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[S13]あなたの名は何というか(自分の正体)

  [S11]で、イエス・キリストの正体を取り上げた時に、宗教の肝心な局面で『名』が問題になるときは、太郎とか、花子という、いわゆる普通の名前が問題なのでは「ない」、常に問題になるのは、その『体』である、その正体が問題になっている、ということを書いた。
  その時キーワードは、『名は体を表す。』という頓知か、クイズのような形でそこを通り抜けたが、実はこれには更に深いわけがある。いつも、このような諺のようなことが通用する訳はない。ただ、これだけに限っては、特別な理由があると思う。

  それは、[S2]で述べたように、宗教上の一切の事柄は、『一番元の、一番論じようもないところ』から流出し、また、すべてが最終的にそこに収斂する。そして、宗教の道筋のオメガ=到達点は、その『一番元の、一番論じようもないところ』に自覚体験的に到達するすることであった。その『一番元の、一番論じようもないところ』とは、私たちの今ここの、一番根底にある事実であり、それは、『自分とは一体なにものなのか』ということであった。すなわち、『自分の正体』を体験的につきとめること、『自分の正体』にたどり着くこと、それが宗教では常に問題になっているのである。何のことを話していようとも、常にこのことが意識されているのである。従って、一見『名』のことを話していようと、『体』が問題になるのである。『名』のことを話し出しても、『名』などどうでもよい、『体』を見つめろ、という話になり、あるいは、『名』の話をきっかけにして、『体』の話に迫ろうとするのである。

 というわけで、『名』と『体』の話は、仏教でもキリスト教でも格好の話題となり、これを巡るたくさんの話がある。そこで、これまで述べてきたことを踏まえながら、『名』と『体』の話をいくつか拾ってみたい。
  また、そのことは、[S11]で、私がキリストの正体を論じたときの、インマヌエルという名とその意味に注目し、こだわった直観の舞台裏だといえばいえる。

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  このブログの読者で禅宗に触れた方なら、御存じの方も多いと思われる禅問答をまず取り上げよう。禅問答には、これに似たものが他にもいくつかある。

師の洞山が弟子の曹山を試しているのだろうか。

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洞山 : 闍梨(じゃり)の名は、什麼(なん)ぞ。

     《注》 「闍梨(じゃり)」は、お前さん

     お前さんの名は、何というのかい。

曹山 : 本寂(ほんじゃく)

     《注》 .本寂(ほんじゃく)は、曹山の実際の名前

    本寂(ほんじゃく)と申します。

洞山 : 向上(こうじょう)に更(さら)に道(い)うべし。

     《注》  「向上(こうじょう)に」は、『もっと次元を高くして』か
       「道(い)う」は、『言う』、と同じ。

   もっと次元の高いところで、さらに言ってみろ。

曹山 : 道(い)はじ。

    言うことはできません。

洞山 : 什麼(なん)としてか道(い)はざる。

    《注》  『什麼(なん)』は、『何』に同じ

   なんで、言うことはできないのか。

曹山 : 本寂と名づけず。

   本寂とは、言わないからです。

         -  -  -  -  -

禅問答は、一般に私などでは手に負えないものが多い。しかし、中にはいくつか自分ではわかったような気になるものが多少はある。こういうブログのような場に持ち出して、さもわかっているかのごとく振る舞うには、そういう中から厳選しなければ格好がつかない。
そういうものを選んだ上での、私なりの解説だ。

最初のところは、問題ないだろう。素直に、本寂(ほんじゃく)だ、と自分の名前をいった。これで、名前の話は終えているはずである。

ところが、そうしたら、洞山が、もっと高い次元の答え方をしろ、という。
そーら、おいでなさった。何やら、下心がある。 
それは、見え見えだが、はて、どういう下心だろうか。

