« [S17]指令中枢の欠陥(自我の統括性と欲望の束) | トップページ | [S19]宗教心・本願・如来からの呼び声(自我の問題性②) »

[S18]自我は、なぜいけないのか(自我の問題性①)

  この宗教の窓における最重要ポイントは、二つあります。一つは、[S5][S6]の台風12号の話です。これにより、認識中枢の欠陥を自覚し、かつ宇宙の真実相に迫るための、即非の論理を理解することができました。その意味で、これは一つの要でした。
  もう一つが、本稿[S18]と次稿[S19]です。指令中枢の欠陥の根本問題です。これをいかに納得できるかが、最難関の無我への宗教的実存の道筋に有形・無形の影響を与えることになると思われるからです。私が今まで妥協に妥協を重ねて、この宗教の窓の基本水準を『ズラシテ』来た(例えば、[S15]など)のか、また、何故に踏み台としての宗教の窓のようなものを書いているのかという根拠は、ひとえにここの説明をいかにわかりやすくすることができるかを考えてのことであったといっても過言ではありません。


  それ故、その[S15]でたどり着いたところから、この問題に取りかかります。

    自分   同一(ブッ続き・不可分)   無限の宇宙

 すなわち、自分と無限なる宇宙は、直截に言えば、ブッ続きのものである。別物ではない。そういうことでありました。
これが、妥協に妥協を重ねて、簡明化した宇宙の真実相、すなわち実相です。全宇宙の重々無尽の因縁が自分という、この一点に現れたもの、これが自分の正体です。我々は、無限なる宇宙と『一即一切、一切即一』の関係にある存在です。空間的・時間的にも、有機的立体的に入り組んだ宇宙的な無限のバランス点というものが、我々の正体です。

 他方、自我というものは、どういうものであったかというと、ここでは自我の第二の特徴である、『我』と『我でないもの』を区別するということ、および、第三の特徴である、自己中心性、この二つが重要です([S17]参照)。
 すなわち、自我は、自他を区別し、自分中心に思いをめぐらして、自分の得になるように指令を発する存在だということです。

 そこで、この自分の正体と自我を凝視して戴きたい。自我は、自分の外側にある自分に得になると思われるものごとをできるだけ、自分の内側にかき集めようとする。そして、あまり自分の内側においておきたくないものは、外側に掃き出そうとする。
 あるいは、言い方を変えれば、自我は自分の内側の利益のために、外側にあるものを徹底的に利用しようとする。その結果外側がどうなろうと、そんなことにはおかまいなしである。

このことの意味するところは、自我は、宇宙的な実相バランスを乱す方向に働くということです。自我は、実相とは正反対の方向に、実相を乱す方向で、実相からかけ離れていく方向で働くということです。それは、無限の宇宙に対する反逆です。既に見てきたように、自分というものの真実の正体は、無限なる宇宙までブッ続きのものであるのに、我々はその宇宙バランスをかき乱し、自分自身をそこなっているのです。なんという『盲目』なのだろうか。何という逆説なのだろうか。自己中心的であるのは、『道徳的に』、いけない、などという表面的・皮相的なことでは全くない。そんな生やさしいことではないわけです。そして、このことが、指令中枢の欠陥が、根本的であり、本質的なものであるという根源的な理由である、ということです。

 自我意識というものも、一種の宇宙的現象ですから、どうしてそのような宇宙の実相に反するようなものが、宇宙現象として成立、存在するのか。このことは、謎なのでしょうか。仏教でもキリスト教でも、そのことに対する説明はなされていないようです。

 ただ、私の理解では、問題なのは自我の特徴・機能のうちの、第三の特徴である自己中心性と第四の執着的性質である。これが、乗り越えられればよい。そして、第三の自己中心性が乗り超えられれば、第一の統括機能、第二の個物識別機能には意味内容の変化がおき、これは必要な機能として最終的には残されることになる、と理解しています。

