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[S24]自分は、自分のものではない

  実相無相を了解していく過程(認識中枢の欠陥の超越)が、「高高峰頂立」であるとすれば、自我を超越していく過程(指令中枢の欠陥の超越)は、「深深海底行」である。
  それは、了解した実相無相(『智(英知)』)が、自己の『情・意』の面にまで浸透していく過程である。そこには、実相無相から遊離的・乖離的に働き、実相無相に対して攪乱的・反逆的に働く自我が立ちはだかっている(参照 [S18]自我は、なぜいけないのか(自我の問題性①))。
  実相無相は、認識中枢関係的である。難しいことに変わりはないが、『比較すれば』知的に取り上げやすい。これに対して、無我は、指令中枢関係的である。多くは、知的視野に映らない実存的領域である。あるいは、意識に映らない、唯識でいう末那識・阿頼耶識の領域にまで関係する問題である。

[S1]でも述べたように、それは、地味で、文字通り身を切る営みである。それは、理論的な問題というより、修行そのものである。そこでも書いたように、最も個人的な次元の深奥で、その人の全身全霊をかけて実存的に進行する。それ自体を、公共の場に持ち出すことは、そもそも不可能である。
不可能なだけではなく、別に隠そうとするわけではないが、『普通、いろいろな意味で公共的にそれを口にしようと言う気にもなれない』ものであろう。従って、逆に言えばそういうところは、表白されて、我々の目に触れることはほとんどない。そうであるが故に、文字通り「深深海底行」なのだろう。

また、無我の問題のもう一つの側面として、無我と慈悲(キリスト教的には神の愛)は、一つの事柄の表裏の関係にあるということである。無我が消極的面だとすれば、慈悲ないし神の愛は積極的面だと言ってもよい。事柄に応じて、どちらの面から見ているか、あるいは、見た方がよいかということだと考えられる。[S21]評価・自尊心(プライド)・面子(メンツ)・ [S23]隠れ蓑(みの)と無防備などは、無我の側から見ている。

以下では、私が従来自分で意識してきた一般的抽象的レベルの話だけを取り上げることにする。

まず、消極面の無我の方からであるが、私の師である和田先生(宗教情報の窓参照)の言われていることに、 『ケチな根性はいけない。』というのがある。すなわち、『ケチな根性』ということで、自分の自我の動きを捉えてみようというわけである。私は、二十年以上もこれを使ってきた。この場合、いわゆる『ケチ』のイメージからだけではなく、『ケチ』という語源にさかのぼって捉えると、より一層有効であるということだ。

『ケチ』という言葉は、語源的にさかのぼると『ケジメ』に行き着くという。「ケジメをつける」のケジメである。そこで、『ケチな根性』というのは、突き詰めると『自分と他者の間にケジメすなわち境界線を設ける根性』ということになる。ここまでくると、自我にぴったりだ。
  社会生活は、形式上あるいは表面上は、もとより自他のケジメをしっかりつけなければ、成り立たなくなってしまう。他人の本は自分の本ということで、他人の本を勝手に持ってきてしまうのは、泥棒同然でよろしくない。そうではなく、実質面で自分の自我を観察し、乗り越えるために使うのである。

  自分が大事にしている大切な本を貸してくれ、といわれた場合に、さあどうするのか。イヤだ(これが、どこから出てくるのかが問題だ)、と思うと、我々は意識するかしないかは別として、常に理屈を立てて防衛し、「これは俺の大事な本だ、いくらのものでもないから、そんなに読みたいのなら自分で買え。」などと言う。こういう局面で、『ケチな根性』という観察の角度で自分の自我の発現を意識しようというのである。

もう一つ、私が使ってきたのが、『娑婆っ気(しゃばっけ)』という捉え方である。 『娑婆っ気がある。』と自分で捉えられるような心の動きをできるだけ意識し、向き合っていくようにするわけである。
『ケチな根性』は、個別具体的・対人的関係で力を発揮するのに対して、『娑婆っ気(しゃばっけ)』は、比較的具体的な対人関係前の抽象的一般的な精神の動きを捉えるのに役立つと思われる。 
例えば、「偉い坊さんになろう」などという思いは、『娑婆っ気がある。』と捉えられないだろうか。

ところで、無我の問題を突き詰めていくと、最終的には『恐ろしいところ』に行き当たる(私は、まだここまで断言する資格はないかもしれないが)。
先ほどから、『自分の自我の発現を意識する』ということを述べてきたが、自我に支配されている我々が『自分の自我の発現を意識』しようとしても、実は限界・限度というものがあるように思われる。
自我をタマネギに例えると、我々が直視できるのはせいぜいその外郭のあたりである。内部にいけばいくほど、我々は『恐ろしくて』そこから無意識に目を背けてしまい、直視ができなくなる。あるいは、見て見ぬふりをして、通り過ぎてしまう。

