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[S15]自分の正体(宗教の窓の基本水準の核)

  予告では、名と体の問題をもう少し取り上げるようなことを書いてきましたが、予期せずして私の二回もの参究問題がはさまり、戻ってきたところで、すっかり気が変わってしまいました。[S13]を受けて、自分の正体の問題を扱います。
 
  [S13]によって、自分の正体というのは、私のいう《第二の意味の仏》である、というところまでは確認できています。ここでおこなうことは、宗教の窓の基本水準の最終的確認をする、ということです。ここまでやっておかないと、宗教の窓が、本調子になりません。

 
  では、まず即非の論理を端的に使って、話を複線化します。

         自分  (即非)  超個                   
 
  この宗教の窓の前提としている次元をはずして、本来の次元での話では、この超個は『空(=絶対無)』ということになります。
 
      自分 (即非) 空(=絶対無) 

である。そして、これを思想的に対象化して扱うのではなく、主客未分のところで、自己の根底において、自覚体験的に直観的に捉える、ということだ、とされています。私は、体験者ではないから、あまり当てにはならないのですが、自分では、『自己の根底において』というのは、「念想観を停止して」=「非思量の状態」で、自分の無意識の世界に降りていくようなイメージを想像しています。

ところが、これではまるで雲の上のようなわからない話になるので、本来のところからはズレるが、話を対象化し、なんとか本来のところに近そうなイメージを描いてある程度の納得を得た上で、それを踏み台にして、本来の処を目指そうというのが、この宗教の窓の次元です。

そこで、我々は台風12号の時のように、超個を無限の宇宙に置き換えてみます。

       自分 (即非) 無限の宇宙

これでどうかというと、間にある即非というのが、まだわかりにくい。これは、絶対矛盾的自己同一ということと同じでありました。

  そこで、またズレは拡大するが、更に妥協を重ねます。

       自分  非  無限の宇宙

これは、自分は、無限の宇宙ではない、という我々の素朴な感覚であり、何も難しくはない。そこで、この非もとってしまって、わかりにくい方の即だけ残します。

      自分  即  無限の宇宙 

これは、絶対矛盾的自己同一から、絶対矛盾をはずしてしまえば、即は、『同一』だ、ということになる。

  自分は、無限の宇宙と同一だ。ブッ続きで仕切りなどない、というところまで、単純化してしまう。ここまで妥協しズラしてしまう。あるいは、不可分・不可同の不可分だけにして、自分と無限の宇宙は、不可分だ、くらいにする。

  《もう一人の私》おまえ、黙って聞いていると、随分ズラすじゃあないか。

そうして、台風12号の話[S5]を思い出して下さい。台風12号の周囲の一切のもの、すなわち、海も空も地球も太陽も・・要するに、その周りの無限の宇宙を取り除いてしまったら、台風12号も消えてしまった。ということは、台風12号を寸分違わず台風12号としてあらしめている一切の事情=台風12号の正体というのは、無限の宇宙であった。それと同様に、自分の正体も無限の宇宙だということになります。

そこで、

       自分   同一(ブッ続き・不可分)   無限の宇宙 

ということになって、これなら、なんとか話についていけそうではないか、というところまで来るわけです。

《独り言》 台風12号の理解そのままのところに合わせている。

これが、この宗教の窓の基本水準である、ということをよくよく自覚しておいて下さい。それでも、私はこの水準で一通りの納得できる理解が成立すると、全く何もない、通常の無明的基本水準より、ずっと話がわかりやすくなり、本来の水準をめざしやすくなると思い、この宗教の窓を書いているわけです。多かれ少なかれ、無意識のうちに何か描いてしまうのなら、はっきりと意識して、かつ全体的な納得が得られ、宗教の基礎的姿勢を固められる水準でやってしまおう、というわけです。踏み台を作るだけなのです。しかし、一応の納得がついたら、はずして、捨ててしまわなければならない踏み台です。それが、この宗教の窓です。

