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[S19]宗教心・本願・如来からの呼び声(自我の問題性②)

   自我の問題性(根源的本質的欠陥)というのは、それが実相遊離的に、実相乖離的に、あるいは実相攪乱的に働くということでありました。自我が自己中心的に働くということは、そういう意味を本来的に有している、ということであり、それが、前稿での結論でした。

 私は、自我を前提とする生き方を、自我的自己実現と呼ぶのですが、この自我的自己実現という方向での生き方は、意識されることなくして、それ自体が実相遊離的、実相乖離的、実相攪乱的である、ということになります。

 時として、よく取り上げられる例ですが、いわゆる世俗的成功をおさめた人、希にしかいないであろうが、自我的自己実現を完璧なくらいに成し遂げた人が、その時点で人生に対してどういう実感を持つかをみてみたいと思います。

例えば、アメリカの石油王ロックフェラーのような巨大な財をなした実業家のような場合を想像して戴きたい。彼はアメリカン・ドリームの、これほどの体現者はいないというような人であます。彼は、無慈悲な営業戦術で、世界最大の石油会社を育て上げ、個人の資産を蓄積しました。

 彼、ないし、彼らは、道元さんがしみじみと述べているような『受けがたき人身(にんしん)をいまここに受く。』というような、何とも言いえないほどの存在感・充足感のこめられた感慨を懐いたでしょうか。

 私には、こういった存在感・充足感に満ちた深い感慨の声は、むしろ自我的自己実現という方向とは正反対の方向(これを無我的自己超越と呼ぶ)から、聞えてきます。そして、首尾よく、自我的自己実現を成し遂げた人からは、そこはかとなく漂う空虚感・寂寞感のようなものが感じ取られます。事実、ロックフェラーは、結果として、最後には、その巨額の財を公の慈善事業に使うべく、財団を作りそこに注ぎ込んでしまいます。

 一体、この逆説的な事態はどこから起きてくるのでしょうか。私は、これを自我の実相遊離性、実相乖離性から、根拠づけ、説明することができると思います。
  巨額の財をため込んだロックフェラー個人のところ、それはロックフェラーの本当の正体のところではないのです。

   我々の自己の正体というのは、第二の意味の仏であり、簡略な認識をすれば、永遠のいのち。無限の宇宙とブッ続きなのでありました。台風12号と同じようにです([S5][S6]参照)。自我が勝手に設定している自分という枠を超えて、その内外ということに囚われずに、その全体を豊かなもの、幸せなものにしていかなければ、真の意味での自分の存在感も充足感も湧き出してこないように我々は『できている』のです。
  なぜならば、それが我々の実相であるからです。永遠のいのち、無限の宇宙とブッ続きである、というのが我々の自己の正体であるからです。
  これが、大乗仏教の大乗性(大乗=大きな乗り物)の一番根底にある根拠です。慈悲というのは、本当の意味での自己、実相としての自己を大切にするということなのです。私は、このように思っております。

  ただ、残念なことに、あるいは悲劇的なことに、我々の認識中枢・指令中枢の根源的・本質的欠陥故に、我々にはそれが見えません。我々は、方向において、実相とは逆さまのことを見てしまいます。
  この逆説故に、我々は、『眼くら』にならなければなりません。『愚か』にならなければなりません。小賢しくあってはなりません。一度は根本的な自己否定をしなければなりません。一度は死ななければなりません。認識中枢と指令中枢において、死ななければなりません。

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   さて、自我に支配され、実相遊離的、実相乖離的、実相攪乱的に生きた場合、すなわち、自我的自己実現の方向で生きた場合、我々の自己の中にはどういうことが起きるのでしょうか。
 実相における自己というのは、如、すなわち『あるがままの自分』です。自我が実相遊離的、実相乖離的、実相攪乱的に働くということは、自分がこの『あるがままの自分』から引き裂かれ、引き離されるということを意味します。

  [S17]であげたマイナスの意味での人間の感情、すなわち、不平・不満・不安・絶望・恐怖・焦燥・嫉妬・憎しみ、その他いろいろあると思いますが、これらの感情というものは、『根本的には、すなわち一番深い意味においては』、自分が『あるがままの自分』から引き裂かれ、引き離されるときに引き起こされる苦痛の思いなのではないか、と私は考えています。
 そして、その逆のプラスの意味での感情、すなわち、安心、満足、充足、希望、喜び、その他いろいろあるでしょうが、これらの感情は自分が『実相調和的・実相融和的』であり、『あるがままの自分』に調和しているとき、あるいは、そのように働き出した時に引き起こされる感情なのではないか、と思います。