それ故に、自我はタマネギの皮を剥くように、外側から一枚一枚地道に丹念に剥がしていかないと、核心へと迫ることが出来がたい。周りが全部剥がれたときに、本当の意味で、最後の核心を始めて見つめることができるのではなかろうか。

金剛般若経を読むと、その『最後の核心』と思われるものが書いてある。但し、ここでは、それが何であるかを書くのをやめておこう(私が直視したくないので、目をそらしているのだろうか)。
ここでの重要なことは、そうであるからこそ、『ケチな根性』だとか 『娑婆っ気(しゃばっけ)』などというような、一見子供だましのような捉え方をバカにすることなく、 確実に外側から一枚一枚剥がしていかねばならないと思う。

さらに一歩進んで、自我の発現を一旦は意識しても、自我は『化け物』である。心の中だけで「操作」をして、なんとか乗り越えたようなつもりでいると、たいていの場合、形を変えて、ちゃんと自分の中に居座ったままであることに気づく。我々は、無意識のうちに、できるだけ『納得のいく高級な理屈』を使って、なんとか自我を温存しようとする。私の経験では、自分の宗教的理屈の中にまで入り込んでくる。こうして書いている宗教的理屈のまっただなかにも、知らないうちに、私の自我が入り込んでいるかもしれないのだ。ある時、ふと気づき愕然とする。まことにもって、自我は『地の果てまでついてくる』強力な指令中枢の支配力である。

しかし、この強力な支配力である自我にも一つだけ、決定的なアキレス腱がある。決定的な弱点がある。それは、『自我は、決して意識の外には出られない』ということである。『自我は意識の中にいるかぎり、地の果てまでついてくる』。しかし、『意識の外には絶対に出られない』のだ。このことは、重要な点だから、また先々触れることがあるはずだが、自我の超越のためには、この自我の弱点をつく以外にはないと思われる。

自我とは正反対の、外形的行為を現実にすること、これである。これによって、自我がついては来られない、決定的なルビコン川を渡ってしまうことである。
私の師、和田先生の言葉に、『思いを切る』というのがある。「思い切って・・・する」という場合の『思いを切る』である。そして、もう一つ、『ただ、すればいい。』というのがある。実に、自我を乗り越えて行くには、自我の『思いを切って』、無我的行為を『ただ、すればいい』のである(ここには、後日取り上げる『死と復活の問題』が含まれている)。
   ところで、坐禅の状態を応用すれば、この自我の『思いを切って』というところを、自我の思いにとらわれず、それはそのまま相手にしないでおいて、なすべき外形的行為を『ただ、すればいい。』ということになる。言葉で表現すると両者は、多少ニュアンスが違うようにも思えるが、実際のところやってみると、実体は同じことのように私は感じている。

《注》 これはいわば禅宗的な行き方で、もう一つ実は浄土真宗的な行き方がある、と思っている。
『煩悩具足の凡夫』と自認するところから、自我を見つめ、乗り越える行き方である。しかし、私は禅宗型なのか、自分として実際に現実的なのは本文に書いた行き方になる。
浄土真宗的な行き方は、そちらの方にまかせておくことにする。
なお、見性体験の前後では、自我に対する対応の様相が異なり、ここに悟りが問題視される根拠があると思われるが、ここでは「その後」の問題は視野に入っていない。

私は、自分では自我がどれくらい乗り越えられたか、よくわからない。ただ、ある時期に自分の中に次のような言葉が自然に湧きあがってきて、そのとき自分では、ある程度自我の超越が進んだかな、と思ったことがある。そして、その頃から、なんとなく自分は悟っても、悟らなくても、どっちでもいい、と少しずつ思うようになった。そうなってみると、こんなことを言っていいのかどうかわからないが、悟りたいという気持ちも一種の煩悩のようにも思える。

そこで、参考までにそれを記して本稿は終わりとし、続きは次稿で書くことにしよう。

『自分は、自分のものではない。』
『自分の人生は、自分のものではない。』
『自分の人生の意義は、自分の思いを超えている。』
『自分は、もう自分の人生(運命)を呪わない。』

(内容的に[S25]に続く)

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[コメント対象事項]

無我の意味の理解、「思いを切る」
   
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[SC24-1-1投稿 求道者 | 2008年5月1日 (木)

