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[S32] 死と復活・・その七(西田哲学)

  私は、西田哲学をまともに読んだことがありません。25年ほど前に古本屋で買った全集は持ってはいるのですが、哲学の素養がまるでない私には読み始めると、途中ですぐわからなくなってしまいます。わかろうとすると、広大な哲学の世界に首を突っ込まなければなりませんが、それには脳みそがチト足りないので、御免こうむるといったような次第で、要するに読んでいないのです。
 ところが、他方でそういう西田哲学からずっと離れられないでおります。途中は全部とばしてしまっても、結論的なところを断片的に見るだけで、そこはなんとなくわかるような気がしてしまい、また、それが私を引きつけてやみません。そういう状態が今日までずっと続いております。
 以下の記述も、その程度の水準で書いているということをまずお断りしておきます。自分でも、たいした度胸だと思っております。
 
 さて、これまで眺めてきた「死と復活」の事例は、そのほとんどが、宗教の道筋の中で最大の転換点になるような決定的局面に関するものでありました。
 しかし、[S26] 死と復活・・その一(宗教の核心)で、しかもその冒頭で書いておきましたように、「死と復活」ということは、宗教的歩みを進める上での根底中の根底であり、宗教上のあらゆる次元で、すなわち、大きな宗教的関門を突破する場合から、微細な宗教的問題を乗り越える場合にいたるまで、そして、大関門突破後に続く正念相続の瞬間瞬間に至るまで、宗教の道筋の根底にあり続けるものだと考えられます。
 そして、私は西田哲学の中にも「死と復活」の論理が色濃く貫かれていると思います。というより、むしろ西田哲学は「死と復活」の論理を「永遠の今」という断面において、精緻化したものだとさえいえるのではないか、と考えております。
 
 ハイデッガーのいう『世界内存在』ということを西田先生の言葉で言えば、『においてある場所』ということになると思います。
 『世界内存在』『においてある場所』とは、私たち自身であり、私たち自身の世界です。そして、私が世界(場所)であり、世界(場所)が私です。そして、それは心です。
 
 『世界内存在』にしても、『においてある場所』にしても、『ある一つの地平(次元)』という言葉を加えるか、置き換えると、わかりやすくなると思います。
 私というものは、『ある一つの地平(次元=世界)内存在』である。
 私というものは、『ある一つの地平(次元=世界)においてある場所』である。
 
例えば、無明底は、無明底という閉じた世界の『世界内存在』、大死底は大死底で、大死底という閉じた世界の『世界内存在』であり、
無明底の人、ないしその世界は、無明底『においてある場所』であり、大死底の人、ないしその世界は、大死底『においてある場所』ということになります。仏教的に言うと、「兜率天」などという場合の「天」は、この『においてある場所』の一つの地平(次元=世界)をあらわしていると思われます。
 これらの場所が、『世界内存在』であるということは、その世界(場所)が閉じている、閉じた世界であって、連続してはいない、非連続であるということになります。無明底から、大死底の地平に行くには、「死と復活(超越)」によってパラダイムシフトする以外にはない、連続する通路はない、ということです。
 
『においてある場所』の究極の高みは、神仏に接する場所、すなわち、絶対に接する場所です。西田先生は、神仏に相当するものとして、絶対無という表現を使われますので、『においてある場所』の究極の高みは、絶対無においてある場所ということになります。
ここだけは、究極の、絶対に接する場所なので、特殊な性格をもちます。
人は「自己の中枢の有(生)」においては、絶対に接することはできません。

絶対無の場所においては、絶対に「接する」といっても、大燈国師の言われるように、「対して対せず」という仕方でしか、この究極の場所に位置することはできません。
すなわち、前後際断的瞬間に絶対に対して「自己の中枢に死んで」、「そこから復活する」という形において、始めてこの場所に位置することができます。西田先生は、「絶対に対するということが死である」と言われております。(「自己の中枢に死んで」という私の言い方は、もう少し厳密につめる必要がありますが、ここでは触れません。)

 西田先生は、上記の「死んで復活する」というところを、「逆対応的に逆限定される」と言われます。
場所が、「絶対無(絶対)においてある場所」であるということと、絶対に対することによって死んで逆対応的に逆限定され復活するということは、同一の事柄であります。

