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[S29] 死と復活・・その四(般若の中核・・空と定そして覚・・道元・臨済)

   ヨーガの系譜を引く歴史的文化的伝統と環境の中で成立した仏教には坐禅という独特の手法が取り入れられています。
いや、取り入れられているというより、開祖釈尊の坐禅の中から仏教は誕生したという意味で、坐禅は仏教の中核部分に位置しています。
すなわち、仏教にあっては、教義の中核は『空』であり、それを現実に体現していく修行法が坐禅ないしその理論的純粋型の『定』です。

その定によって「死と復活」が起きる、あるいは定が「死と復活」の基盤を提供するという点が、仏教的な「死と復活」の特徴ではないかと考えられます。
 
その典型的な一つの例は、見性によって大死底に至る、ということがあげられます。

      [注] ここで用語的に注意しなければならないのは、「死と復活」という場合の死は
           『定』および、『定』を通じての過程にあるのであり、見性によって復活した
           地平が、大死底とよばれる地平だということです。
              ここは、宗教の道筋としては、まだ途中の段階に過ぎないので、
           全体のなかで大死底とよばれる地平だとされています。
       しかし、その全体の道筋のなかにおいては、大死底は文字通りまだ「死」の
     地平なのであって、更なる「復活」の地平(休歇底)に至るべきことが予定
           されています。

  「死と復活」(悟り)は、各人各様であり、自ずから深浅があるので、前稿の無門和尚の提唱のように、一回・一発の「死と復活」で大方のプロセスを跳び越えて究極・あるいは究極に近いところまでいってしまう場合(頓悟)と、そこまでには至らないために、何回かの「死と復活(悟り)」を繰り返す(漸悟)場合があるとされています。
   従って、禅宗は、法華経にいう一乘の法と三乘の法を併せ持っている、ということがいえるのかもしれません。

   [注] 「悟り」という言い方のある意味での不適当性については、[S1]参照

  とにかく、『定』は、狭い意味でいう見性のみに限らず、釈迦の悟りのような大悟まで含めて、中枢の「死と復活」の宝庫であるかのごとき感があります。
そして、それは『定』という状態そのものが、そもそも中枢の「死」あるいはそれに近い状態になるということを意味しているからだ、というように見ることができます。

 『定』が坐禅の理論的純粋型だということは、単なる坐禅が直ちに『定』なのではないということです。坐禅が一定の質に至った場合に、その理論的純粋型ともいうべき『定』という状態に至るのであると考えられます。

  [注] また、これは『定』に至る方法ないし道筋は、坐禅だけには限らない、
      ということも意味していると思われます。

  坐禅の説明は省くとして、『定』の意味内容を確定していくと、『定』とは、意識(第六識)のすべてを働かせず、ただ受動的意識、すなわち、そこに映る状態を映し出すだけにとどめ。それ以上には働かせない状態です。
   積極的意識、すなわち分別作用=認識作用・判断作用などを一切働かせない状態です。『主客未分・分別発生前の働きのところで自分という働き(中枢の働き)を「止」めて、その状態を保つことが「定」である、と考えられます。
   この『定』あるいはそれが更に深まった状態が、般若心経の『行深般若波羅蜜多時』だということになります。(このあたりからを、「三昧」と呼ぶのか)
 
 すなわち、『定』は、この意味で中枢の働きをそのものずばり停止してしまうことであり、これは、ある特殊な水準での「中枢の死」の状態ではないでしょうか。
 
 只管打坐を教義の中核に据える曹洞宗の道元さんの言葉で拾ってみると、「心意識」の運転を停止したところ、「念想観」を停止したところ、「非思量」のところ、「自受用三昧」のところというようなことになります。

 これまで書いてきたところでは、「中枢の死」にまで至る前提には、絶体絶命の行き詰まりの淵に至る過程というものがありました。
   しかし、修行法としての『定』から入ると、その入り口においては「絶体絶命の行き詰まりの淵に至る過程」ということをとりあえず前提条件とせずに、中枢の死の問題に入っていくことができる、という特徴を『定』は持っております。 
 
