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[M6] 出発点・立脚点の明確化

[M1] のカテゴリーの性格・定義づけを詳細に実質化し、
このカテゴリーの出発点、ないし立脚点をまず、明らかに致します。

このカテゴリーでは、南伝仏教でいう「空無辺処」(法相宗唯識でいう「世第一法」)から、「識無辺処」(法相宗唯識でいう「通達位」・禅宗でいう大死底)へと、如何に跳び込むかを扱います。

私自身がブログの進行と同時にそれを試みているのだと御理解下さい。

すなわち、「空無辺処」(法相宗唯識でいう「世第一法」)を出発点Aと致します。

跳び込む先の「識無辺処」(法相宗唯識でいう「通達位」)が出発点Bになります。
出発点Bは、本来到達点Bなのですが、なぜ出発点Bというかについては、後ほど触れます。

跳び込む先の出発点B「識無辺処」(法相宗唯識でいう「通達位」)は、禅宗では一般に大死底と呼ばれるところ、ないしそれ以降も含む見性底の世界である、と見ます。

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この段落は、上記記載の参考資料です。(これらは、ネット上の検索でも出てきます)

阿含経典 第6巻(増谷訳・筑摩書房) p.94 からの私のノート

八解脱

①~③ 省略

④ 空無辺処
       すべての色想を克服
       有対想を超越し、さまざまの想を心に掛けることなくして、
       これが無辺の空である、と認識する。
      
⑤ 識無辺処
       すべての空無辺処を超越して、
       これが無辺の識なるものである、と認識する。
      
⑥ 無所有処
       すべての識無辺処を超越して
       何ものもなし(と認識する)。

⑦ 非想非非想処
       すべての識所有処を超越
      
⑧ 想受滅・・・想・受を滅する
       すべての非想非非想処を超越
      
       [注] 一方で、『八』解脱とされるので、私には第四禅(省略記述した部分)と
             空無辺処の関係がはっきりしていない。
          初禅~第四禅と空無辺処以降を加えると、『九』になってしまう。

凡夫が凡夫に呼びかける唯識(太田久紀著・大法輪閣)p.496 からの私のノート

     加行位
       所取空と観ず・印す
       能取空と観ず・印す
       二取空(所取空+能取空)と観ず・印す(世第一法・・上記二つが改めて、
                                                                再認識されるところ)

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空に「法空」と「人空」があります。これは諸法無我といってもよいと思います。
「法空」は、自分以外の現象・存在が「空」=自性がない=無我である、ということ。
「人空」は、自分も「空」=自性がない=無我である、ということ。

禅宗では、空は通常「人空」をいい、しかも、自らが空になりきることを求められます。

ここから先が重要です。
私のように出発点Aにいる人は、見性体験がありません。すなわち、「人空」を体験的に証していません。
この地平での修証辺上からの見方・見え方(自分から見た見方・見え方)は、「法空」に関しては『宗教の窓』の[S5]~[S7]で論じました。
自分以外の現象・存在が空であること(=無我であること=自性がないこと)は、打定一片に至らず、主客が残っている地平でも観ずることができます。

しかし、「人空」に関しては、その理解を観念的に自分に当てはめてみるというところに留まっているということになります。
しかし、それにより自分も無我なる存在であって、自分の正体はこの肉体の範囲内のものではなく、宇宙全体なのだ、というところまで観念的な理解が及んでおります。
従って、主観的に自我的であることは、宇宙的道理に反するのであり、主観的な意味でも自分の精神は無我を志向しなければならない、というところまで理解が到いております(『宗教の窓』の[S18]以下)。

このような地平を出発点Aと致します。

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出発点Bは、本来目指すべき到達点です。すなわち、到達点Bとすべきところです。
しかし、出発点Aから到達点Bへは連続した通路は存在しません。見性体験によるのが正統な道筋です。

しかし、私は長年月出発点Aから到達点Bへ進むことができないでおりました。
出発点Aの地平での参究は既に限界に達しております。

出発点Aの地平でどうせ埒が明かない(見性体験なしということ)のであれば、『見立てた到達点Bの本分上のイメージ』に自分を合わせるようにイメージトレーニングし、自己暗示的に到達点Bの本分上のイメージになりきっていくことにエネルギーを使っていく方がよいのではないか、そう考えたのが、この『窓は空・空は窓』のカテゴリーによる、無謀とも思える企図に至った根本的な理由になります。

そこで、その『見立てた到達点Bの本分上のイメージ』とは何であるかというと、基本的には「カテゴリーの前置き・性格」として述べておきましたように、「自分」と「世界」の大きさが同じになるという地平です。それは、さらにより立ち入った内容も伴うものですが、それは今後に触れていくこととします。

しかし、ここには単にそれだけではなく、半分くらいはそれで何とかなりそうに思える実質的な背景・根拠が私には形成されつつあったということも申し述べておきます。

まず、第一点は『到達点Bの本分上のイメージ』が見立てとしてであれ、おぼろげながら形成されてきており、誤りもあるでしょうが、私の内面はこのような企図を試みてみようと思える程には至っていたということです。

第一点を更に細かく見ますと、宗教の窓の[S2]で、自分の根底の正体と世界の初めの問題が同一問題である、ということを書いております。
また、見性体験が「天地いっぱいの自己」になることであり、自己と世界が一枚になる、ということは、よく耳にすることです。無門関第一則の無門和尚の解説には「打成一片」とあります。古則でも、「自分と世界が同じ大きさ」というようなものに出会います。

さらに、安心の問題・大悲心の問題([S25])その他いくつかの大きな問題を突き詰めていくと、どれもがみな「自分」と「世界」の大きさが同じになりさえすれば、『ある意味で』すんなり解決がつく、ということを指し示している、と感じるようになっていたことがあげられます。