絶対無においてある場所は、それ以下の「何らかの有においてある場所」と異なり、閉じた世界というのは妥当しません。無限に開けた場所ということになります。

絶対に対することによって死んで逆対応的に逆限定され復活するということは、[S29] で引用した道元さんの正法眼蔵『生死』の巻の言葉に対応させるとわかりやすいかと思われます。

「ただわが身をも心をも放ち忘れて、ほとけのいえになげいれて[いくと]、
  ほとけの方よりおこなわれて、これにしたがいもていく」

ほとけが「絶対無」です。「ほとけのいえになげいれて[いくと]」は、「絶対無に対する」ということ(一次的対応)です。すなわち、一次的対応は、「死」です。
そうすると、「ほとけ(絶対無)の方よりおこなわれて、これにしたがいもていく」ここが「逆対応的に逆限定される」ということだと思います。平たく言えば、自分が絶対無に死んでいくと(自分を空じていくと)、反作用・復活的作用として、絶対無の方から「何かが帰ってくる」、道元さんのいう「万法来たりて、我を証する」という感じでしょうか。

     [注] 絶対無の方から「何かが帰ってくる」
            私は、この「帰ってくる何か」とは、仏教で言う「戒定慧」の内の「慧」

                   当たるもので、これは直観として帰ってくる、というように理解している。

「これにしたがいもていく」にあたるところは、西田先生の場合たいへん欲張って、究極の内容まで盛り込んでいかれます。

西田先生は、我々の存在は、大いなるいのちから「つくられたもの」であるが、その「つくられたもの」がこの現実の歴史社会を「つくるものへ」と働いていく、いわば、天地創造する主体として働いていくところまでを盛り込まれていかれます。「釈迦も弥勒も修行中」であり、終わりということのない道筋です。

そこで、「逆対応的・逆限定的に、自己表現的に自己形成」していくのだ、と言われます。

先の、道元さんの言い方に似ているのが、親鸞上人の「自然法爾」ということばです。これは、「天のしからしむるところによりて、自ずからそうなる」というような意味でしょう。

こうして、並べて比べてみると、西田先生の表現には、宗教的実存のニュアンスが強く表れている感じが致します。
しかし、ここは「自己形成」というところを切り離して単独で見てはいけないのであり、「逆対応的・逆限定的に」と不可分になっていることに注意しなければならないでしょう。

 私はこの三つをまとめていっぺんに見るようにしております。同時に見比べております。
 問題意識としては、「宗教的実存」というニュアンスの「はからい感」「出るものの強さ」と「投げ入れる」「お任せする」のニュアンスの「ゆったり感」「自然感」のあたりの消息です。洞山の五位で見ると、第四位の兼中至は前者のイメージ、第五位の兼中到は後者のイメージに近い感があります。『燃え上がる若い』宗教的実存と『枯れて落ち着いた』実存というようなニュアンスの違いが感じられます。 
 現在は、そこまでで、将来的に何かもうちょっとはっきりした見え方が出てくるかどうか、今のところ、なんともいえません。

もし、我々がある地平『においてある場所』であったとしても、その中で「自己の中枢の有(生)」においてではなく、実存的に自分の『においてある場所』を『絶対無においてある場所』の方向に投げかける(自己を空ずる)ことにより、そこから逆対応的に逆限定される(復活する)というあり方をするのであれば、そこは同時に「絶対無(絶対)においてある場所」に向けて無限に開けた場所であることができると考えられます。

私は、以上のように理解しているのですが、見当も入っておりますので、どこかちがっておりましたら、御教示下さい。


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[SC32-1-1]

投稿 求道者 | 2008年5月15日 (木)

非常によく書かれているので感服いたします。

※「死と復活」ということは、宗教的歩みを進める上での根底中の根底であり・・・・

■まさしく最大のテーマであり、「死と復活」とは「悟り」「解脱」の意味ですね。
この「死」と「復活」はキリスト教においては単なる哲学的テーマではなく、実際に起こったこととされていることも頭に入れる必要があります。日本の神道でも「尸解(しか)」と呼ばれるが、実際に修行の究極において「死んで仙人となって現世に現れる」のでキリストと同じく実際に起こるとされているのである。しかし聖書の復活の場面を注意深く読んでみると理解しかねる奇妙な記述があることに気付く。それはイエスが復活し最初にマグダラのマリアが遭遇するが、復活したイエスの顔を見てもそれがイエスだと分からない(墓守と誤認し、顔が違うのである)、また後で弟子達の前に現れた時も、弟子達はイエスが手足の釘の後を見せるまでは、イエスだと分からないのである。復活が信じられないからではなく、明らかにその容姿がイエスと異なることを意味しているのである。イエスが復活したのなら、イエスの容姿が分かるなら、わざわざそこまでしつこく記す必要もなく、もっと感動的に書かれていてもよいはずである。これが「死と復活の」真実であり、これが意味することは非常に壮大であり、世界と人間の創造に関する根本的教義が隠されているが、今のところこれには触れないでおきたい。