  そういう代償を払った上で、我々は「わかりやすさ」を手に入れるのです。
たとえば、このことにより、即非の論理や絶対矛盾的自己同一ということが、一応わかったわけです。
一応わかれば、こんどはその感覚を踏み台にして、超個を空に置き換えて、本来的地平を目指す、ということがしやすくなります。

以後の宗教の窓の話は、これを基本に進められます。


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さて、私としては、これで宗教の窓の基礎的水準設定の作業を完了することになるが、それが最終的に整ったこの場でもう一度、今度は、一つ上の立場に立って、これを全体的な位置づけの中においておこうと思う。

宗教の窓は、本稿前段で行ったように、台風12号の例を用いて、素朴な縁起的理解を背景にし、存在論的な次元で本来の宗教と類似したモデルを作ることにある。 これにより、ある程度宗教がわかった、足がかりがついた、と思えることを第一のねらいとしている。そして、そうであるならば、宗教の目指す先々の道筋への信というものも、おのずから出てくると考えられる。この存在論的アプローチを私は水平方向のアプローチということにする。

しかし、この水平方向のアプローチ(存在論的な次元でのアプローチ)は、それが足場として確立されたならば、いったんはこれを捨て去り、垂直方向のアプローチに転換しなければならない。

垂直方向のアプローチとは、[S2]で取り上げたように『自分というものの根底。自分と世界とがまだ、分かれていない元のところ。主客が分かれる前のところ』に《下りていく》方向である。『一即一切、一切即一』ではなく、『色即是空、空即是色』を問題にしていく方向である。『空』に対する実存の方向である。その行き着く先は、自覚体験的に『自分の正体』に出会うこと、そのものである。この局面は、存在論的な次元での水平方向のアプローチように、事柄を対象化していくことはできない。直下に自分という主体の中に、底に下りていくことになる。それは、唯識的な無意識の世界に切り込んでいくという作業である。自分自体が、『無』そのものになっていく世界である。かなたに、「無限の宇宙」をみるというより、「永遠のいのち」を感じるような世界になってくる。

この時、『宗教の窓』の「功罪」が共に現れることになる。「罪」の面の最たるものは、『宗教の窓』の存在論的な次元で止まってしまって、それにとらわれ、垂直方向のアプローチに進めないこと、あるいは、その障害になってしまうことである。これは、『宗教の窓』の筆者西方法界の望むところではない。『宗教の窓』は、あくまで踏み台であり、捨て石である。このレベルにいつまでも留まってはならない。 
  私は、「功」の面が出て、『宗教の窓』がよき踏み台となり、なるほど、宗教の言っていることは間違いはない、という確信のもとに、できるだけ横道に逸れないで歩み続けられるように、ということを期待している。
また、存在論的なアプローチのアナロジーで、垂直方向への歩みが助長されることもありうるのではないか、と思う。
 
さらに一言すると、存在論的アプローチは、全く無駄になってしまうのではないと思う。やがって、それは復活してくるときがある、そのときは多少色合いの違った眺め方にはなると思うが、また役に立つ時がくると、私は理解している。

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[SC15-1] 投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

そろそろ読むのがかったるくなってきましたが、、、

この辺、例えば無意識の意識、無分別の分別と言う表現でかたづけたい所と言う感じです。(とはいえ、かたずかないのう!)

>私は、体験者ではないから、あまり当てにはならないのですが、自分では、『自己の根底において』というのは、「念想観を停止して」=「非思量の状態」で、自分の無意識の世界に降りていくようなイメージを想像しています。

はイメージじゃなくて、、「それ」でしょう。。。

あるいは降りるんじゃなくて、鏡に映るというのでどうですか?

体験者でない、が書くのでは、、、、

迷子が迷子を増やすという恐れはありませんか?

