》 である』の部分だけ取り出して、形式的に当てはめれば、

 太郎は、《第一の意味の仏》である。

そういいきっているのですから。

 また、私自身も、[S5]で、実は、意識的に自分でこれを使っている。
ただ、私の意識の中には、まず、”とりあえず”、一応これで納得できる、という感覚で使っているのですが。

 この茶飲み茶碗は、この茶飲み茶碗ではない。

また、台風12号の例で、台風12号の周囲にある、台風12号以外の一切のもの(海も、地球も、太陽も・・)を取り去った時、台風12号も消えてしまう。そのことから台風12号の正体は、[暗にではあるが]、非A[取り去った一切のもの]ということを示唆している。

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それにも、かかわらずなぜ従来は、太郎が、《第一の意味の仏》になることは、絶対ない、と私は考えてきたか、というと、それにはそれなりの理由がありました。

 それは、[S7]で、『即』の意味を取り上げたとき、滝沢克己は、これを『不可分・不可同・不可逆』の意味にとっている、とした上で、その後これをめぐる議論があった、と書きました。そして、そこでは、『不可分・不可同』については、異論なくすべて一致しており、『不可逆』についてだけ、見解が分かれました。すなわち、『A』 と 『非A』 とは、《不可同》である、いかなる意味でも、同じではない。すなわち、太郎は、いかなる意味でも、《第一の意味の仏》では《ない》のです。このことに異論はないのです。

だから、大燈国師も『 相別れて、離れず。相対して、対せず。』という微妙な表現をされている。単純に、連続している、とは言わない。

また、だからこそ、即非の論理も、『であるが故に、Aである。』というところに戻らなければならない。『非A』との単純な同一ではなく、絶対矛盾的同一でなければならない。

これは、なぜかというと、我々が個物というものを認識してしまう以上、究極的に個物性を全く無視してしまうことはできないということと、人間が自由意志主体(人格主体)であるということを無視できないことのために、こういうことになるのではないかと考えているのですが、一般にはそこのところは何の説明もないように思われます(あるが、私が読みとっていない、ということもありうる)。

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このように、二つの側から形式論理を当てはめていくと、結論が正反対になってしまう。ただ、これは実際には矛盾はしていない事柄のはずなのですが、私にはそこを明快に説明するだけの力がありません。そして、それはなぜかというと、見性に至っていないので、体験的に論理を組み立てて、明快に説明できないのだ、と自己認識しているのです。

 ただ、見性ということは、そうたやすいことではありません。そこで、推論的な参究をして、少しこの辺を整理してみたいということを考えるに至ったわけです。これには、自分でもどの辺のことがわかっていないからだ、とある程度思い当たるところもあるのです。

それから、[S10]でわからなくなったことと、今論じた[S13]で出てきた問題は、ともに、《第一の意味の仏》にからみますが、ちょっと問題の局面が違うように感じております。[S10]のわからなさのほうが、深刻です。

《独り言》 本当に宗教は、むずかしいのう。

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               不可逆
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[SC14-1] 投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)


これはあっち(涅槃)からはこっち(娑婆)が見えるけどこっち(娑婆)からはあっち(涅槃)は見えないということでしょう。

だから即非の論理、あるいは英語で言うとCatch-22(わかった人はわかるがわからない人はわからない)と言う構図になっているんじゃないかとおもいますが。。。いかがでしょうか?

[SC14-1N] 投稿  西方法界  2007年8月15日

はい、はい。そういうことなんですが・・・・。「宗教の窓」には、できるだけわかるようになる手がかりをなんとかつけられないか、という目的もありますので、出来る限りうまく説明したいということがありまして・・・・。
[KC2]の末尾で、私なりの整理はある程度ついているのですが、論稿を先に進めることを優先して、そのままスッポカシテおります。満身創痍!!!

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