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[S26] 死と復活・・その一(宗教の核心)

 宗教的道筋のあらゆるところで、宗教的歩みを進める核心中の核心・根底中の根底は、『死と復活』ということなのではないかと思います。宗教上のあらゆる次元で、すなわち、大きな宗教的関門を突破する場合から、微細な宗教的問題を乗り越える場合にいたるまで、そして大きな関門を乗り越えても限りなく、これで終わりということなく、限りなく続く道筋の根底にあるものが、この『死と復活』ということなのではないかと思います。
 そして、また仏教の各派、キリスト教など、宗教宗派を超えて必ずその根底にあるものが、この『死と復活』ということではないかと思います。

 私は、宗教問題とは、人間の中枢の根源的本質的欠陥をどう超越するか、という問題の立て方をいたしました([S3]宗教を論ずる枠組み(中枢の欠陥)。そういう問題の立て方をしたことと、宗教の核心は「(中枢の)死と復活」にあるという理解とは表裏の関係にあります。
 人間の中枢の欠陥は認識中枢の欠陥と指令中枢の欠陥の二つに分けられますが、これらの欠陥ある中枢(分別知と自我)が二つながらに死ぬということ、自分が自分の中枢と完全に決別すること、これが(中枢の)『死』ということです。但し、中枢の『死』の中で、中枢の『死』を通して、我々は『復活』する、それまで想像もしなかったような異なる地平に蘇る(パラダイムシフト)ということが必ず伴います。
 
 このブログは、言語化・思想化した宗教を扱うとして開始しました([S1] 参照 )が、中枢を使って、その中枢自身の欠陥を超越しようというあらゆる営為は、ことごとくどこかで行き詰まります。何度、行き詰まろうと、中枢は自らの力で、自分自身、すなわち中枢自身の欠陥を超越しようと試みます。しかし、椅子に腰掛けて、腰掛けた自分自身を持ち上げることができないのと同様に、根源的本質的欠陥をもつ中枢自身が、自らの力でその根源的本質的欠陥を超越することはできません。
 
 しかし、「それ相当の経過と手続を経て」中枢の力が尽き果てたとき、中枢が自ら自分自身によって立つことをあきらめたとき、我々が自分の中枢によって立つことを手放したとき、すなわち『中枢が死んだ』とき、不思議なことに中枢の欠陥が超越される、というたいへん矛盾に満ちた構造になっているようです。これが根底にある宗教的真理なのではないかと思います。
  徹頭徹尾、完膚無きまで、自己の中枢と決別することによってのみ、中枢の欠陥は超越される。これは、なんという逆説でしょうか。中枢の立場に立ってみれば、なんという悲劇的なつらい惨めな結末でしょうか。中枢の死を通して、中枢の欠陥が超越され、そこから新たに生まれ変わって、蘇ってくる、復活してくる。従って、我々の中枢は最後まで死力を尽くしてこれに抵抗します。この中枢の死に物狂いの抵抗と自分の奥深くからわき上がる「如来からの呼び声=宗教心」のせめぎ合い、その中で、最終的に中枢の力が尽きたとき、宗教上のもっともドラマチックな『死と復活』が自分の身の上に現象するのであると考えられます。この何とも言い難い矛盾に満ちた不思議な逆説、これが『死と復活』ということです。私には、あらゆる宗教的資料がこの『死と復活』という事実を指し示している、と思われます。ここが要点、核心なのだと。
 
  しかし、これについて述べることは、誰でもがよく知っている『常識』に繰り返し触れることであり、全く何の新味もありません。多少私(わたくし)的な味付けが加わるかもしれない程度です。その意味で、まず最初に、本稿は、そういう「ありふれた」「退屈な」材料にふれるだけであり、それ以外は何も出てこないということをお断りしておきます。この稿で私が書くことは、どこを見てもみな誰もがよく知っていることであって、ある意味では、ただそれらはすべて『死と復活』ということを指し示しているのではないか、と指摘するだけです。しかし、一言で言えば、私は宗教とはこれに尽きると理解しております。私にとっては、ここが常に古くして繰り返し繰り返し立ち現れる新しい問題です。
 
