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[S31] 死と復活・・その六(キリスト教・パウロ)

そもそも「死と復活」という言葉の本家本元は、キリスト教です。

以下の記載は、キリスト教の方に対しては、私のきわめて禅仏教偏向的な理解であり(正当なキリスト教の理解ではない)、キリスト教の方から顰蹙を買い、お叱りを受けそうな内容が含まれていることをお許しいただきながら、また逆に、仏教の方からは、お前はたいへんキリスト教寄りだとの批判に身をさらしながら、どちらから見ても分の悪い立場に身を置くことになるということを承知しつつ書いているということを、始めにまとめて申し上げておきます(代わりに、該当箇所での記載は省略します)。

なお、他宗であるキリスト教を扱う関係で、前半部分では、この機会に「死と復活」という本筋から反れる内容のことにも書き及んでおります。

  私は、四十代前半に、知り合いのクリスチャンの方の御縁で誘われるままに1年間くらいカルバン派の教会(私の女房の関係ではない)に通ったり、家庭集会に参加した時期がありました(キリスト教に限らず、頭を白紙にして(白紙にしたつもりになって?)他宗派をのぞき込む癖が多少あります)。
教会で、洗礼を受けてキリスト教徒になるためには、「 イエス・キリストが、十字架上に死んで、そして、その死より肉体をもって復活したということ」を信じるか、と問われます。しかも、それは今ここに私が書いているよりももっと具体的な言葉、すなわち、イエス・キリストが、十字架上で『生物学的ないのち』をなくすという意味で死なれ、『生物学的ないのち』がよみがえるという意味で復活した、としか解釈しようがない言葉によってなのです。
 こうして、「死と復活」という言葉を使いながら仏教まで含めて話を展開する私であっても、というか、今ここで話を進めているように、宗教に本質的なものは『生物学的ないのちの死と復活』ではなく、『中枢の死と復活』にほかならないと理解する私であるからこそと言うべきかもしれないのですが、一度死んだ『生物学的ないのち』がよみがえるなどということを、そうヌケヌケと「はい、信じます。」とは言えません。
 他にも理由はありますが、そこのところで私は、もうクリスチャン失格です。縁がないのでしょう。
 
しかし、穿った見方をすれば、あたかも禅の公案のように、我々の中枢の前に立ちはだかって絶対にそこを乗り越えられないような鉄壁をそこに敢えて作って、そこを乗り越えろというのだと考えれば、それもわからなくはありません。
  というか、現時点では、私にとってキリストの十字架上での死と復活は禅の一公案(禅は公案を連発するのが特徴)と同じような受け止め方になっています。
  背理こそ「究極の大方便」であって、法華経では方便が宗教上重要な役割を果たすということが正面から明言されています。浄土真宗の阿弥陀如来ですら方便であることが親鸞上人によって語られております。
  ですから、キリスト教にも「究極の大方便」があっても決しておかしくはありません。「方便」というと価値が落ちるような印象を持ちがちですが、私は「究極の大方便」と「方便なし(真理)」は比較しても、優劣はつけがたい、と思います。救済という点で効果があるのなら、むしろ「方便」は「真理」にまさるとも言えると思います。また、事実と言葉の間にはもともとギャップがあるわけですから、言葉に表現されたものは、すべて方便という見方も成り立たないわけではありません。

要は、人が救われるか否かの問題ですから、その道筋は、「一つ」ではなく、「たくさん、あればそれに越したことはない、多数の宗教宗派が、共存して役割分担できればその方がいい。その副作用もあるでしょうが、私は基本的にはそんな風に思っております。
宗教では、必ず「絶対」ということが中核に据わります。従って、宗教宗派がその教義上「絶対」を説くのは避けようがありません。「絶対」を問題にしなかったら、宗教ではなくなってしまいます。
  他方、他宗他派と比較して、自宗が正しく、他宗は誤りか劣っているという話は、上記の事柄とは局面の異なる問題です。この局面では二つながら、三つながら、皆正しいということもありえます。ここを区別せず、「真理」は一つなのだからと、短絡的にごちゃ混ぜにして、一個の問題と捉えてしまうのは誤りだと思います。
 
 話を先ほどの続きに戻しますと、もとより、イエスにも、「ゴルゴダの丘の十字架上ではないところ」で、それよりずっと以前に(イエスがキリスト=救い主になる前段階の時点で)、おそらく「荒野」のようなところで、『中枢の』「死と復活」が起きたという事実は信じます。これはもう確信致します。