※次に「死と復活の理知的解釈では、『世界内存在』、『においてある場所』、『ある一つの地平(次元)』・・・・・・とあるが

■大死底を経験し、死に、復活することで、次元を越えて、『においてある場所』、「兜率天」「非連続的高次世界」に跳躍する、と解してよいでしょうか。ここで、<人は「自己の中枢の有(生)」においては、絶対に接することはできません。>というのは、やはり中枢の明確かつ厳密な区分がなければ解釈ができなくなります。つまり「本当にすべての中枢が死ぬ必要性があるのか、人間の高次の本性はこの現象界では本当に人間の中には一切無いのか、ではなぜ人間は高次の存在へと引かれるのか、その動因(中枢とも言える)は常に人間の内にあるのでは?」という問いです。<(「自己の中枢に死んで」という私の言い方は、もう少し厳密につめる必要がありますが、ここでは触れません。)>と書かれているように、ここを厳密に分析することが非常に重要です。
<「逆対応的に逆限定される」>・・・難しい表現ですが、要は絶対的受容性に入れば、自然とその中にある本質が染み込み一体となることであり、BEINGである。聖書にも神とは「ありてあるもの」とも書かれているが、現代流に書けば「存在は存在である」と書かれてあるだけである。
<自分が絶対無に死んでいくと(自分を空じていくと)、反作用・復活的作用として、絶対無の方から「何かが帰ってくる」、>と書かれているのも同じことである。

※絶対無においてある場所は、それ以外の「何らかの有においてある場所」と異なり、閉じた世界というのは妥当しません。無限に開けた場所ということになります。・・・

■その通り、無限に開けた場所です。つまり無限は有限を包含できるが、有限は決して無限を包含できないからである。だから私は「絶対無」という言葉には非常に抵抗がある。なぜならすべての存在物がその絶対無から派生、展開、降下しているだから。西洋ではAbyss(深淵)と表現しているが、この言葉の方がふさわしい。絶対無ではなく絶対ならまだいいが。
「死と復活」とは「悟り」「解脱」そのものの一つの表現であるか最大のテーマであると思いますよ。そして「死に方」と「復活の仕方」がある。

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[SC32-1-1N]

西方法界|2008年5月15日(木)

宗教には象徴的表現が多いから、そういう目で見れば謎解きのようなところがありますが、知的遊びのようには解けないんですよね。
イエスの復活の場面は、私には何を意味しているのか全くわかりません。

《大死底を経験し、死に、復活することで、次元を越えて、『においてある場所』、「兜率天」「非連続的高次世界」に跳躍する、と解してよいでしょうか。》

 頓悟の方は、一発の悟りで大きく跳び越えるでしょうし、漸悟の場合は、大悟小悟を繰り返すというように受けとめております。また、死と復活は、様々な次元で様々な規模で起きる。象徴的な大次元・高次元のものがイエスの復活(私はわかっていない)なのだと思います。
 
 ここでは一切ふれなかったのですが、西田先生は、絶対無に関していろいろと論じておられ、私はまだその辺が充分にわかっておりません。
ですから、なんとも反応のしようがありませんので、お許しを。ここが難関だ、従って大切なところだとは思っているのですが、そこまでついていけておりません。

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[SC32-1-2]

投稿 求道者 | 2008年5月15日 (木)

いやいや、自分勝手に先走ってしまったようです。これが私の欠点です。注意いたします。

[SC32-1-2N]

西方法界|2008年5月15日(木)

え、何がですか。・ ・ ・ ・。ああ、絶対無の話でしょうか。
これは、私がそれなりに消化できていれば、中に組み込みようがあったのだと思うのですが、それができなかったのでこちらの手落ちです。それに、求道者様のおっしゃられることも、根拠があるわけですし、ただこの点についてはこの場で西田先生はこうなのですと説明もできないほどに私はわかっていないので、何も書きようがないということで・・・。
いずれ、話の流れに入ってきた時には、その辺のことをお尋ねいたしますので、宜しくお願いいたします。

