« [S24]自分は、自分のものではない | トップページ | [S26] 死と復活・・その一(宗教の核心) »

[S25]私は、世界を愛することができるか

  [注]  [S25]は、[S24]からの続きという位置づけになります。

自我を超越していく過程(指令中枢の欠陥の超越)は、一面(消極面)において『無我』となっていく方向であるが、他面(積極面)においては『慈悲(神の愛)』の心になりきっていく方向である。[S24]では、前者に触れたので、ここでは後者を取り上げる。

  認識中枢の欠陥を超越したところにおいては、私というものの正体は、決して『個』ではなく、無限永遠の宇宙の現れ・永遠のいのちの現れである、ということが理解・納得される。
  しかし、この自己=無限永遠の宇宙という理解・認識のみによって、統括的指令中枢である自我が変化し、自然・当然に自己愛が、博愛にまで拡張するわけではない。認識中枢の欠陥と指令中枢の欠陥を分けて取り扱う理由の一つは、ここにある。また、知(認識)が、情意(さらに無意識)にまでおよんでこなければならないことも以前に述べた。
 
  お釈迦さんは、 

「奇なるかな、奇なるかな。
 一切の衆生は、如来の智慧・徳相を具有せり。」
と、言われた。我々の『徳相』はどこから出てくるのであろうか。

認識中枢の欠陥を乗り超え、自我の超越がある程度進んでくると、『私は、世界を愛することができるのか。』ということが、宗教的実存の課題として出て来ることになる。

ここでは、問題が『実存的課題』だということが、重要である。すなわち、『世界を愛すべきである』という道徳的な枠にいくら自分をあてはめる修行をしてみても、改宗前の親鸞上人の例を出すまでもなく、それは成就しないであろう。あるがままの自分からの内面的エネルギーの自然な発露・現成が、おのずから『慈悲(神の愛)』の徳相として現れ出なければならない。自然法爾(天のしからしむるところによりて、自ずからそうなる)的に『慈悲(神の愛)』の徳相が発現するようでなければならない。それがこの問題が宗教的実存の課題たる所以である。

しかし、それはそれとして、とりあえずは、まず『私は、世界を愛することができるのか』、あるいは『私は、いかにして世界を愛するに至るのか』というように問題を立てなくてはなるまい。こういう表現を好まれない方は、『私は、いかにして菩薩に至るのか』でもよい。
ちなみに、この実存的課題は、自分だけの悟り・安心(小乗的地平)を越えて、大乗的地平を視野に入れる本質的要素である、ということは意識しておくことにしよう。

『私は、世界を愛することができるのか』という角度から眺めていくと、具体的場面場面で自我に基づく自己愛、すなわち「己の身びいき」「自分の勘定」と向き合う局面が必ず訪れる。ここでは、世界を愛するという何らかの能動的姿勢・能動的働きとの関連で、それを遮る自我的なるものが浮かび上がり、その浮かび上がった自我的なるものを空じていくという形で、無我への実存が問題になる。このような意味において、無我と慈悲あるいは愛は表裏の関係をなす問題である、一つのことの裏表の関係にある、と見ることができます。

ここに、先程も述べたように、認識中枢の欠陥を首尾よく超越し、知的にのみ自己=無限永遠の宇宙・永遠のいのちという理解・認識に至りえたとしても、それだけでは解決し得ない壁が目前に立ちはだかっていることに気づくのである。少し正確に言えば、認識面からの援護する役割はあるが、これだけでは十分には到かないというところであろうか。とにかく、あらためて指令中枢の欠陥の超越、無我への実存が問われることになってきます。
悟り型は、とかく『わかる』ことに重きをおく傾向性があるわけですが、指令中枢の欠陥の方向(自我-無我)への実存は、そこを離れないとなかなか進まないという問題があると思います。
           
あるがままの自分からの内面的エネルギーの自然な発露・現成として、慈悲心・世界を愛する気持ちが生じなければならない、ということからすると、ここで維摩経の『衆生病むが故に、我もまた病む』という、あの言葉が思い出されます。これは、みんなが幸せにならないうちは、自分もまた幸せにはなれない、というような言い方もできるのではないかと思われます。如来の徳相を具有している、ということは、我々の内面から自ずから『悲しみ、慈しむ』心情が湧いてこなければならない。『私は、世界を愛することができるのか』とは、言い換えれば、自分とは、そういう『悲しみ、慈しむ』心情が自然に湧いてくるような人間なのか、ということに対する実存だ、というようにもいえると思います。