   また、臨済の師にあたる黄檗の言葉を借りると、黄檗は「伝心法要」(偏見推奨書籍・書店のなかにあります)のなかで次のように言っております。

『ただ、心を空ならしめさえすればよいのに、人は虚無に落ち込みはしないかと恐れ、大抵は心を空にしたがらない。』

空になるためには、『心に一物も付着させるな、というに尽きる。・・・追い求めることをやめよ。・・・念慮をやめよ。』

このようにいわれております。

ここにも、中枢との絶縁が指示されていますが、ただ、それは我々にとって巨大な恐怖であり、その前で我々はたじろぎます。

しかし、やはり修行法としての『定』から入ると、入り口においては、そういう障害なくして中枢の死の問題に入っていくことができる、ということが言えるかと思います。

   [注]  入り口より先のところ、 行が相当進んだ段階の道中でいかなることになる
     のかは、このかぎりではありません。

この『定』という形での掘り下げ方をとる結果、仏教では自己の根底を深い心理学的な眼で(? ここでは一応こう言っておくということ・正確には「三昧の中で」というべきか)観察するという方向が発展しました。
末那識(マナシキ・第七識)・阿頼耶識(アラヤシキorアーラヤシキ・第八識)というような無意識層と意識層との関係で、中枢の「死と復活」の問題を捉えていく側面ないし見方というものも仏教は併せ持っている、ということができます。

  まとめますと、仏教においては、教義的には「空」、修行法的には「定」の中に中枢の「死」ということが捉えられており、「悟り」が「復活」を意味する一般用語になっている、ということになります。

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当ブログは禅宗的サイトであり、この関係の話が全体に及んでいますので、一般的な話は、これだけにとどめ、
以下は、「定」から理想的な「死と復活」へとつながったと思われる例として、道元禅師の場合と、それとは対照的な臨済の場合を見ることに致します。

道元禅師に関しては、「心身脱落、脱落心身」の語がありますが、 正法眼蔵『生死』の巻に書かれているものが、死と復活の消息をよく現していると思われます。


 [私たちの個々の]生死は、すなわちほとけの御いのちなり。

  これを厭い捨てんとすれば、
  すなわち、ほとけの御いのちを失なわんとする[ことになる]なり。

[そうかといって]これにとどまりて生死に執すれば、
   これもほとけのいのちを失う[ことになる]なり。

 ほとけのありさまを、いとうことなく、したうことなき[にいたって]、
   このときはじめてほとけのこころに入る。

 ただし、こころをもって[あれこれと]はかることなかれ、ことばをもっていうことなかれ。

 ただわが身をも心をも放ち忘れて、ほとけのいえになげいれて[いくと]、
  ほとけの方よりおこなわれて、これにしたがいもていくとき、

  ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、ほとけとなる。

最後の

『 わが身をも心をも放ち忘れて、ほとけのいえになげいれて[いくと]、
   ほとけの方よりおこなわれて、これにしたがいもていくとき、

   ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、ほとけとなる。

の部分のうち、

「わが身をも心をも放ち忘れて、ほとけのいえになげいれて[いくと]、」

ここが中枢の死に当たる部分です。

道元禅師の場合は、この文を見る限り、たいへん「静かなドラマ」として事態が進行しているように思われます。

「ほとけのいえになげいれ」るところが中枢との決定的絶縁の瞬間であるわけですが、それは、「わが身をも心をも放ち忘れて、」という状態においてなされており、この文を見る限りでは、「死」から「復活」への流れが、ということは、「中枢の死という断末魔・終焉」がいかにも静かだなあ、という印象が致します。

   もちろん、この文からのみそうであったとはっきり断定することはできないでしょうが、自力の限りを絞り出すというイメージの「死と復活」のドラマが多い中にあって、道元さんの場合はこの意味で異彩を放つものだということがいえるかもしれません。

   道元さんにあっては、その「定」あるいは「三昧」の中にあって、「中枢」が大変静かに断末魔・終焉を迎えたのだとすれば、それは「定」・「三昧」が理想的に進行し、「中枢の死」へとつながっていったケースであるとも受け取ることができるかもしれません。
それ故、道元さんの「定」・「三昧」への信頼度はそれだけ厚く、そのことが、「只管打坐」という永平道元の家風につながっていったと解釈することはできないでしょうか。

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他方、道元さんとは対照的な臨済の場合はどうであったのか。
「定」の修行は綿密に行いながらも、「定」の外で悟る経過を示します。

臨済の悟りに関しては、あの雲門をも打出した黄檗下の兄弟子睦州の存在を忘れることはできません。臨済と雲門という二人の大禅匠の打出に絡んだ睦州は、なぜか歴史の裏舞台に隠れております。