貴方の述べられているのは自我と自我の戦いであり、また貴方の無我の意味の理解が少し違っているのではないでしょうか?無我、利己心が無いということが、相手が要求する物、事を一切拒否せず与える、ということなら、それは無我の意味することではない。我が無いというのは、物事の判断においてこだわりが無い、という意味であり、相手(対象物)と自分との間の関係において自他の区別をせず正しいバランス(法)で判断を行う、ということである。だから本を貸して欲しいと、誰かに頼まれた場合、正しい判断をすることである。もし自分が読むよりその相手が読めば、彼にもっと役に立ち、しいては自分に教えてくれると考えれば貸せばよい。ただし、相手の何かの悪意が見えたり、汚すことを知っていれば、断るのが正しい判断となる。イエスは、「鳩のように優しく、蛇のように賢く」と明言している。釈迦の八正道を読めば、何が正しい判断であるか?との理性による学習であることが分かる。まず分別知をフルに使い限界に迫る、そして分別知が二元論に基づいていることが納得できれば、一元性である仏智の領域へと克服の過程が比較的スムーズに進む。「思い切る」というのは結局無理に行っていて、真の克服とは反対の方向であり、深層意識の中に多くの矛盾を溜め込み、破裂することがある。聖職者による軽犯罪、色情的問題の源泉でもある。それなら自己に正直に犯罪を犯し、その罪の深さを認識することで、改心する方が早く悟りに進むかもしれない。

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[SC24-1-1N] 西方法界|2008年5月10日(土)

[後記注] 求道者様は、特定の宗教に属さず、東西の宗教を幅広く共通的原理の内に
             捉えようとされている方でいらっしゃいます。


  このあたりは、ヒンズー教との関係で言えば、「自我」という用語を使うか使わないかで、微妙に理解や捉え方に影響が出てくるところかもしれませんね。
仏教では、「無我」は一つの教義の中核概念で「我」があるのを自我と捉えています。我々の分別知が個というものを認識・実体化し、かつ、私の捉え方によれば、自我が自己中心的に「自己の計算・勘定で」動く(指令中枢の欠陥)無明・煩悩的段階から、慧として自然法爾的に直観されてくる「天の声」=「自分の声」に従っていけるようになるまでの中間段階の格闘を描いているのがこの稿なので、解釈の仕方ではいろいろに受け取れるかもしれません。
 
  私は子供の頃からの自分の体質のベースが「認識的・傍観者的」であったので、意識的に「意志的・行動的」であることを追求した時期がありました。また、[S8]で触れた私の転換点以降、実存的な指向性が高まり、現在では昔の自分の体質とは逆さまの位置にいるのかもしれません。
   ゲーテの「ファウスト」において、ファウストが天上の世界に超越する直前のステージで、広い海の干拓事業(象徴的表現)に取り組みます。その際に使う四人の参謀の一人に(私の読んだ本の翻訳では)「荒なぐり」というのがでてきます。四人の参謀を使うというのは、四つの要領・手法を使うことだと私は理解しているのですが、この「荒なぐり」というのは、見当をつけて、荒っぽくやってしまい、計算や見通しにとらわれないという手法でしょう。失敗や誤りもあります。しかし、非連続を跳び越して新たなパラダイムへと生まれ変わるための手探りの手法としては有力な手法の一つでしょう。これは、失敗や誤りを恐れていると使えません。気楽に試み、失敗したら頭をかいて気楽に取り下げる。そうすれば、豊かな成果をもたらしてくれることもあるのではないでしょうか。

[SC24-1-2] 投稿 求道者 | 2008年5月11日 (日)

余分なお話になるかも知れませんが。ゲーテの文章を読むとレオナルドダビンチ以降の古典復興の影響があり、文章の中に多くの隠語や象徴的表現が含まれている。
この「広い海の干拓事業」と言うのも錬金術の用語であり、宇宙または心の大海の開拓であり、これは隠された4つの文字、または要素を使って行ったということを表しているが。これは東洋でも世界の成因としての四大のことと同じ意味であるのが興味深い。詳細な方法はこの4を3転させる(=12)と語られる。

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[SC24-1-2N] 西方法界|2008年5月12日(日)

そういう奥行きがあるのですか。

[SC24-1-3] 投稿 求道者 | 2008年5月13日 (火)

まさに唯識論を西洋的に具体的に展開される奥行きであり、キリスト教から見ると異端とされる知識であるが、アウグスチヌス自身が32歳までに学んでいた知識でもある。かれは元々マニ教の出であるから。非常に興味深いがこの場でこの論理を直接展開するのは少し憚られるので、徐々に現代流に入れ込みましょう。

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