  鈴木大拙先生は、確かどこかで「ヨーロッパでは、どうしてあんな残酷なものをあちこちにおいているんだろうか」というようなことをお書きになられておられたと思います。私も、意味としては十字架のキリストを理解はできるのですが、自分の感性としては大拙先生と同じです。道端の「お地蔵さん」の方が性に合います。あるいは、「観音さま」の方が性に合います。
  しかし、実際にキリスト教の人に接していると、感性において違っているのだなあ、ということをつくづく感じます。その違いがどこからでてくるのか、考えてはいるのですが、未だに自分で納得できる結論は出てきません(愛に惹かれるのか、自由に惹かれるのかくらいは考えますが、どうもそれで済むとも思えません)。
  とにかく、このことに限らず、私はキリスト教には体質的に違和感をおぼえる体質なのですが、そのことと、キリスト教をどうみるか、キリスト教に対してどういうスタンスをとるか、ということは別問題であると思っております。自分とは別の、異質の感性の持ち主をも尊重しますし、キリスト教も尊重致します。
 
これは、我々が、他者というものに対して、どういう関係を持ちうるかという意味での大きな一つの試金石になると私は思っております。
逆に言えば、私はキリスト教徒の人が仏教ないし仏教徒に対してどういう関係を持ってくるかということを見ております。キリスト教にとって仏教は「他者」であります。その「他者」に対して「汝の隣人を愛せよ」という根幹的教えを持つキリスト教ないしキリスト教徒は実際にはどうであるのかという問題です。

 同様のことは、仏教の側からも言えます。すべては、仏の御いのちの現れであり、自他一如であるのです。その「他」の中に「キリスト教」が含まれないという道理はありません。
 
 それぞれの立場から、他宗が変わらないといけない、という見解も多数あります。それには、皆それなりの根拠があります。しかし、私はちょっと違った感覚を持っていて、それぞれが自宗の立場を窮める結果として、他宗に何の変更を求めることなく、そのままで他宗を肯定できるようにならないといけない。お互いにそういうことにならないと本物ではない、と直観的に感じます。但し、根拠なき直観です。
 
 道元さんは、弟子から他宗のことを尋ねられたとき、それに直接には触れられずに、「他宗のことをとやかく批判するものではありません。自分において自宗の修行が至らないことを恥じなさい。」と諭された、というようなことをどこかで(正法眼蔵随聞記?)読んだ記憶があります。これは、道元さんが問題に正面から答えるのを避けたと見るべきではなく、これが正しいあり方なのだと思います。
 
 

ところで、キリスト教においての「死と復活」では、パウロの場合を取り上げて見ることにしたいと思います。

以下に述べることは、キリスト教の世界に入ると常識的な事柄のようですが、世界が異なると常識も異なります。
キリスト教に改宗前のパウロは、名をサウロ(何となく、響きがパウロに似ている)といい、ユダヤ教のエリート中のエリートであったということです。神を信じ、熱心で、律法も厳守していた人で、キリスト教の迫害者でありました。

新約聖書(使徒行伝9章)によると、キリスト教迫害の旅の最中に天からの光りに打たれ、イエス・キリストの呼び声を聞いたと書かれています。サウロは地に倒れ、以後三日間目が見えず、食事もしなかったとされています。これがパウロの回心とされる局面です。
天からの光りに打たれ、イエス・キリストの呼び声を聞いた、というようなところは、私は、サウロの心の中の出来事だと解釈して読んでいます。
この話を聞くと、百丈が、その師馬祖から一喝されて、三日間耳が聞えなくなった、という話を思い出します。これは、馬祖があまりにも百丈の耳の近くでデカイ声を出したので、百丈の鼓膜が破れて、耳鼻科的問題が生じた、ということではないでしょう。医学的には問題はないが、百丈にあっては外部の音が耳に全く入らないような状態になっていた、と私は受け取ります。
  イエス・キリストの復活も3日後であるし、無門和尚の言葉を借りると、復活直前、すなわち「内外打成一片」から「幕然として打発」するあたりの状態、期間として、すべてこうだというわけではありませんが、このような状態、このような期間というのは結構あるのかな、という感じがしております。
正確にははっきりわかりませんが、中枢の死と復活というのは、閃いてから熟するまでに、そのような状態と期間になることもあるのではないか、ということです。

 聖書のその場所には、そのときのサウロ(パウロ)の内面の状態がどういうことであったのかは書かれていないのですが、パウロの手になるローマ書7章後半にパウロの内面の状態がどういうものであったかを想像させる記述があります。キリスト教のほうでは、有名なところになっています。
 