大所帯の黄檗下にあって、臨済に眼をつけ、その修行が綿密で時機が熟していることを見て取り、黄檗に進言したのは睦州でありました。
黄檗も睦州の眼を信頼していたのでしょう。即時に臨済を参禅させ、有名な三十棒を三度臨済にくらわせます。仏教教義にも精通しきった臨済にとって、「仏法的的の意」の問いに対する、信頼する大禅匠黄檗の答えが、いきなりの三十棒であったことで、頭の中は真っ白になったことでしょう。「指を見ないで、指がさしている先の月を見ろ」。われわれは、「いきなりの三十棒」をみるのではなく、「いきなりの三十棒」が指し示している先、すなわち「頭の中は真っ白」を見なければなりません。
いきなりの三十棒で、なにがなんだかわからなくなって帰ってくる臨済は、おそらく夜も眠らずに、というより、夜も眠れずに、黄檗の三十棒の意味を問い続けたにちがいありません。睦州は、途方に暮れる臨済を励ましながら、臨済を三度黄檗の元に送り出します。

しかし、そのたびに臨済の絶体絶命の淵が極まってまいります。
臨済は、ついに黄檗の元を去る決意を固めます。睦州は、臨済の中枢の死が極まりつつあることを見逃しません。黄檗に挨拶してから去るべきことを指示します。黄檗もまた臨済が中枢の死に向けて極まってきていることを見逃しません。臨済に親友大愚の元に行くべきことを指示します。

大愚への道中、臨済は、ただひたすら「仏法的的の意」がなぜ「三度の三十棒」なのかを考え続けたに違いありません。さもなくば、夢遊病者のごとく、頭の中が真っ白になったまま、失意のうちにただ歩いたのかもしれません。

臨済から事の経緯を聞いた大愚は、直ちに黄檗の意を見て取り、臨済の胸ぐらを掴んで締め上げます。ここに臨済の絶体絶命の淵が最終的に極まります。
   恐らく、そのとき臨済はもうどうにもならず、大愚になされるままに身をゆだねたのだと思います。臨済にとっては、それ以外になすすべは、何もなかった。その、なすすべもなく身をゆだねたということが、臨済にとっては自己の中枢との最終的決別を意味するものになったと思われます。
  そして、その『自己の中枢の死において、真実の空が我が身に体現されている(自分が、真実の空になりきっている)』のを見たのだと思われます。その一呼吸をおいて、臨済は「はたと気づく」のであると私には理解されます。そして、御存知のような結末が後に続きます。

すなわち、締め上げられながら臨済は大愚の腹のあたりをコツコツと突っつきます。
それにより、大愚は臨済の超越が完成したことを見て取り、臨済を黄檗の元に送り返します。

これが、臨済における「死と復活」のプロセスであったのではないかと思います。

道元は、いかにもインド的釈尊的な「定」「三昧」の中での超越の仕方であり、
臨済は、いかにも中国的祖師禅的な状況下での超越の仕方であると思われます。

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[コメント対象事項]

    空
   
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[SC29-1-1] 投稿 求道者 | 2008年5月1日 (木)

空とは無とは異なり、現象界はすべて他性であり、自性のみが真の実在であることを知るに過ぎない。その自性から現象界へとすべてが展開され自我は本源の空である自性(真我)を元として反映投射されたものに過ぎない事を知ることである。そしてその投射された自我が現象界を他性と認識することを、何らかの理由で、失ってしまい、巻き込まれ、他性である現象界を自性であり実相であると見間違っているのである。それを現象への執着、真実を知らない、無明、キリスト教では原罪、エデンからの堕落と呼ぶ。従って中枢の死の正しく詳細な意味は、元来の正しい認識状態を取り戻すことにあり、実際には死ではなく、変容であり、間違いを取り払い、元々梵我一如であり、真我と自我が一体で自己矛盾の無かった状態を復活させることにあり、死ぬのは現象界を実相と見る間違った認識作用である。

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[SC29-1-1N] 西方法界|2008年5月11日(日)

求道者様と私の間で空の理解が異なるというところまで話が進んでいますので、ここでその内容に立ち入りたいと思います。
仏教では法空と人空の二義を区別するということでしたが、検索で調べてみるとはっきりわからない説明が多いと感じました。
仏教的理解として誤っているかもしれませんが、私は次のように理解しております。
まず、「法」とは現象である。その現象界の中でも存在の論理として「色即是空、空即是色」ということが成り立つ。その場合の「空」を「法空」という。
   したがって、「宗教の窓」の[S5][S6]で台風12号の例を用いて説明してきたような捉え方で理解される「空」が法空である。そして、そう理解したとき、現象界の中でも「個」が解体します。本当は、「個」など無いのであると。