ところで、宗教的実存というのは、自我が自己否定するのではないと思います。自己を空じていく過程の中で、如来の呼び声というか、無我的立場というか、自我とは異なる『場』のようなところがもう一つ自分の中にできて、そこが自ずから自己否定するというか、自己否定されてくる、というような感じがします。なぜなら、自己否定の内実は、『自我』否定であり、それは広く見れば、大いなる自己(大我ではない)の肯定であり、顕現であり、現成であるからです。

日常身の回りで起きるいろいろな事態・出来事のなかで、こうした方向への実存を追究していると、私は最近『自分を恥じる』というか、自分というのは、『本当に至らない』なあ、としみじみと思われてきます。これは、いわゆる「他人の目」を意識して、恥ずかしいと思う、いわゆる普通の恥ずかしさというのではないように思われます。なにか、懺悔の心情が入っているような恥ずかしさというか、「他人の目」というのは抜きにした気持ちだと思います。独り、寒々と底知れぬ寂寞の中で、非意志的な成り行きとして現象してくる、とでもいうのでしょうか。
そして、懺悔というのは、誓願と対(つい)のような関係にあり、裏に懺悔が生まれてくると、それと平行して表に誓願が成立してくる、というところまでが、ひとまとまりの経過として起きてくるのだと考えられます。

   慈悲・愛という方向では、悟り型の禅宗関係では直接指標にできるような表現があまり多く見いだされない、というか、見いだしにくい。その中で、私にとっては、たいへん難解ではあるが、何となく方向性を感じ取れる道しるべとして、西田先生の一文を最後に掲げて締めくくります。

『我々の自己はどこまでも唯一的に、意志的自己として、逆対応的に、外にどこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するとともに、内にもまた逆対応的に、どこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するのである。
   
    前者の方向においては、絶対者の自己表現として、我々の自己は絶対的命令に接する、我々はどこまでも自己自身を否定してこれに従うのほかはない。これに従うものは生き、これに背くものは永遠の火に投ぜられる。
    後者の方向においては、これに反し、絶対者はどこまでも我々の自己を包むものであるのである、どこまでも背く我々の自己を、逃げる我々の自己を、どこまでも追い、これを包むものであるのである、即ち無限の慈悲であるのである。

   私はここでも、我々の自己が唯一的個的に、意志的自己として絶対者に対するという。何となれば愛というものも、どこまでも相対する人格と人格との矛盾的自己同一的関係でなければならない。どこまでも自己自身に反するものを包むのが絶対の愛である。どこまでも自己矛盾的存在たる意志的自己は、自己成立の根底において、矛盾的自己同一的に自己を成立せしめるものに撞着(どうちゃく)するのである。そこに我々の自己は自己自身を包む絶対の愛に接せなければならない。
 単なる意志的対立から人格的自己が成立するのではない。この故に如何なる宗教においても、何らかの意味において神は愛であるのである。』
  (西田幾多郎『自覚について』から)
  [太田健次郎さんのサイト(宗教情報の窓参照)から採らせていただきました。]

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【宗教の窓】 をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

---------------------------------------------------------------                                   投稿されたコメント
---------------------------------------------------------------            

-------------------------------------------------------
[コメント対象事項]

  自己否定
   
-------------------------------------------------------

[SC25-1]

投稿 求道者 | 2008年5月1日 (木)

自己否定というのは解釈を間違うと非常に矛盾に満ち、ややもすると空虚な論議に至る。自己否定の否定とは、勿論自己の存在を否定するのではなく、物質的執着である渇愛とそれを縁とする無明の消滅、否定である。だからそれを克服した我はもはや古いままの我ではなく、その直ぐ先にある悟りへの入り口である。問題はこの渇愛が意味するのは五感だけでなく思念をも意味するからである、なぜなら思念も造り造られるもの、他性だからである。自性であるのは意志、意識のみである。だから意志の発生源を注視する訓練が必要となる。自己矛盾という発想は論理の展開が自己の全否定に基づいているのではないだろうか?実際には矛盾しないし、分別知の無明が無くなれば、分別知自体は現世界での菩薩の道具となるだけである。なぜなら現世界では人を導くのに分別知を使わなければ人を導くことさえできないからである。