[SC32-1-3]

投稿 求道者 | 2008年5月16日 (金)

いや、キリスト教のことです、・・・・多面的に宗教の壁を越えると面白い発見がおおくあるもので・・・・

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[SC32-1-3N]

西方法界|2008年5月16日(金)

そちらですか。
いえ、あまり深入りし過ぎると、当面の問題からの脱線になってしまいますが、
適度に関連事項に触れていただくのは、邪魔にはなりませんし、大局を眺める上では役立ちますし、共通の了解事項にもなっていきますし、
いつかそのことを正面から取り上げる場合には話を引っ張り出しやすくなりますし、私はかえって大歓迎で、むしろ大いにやっていただければと思いますが。
私としては、たいへん楽しいです。

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[SC32-2-1]

投稿 洲崎 清 | 2008年5月18日 (日)

ご苦労さまです。お元気なようでなによりです。

ところで、ここに書かれた内容とたとえば次のものなどとの連携は取れましたか?取れていますか?
ー動中の工夫(たとえば例のWilbro氏のガイド)
ー即非
ー鏡の心
ー大智と大悲のつなぎ
ー法にそっていきるということ (つまり、日常のあり方に大智大悲を働かしめるということ)

あるいは、こういうのはどう受け取られますか?(日常こういう感じが沸いてきますか?)
ー自由がない中に自由がある。
ー苦労したけれど苦労はなかった。
ー感謝、祈り、感謝、祈り!

ついでに、、、
釈迦は明けの明星をみて悟ったといわれてますが、、、
その明星を見せてみろ、という公案(これは私の作ったものです)にはどう答えますか?

それと私は十牛の図だと8,9図から10図へのつなぎもまた永遠の課題というように感じます。つまり復活してどうか?ということ。

これらのことに別に急いで返答を、ということではありません、あるいは返答は日々の生活ににじみ出てくるもの、、、というふうに見てもいいかもしれません。

いずれにしろ、お大事に!
落とし穴に引っかからないようご健闘くださいませ。

合掌

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[SC32-2-1N]

西方法界|2008年5月19日(月)

お心使いありがとうございます。宜しくお願い致します。
たくさんありますので、手間のかからない公案だけ最初にやってしまい、
あとは順にできたものから追加していくということでよろしいでしょうか。

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《釈迦は明けの明星をみて悟ったといわれてますが、、、
その明星を見せてみろ、という公案(これは私の作ったものです)にはどう答えますか?》

  (私の手を洲崎さんの前に差し出して、開いて)
       これです。欲しかったら、さしあげます。

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《動中の工夫(たとえば例のWilbro氏のガイド)》との関連について
   [西方の注]
     「窓の外は空」カテゴリーの[K13]の記事およびその末尾のリンク参照

     
 洲崎さんとの対話である[K13]との関連ずけといいますか、「定と慧」との関連をこの中に盛り込もうとして一時は文章化に着手したのですが、そうすると稿が長くなりすぎること、またそのことによって「死と復活」と西田哲学の関係という本稿のテーマがぼやけてもいけないという問題が出てきてしまって、途中でやめたという経緯があります。
 
 [K13]の対話を前提にできる洲崎さんとの関係でだけなら、短く話せます。
 
 動中の工夫で問題にした絶対受動の局面、すなわち動中の定としてとらえるべき部分(Wilbro氏のガイドもこの部分)は、西田哲学でいうと、私が本文中で『第一次的対応』と書いていますが、『絶対に対する死』に当たります。Wilbro氏のガイドは、主として常にこの『第一次的対応』『絶対に対する死』の状態を保っているように工夫しなさい、というように言っていると受け取ります(慧を肯定的に選択するあたりは、次の二次的対応に入ると見てもいいかもしれません)。
 これに対して、第二次的にそのことから逆対応的に逆限定される、以下の部分は、慧が跳びだしてくる、というところに対応してきます。絶対能動の局面です。
もう少し正確にいうと、「慧」というのは、直観です。直観として跳びだしてきた「慧」に主導されて、我々の意識がその実現に向かいます。分別知(ここを意識とすべきかが現在、まだよくわからない・・・以下同じ)が働くに際して、そこに西田先生の言われる「自己表現的自己形成的」ということが問題になってくると受け取っております。
   但し、最後の「自己表現的自己形成的」というところが、「分別知(?意識)が働くに際して」だけではなく、跳びだしてくる「慧」にも及ぶとまでみていいのか否かは、現在よくわからないところです。たぶん、そちらは「自己を空ずることの深化の問題」、すなわち「死の深化の問題」としてとらえ、「慧」にまでは及ばないという理解でいいのかなあ、というところです(ここは[K13]でも、慧と西田先生の宗教的実存の関係で、私が悩んでますね。あそこの位置づけの問題の解決の仕方です。こう見た方が、洲崎さんの理解とも整合性がとれてくると思います)