私は、正式の参禅もしていないし、まして禅の師家でもない。
しかし、ここが見えればこの禅問答は一応わかった、といってよいのではないか、と思う。

ここで、即非の論理以下でやったことが、わかっていれば、納得がつく。
それがわかれば、正解といっていいのではなかろうか。このブログ読者は、もうおわかりだろう。
名前の話は既に済んでいるはずなのに、こうしつこく聞いてくるのは、もうお前の正体は、何なのか、わかっているなら、言ってみろ、というわけだ。
私の言葉で言うなら、《第二の意味の仏》、それが自分の正体だ。その中に《永遠のいのち=無限にして永遠なる宇宙》を宿し、映し出している、実相の自分だ。即非の論理の『三番目に出てくる A 』だ。
そして、そうであれば、いろいろの答え方があるだろう。おのずとそのことはわかっておるわい、ということを相手に感じさせるようなしかるべき答え方ができるであろう。
必ず、ここでの曹山と同じに答える必要はない。

自分の正体を言ってみろだと。
バカヤロー、そんなものが言葉で言えるわけはなかろう。
それを承知で、ヌケヌケと言ってみろ、という。
そんな奴は、自分の師匠だろうが何であろうが、ブンなぐってやれ。

しかし、曹山はたいへん紳士だ。しかも、素直だ。
真正面から、口ではいえん、と。

まあ、その通りだ。
もっとも、そこは次の洞山の次の一手を読んだ上での逆襲まで用意しての素直さなら、素直どころか、曹山もなかなかにくせ者だ。

他方、師の洞山は洞山で、曹山の意図は見抜いているのだろう。
しかし、ここでやめては結末として、ちょっと物足りない。
話を仕掛けた責任上、芝居は最後まで演じなければならない。
そこで、曹山にやられる、と百も承知の上で、曹山の思う壺へ自ら飛び込む。

    《独り言》  洞山は、さらに意地悪くつっこんだ、というような方向の書き方でもよいのだろう。しかし、私は本文のように見る方が面白いと思う。

「一体、そりゃ、どうして言えんのか。」

曹山は、この一言を待っていた。そして、用意していた答えを静かに放つ。
静かは静かだが、胸にグサリとささる強烈な決め手だ。

『 本寂とは、言わないからです。』

《第二の意味の仏》、三番目の A は、本寂という名前ではないんだと。

なるほど、トボケオッテ。しかし、さすがに、曹山、うまいこと答えよる。
私だったら、こうはいえない。

話は、行き着くところへ、行き着いた。
そこで、この問答は、終局となる。

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 ここまで書き上げて、これでほんまにいいのかいな、とちょっと不安になり、ネットで検索したら、秋月龍珉老師の解説が入っている記事が見つかった。
 見ると、引用場所が書いてある。『絶対無と場所』。なんだ、これ、読んでもってるわ。宗教情報の窓に書いておこう。そう、これ、いい本だ。これを読むと、宗教の窓の私の記事は、みんなここからの受け売りであることがよくわかる。私の手の内が全部わかる。こんなブログ、読む暇があったら、『絶対無と場所』を買ってきて、読んだほうがよっぽど利口だ。内容がはるかに上だし、なにせ、ほんものの師家なんだから。

 ちょうどいい。そこにある解説をそのまま、引用しておこう。(同書 P.212)

『 我々はこれまで「本寂」だと思っていた自我すなわち「適来(さきほど)の本寂」(個)のその上に「本寂といわぬもの」(超個)のあることを知らねばならぬ。その「向上(そのうえ)の本寂」が体験されてはじめて、真実の自己(無相の自己-無位の真人)が自覚される。「本寂の脱落(自我の否定)」を媒介にしてはじめて、「真箇(ほんとう)の本寂」(自己肯定)が可能になる。「A(適来の本寂)は非A(向上の不名本寂)である。だから、A(真箇の本寂)である。」 』

  《注》  『 』 内の 「」 は、鈴木大拙の引用のようである。
       あれー。全部、鈴木大拙からの引用なのかな???。

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   あれー。全部、鈴木大拙からの引用なのかな???。
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[SC13-1]
投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

秋月さんは大拙さんとかなり近かったですから、同じことと見てもいいくらいじゃないかとおもいます。

[SC13-1N] 投稿  西方法界  2007年8月15日

このように援護していただけると、たいへん助かります。ありがとうございました。

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