  ----------------------------------------------------

  法華経に「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」(第4章信解品)、新約聖書には「放蕩息子の喩え」(ルカの福音書15章)という、たいへんよく似た話が載っている。
共通点だけ取りだしてみると、父の元を家出して離れた息子が、好き勝手を尽くした上で、最終的には父の元に帰ってくる、という話である。
この話における父とは、永遠のいのち(無限の宇宙)である。実相である。我々は、自我の性質故に、それと意識することなく実相を離れてしまっている。そして、自我の赴くままに好き勝手の限りを尽くすのである。しかし、やがてその非に気付き、最終的には父、すなわち実相のもとに戻ってくる、ということの喩えであると理解できる。あるがままの自分の正体も実相であるのだから、これは本来の自分の処に戻ってくる、本当の自分を見つけると理解してもよいだろう。エデンの園から、「追放」された、といっても同じことだ。要するに、実相を離れてしまうということだ。帰ってくるところまで含めれば、これが宗教の道筋というものを示していることになる。
 『南無阿弥陀仏』の「阿弥陀仏」とは、サンスクリット語の「アミターバ」の音写であり、元々は、「無限の光、永遠のいのち」という意味であったという。そして、『南無』とは、「帰る」ということ。したがって、『南無阿弥陀仏』とは、永遠のいのち、すなわち実相に帰る、ということであり、みんな同じ事を言っているに過ぎないと思う。

  ----------------------------------------------------

 実相の方向に向けて、我々が帰還の途につくのは理屈の上では簡単だ。『自我』から『無我』へ、転換する方向に転回すればよい。自分と外界(他者)との間にある境界線、すなわち、自分という枠をはずしさえすればよい。
  しかし、『自我』は、われわれの中枢だ、しかも一切の中枢を統括する強力な支配力だ。自我からみれば、これは逆説的な方向になる。一切の中枢機能を統括する中枢中の中枢が、自らを自己否定できるか、という問題である。従って、無我へ向けての実存はそうたやすいものではない。難中の難事である。至難のわざである。

 けれども、その意味を知的にでも理解しておけば、そのためのどれほどの助けになるかわからないと思う。
  のみならず、実は、我々自身の中には、『宗教心』というものが既に内在的に組み込まれており、『父のところから、家出した息子』が『帰還の途』につく内在的エネルギーというものが、すでに備わっているのである。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【宗教の窓】 をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

---------------------------------------------------------------                                   投稿されたコメント
---------------------------------------------------------------             

 -------------------------------------------------------------
              [コメント対象事項]

『自我』は、われわれの中枢だ、しかも一切の中枢を統括する強力な支配力だ。自我からみれば、これは逆説的な方向になる。一切の中枢機能を統括する中枢中の中枢が、自らを自己否定できるか、という問題である。従って、無我へ向けての実存はそうたやすいものではない。難中の難事である。至難のわざである。

 -------------------------------------------------------------
[SC18-1]

投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

    そうだね!

 -------------------------------------------------------------
              [コメント対象事項]

けれども、その意味を知的にでも理解しておけば、そのためのどれほどの助けになるかわからないと思う。

 -------------------------------------------------------------
[SC18-2]

投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

    でも修羅場はとうらないとね!

[SC18-2N]

投稿  西方法界  2007年8月15日

    承知しております。ただ、絶壁です。

 -------------------------------------------------------------
              [コメント対象事項]

のみならず、実は、我々自身の中には、『宗教心』というものが既に内在的に組み込まれており、『父のところから、家出した息子』が『帰還の途』につく内在的エネルギーというものが、すでに備わっているのである。

 -------------------------------------------------------------
[SC18-3]

投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

     そのそなわったものがどうでるかだね、究極の問題は。

[SC18-3N]

投稿  西方法界  2007年8月15日

          
こちらも、承知しております。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【宗教の窓】 をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

|

« [S17]指令中枢の欠陥(自我の統括性と欲望の束) | トップページ | [S19]宗教心・本願・如来からの呼び声(自我の問題性②) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« [S17]指令中枢の欠陥(自我の統括性と欲望の束) | トップページ | [S19]宗教心・本願・如来からの呼び声(自我の問題性②) »