[注] 現在、このコメントを書いている途上で、感性をどうとらえて、どう位置ずけていったらいいのだろうかという問題でわからなくなってきております。

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《即非との関連》

即非の論理は、

《A①=個》は《非A②=超個》である(Aでない)が故に、《A③=超個の個》である。

ということでした。

これを自覚の論理(秋月龍珉「絶対無と場所」P141・P151・P214など)として、
逆対応・逆限定の論理にあてはめますと、

絶対(絶対無)に対する(=死)前の、「有」としての自分が、《A①》、
絶対(絶対無)が《非A②》、
逆対応・逆限定されてそこに現成した自分が、《A③》になるかと思います。

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《鏡の心との関連》

鏡の心は、絶対(絶対無)に対したとき、すなわち「死」の状態にある時の心。
Wilbro氏のガイドは、動中における鏡の心を問題にしている、と受け取ります。

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《ー大智と大悲のつなぎ》

「つなぎ」ということで、どういうことを述べたらいいのか、要求されることとピントがずれるかもしれません。

悟りたいと思うけれど、大悲心を起こしたい、そして実践したい、というような会話を、我々は普通しません。
私も、この下のどこかで、「もう悟れなくてもいい・・・」と書いています。「もう大悲心は起こせなくてもいい・・・」とは書かない。
しかし、例の「如来の智慧徳相を具有す」で、誰しも必ず心のどこかには必ず大悲心の芽を持っているのだと思います。
いくつか問題があるのだと思うのですが、どの宗教でもかならず事柄の性質上、体得は、智慧=>徳相の順序をたどらざるをえないのだと思います。しかし、キリスト教は、愛を最重要教義として掲げるのに、仏教では、大智と大悲は並列して取り上げられるにすぎず(このこと自体は誤りとは思わないが)、そして事柄の体得の自然の順序が智からだということで、なかなか大悲が出てこないというのが仏教にはあるのだと思います。大智を卒業するのに時間がかかりすぎるというか、かかっても卒業できればいいですが、私などはまだ大智の卒業など全然視野に入らない位置にいます。そんな位置で大悲を問題にすると、仏教の伝統的修行段階の見方からすれば、おまえはまだそれを問題にするのは早すぎる、という無言の圧力を感じてしまう(勝手に感じているのかもしれませんが)。[K14](理事無礙法界・事事無礙法界の参究)を公表する場合など、私はそういう無言の圧力のようなものを自分の中に強く感じました(しかし、道筋のより進んだところまで行っている方や立場のある方は、めったなことは書けないとして躊躇されるかもしれないけれども、私などは誤っていてももともとで、せいぜい生意気呼ばわりされるくらいだろうから、その意味では書きやすいのだともいえる)。キリスト教では、みんなが平気で「愛」「愛」と叫んでいるのとは大違いです。

 しかし、大拙先生の言われるように「これからの仏教は、もっと大悲を問題にしなければならない」という方向に進むためには、我々は「大乗」仏教を求めているのだという大乗性ということをより早い段階から意識することが求められるのではないかと思います。すなわち、菩薩にまで至るということ、「悟りたいではなく、菩薩になりたい」ということを、あまり「固いこと」をいわないで、気楽に口にしていく雰囲気というものが必要だし、そういう意識でいなければならないように以前から思っていました。私の「つなぎ」の第一歩はそこでしょうか。
 伝統的修行段階のしかるべき位置でも、大悲心に向けての実存なのですから、邪道でも、早くからそれを問題にしてなぜ悪いという居直りごころと、キリスト教に接して学んだことが、それを後押ししたのだと思います。
 