話は変わるが、禅では輪廻転生のことをどう教えるのか知らないが、輪廻転生は思念的に世界人類の博愛の必要性を理解させるもっとも合理的な論理である。なぜなら、自分の過去生はどこの国の人間であったか分からないし、転生はカルマの解消を目指して発生するので、昔の敵同士が兄弟に生まれることもよくあると言われる。まあ輪廻の理論は、そのれを認めることが前提となるので止めましょう。

      - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
      
[SC25-1N]

西方法界|2008年5月10日(土)

私のいう自己否定は、自我否定の意味です。これは、本文中および[S20](宗教における『ある』と『なる』の問題)で明確にしてあるはずです。

《意志の発生源を注視する》、というのはおっしゃる通りで、大賛成と申しますか、私も最大の関心事です。

《分別知自体は現世界での菩薩の道具となる》というのも異論はないのですが、《分別知の無明が無くなれば》というところで、それでも「分別知」は、実相を理事無礙法界的に(相即相入的に)「抽象的には」捉えられるが、「具体的に」捉える性能までは持ち合わせていない、そこは慧としての直観に補われなければならない、というあたりの理解がちょっと異なっているような感じがします。

慧の発現場面は、宗教の窓でも書こうと思っていたのですが、たまたまそれに先だって、カテゴリー『窓の外は空』の[K13] で、須崎さんとの間で話題にのぼりました。そちらを御覧いただければ、詳しく書かれております。
   このあたりの関連で、少なくとも修証辺では、認識中枢面だけでは足らず、指令中枢の欠陥を問題にせざるを得ません。「完全な意味で」自然法爾的な慧の発現が現成するところまで到達したとき、ということは、私の言う第三の意義における仏に自分が到達した場合には、そこでは中枢の認識面と意志面の区別が解消してしまい、自然法爾的な慧の発現を「意志」といっていいのかどうかわからなくなるような気もするのですが、今はそこまでの心配をする段階ではありません。

-------------------------------------------------------
[コメント対象事項]

   無意識について
   
-------------------------------------------------------

[SC25-2-1] 投稿 求道者 | 2008年5月10日 (土)

分別知が無分別知を「具体的に捉える」ことが出来ない説明はSC12のところで「大海と一滴の水」の喩えで説明しました。
だから指令中枢こそが大海と一滴の水の中に共通して存在する要素であることが分かる。
だから最後に認識中枢を滅する。
認識中枢を滅するとは、知的には現象界が空であることの理解であるが、空の理解を間違って捉えることが多いので混乱が起こる。
空とは現象界が我々が見るようには存在しない・・ことを意味し実際に存在しないということではない(人空の正確な意味を知らないのですが、この意味かな?)。更にもう少し高度な理解法が残っているが(これが法空のことかな)。

また無意識という言葉をよく使われますが、どうもしっくりしません、実際に心理学では無意識という言葉が使われることがあるが、実際に意識がないのではなく顕在意識によって知られていない・・・の意味であり、正確には潜在意識のことですが?
現代流の言葉で言うと、潜在意識の界とは言葉ではなく画像的、イメージ的な状態で意識の中にあるもののことです。
だから言葉、「名が果てるところ」とも表現されるが、名とは概念があって名付けられるのだから、言葉的概念が無いとも言える。

更に潜在意識よりも奥により深い本源的な意識状態があるが。

どちらにせよ(無)意識ではなく、本源自体のそのような意識があり、その反映が人間の自我意識の中にもあるが、中枢が曇っているためにそれが発現できない。

だから一端、一滴の水が大海の中に溶け込めば、大海を知ることが出来る、
また大切なことは、それでその一滴の水が消滅したわけではなく、その大海の中に依然としてあるものなのであり、大海全体も知りうることが出来る、これを悟りと言っている。

      - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
      
[SC25-2-1N] 西方法界|2008年5月13日(火)

法空と人空については、[SC29-1N]で説明を開始しましたので、そちらの方で。

ここでは、無意識に関して。

仏教では、唯識という領域があります。仏教的心理学とでもいいますか。
唯識は、首を突っ込むと大変らしく、私はほとんど知りませんし、わかりませんが、それでいて基本的なことは常に使います。

