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[S9]本稿の位置づけとその意味(西方法界のひとりよがり度)

[S8]の 「 私自身の立っている位置(その転換点) 」に引き続き、当宗教の窓の基本的内容水準が、どういう位置にあるか、ということについての、私の認識を述べておきます。基本的内容水準とは、私が記載していくものの内容水準の基本的位置のことを意味します。
 
  そのためには、キリスト教におけるイエス・キリストについての位置づけと対比させてみるのがわかりやすいと思いますので、まずそれについて、必要な限度で簡単に述べることから始めます。
 
  キリスト教が、他の宗教と比較して際だった特徴を示すのは、神と人との『媒介者』として、その中間にイエス・キリストというものを据えている点であります。これは、たいへんすぐれた点と、反面そこから出てくる問題点の両面があるように私は感じているのですが、それはともかくとして、『媒介者』というのは宗教の道筋の長い道中をできるだけ迷わないで『地』から『天』へと導く道案内役のようなものだと私は理解しております。
  しかし、こういった道案内役という機能はキリスト教の専売特許なのではなく、当然他の宗教でも問題になっており、ただキリスト教におけるイエス・キリストのような位置づけ、ないしは、形をとってはいないだけであるのだと思います。例えば、仏教で言えば、対機説法がそれであり、法華経比喩品でいう火宅の譬えの内容で示されるところの方便、また明確な把握がしがたいのですが、私の理解からすると、化身仏などが道案内役という機能を果たしているのだと思います。
 
  すなわち、宗教の指し示す究極の到達点というのは、仏教でいう一般衆生からみると、全く視野に入ってきません。そこで、超越者の側から、超越者が自分の姿を変えて、一般衆生の見える位置まで降りてくる。そこで、ここは論争のあるところのようですが、イエス・キリストには、神性と人性の二側面が付与される。これにより、『衆生』は、神と『顔と顔を合わせて』対面すること(創世記32-31など・・・自覚体験)ができなくても、イエス・キリストはなんとか見ることができる、ということになってきます。
 
  他方、そう考えてみると、宗教の言語化思想化自体も、この機能を果たすものであるわけですが、宗教を言語的に表現するといっても、さまざまな次元に表現する仕方があります。言語という分別知の機能を通す以上、何らかの意味で『体得され、了解された宗教そのもの』と乖離してしまうことは避けられないとしても、例えば、道元の正法眼蔵のように、対象化・実体化・思想化の程度が極力微弱であり、宗教の言語的表現の極限のような形のものすら存在するわけです。しかし、そうなればなるほど、内容的価値は高いものだとしても、それは誰でもできるというものではなくなると同時に、またそれがいかに魅力的に見えようが、それを読み解ける人の数も限られてくる、すなわち読んでもわからない人の数も増えてくるという関係になってきます。そして、またその逆の方向もあるわけです。

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  以上を前提にして、本稿の位置づけをすると、『事柄をある程度、対象化・実体化しながら、かつ宗教的世界観に迫る』といっても、それには無限の段階と差異が存在しており、しかもそれを何パーセントと言うような明確な尺度で評価することは不可能である。
 
  そこで、私はこれを『自己免許の私の中途悟り』かつ『私が宗教全体を一貫して記述できる次元』において、それをしている、という限定をつけ、それを明示しておきたいと思います。それがどういう水準のものかは、私自身にはわかりません。これは、私を越えた位置からのみ「見える」問題だからです。
 
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  なぜ、私がこんな一見つまらない、しかも本筋からはずれたことを長々と論ずるかというと、位置づけをすることによって、一口に言えば、私の論稿の基本水準が相対化され、その結果[S8]でも述べたように、文字通り『いろいろな意味ある』と思うからです。以下思いつくものを、ほとんど説明抜きで箇条書き的にあげておきます。
 
  ① 私の記述した基本水準相応の『媒介者』的機能の位置づけが相対化され、このブログの私の記述するものの存在意義のレベルがはっきりすること。

  ②『これでどこまでが、とらえられる射程の範囲に収まるか、そしてどこからはとらえられないのか』が、明確にわかり、現在いるその位置というものをおぼろげながら想像できるということ、と同時に、『とらえられないところ』が、この位置での今後の課題だということもわかってきて、今後の方向性を探りあてるのに役立つこと。

  ③ また、逆に『とらえられた』範囲が拡大していくに従って、自分がある程度わかった気になってしまうのをはっきりとくい止めることに役立つこと、
 
  ④ 次の段階への飛躍のためには、その自分では『わかったと思ったこと』を今度は【捨て去ること】が肝心だと思うのですが、その自覚と内容が自分にとって明確になり、このたいへん困難な、しかし重要な作業をする助けになると思われること。
 
  ⑤ また、本稿で、同じ問題ながら、対応次元を分けて、基本水準では、こうだけれども、その上のレベルではそれでは、まずいのであり、こうだ、というように、議論・思考の混乱を避けながら、複線的に話をすることもできるかもしれないこと。
 
  ⑥ さらに付け加えれば、私より進んでいる方が関わって下さった場合には、それをそれと察知し(これは以外と困難なことだと思っています)、しかるべく対応しやすくなるのではないか、と思われることです。
 
  ⑦ 逆に、もし私の論稿がなにがしかの助けになって、私と同じ位置にまで、進んで来られた方には、そこで止まってはいけないんであって、今度はそこをステップにしてさらに先に進むべきだという警告にもなるということ。