 それから、西田哲学との関連での「つなぎ」ということでみると、「慧」は直観ですから、この中には「大智と大悲」の両方が含まれている。
その無分別智の「慧」が意識の領域に入ってきたとき、知性方向に作用すると大智、感性方向に作用すると大悲に繋がってくるのかなあ、という気がしています。そこで、実はこの下で私の感性の問題に触れることになるわけですが、「慧」から大悲心に強い作用が働くように自分の感性を鍛えていくということが大きな課題になる。そこは、「自己表現的、自己形成的」という意識内においての実存問題になってくるような気がします。しかし、本文中で触れたように、実存というとどうしても「はからい感」があって、「ゆったり感」「自然感」との関係がどうなるのか、その辺が今後の課題かな、というところです。

  さらに、洲崎さんも『禅の社会性』の中でしたか、お書きになっておられました、「自分の身のまわり・手のとどく範囲の中から」ということ、これは、全く同感しております。
私の師和田重正先生の言葉に、「よいことは、する」というのがありまして、ここでは「よいことを」ではなく、「よいことは」になっていることが肝要だ。、「よいことを、する」だと地獄行きの切符になってしまうから注意しろ、と言っておられるのですね。自分勝手に、「外に」「遠くに」よいことを見つけるのではなく、自分の縁の中に入ってきた問題で、その縁に触れている中で、どんなに小さなことでもいいから大悲心の方向に自分が現成していく。そういうことなのかなあ、と思っています。但し、この区別は形式的概念的なものではなく、極めて総合的実質的直観的な判断を要求されるように思います。

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《ー法にそっていきるということ (つまり、日常のあり方に大智大悲を働かしめるということ)》
《私は十牛の図だと8,9図から10図へのつなぎもまた永遠の課題というように感じます。つまり復活してどうか?ということ。》

この二つは、背伸びして自分なりに見てはいますが、実際は遠くから見当をつけているといった程度だと思いますので、何か書くことがいかにも荷が重く感じます。

 可能な限り、自分を空じていった結果として、どう逆限定された自分のあり方になっていくか、この辺は、「自己表現的」といっても、言語的表現を超えた、行為的表現、生き様的表現ということになってくるのでしょうか。限りなく、四弘誓願を唱えていく道筋というような感じが致します。

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《    あるいは、こういうのはどう受け取られますか?(日常こういう感じが沸いてきますか?)
      ー自由がない中に自由がある。
      ー苦労したけれど苦労はなかった。
      ー感謝、祈り、感謝、祈り!

感性に関するものは、私としてはまとめてお答えする方がしやすいので、そうさせていただきます。
但し、前置きがあります。

私は、自分では小さい時から感性が鈍く、知性型に偏っているなという感覚(これは感性ですが)を持っており、これは現在も依然続いております。私は小学校の頃はたいへん作文がへたくそで、文を書くということがたいへん苦痛でした。ところが、高校あたりになると、特別練習したわけでもないのに気づかないうちに文が結構書けるようになっておりました。これは理屈で書けるようになったからで、このことも感性貧弱・知性偏重を物語っている、と自分では了解しております。よく言えば、あまり感情的になることもないのですが、これは表裏になっているのかもしれません。

  これは、洲崎さんと決定的に異なる点で、洲崎さんのサイトは感性に溢れていて、全機現の話からすれば洲崎さんは感性をうまく使いながら歩んでいるなあという羨望を感じておりました。
  他方、私のブログの方は自分で見ても自覚しているのですが、感性的なものが極端に貧しいですよね。「私は知性に偏重しているというか、知性を頼りにしてしかなかなか進めない体質なのかなあ、ということも反面として感じております(これも感性ですが)。加うるに、我々の問題は、分別知をどう乗り越えるかですから、私とすると分別知をどこまで使うか、どこからそれに決別するかということは、自分の中で常に意識しておりますが、ブログを書くとなると、自分が無意識の内に頼っている分別知が全面に出てくるという書き方になってしまうわけです。
これは、そういう書き方ができるという角度から見れば、そういう書き方ができるということなのかもしれませんが、そういう書き方しかできないという角度から見れば、そういう書き方しかできない、という逆の面もあるなあ、と思っております。

それに加うるに、洲崎さんは御自分の一つの転換点以後はさらに感性が鋭敏になったということをいわれておりますので、到達度からくる鈍感さというのも私には絡んでいって、その辺がどうなんだろうなあ、ということは常々感じております。