唯識は、唯心論の立場に立ちます。実体としてあるのは、心だけだと。
そして、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識までを、前五識といいます。そして、第六識として意識があります。
第六識として意識は、現代的にいう意識より少し広い概念のようです。
そして、その先が無意識になります。第七識と第八識があります。
第七識は、末那識(マナシキ)と呼ばれ、自我の座とされています。
第八識は、阿頼耶識(アラヤシキ・アーラヤシキ)と呼ばれ、記憶の座とされています。
おそらく、求道者様のいわれる「潜在意識よりも奥により深い本源的な意識状態」は、第八識の阿頼耶識のこと、あるいはそれに第七識の末那識を加えたものではないかと想像されます。

求道者様のおっしゃる潜在意識は、意識の中にあるもので、言葉的概念が無い、分別知化されていないというのは、共通の理解としてそれで結構です。したがって、これは無意識ではありません。

唯識に関しては、私もこの程度のことしか知っておりません。これで一応間に合うような、またそれ以上には入っていきがたいような領域のため、理解はこの水準でストップのままです。
ですから、あとはネット上で検索され、二つ、三つお読みになれば、私、ないしそれ以上の水準のところまでいかれます。
先ほども申し上げましたように、それ以上に首を突っ込もうとすると、たいへんな世界らしいです。

[SC25-2-2] 投稿 求道者 | 2008年5月14日 (水)

そうですね、末那識を浄化克服(潜在意識の曇りを取り除く)し、阿頼耶識(万有発生の種)である種子識に到達し、梵我の一体化を目指す・・・・という図式ですね。だから末那識の中の半分は無意識ですね。

      - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
      
[SC25-2-2N] 西方法界|2008年5月14日(水)

 唯識をよく御存知なのですね。
 いえ、私の方がわからなくなってしまいました。この辺から私は明瞭性を欠いてくるというか、よくわかっていないと御了解下さい。
 《末那識の中の半分は無意識》というのは、つまり「半分」とはどういうことを言ってらっしゃるのか、まるでわかりません。
 もう半分は、潜在意識の中にかかっていて、「あ、自我が働いているな」と感じる部分ということですか。そして、そこも末那識に入っているということですか。それとも全然違う?

[SC25-2-3] 投稿 求道者 | 2008年5月15日 (木)

※《末那識の中の半分は無意識》というのは、つまり「半分」とはどういうことを言ってらっしゃるのか、まるでわかりません。もう半分は、潜在意識の中にかかっていて、「あ、自我が働いているな」と感じる部分ということですか。そして、そこも末那識に入っているということですか。それとも全然違う?・・・・

■末那識というのは梵語のmanasからの由来であり、要するに通常の心、自我(低級自我)のことであるから、簡単に言えば五真、執着状態にある我のことであり、末那識の次元での我は(我執のある)潜在意識も含まれる。だから夢の状態がそもそも無意識状態であり、コントロールが効かない。だから多くの宗教的訓練法の中には、夢を制御することも含まれている。なぜならコントロールするためには、そして最後に消滅させるためには、まず把握できなければならないからである。ここに重要な鍵があり、なぜ最後まで「思念を捨てず道具として使う必要がある」のかの鍵がある。答えは「そもそも掴めない物を、消滅させられるわけがない」からである。だから「空ずる」という精神的活動の行程において「まず、消すべき対象を明確に認識する必要がある」という秘訣が忘れられているのである。実際に本来の訓練法にはそれがあったのであるが、後世の教師達が中途半端な理解で、間違いを積み重ねている。禅にもその傾向がある。ある点まで来ると「それは、そうであって、投げ入れるのじゃ」とか言う人が出て来る。悟りからはほど遠い。

      - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
      
[SC25-2-3N] 西方法界|2008年5月15日(木)

なるほど、・・・そうなのかあ・・・、他に何もありません。
まず、観察ですね。巨大な山が立ち現れてきた感じです。
いや、ありがとうございます。

-------------------------------------------------------

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
目次に戻る ・・・・ 左欄のカテゴリー 【宗教の窓】 をクリック
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx           

|

« [S24]自分は、自分のものではない | トップページ | [S26] 死と復活・・その一(宗教の核心) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« [S24]自分は、自分のものではない | トップページ | [S26] 死と復活・・その一(宗教の核心) »