   「個など無い」ということは、自性がないということになります。すなわち、仏教では、自性という言葉は、「個として他から独立している性質・本質(我)」というような意味かと思います。そうすると、求道者様がつかわれている「自性」の意味ではありません。むしろ、正反対のことを表現していることになります。
仏教では、自性がないことが「実相」になります。求道者様の用語法だと、自性の側が実相になります。まず、この用語法をどうしましょうか。

次に、私の上記理解によると、現象界も「悟りの目で見れば」実相が見えるということです。「我(形)」に見えているものの実相は、実は「我(形)が無い」、諸法無我である。そこで理解されるのが、「法空」です。

ところが、求道者様ははじめから「現象界」という用語は「実相ではないもの(他性)」という定義で使っておられます。これは用語法の問題でしょうか(少なくとも、定義が違うのは確かです)、それとも、さらに何かの理解がからんでいるのでしょうか。? 

求道者様の考え方は、わかってきたのです([SC12-3]のコメント・・・まだ未整理、いずれ[SC12-4]として整理します)。神の降下展開で次第に、「神の化身が上から下へと劣化降下していく様」を意味しているということ、その理解を展開するために、そのもっとも劣化した先を「現象界」という言葉で表現される。考えていらっしゃることは私もわかるのですが、これでは話が錯綜してしまいますね。
何かいい解決法がありますか。仏教の用語法は動かすわけにはいきません。これは、解決法が見つかるまで、ないし頭が整理できるまで、この先に進めませんからここでストップしておきましょう。
一つだけ付け加えておきます。上記で説明した「法空」の理解は、私の場合 [S8]西方法界の立っている位置(その転換点)で書きました私の体験でつかんだものです。すなわち、法空に関しては、私は体験的に上記理解に至ったということを付け加えておきます。

次に「人空」に移ります。
① 自分自身も「我=独立した個」ではないと『知ること』、
② 「独立した個(我)ではない、無我なる自分」(おそらく、求道者様がいわれる「真我」に相当する)

私は、求道的に②の理解です。存在の論理ではなく、自覚の論理としての「色即是空」とは、この我が身が「独立した個(我)ではない、無我なる自分」に『なる(知るではない)』ことと禅宗では捉えていると思います。求道者様の用語法で言えば、個我(色)が現実に真我(空)になることが「色即是空」であると捉えるのが、自覚の論理としての「色即是空」です。その位置・段階を禅宗では「大死底」といいます。洞山の五位でいう第一位です。まだ、始めのところ、悟りの世界に入ってきたところです)。
  禅宗は、常に「知る」のではなく、「なる」「そのものになりきっていく」のであり、もし知る(わかる)ということがあるとすれば、「なった結果」「なりきった結果」わかったことでないと、わかったとはいえない、ということになっていると思います。ここが、禅宗の「いのち」であり、一番の長所だと思います。ここをはずすと禅宗ではなくなってしまいます。
   求道者様的な理解をすれば、禅宗ではここで完全に「知」をはずしてしまう(排除する)ことになります。禅宗は、知を門前払いせず、「まず疑え」といっていったんは受け入れますが、そうしておいて、そこで徹底的に「知」を破壊しにかかります。公案などは、知の土俵上に入ってきて、知の相撲をとると見せかけて、知の土俵そのものを破壊しようとします。

《従って中枢の死の正しく詳細な意味は、元来の正しい認識状態を取り戻すことにあり、実際には死ではなく、変容であり、》
この理解は求道者様が結果を先取りしているスタンス(すなわち、実存を欠いた知になりすぎていること)から生まれる力点の置き方の理解だと思います。内容は正しいのです。しかし、常にこの我が身をいかに「空ずる(動詞)」かに取り組む場合には、「中枢の死」の力点は、中枢がその支配を手放すことという実存的要素の入った理解になります。それでないと、自分の役に立ちません。復活は、自分を超えた力によって=自動的に起こるので、ただそうなるということを知っていれば用が足ります。私からみると、そう見えることになります。

[SC29-1-2] 投稿 求道者 | 2008年5月13日 (火)