 仏教においては、般若が根底の根底であり、華厳はその上に咲く自内証的菩薩道の道筋、すべてたどり着き、仏の立場から全体を眺めるのが法華ではないかと理解しております。そして、「死と復活」は、このうちの根底の根底である般若の核心であると考えます。但し、これはキリスト教や、禅宗以外の仏教他派をも眺めながら、それらを包括する抽象レベルで捉えておりますので、逆に禅宗も含め、どの宗教宗派の中心的教義・理解とも具体的にはズレがある、中心的教義・理解をズバリ言っていないではないかといえば、そういうことになるかとも思います。
 ただ、これを私流に言うと、『中枢の力が尽き果て、中枢が自ら自分自身によって立つことをあきらめる』というのは、難中の難事です。中枢の支配力が消滅することが要点なのですから、ここでは自分の全存在が賭けられなければなりません。自分の全存在が賭かっていなければ、中枢の死には至りません。その経過は、当人の性格により、置かれた歴史的・文化的・個人的状況により、微妙な違いを呈すると思われます。私は、宗教宗派が分かれる根底の根拠をここに求めたいと思います。と同時に、宗教の本質は、そういう違いを捨象した抽象度のところで捉えてみたいと思っております。そして、私流にいえば、それが中枢の「死と復活」ということであります。これは、「プロフィール」にも書いておきましたように、私の大きな傾向性によるのかもしれません。私の中には、真理は一つ、共通である、という前提があると思われます。また、自分の好みとは別に、各宗教宗派を生きた真摯な宗教者への尊敬と信頼があると思われます。

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[SC26-1] 投稿 求道者 | 2008年4月30日 (木)

非常にすばらしい提案です。まったく悟りということの本質を問う始まりです。ただよく正確に解釈すると、中枢自体が死ぬ、と言うことではないようです。そうではなくて無明が消滅し、迷うことが無くなり、古い無明を保持したものとしての我が消滅し、その新たな我は梵と何の矛盾もなく一体であり、従ってその状態とは個我とは表現できないということでしょう。

      
[SC26-1N] 西方法界|2008年5月11日(日)

  評価を戴き、ありがとうございます。求道者様は、[S31]のコメント([SC31-1])で、《実は世界中の主要な宗教はほぼ同じ原理に基づいているのが読み取れる。》と言われております。そちらではなく、こちらで取り上げさせていただいて恐縮ですが、この辺の感覚は共通のものを感じております。ただ、私は仏教とキリスト教の間で見ているに過ぎません。他はよく知らないということです。
 
  そのような認識に立った上で、捉え方の抽象度を自宗の教義・理解より上げてしまうことは、ある意味後退のようにも思えますが、私はそれには色々なプラスの意味もあるかと思っております。例えば、一つは、自宗の中で迷ったり、横道に逸れないで済むという効用、他宗に学ぶことができるという効用(特に自宗でわかりにくいことが他宗でわかったりする)、自分の理解の確認を他宗でとれる、自宗の長所・短所がわかる等々、です。
 
  「中枢の死」という言葉の用法は、本分上の表現(悟った立場からどう見えるか)というより、修証辺の表現(修行中=超越前にはどう見えるか)の色彩の強いもので、内容的理解においてはそう違わないように思われます。ただ、私が中枢の死という場合には、『中枢が自己支配を手放す』という意味であり、そこに力点があります。その結果どうなるかも重要なことですが、力点は前者にあります。

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[SC26-2]  投稿: 和真  | 2009年6月 2日 (火)

私には「宗教の核心」などという大それたことは分かりませんが、
空思想とか禅における「大死」とは言語否定ではないのでしょうか。
言語がよって仮に分節され世界から、言語を否定した無分節の世界に行く、
ということを「大死」と表現したのでしょう。

