« [S3] 宗教を論ずる枠組み(中枢の欠陥・・・無明・煩悩・原罪) | トップページ | [S5]一即一切・一切即一と即非の論理(1) »

[S4]認識中枢の根源的・本質的欠陥(分別知・認識の木)

  [S3]で宗教を論ずる枠組みができたところで、今回から早速、そのうちの①『 認識中枢の根源的・本質的欠陥 』の問題に入ることにする。

   この、我々の『認識中枢に根源的・本質的欠陥がある』という事実は、我々において認識されたものではなく、超越者において始めて認識され、我々に示されたものである。
  本来的機能それ自体に欠陥をかかえた認識中枢は、自らに欠陥があるということ、そしてその欠陥とはいかなるものであるか、ということを自ら認識することはできない。
  しかも、ここが重要なのであるが、我々の欠陥のある認識中枢は、超越者によってそのことが示されてさえも、なおその真の意味を『通常は容易には』認識することができない。これは、他に類例をみない、極めて特殊固有の、ある意味では致命的といっていい問題をはらんでいる。そうであるからこそ、問題は、まさに『根源的・本質的』なのである。そして、そのことが、この問題の根本的解決のために、『超越』が必要である、ということと表裏の関係をなしている。

《独り言》本文で、『通常は容易には』と表現したところは、『全く』・・・できない、とまで、              言い切るのが正しいのか、本文のように言うのが正しいのか、私には、              明確にわからない。                                                                               ただ、どちらかであるのは、確かであり、いずれにしても私の理解の筋道は                  変わらない。

  重要なことなのでもう一度要約すると、認識中枢の欠陥というものは、その欠陥を超越してみないことには、何が欠陥であり、それがどういう内容の欠陥なのかは、わからない。わかるということは、超越と同時に、それに論理的に付随してついてくる。従ってこれは、欠陥を超越した側で認識され、我々に示される内容であるが、それでも、その真の意味がわからない、ということになる。

 そして、そのことがわからない以上は、認識中枢は時々刻々に生ずる自己の認識を正しいとして、日常が営まれることになる。認識中枢にとっては、そうではない認識が生じない限り、自己が現に認識するところが、正しいと思うのは当然であり、それはやむをえないことである。そして、宗教の道筋を歩む上でも、このことは常についてまわる。例えば、この「ひとりよがりの窓」を書いている、この現在の私についても、もちろんこのことが妥当する。

《独り言》 ですから、私の書いていることが正しいかどうかは、みなさんの自己責任に                   おいてしっかり見極めるしか、方法はないんでっせー。                                     そして、そのみなさんの自己責任の認識もまた、それほどあてにもならない、               ということでっせー。

《独り言》 それ故に、道元は、『学道(=仏道)においては、すべからく正師を要す』 (学道用心集)という。 しかし、そこでまた『正師』をみきわめられるのか、という問題が生ずる。   

《注》 学道用心集は、若いとき行っていた座禅会で、宗門(曹洞宗)が発行しているものを戴いたので、一般的にどうして手に入れたらよいかは、調べたことがない。

《独り言》 また、このように認識中枢の致命的とも思われる『根源的本質的欠陥』故に、我々は、超越者のいう世界の真実相を見ることはできない。そのことが、認識中枢の欠陥の側面における『エデンの園からの追放(失楽園)』ということの意味である。このように言う場合には、エデンの園とは、真実相の世界ということを意味することになる。従って、『エデンの園からの追放(失楽園)』ということは、場所的空間的な追放ではない。本来、エデンの園(=真実相の世界)の中にいながら、我々は盲目になり、現にそのまっただ中にいるところの真実相の世界を見失った、というような意味である。

 しかし、このことは宗教的実存構造においての宿命である。ここで我々にできることは、このことを可能な限りで認識し、そして超越者の示すところを『道しるべ』として、暗中を手探りで進むということであり、それしか道はないのである。

《注》 この意味で、覚の宗教型(悟り型)といえども、超越者への『信』というものは、必要である、ということになる。

 他方、超越者の側はというと、超越者はその超越において了解したところをなんとかして一般の人々に伝えようと、心を痛め、あらゆる努力と伝達の工夫をする。その一環として、欠陥のある認識中枢(分別知)では、受け取りがたい了解内容をなんとか分別知の作用である言語・思想の枠の中に載せて送り出す。このような中で、説法(説教)がなされ、経典が生み出される。                

   その中では、仏教においてもキリスト教においても、この世界の真実相というものが展開され、描かれる。それは、我々が通常こうであると思っている世界・宇宙の認識とはたいへん様相の異なるものであり、見方によっては正反対だともいえる。                          そして、そうだということは、この局面では我々の認識中枢の欠陥が明確に露呈する、ということでもある。これを裏返せば、なんとか超越者の示す宗教的世界観に到達できれば、その限度で我々は、一段階認識中枢の欠陥を超越したことになり、それと同時にそれまで自分が陥っていた欠陥の何たるかを自覚できることになる。

 そこで、我々も項を改めて、超越者の示す世界・宇宙の真実相に迫ってみることにする。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【宗教の窓】 をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

|

« [S3] 宗教を論ずる枠組み(中枢の欠陥・・・無明・煩悩・原罪) | トップページ | [S5]一即一切・一切即一と即非の論理(1) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« [S3] 宗教を論ずる枠組み(中枢の欠陥・・・無明・煩悩・原罪) | トップページ | [S5]一即一切・一切即一と即非の論理(1) »