※ 仏教では法空と人空の二義を区別するということでしたが、検索で調べてみるとはっきりわからない説明が多いと感じました。仏教的理解として誤っているかもしれませんが、私は次のように理解しております。まず、「法」とは現象である。その現象界の中でも存在の論理として「色即是空、空即是色」ということが成り立つ。その場合の「空」を「法空」という。・・・・・

■まず、法とはダルマであり法則性であり、現象とはその結果であり「現れ」のことを言う。だから法とはこの世界を存在させ存続させている法則性のことであり、結果である「現れ」自体を空というのではなく、「現れ」自体には実体はあるが実相はないということを「認識する」という認識作用のことを言っている。実体は明らかに在るのであり、机を見ていて机がないわけではない。ただその机は、「我々が見ているような机として真に存在するのか?」という課題である。だから極端に言えば「色即是空、空即是色」は非常に間違い易い記述である。驚かないで欲しい、そもそもこの記述は遠い過去から常に疑問を投じてきた経緯がある、龍樹にせよ空海にせよダライラマにせよ素人が容易に飲み込んではいけないことを暗示してきた。色=空ではなく、空=色ではない、等式では結べないものである。常に色と空の間に法則が介在することを知る必要がある。現代流に解釈すれば、前者は「その色(形態)は空(無色、無形態)から存在化した」ということであり、後者は「元々色がない空(無色、無形態)から色(形態)が存在化した」それを感得せよと言っているのである。また、すべて存在するもの(現象界)は無形態から「法を通じて」形態化、存在化したと言っている。だから空の正確な概念は「法を通じないでも存在している実相を<認識すること>」であり、認識法の概念であり<空というものを指し示す言葉ではない>、だから空観とか空性と呼ばれる。さらに現代流に解釈を進めれば、「常に同一の物、同一の状態はない」ということであり、「存在状態が固定していなければ、あれとかこれとか、名付けることができるものはない」ということであり、我々が今机として見ているものも千年のスパンで見れば塵であり、永劫の宇宙存在から見れば、鉱物でさえ様々に変化消滅している。また我々の目がエックス線しか感知できなければ、世界の様相はまったく異なって見えるはずである。我々の身体が分子のサイズなら、机も茶瓶も区別が付かない。我々が机を机として認識できるのは、きわめて狭い範囲の視野の内であることを知ることでもある。そしてその常なる変化が常に物理法則に従って起こっていて、例外はない、ということである。
だから現象を空と見ることを、「法空」と言うのなら意味が納得できる。しかし人間自体の中には、明らかに意識と呼ばれる無色がある、実は宇宙の中のすべての存在物には意識があるが、人間の意識は意識的意識として区別されるが、これについては徐々に説明する。また西方法界さんの言う、不随意的命令中枢と随意的命令中枢とは、実は私も以前から無意識的意識と意識的意識と呼んで区別している(この場合の無意識は潜在意識としてではなく、意識せずに、と解釈して欲しい)。

また実際に人間の個が無くなるのは、パラ・ニルバーナの状態であり、ニルバーナ状態では個がある、ただその個は、宇宙との一体性(大海の中にあるがその一滴自体は消えていない)を感得する状態であり、だからこそ再度現世界に現れて個として衆生を導くことができる。パラ・ニルバーナに入れば再び現世界に現れることはない。まして現象界の中で個が解体することはない。もし人間に元々個が無いのであれば、無数の人間が一人一人異なる必要はない。

だから自性というのは、「法則、理法によって生み出された現象ではない」、ということであり、無形である意識は自性のものであり、西方法界さんが言われる「個として他から独立している性質・本質(我)」の「他から独立」が「他に依存しない」の意味であればその通りだと思います。

※ 仏教では、自性がないことが「実相」になります。求道者様の用語法だと、自性の側が実相になります。まず、この用語法をどうしましょうか。・・・・・・

■仏教では、実相とは他性である現象を排除してから見える真相のことであるが、現象世界の定義を「人の目に実在と写る世界」と定義するので、現象界自体は他性となる、だから総合的な物理現象自体のことではありません、現代の物理科学はすでにこの現象世界を仏教的、空性的に解釈できるまで進んできていますから。西方法界さんも: 現象界も「悟りの目で見れば」実相が見えるということです。「我(形)」に見えているものの実相は、実は「我(形)が無い」、諸法無我である。そこで理解されるのが、「法空」です。とその通りに言っておられます。勿論、この「我」をどう定義されるかの問題は残りますが(我には有形の我と無形の我がある)。だから見解はそんなに違っていないようです。