 仮→空→中道

仮の世界から空に入り仮の世界に戻ってくると、中道の世界が開ける。
私はそのように理解していまして、その空(無分節・無分別)に入ることを
「大死」と言い、中道の世界が復活でないのでしょうか。
空思想からの私の見解を述べさせていただきました。

 無門関:大死一番絶後に甦る
 中 論:縁起なるもの、それをわれわれは空性と呼ぶ。
     それは仮設であり中道である。

[SC26-2-N]  西方法界| 2009年6月 2日 (火)

先だっては、突然お願いに上がり、たいへん御厚意を頂戴し、ありがとうございました。
下記において、使わせて戴いております。
また、こうして、投稿のコメントを戴き、嬉しい限りです。
今後とも、御厚誼のほど、お願いいたします。

[注]
  和真さんは、カテゴリー『窓は空、空は窓』の中の、

[M22] 絶対者は自己を無化する(著者・・和真[かずま]さん)
http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-501e.html

をお書きになられた御本人です。

ところで、実は、ちょうどこの上にある [S26-1] のコメントの主、求道者さん。
この人、キリスト教やヒンズー教のこともよく知っていらっしゃって、
一年前に、初めは、ヒンズー教を使ってアプローチしてきたんですが、
その後は仏教用語で話をするという妙な経緯。
今も、次々と名前を変えて、このブログに入り込んでます。

で、ブログ外でもやりとりしましたので、ここにあったかどうか忘れてしまったんですが、
この人、ここでは調子いいこと言ってますが、
他のところで、お前の『空』の捉え方は全く甘いと、コテンパンにやられまして、

・・・・なるほど、話を聞いていると、もっともなんですね。
今だから言えることなんですが(以下、求道者さんの受け売り)、
般若心経で、
『・・・照見五蘊皆空、度一切苦厄・・・』

観自在菩薩が空じたのは、「五蘊」でしょ、
「五蘊」て何・・・・、「色受想行識」でしょ。
「色」ってなんのこと
「受」ってなんのこと
「想」ってなんのこと
「行」ってなんのこと
「識」ってなんのこと

これ、いっぺんに空じられるんじゃないでしょ。
順番あるんでしょ。
お釈迦さんがそう言ってんですよ。
わかってる・・・・どういう順番か。

というような次第で、
阿含経典6巻(増谷訳)を読ませられちゃいまして。

畜生、と思ってたんですが、やっていくうちに深く納得しちゃったんですね。

それで、私もすっかり洗脳されちゃって、

・・・・というか、
私も読んでみてびっくりしたんですが、
阿含経典は、法句経などとは、全然感じが違います。
理論的で、また大乗仏典と異なり、
小説を読むように平易です。
(但し、背後に隠されたむずかしさがある)

それで、内容が、般若心経を釈尊自身が解説しているような感があるんですね。

・・・で、気になる順序なんですが、

空ずる順序は
 ①色②識③行④受想
です。
ちょっと、読みの解釈が入りますが、
悟りの諸段階を釈尊自身が説法しているので、
それとの関連で私はそう読みました。

日本の大乗仏教内にいると、こんな話誰もしませんでしょ。
私、阿含経典を読み終えたとき、怒りを覚えました。

何で、「空」は大乗仏教の根幹となる問題なのに、
どうして、こんなに大切なことの説明・解説がどこにもされていないのかって・・。

おそらく、和真さんも読まれたら、同じ感想を抱かれると思うんですが、
別に、押しつけではありません。

中論、いまやっている最中で、御指摘のところ、勉強しておきます。

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[SC26-3-1] 投稿: 無着転じて龍樹 | 2009年6月 2日 (火)

面白いね。ただ私が色んな名前を使っているろいっても二度か三度だけで、他のは私ではないので気をつけて読んで下さいね、最初は求道者、真ん中で何か使ったような気もするが思い出せない、最後は無着。ただしこれは私を示す名前ではなく、西方殿の状態を示して命名しただけのことだね。私は決して中傷もしないし、「コテンパン」は受け取り方の問題だからね。