(この辺問題ありそうですね。物騒、物騒。)

[SC14-1N] 投稿  西方法界  2007年8月15日

そうですね。一言もありません。

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[コメント対象事項]

   「空」の捉え方
   
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[SC15-2-1投稿 求道者 | 2008年5月 1日 (木)

まず最初に、空=絶対無というのは間違った解釈だということです。空とは、「その存在に本質がない」ということを認識する認識作用の問題であり、現実の物が存在しないということではない。平たく言うと、この現象界に存在するすべての物は現象、現れであり、その本質ではない、また我々は本質、実相を見ていないから、マーヤであるという認識作用の問題である。さらに言えば、形あるものすべては形なきものから発生したことを知れということでもある。形がなければ時間も運動もないが、意識が存在しそれが思念を通じて運動を派生し、運動が形態化を引き起こしたとも説明される。だから現象界では静止する物が一切無い。あらゆる物質は原子で構成されるが原子自体は超高速で振動し運動している。しかも最小の電子は粒子として確認できず、運動する渦としか見えない。動くものは常に変化し変遷し同じ物であり続けない。だから目に見える物は一瞬間ごとに異なるのであるが、人の物を見る範囲、レベルにおいては固定して見える。もし人間の目が電子顕微鏡や、エックス線の目であれば世界の姿はまったく違って見えるはずである。これを空と言い、認識作用の修正を促す重要な概念である。

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[SC15-2-1N] 西方法界|2008年5月8日(木)

[後記注] 求道者様は、特定の宗教に属さず、東西の宗教を幅広く共通的原理の内に
             捉えようとされている方でいらっしゃいます。


[SC12-2N]でも述べましたように、求道者様とは「空」の捉え方がやや異なります。
「法空」の説明として、「存在には本質というか実体がない」というのはわかるのですが、「人空」として絶対無を問題にする西田哲学の立場では、空=絶対無であり、これはなにもない「虚空」とは異なり、むしろ永遠のいのちというか、仏教的な意味での「神」を意味する用語と捉えているのですが、ヒンズー教にも「空」という用語があって、御指摘のように解されているということでしょうか。そうそう、「梵(ブラフマン)」と「空」とは異なるということですね。仏教では、「梵(ブラフマン)」の位置に「空」を持ってくると思うのですが。
  おっしゃられることは、一般者の自己限定ということが、一方通行的に上から下に流れてくるような御説明になっていて、それはそれとしてわかるのですが、(少なくとも私の理解する)仏教の場合は、まさに文字通り「絶対に矛盾するもの」が「自己同一」だ、というように、もっと緊張関係が伴っているような感じがあります。微妙にちがうのかな。

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[コメント対象事項]

    西田哲学・空(法空・人空)
   
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[SC15-2-2] 投稿 求道者 | 2008年5月11日 (日)

西田哲学は遠い過去に少し読んだだけで、むしろその弟子だった三木清の「構想力の論理」に非常に集中しました。仏教の空の解釈は人によって多少ぶれるところがあるが、基本線は大差がないと思います。私自身は龍樹や空海、面白いところではダライラマの解釈を参照しますが内容は同じであり、実際にはぶれていないと感得しています。法空についてはそれでよいのですが、人空の意味がよく分かりませんね、西田哲学では実際に何を言おうとしているのでしょうか?

「梵(ブラフマン)」の位置に「空」を持ってくる・・・これは全くの誤認だと思います。空というのは認識作用、認識方法の概念であって、何かを指し示したりする名詞的概念ではないからです。だから法空はそれでよいのですが、人空がよく分からない。だから五真が空であることを言ったのかと思ったが、絶対無となれば状態を示す名詞になってしまうので、空から乖離してしまう。

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[SC15-2-2N] 西方法界|2008年5月12日(月)

西田哲学については、この次の「宗教の窓」([S32]になります)で触れる予定ですから、それからに致しましょう。

法空と人空は、[SC29-1N]で書きましたので、まずそちらをお読み下さい。

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