他にもあるかもしれませんが、今ざっと考えてもこのくらいあります。

これからの進行の中で、こうして今考えていることが、どう実現されていくか、いかないかは、今のところわかりませんが、とりあえず、今の時点ではこのように考えております。

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[S8][S9]を通しての要点は、西方法界の『ひとりよがり度』を白日の下にさらして、客観的に相対化しておきたい、またそうすべきだ、と思っていることです。

それでは、この問題はこれくらいにして、次に進みたいと思います。

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西方法界の『ひとりよがり度』を白日の下にさらして、客観的に相対化しておきたい、またそうすべきだ、と思っていることです。

などなど。。。

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     (以下のコメントの全文は、下記のコメント・ファイル中で見られます。)
    http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/cat7189597/index.html
[SC9-1]

投稿   洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

そうだ、そうだ!
ここまでさらっと読んできましたが、、、
いろいろと共振・共鳴するところがあり、大変面白く思っております。

(貴兄のサイトでわたしのHPサイトを参照され、「仲間」、のはなしを読みましてここにいたったものです。いろいろ、あれこれ、面白い、妙、不思議、ですね! 感謝、祈り、感謝、祈り!)

[SC9-1N]

投稿 西方法界

洲崎さん、はじめまして。御了解も得ず勝手にリンクを張らせて戴きまして、大変失礼いたしました。また、この度は多数の記事につき、コメントを戴き、有り難うございます。
今後も、いろいろと御教示と御交誼を戴ければ幸いです。

自らの参究と私のような立場でのブログもそれなりの意味があろうかという思いから、フラフラっと始めてしまいました。しかし、宗教について書くということは、たいへん骨が折れる作業だということを今更ながらに実感しております。

たくさんコメントを頂戴しておりますので、またそちらの方でお目にかかります。
波長が合わないところがありましたら、また御指摘を戴きたく、お願いいたします。

投稿   洲崎 清 | 2007年8月20日 (月)

真摯にやっておられるようなので、特に理をつめるということでさらに進めながら、行のほうがどうかというのをあわせて進めるということなのでしょうね。

かってきままなコメントを書いて失礼しました。丁寧な返答ありがとうございます。ご健闘をお祈りします!     洲崎清拝

ところで、「白日の下にさらして、、、」は「ほとけの家に投げかけて、、、」(道元)、と同じような意味があるでしょうね。どんどんさらして、我がとれて、楽になって、くつろぎの世界がひろがると、あるいはまた、智慧が深みからでてくると、これは面白いでしょう!!!さらに大悲の働きにふれると、まことにありがたいといたみいります!!!

[SC9-1-2N]

投稿 西方法界 | 2007年8月20日

先日記載したばかりの、[S23]隠れ蓑(みの)と無防備の記事において、このあたりが自我の問題に絡んでいることには触れたのですが、方向感として「ほとけの家に投げかけて、、、」を意識するというのは大変参考になります。指摘されてみると、なるほどと思います。

『我がとれて、楽になって、くつろぎの世界がひろがると、あるいはまた、智慧が深みからでてくると、これは面白いでしょう!!!さらに大悲の働きにふれると、まことにありがたいといたみいります!!!』

悟り型の私も、最近は『信』として、確かにそういうことになってくるのだ、ということが自然と確信できるようになってきました。
(鈴木)大拙先生が『仏教の大意』で、従来の仏教は「智」の面ばかりが強調され過ぎている、これからはもっと、「悲」の面に力をいれていかなければならない、というような意味のことを書かれておられたかと思いますが、このことを自分の中に生かしていかなければならないとは、常日頃思っております。

ちなみに、この「智」と「悲」の問題は、仏教とキリスト教で対照的な感があり、仏教の側(本来仏教もキリスト教もないのですが)にいるものは「悲」の面で、キリスト教がたいへん参考になるのではないかと思っております。逆に「智」の面で、私などは、正直言って、よくあのような教義でキリスト教の人は納得してやっていけるな、という感想を持ちます。その意味で、キリスト教圏での悟り型タイプの方には、仏教が必要なのではないか、また大拙先生や西田先生の仕事の意味がたいへん大きいのではないか、という印象を抱いております。また、仏教とキリスト教の役割分担ということがあるのではないか、と思っております。

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[コメント対象事項]


    キリスト教における「智」の部分
   
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[SC9-2]

投稿 求道者 | 2008年5月11日 (木)

キリスト教の教義の中で智の部分が希薄になっているのは、智の部分を異端として葬ってしまったからでしょう。私は民俗学的考古学的にキリスト教の成立を研究したが、明らかに教会に対する「信」を持たすために、個人的に内心において行う「智」の部分を異端として排斥しており、教会側の権威主義に基づくものと理解できます。教会の弾圧後に地下潜行したものがグノーシスと呼ばれるが、それは文字通り「智」の意味である。この話をするとキリスト教徒の方は憤慨されることがあるが、事実は事実ですね。それでも密教ではなく顕教として流布した宗教で仏教ほど優れて知性的な宗教はないですね。まったく釈迦の英知には惚れ込む。

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[SC9-2N]

西方法界|2008年5月12日(月)

グノーシス派は知っていましたが、そういう歴史的背景があったわけですね。

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