第二点は、私を導いて下さった方が現れ、そこでのやりとりの中でこの問題が示され、おぼろげながら形成されていた私の見立てに、より強力な動機が付与されたことです。

第三点は、同じく上記やりとりの中で、空ずる対象は五蘊(色受想行識)であるということ、出発点Aの空無辺処の地平は既に色(物質的現象)を空じている地平であること、そして到達点Bの識無辺処はその言葉通りに、識が空じられた地平なのであるから、到達点Bに至るために空じなければならない対象は識であるということを明確に押さえたことです。

第四点は、その空じる対象としての識(五蘊における識)だということ、したがって、『自分の頭の中に映ずることは一切戯論として相手にしないこと』、その意味で頭の中が一切カラッポになることという理解に達したことです。

第五点は、これに唯識、ないし華厳の、「三界は唯識の所現である」という理解を重ね合わせたこと。

第六点は、こうして実際に意識の内容を一切空白にしてじっと世界を眺めたとき、自分のサイズと世界のサイズが同一である、という感覚を実際に感じたことです。但し、これは、それほど強烈なものではなく、たいへん微妙な感じで、そっと壊さないように注意しながら五日間くらい静かに味わったというような経緯でした。そして、その期間が経過すると共に、もういいや、という平常の気持ちに戻りました。従って、これは果たしてどの程度本物なのか、それとも自分の勘違いで、なんとなくそんな気がしたのか、今以て定かではありません。ただ、そういうことがあったというだけです。

そういう中で、とにかく到達点Bを、強引に『出発点B』に見立ててしまって、『窓は空・空は窓』のカテゴリーの性格づけで述べたようなことを思ったということであります。

従って、このカテゴリーは、実際は『出発点A』にいる人が、『出発点B』にいるふりをして、自分と世界のサイズが同じ世界に入ってしまおうということです。
そして、いろいろまちがえたり、『ふり』をしている地(じ)が出たりするかもしれませんが、そうしているうちに、それが本物になってしまえばもうけものだという発想で、いわばイメージトレーニング的に、自己暗示的に進めていくカテゴリーです。

その過程では、「背伸び」をするわけですから、カテゴリーの性格づけでも書いておきましたように、「増上慢」の誹りはまぬがれませんが、でも勇気を出してとにかく『出発点B』の世界、自分のサイズと世界のサイズが同一である世界に突入してしまえ、という試みをこれからしていくことになります。

これが、このカテゴリーの基本的スタンスということになります。

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                          投稿されたコメント
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[MC6-1] 投稿: 求道者 | 2011年5月 9日

そう、必ず釈迦の基本に立ち戻って整理する事。仏教の基本はすべて釈迦自身の言葉と解説の中にある。

釈迦の教えの目標は「解脱」「悟り」であり、解脱への障害物は、「無明」であり、「無明」を解除する鍵は「四正諦」であり、それに至る道、修練法は「八正道」にある。

般若心経を鵜呑みにするなかれ、般若心経は、障害物を超えた壁の向こうの世界を描くなり。我等道にある者に必要なるは、その壁を越える秘策を探求する事にあり、釈迦はそれを説くなり。

壁を超えるがためには、壁が何であり、どういうものであり、その性質と構造をまず知らねば、超える方法に至らず。なんとなれば、「認識せざるもの」、「知らぬもの」は超える事ができないからである。従って「四正諦」は最初の壁の認識であり、「八正道」とは超えるがための秘策である。

そして八正道の最初に「正見」があり、正しく壁を見ることにある。そしてその最後が、「正定」であり、それでこそ正しく瞑想することができ、迷走せずに正しく道を歩み、目標に至る事ができる。

これをイエスは、「道を知る者は、迷わない、迷うのは道を知らなぬが故である」と説いたのである。まず道、正法を知る事である。

道を知らぬとは、暗がりの中を歩く事である、「明かりが無い」暗中を歩くので、これを「無明」と称すが、誰がこのことを正しく理解せりや。

無明、無明、汝等の敵は無明なり。

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             以下は、投稿文のみで、記載が重複します。
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コメント

そう、必ず釈迦の基本に立ち戻って整理する事。仏教の基本はすべて釈迦自身の言葉と解説の中にある。

釈迦の教えの目標は「解脱」「悟り」であり、解脱への障害物は、「無明」あり、「無明」を解除する鍵は「四正諦」であり、それに至る道、修練法は「八正道」にある。

般若心経を鵜呑みにするなかれ、般若心経は、障害物を超えた壁の向こうの世界を描くなり。我等道にある者に必要なるは、その壁を越える秘策を探求する事にあり、釈迦はそれを説くなり。

壁を超えるがためには、壁が何であり、どういうものであり、その性質と構造をまず知らねば、超える方法に至らず。なんとなれば、「認識せざるもの」、「知らぬもの」は超える事ができないからである。従って「四正諦」は最初の壁の認識であり、「八正道」とは超えるがための秘策である。

そして八正道の最初に「正見」があり、正しく壁を見ることにある。そしてその最後が、「正定」であり、それでこそ正しく瞑想することができ、迷走せずに正しく道を歩み、目標に至る事ができる。

これをイエスは、「道を知る者は、迷わない、迷うのは道を知らなぬが故である」と説いたのである。まず道、正法を知る事である。

道を知らぬとは、暗がりの中を歩く事である、「明かりが無い」暗中を歩くので、これを「無明」と称すが、誰がこのことを正しく理解せりや。

無明、無明、汝等の敵は無明なり。

投稿: 求道者 | 2011年5月 9日 (月) 10時10分

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