 『 私は、自分の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。善をなそうとする自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気づきます。この法則が私を罪のとりこにしているのがわかります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。』
 
 神を信じ、熱心で、律法も厳守していたユダヤ教のエリート中のエリートであるサウロ(パウロ)の心の中で進行していたのは、この認識でありました。
 
 親鸞聖人とたいへん類似しているとして対比されるのはこの点です。前稿で見たように、親鸞上人も、比叡山で長い間、聖道門仏教の厳しい修行をされ、力の限りを尽くされて、その結末が 自分は「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」であり、自分の「こころは、蛇蝎のごとく」であり、「清浄のこころは、さらになし」「いづれの行もおよびがたき身」である、という認識にたどりついたのでした。
 
 その親鸞聖人と同じような状態にサウロ(パウロ)はなっており、その絶望の淵の中で、サウロ(パウロ)にあっても上記のような意味で中枢の死が極まっておりました。そのような中で心の中にイエス・キリストの呼び声が響き渡ったというのです。
 
 これが、親鸞聖人とたいへんよく似ているとされるパウロの「死と復活」のプロセスであったと考えられます。
 
ちなみに、ルターは有名な「キリスト者の自由」の中で、自分の意思・人間の意思というものをどうみるのか、という議論を展開しております。
確か、「奴隷的意思」と言っていたように記憶していますが、自分の意思・人間の意思というものに対する絶対不信に立つと、ということは、親鸞聖人やパウロのような認識に至る、ということになり、その場合は、修行(行)の観念が成立せず、絶対他力型宗教になるようです。図式的には、プロテスタントや浄土門仏教がこれにあたります。自分の意思に対する絶望という形で、中枢の死が訪れ、それと裏腹に、それをすべて許し、なおかつ救い取ってくれる超越者への『信』が成立します。

 それに対して、自分の意思・人間の意思に対して、絶対ではないがなにがしかの向上力を認める立場(従って、ここでは行・修行という概念が成立する)がカトリック・聖道門仏教である、ということになります。これは、ルターのいう基準によるとそういうことになるということです。

ということは、絶対絶命の淵にあって、最終的に中枢の死を迎えるときの、その人の内面的景色も、一様ではなく、複数のパターンがあり、微妙なニュアンスの違いがあるということになります。そういった極まり方、どのようにして中枢の死を迎えることになるのかについての微妙な特徴・差異が、宗教宗派の分かれ方に一つ大きく影響を与えている、ということがいえるのではないかと思われます。

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[コメント対象事項]

キリスト教の十字架の意味について
   
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[SC31-1-1] 投稿 求道者 | 2008年5月1日 (木)

聖書というのも、実は読む人のレベルに応じて開示される実相が異なる。ゴルゴダでのイエスの十字架も、実際あったことではあるが、それが象徴として隠喩的に語られる内容が読み取れるのである。当時の実際の磔の刑は十字ではなくT字であったが、聖書には十字に記されている。これはエホバまたはヤーヴェを象徴化したもの、つまりYHVHが神の意味であるが、これは母音がなくユダヤの高級司祭しか正確な発音を伝承されていない崇高な言葉であり、キリスト教徒は教えてもらえなかった、しかたなく当時のキリスト教は母音を適当に挿入して、YehovahまたはYahavehとして読んだだけのことである。十字架とはこのYHVHを四方に配置したものであり、それ自体が創造宇宙または神を意味したのである。従ってイエスが十字架に手足と頭を置くことで、神我一如、梵我一如、中枢の死と復活を意味した。実は世界中の主要な宗教はほぼ同じ原理に基づいているのが読み取れる。イエスが示した崇高な意味が解読できない当時のキリスト教徒が十字架を醜悪で悲惨なシンボルにしてしまった。また当然十字のシンボルは世界中で見られ最も古いシンボルの一つであり、卍はそれに腕を付けて九界の意味に拡張したものである。

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[SC31-1-1N] 西方法界|2008年5月12日(月)

これは、考古学的にそうだということで、・・・。

[SC31-1-2] 投稿 求道者 | 2008年5月13日 (火)

YHVHに関してはすでに大辞典には記載されているものがある。当時の十字架の刑に関しては歴史的事実。印象に関してはその専門知識。イエスが十字架に手足と頭を置くことで、神我一如・・というのは古代メソポタミア地方からの古代宗教やグノーシスに関する事実。というところですね。


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