神(意識)の降下展開理論は非常に複雑ですが、実は恐ろしくすばらしい理論で、私も初めは訳が分かりませんでしたが、この理論のおかげで、あらゆる古代の宗教、仏教、キリスト教から神道に至るまで、すべて統一的に矛盾無く把握できました。もっと対話が進んだ時点で徐々に話すようになるでしょう。

■人空
求道的に②の理解ですね。そう「大死底」ね、面白い用語だ。禅は滅することの究極を「死」で表現するのが好きなようですね。

※ 禅宗は、常に「知る」のではなく、「なる」「そのものになりきっていく」のであり、・・・

禅宗だけでなく、洋書でもしょっちゅうbecomeではなくbeingであると書かれているので共通ですね。西洋でよく言われる悟りの三段階は、①光を見る②光の中に入る(個が残っている)③光と一体になる(個が無くなる)と表現されます。

※ 求道者様的な理解をすれば、禅宗ではここで完全に「知」をはずしてしまう(排除する)ことになります。・・・・・

■その通りですね。ただこれが素人に誤解を生みやすい点でもあり、素人は「考えることが良くない」と判断してしまう。止観という行はどこの宗教にもあり瞑想の基本です。一部の宗教の修行や密教系では遙かに詳細かつ具体的かつ、多くの思念訓練を駆使する。止観は修行法の一部なので私から見れば、これだけではね、と思ってしまうことがある。実際に若い頃禅の瞑想法をお寺で教えてもらったり研究しましたが、世界各地の宗教的修行に共通するのは思念、想念を最後の最後まで道具として使い切った最後に、思念の消滅へ入る場合が多い。禅の訓練法は一部抽出のようにも思える?たとえばラジャヨーガでは、禅の止観のほぼすべてを含み、さらに何倍もの観想法と概念操作が含まれているように思われる。

※ 常にこの我が身をいかに「空ずる(動詞)」かに取り組む場合には、「中枢の死」の力点は、中枢がその支配を手放すことという実存的要素の入った理解になります。それでないと、自分の役に立ちません。復活は、自分を超えた力によって=自動的に起こるので、ただそうなるということを知っていれば用が足ります。私からみると、そう見えることになります。・・・・

確かにそうですね。この点に関して、西方法界さんが中枢を認識中枢、不随意命令中枢、随意命令中枢と3つに分けられているが、これを3つに分けることで私は非常に説明が容易くなる。ひとくくりに「中枢」としてしまうと私の説明は成立しない。

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[SC29-1-2N] 西方法界|2008年5月14日(水)

  最後の中枢の定義・分類の問題から。
  宗教の窓の最初の「中枢」の定義[S3]は、無明底から出発するために作った定義で、話を複雑にしないために『欠陥を問題にする』「認識中枢」=分別知、『欠陥を問題にする』指令中枢=自我ということでありました。この定義が使えるのはぎりぎりのところ、現在問題にしている「死と復活」における「死」までです。話がその後のステージに移ればこの定義は意味をもたなくなります。指令中枢を不随意的指令中枢、随意的指令中枢の二つに分けたのは、従来からそうしていたのではなく、話の流れから当然そうなってこなければならないということで、今後の話の整理のために、このコメントで始めて使ったものにすぎません。ですから、使用用語としては、これから求道者様の用語を私も使うことに致します。

自性の定義にかんしては、「他に依存せず、個として他から独立している性質・本質(我)」で結構です。

《求道的に②の理解》
  私は、禅宗の参禅をした経験はありませんので、単なる知識に過ぎませんが、日本の臨済宗の室内(参禅の現場)では、自ら空となっておどり出て見ろ、ということが問われる、と理解しています。それ以外は、何も受けつけてくれないと。
 すなわち、禅宗では、自覚の論理としての「色即是空」をそのように扱っているということを補足しておきます。
したがって、この辺からそのものになりきることだという方向に意識が向き、概念の検討をしておりませんので、その程度にお受け取り下さい。
 

《・・・思念、想念を最後の最後まで道具として使い切った最後に、思念の消滅へ入る・・・》
  「道具として使い切」るというのがどういう意味か全くわかりませんが、禅宗の公案は「思念を使い切らせる」という意味があるように思われます。