 話を進めましょう。自我の支配により、実相遊離的、実相乖離的、実相攪乱的方向に動いた場合、その程度に応じて、『あるがままの自分』は上記のような苦しみの中に置かれます。意識の表面は自我に支配されているから、それは意識下の無意識層に蓄積していくのかも知れません。『あるがままの自分』は、潜在意識の中で苦しみ、心の奥深いところで、密かに『あるがままの自分でありたいという願い』『実相のままでありたいという願い』を発するようになります。それは、身勝手な自我的支配によってもたらされる苦悩の牢獄の中で、自我の支配から解放された地平(極楽浄土)に生まれ変わりたいという願いであります。

《独り言》 例えば、この後の[S21]評価・自尊心・面子、でも取り上げるように、我々が自分のプライドや面子(メンツ)あるいは、他からの自己評価に囚われ、深い精神的苦悩に陥っている場合を考えていただきたい。こういう局面というのは、ちょうど、あの無門関第35則『倩女離魂』のお話さながらに、自我が『あるがままの自分』を苦しめている、そして『あるがままの自分』は、そういう自我の支配から逃れたいという具合に密かに願っている、という構造を、自分の心の奥底に感じることはないでしょうか。

 この願いこそが、『宗教心』と呼ばれるものではないかと思われます。これが我々の中に組み込まれている内在的エネルギーだと思います。
そして、これは通常いわれる『本願』の意味とは表面的には異なりますが、この願いこそをまずは、『本願』と呼んでいいのではないか、と私は思っています。この意味での『本願』が原型または母胎となり、それが成長発展して完成したものが、通常いわれる『弥陀の本願』なのではないか、というように考えられます。
 また、そうだとすれば、これは『実相からの呼び声』、『永遠のいのちからの呼び声』『如来からの呼び声』ともいえるのではないでしょうか。

 我々の本願は、あるいは』『如来からの呼び声』は、我々に実相に帰還することを呼びかけます。

 この意味での母胎としての『本願』、あるいは『如来からの呼び声』というものは、新訳聖書・ヨハネの黙示録3章20節以下には、こう表現されています。

     見よ、わたし(イエス・キリスト)は、戸口に立って(戸を)たたいている。
    だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
    わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
    彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。

そして、その呼び声を聞いて、我々が『戸を開け』るとき、それが道元さんのいう『我、いま、遭いがたき仏法に遭う』の時節因縁なのではないでしょうか。

《独り言》
   西田幾太郎は『 宗教心というのは我々の自己から起こるのではなくして、
    神又は仏の呼び声である。』とする。
   上記の私の記載との関連で言えば、ここでいう『我々の自己』という言葉を西田先
  生はどういう意味で使っているかが明確にならないと、私の述べたことが、西田先生
  と食い違うのか、矛盾はないのかが、はっきりしない。私の場合は、宗教心=(私の
  いう意味での)本願を発する主体は、自我の支配に翻弄される実相としての自己、と
  いう意味で使っている。西田先生が、『我々の自己』という場合の自己の中に、その
  ような意味の自己が含まれていないのならば(私はそう理解している)=自我が
  とらえる常識的な意味での自己という意味ならば、私と西田先生のいわれること
  との間には、食い違いがない。しかし、含まれるというのであれば、ちがうことを
  言っているということになる。


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    西田幾太郎は『 宗教心というのは我々の自己から起こるのではなくして、
    神又は仏の呼び声である。』とする。

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[SC19-1]
投稿 洲崎 清 | 2007年8月14日 (火)

   道元なら、ほとけの家に投げかけて、、、というところだね。
   
   至道無難なら、いきながら死ぬ、というところだね。
   そして、おもいのままなすぞよき、だ。

[SC19-1N] 投稿  西方法界  2007年8月15日  

   はい、そうですね。いずれ、「宗教における死と復活」というタイトルで、
   その辺を取り上げる予定でおります。

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[コメント対象事項]

自我が問題なのか。
   
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[SC19-2] 投稿 求道者 | 2008年5月 1日 (木)

再度申し上げると、自我が悪いのではなく、また自我を否定、自己否定が正しい解釈ではない。正確に言うと、現象界とその一部である肉体に沈浸しそれを実相と誤認し、その幻影であるマーヤの中に生きる自我の状態を変性することである。そういった迷いから解かれた自我は元来曇りのない真我と一体となり自己矛盾無くこの現世界でも活動できるのである。自我自体は真我の現世界への投射に過ぎず投影である。真我と自我の間に曇りがなければその投影は真我をまっすぐに映し矛盾がない。

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[SC19-2N] 西方法界|2008年5月9日(金)

  自我といっても、心の中の問題ですから捉えどころのないものですし、異なる宗教の教義概念とそれが指し示すものとの微妙な関係はあまり議論しても仕方がないので、これはこのままにしておきましょう。

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