話を本論に戻すと、その通り色、識、行、想が悟りの行程の順番と示されているように見える、つまり

空無辺、識無辺、無所有、非想非非想、想受滅であるが、これを如何に解釈できるかが鍵であり、謎解きである。

釈迦は表面上は、色、受、想、行、識に対応させている、つまり、一切の色対想を滅した境地、一切の受対想を滅した境地、一切の想対想を滅した境地、一切の行対想を滅した境地、一切の識対想を滅した境地となっていて、実は「想」が鍵になっているのが基本であることを見抜ければその理由が見えてくる。

悟りの五段階ではこれが重要なのだが、だからこそ最後が「想受滅」であり、「想」がくせ者である。もしそうでなければ最後は「識受滅」としなければならないからである。

この理由は「識」は滅さないし、滅せない、からである。「色」もそうであることに驚かなければならない!!

だから釈迦、龍樹、中観、空と縁起とは、全肯定の理論であり、この「宇宙は一切が神の創造したものであり、その現れである」というキリスト教を含めすべての他宗教との一致点にランディングするのである。

だから「二つの無辺」を上手に解読できなければならない、つまり無辺とは「空じる結果として、その根底に遍満する何かで満ちている」と言う意味であり、続く三行程とはまったく性格が異なる。そういう「想」を獲得することであり、言葉を変えれば別の有(存在性)の認識を獲得することである。

そしてその後に続く三つは「想自体を空じる行程」であり、解釈は少々難しいが言葉通りの意味であり、「二つの無遍」よりは解釈は容易である。つまり中心課題は「想」、つまり「概念」ということである。これを概念、想を空じることとして、極論化してしまった大家が「無着」、つまりアサンガ殿である。

したがって釈尊の悟りの行程の鍵は「識と色は変容」しどこまで行って滅せないし、滅さない、ということである。

再び言うが、ここで語れる色と識は以前の色と識とは異なり、我々が通常の状態で認識する色と識とは異なる、とうことである。これを認識することが最難関であり、最初の悟りであるから「証知」と言われる。ここを通過できれば後はそれより容易である。

釈迦は微に入り細に入り間違いが無く綿密であり、簡単な言葉の中に「宇宙全体」を包含するぐらいのことはお手のものである。

[SC26-3-1-N]  西方法界| 2009年6月 2日 (火)

ここは、まだなんともわかりません。

[SC26-3-2] 投稿: 龍樹 | 2009年6月 3日 (水)

いや申し訳ない、自分の見解を述べて、それが相手に通じないならば、それは私の落ち度であると常々思っている。

西方殿も一度は研究した部分であるのだから、どの点が分からないのかを言われることが西方殿にも大事なことではあるのだが?

確かに釈迦の言葉は簡単に書いているが、恐ろしく奥が深く、「どこからそんな解釈ができるのか?」と、たぶん拒絶反応の方が勝つのでしょう。

実際には、釈迦のこの悟りの説明の部分は、他の部分と組み合わせることでまだまだ深くなるように書かれているからである。
それが可能なのは釈迦の緻密な言語構成力と論理力があるからで矛盾のない大系が出来上がる。
私もこれは初めての人には決して説かない内容だから。即座に「分かった」と答える人がいたら、逆にその人を疑う。

[SC26-3-2-N] 西方法界| 2009年6月 3日 (水)

あちこち、問題が広がりすぎて、とにかく手に負えません。ここは、以前からわからなかったところで、まだ進展がありません。
すなわち、今問題にするタイミングではないといいますか、問題にされても私の方に条件が整っていないので、展開の仕様がありません。
私も、忘れている訳ではありませんので、時節因縁が熟するのを待って下さい。

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この下の部分は、編集の上、既に掲載済みです。

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