今回の求道者様のコメントは、話がかなり微妙な域に入ってきて、読ませていただいても未消化のところがかなりございますので、私がわかっていないかもしれないということを計算に入れておいて戴くようお願いいたします。

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[SC29-1-3] 投稿 求道者 | 2008年5月15日 (木)

※「道具として使い切」るというのがどういう意味か全くわかりませんが、禅宗の公案は「思念を使い切らせる」という意味があるように思われます。・・・・

■簡単に言うと「概念の操作および克服」ということです。悟るためには」思念を越える必要がある(禅的に言うと思を殺すということになる)、が「言うは易く行うは難し」であるはずです、「道具として使い切る」というのは、「毒をもって毒を制する」ということです。なぜなら、現在自分が持つ最高の道具は思念の力しかないからです。具体的には低級な思念をより高度な思念へと昇華させていく作業(訓練)、概念操作です。密教などでマントラや色彩や絵図を使うのは明らかに概念操作です、絵図が少しファンタジーに見えるのは時代考証的なものであり、仕方ないでしょう、だからもっと説明も含めて現代風にアレンジできるのです。禅だったと思いますが、月輪観という方法があり私も試みたが、非常に興味深く、有効性が確認できた。この月輪観は多くの絵図の中の最も簡単なもののほんの一部でしかない。遙かに多くの観想法があり、段階的に高度になっていき、最後には消滅させる。実に、段階的に多くの訓練を無理なく歩む。今はそういうこともあるかも知れないと感じられるだけでよいと思います。理解とは徐々にしか進まない、誰でも多くの固定概念で生活してきたから、一足飛びには行かないでしょう。
      
[SC29-1-4N] 西方法界|2008年5月15日(木)

人空の問題で、西田哲学の理解との関係で「空」について考えてみました。
現在の私に言えることは以下のことだけです。

まず、現在の私には、「空」の定義を明確に作ることができません。どう定義されていればよいのかわからないのです。
しかし、私は前に一回使いましたが「空ずる}という動詞なら定義できます。

「自己を空ずる」とは「絶対受動的であること」、絶対受動的であることとは、「受動的意識のみ働き、積極的意識は停止して働いていないこと」になるかと思います。「意識的意識によって、自己を支配しようとしていない状態」と言ってもいいかと思います。

また、「絶対無」とは、虚無ではなく、「仏」ないしキリスト教の神に相当する概念ですが、西田先生も言われているように、キリスト教の神に対しては、内在的に見た方向、自己の根底に見る方向という注釈・修正をつけなければなりません。

西田哲学の理解としては、「自己を空ずる」ということは、「自己が絶対無に対する」ということを意味し、道元さんのいわれる「自己を仏の方(かた)に投げ入れる」と同義になると考えられます。

また、山上の垂訓の「幸いなるかな、心の貧しき者」の「心を貧しくする」と「自己を空ずる」とは同義であると理解します。

ここまでは、わかるのですが、それでは「空」はどう定義されるのかになると、考えてもうまく定義できません。

[SC29-1-4] 投稿 求道者 | 2008年5月15日 (木)

それはもちろんその通りでいいですね、
「空ずる」と言うことは「空を観ずる」、「空観」ということですから認識方法のこ
とを意味しているので、
実際に空という状態があるのではない。

西洋的にも名詞的に、Void(虚空)とかAbyss(深淵)と表現されるものがあるが、
それは「すべてのものがそこから生まれた深層」と解されていて、三次元的な存在
物、
時間空間は一切無い状態のことである。これを「空」と名付ければ「空性」とは明ら
かに異なる。
だから私は西洋的にボイドまたはアビスと言う方を好んでいます。

般若心経の色即是空という表現方法には、注意を払う必要があります。古来の名僧達
もそう説明しているようです。
一般の人が十分に理解しないまま、安易に虚無的な思想を持つ可能性があるからで
す。
極論すれば、一般的には、決して「無から有は存在化しない」ということを知る方が
真理に近いように思います。
三次元的発想の中では存在しない次元の異なるものということでしょう。
だから「無であるが、無でもない、有であるが有でもない、空であるが空でもない」
と言うが、当時としては
「次元」という言葉自体が無かったので、こ表現さざるを得なかった。
言葉の使用上、「無」「空」というのは便利なのですが。

「空観」というのは様々な方向から取り組むことが出来る認識方法、つまり対機的認識方法なので、相手や事象に応じて応用を駆使することに本来の意義があるので総合的、全容的理解には時間を要します。

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