一応、私の内面ではそういうコンテクストになっているという中で、上記お尋ねにお答えしてまいりたいと思います。

《ー自由がない中に自由がある》

感性的に鈍な私ですので、どの程度しっかり捉えられているかわからないのですが、私はあまり不自由だという感覚は日常いろいろな場面で感じることはほとんどないと思います。逆に自由であると感じます。
公案的にお答えすると、「空を飛べないけれども、ブログを書いてるよ」でしょうか。
感性の問題にしても、上記のように感じて問題にしておりますが、だから自分は不自由だと感ずる要素は全くありません(鈍く、劣っているという認識は持ちますが)。鈍なところは鈍ななりに、分別知偏重なら偏重ななりにやっていくしかないという認識です。ただ、そこが宗教上大問題のところなので、自分なりに意識はしているわけです。私の「宗教の窓」自体が、認識中枢=分別知の根源的・本質的欠陥ということを正面から問題にしているわけですし・・・。

そうそう、曹洞宗の余語老師がこんなことを言われていたのを思い出しました。

        『けらに生まれて、泳ぎおり』

「けら」は、最近はすっかり見かけなくなりましたが、「おけら」のことだそうです。
私は私なりに天地一杯の自己を生きるより他にやりようもなく、そしてそれで充分ではないか。これはもう本当にそう思っております。自分が自分であることに根本的な不満はありません。自分の宿命も呪いません。

《ー苦労したけれど苦労はなかった。》

この感覚は、正確に数値に置き換えられるものではありませんが、七割かたはそう思えているが、残りの三割くらいのところで、そうもいえないところがあるかな、という感覚です。これは、特に宗教問題でまだだめなところが目立つのですね。その部分については、次の問題で一緒に述べた方がいいと思いますので、この項はこれだけで。

《ー感謝、祈り、感謝、祈り!》

ここは、結構問題かもしれません。
感謝と祈りを分けさせて戴きます。

《感謝》

 宗教問題を離れて日常一般的に見ますと、ときどき、わけもなく感謝の気持ちが湧くことはあるのですが、そういう場合はなぜそういう気持ちが湧いたのか理由が見あたりません。具体的な局面では、私は心の表面上まで湧き上がるような感謝の気持ちを、強く抱くことはなく、どうも人より弱いのかな、ということと、それをあまり強く口にするのを自分で好んでいないということの両方があるように思っております。この辺は、内面の観察力がまだ弱いのかもしれませんし、次の宗教問題のようなことがあるのかもしれない、と思っています。

 そこで、その宗教問題についてですが、本当はすべてが宗教的な局面なのですが、敢えて狭義の宗教的局面に絞っていうと、
 「全く、人間の中枢というのは、不出来だなあ。これだけ宗教を追いかけているのに、未だにはっきり問題が見える位置にまで至らない。苦労させられるけれど、でも進むしか道はないからなあ。まあ、しかたがない。どうもこれは宿命だ。」
 
 こういった感覚が実感なのですね。これが、ー苦労したけれど苦労はなかった。ーの答えとしてどうか、というのが私の現状です。
また、感謝という点でどうか、ということです。
ただ、もう一つ、昔と違って、表面上の人生問題はひととおりなくなっていて、宗教の道筋を歩まなかったらそうはならなかっただろうという思いがあり、その意味では感謝の気持ちが確かにあります。これだけは、はっきり感謝です。日常問題に関する対処の仕方の関係でも感謝です。

《祈り》
  
  祈りという言葉は、昔から一貫してなぜか私の性に合わず、私の場合は「願い」なのです。むしろ、こちらの方が洲崎さんの「祈り」より使用用語としては仏教的です。ただ、ちょっとニュアンスはことなりますね。「願い」に関しては、かなり昔は強く持ち続けてきたのですが、
洲崎さんにも前に一度お話ししたとおり、年をとってきて「悟っても悟らなくてもいい」という感覚になってきておりました。しかし、ここは、今少し自分で反省をしている最中です。

最後に、どうも私は自分の感性面のことを聞かれて話すのがたいへん苦手なので、精一杯やってみてこんなところなのですが・・・

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[SC32-2-2] 
 
投稿 洲崎 清  | 2008年5月24日 (土)

丁寧に書いていただいて大変おそれいります。ひとつ思ったのは西方さんの誠実さが伝わってくるということ、それと話が通じる(?!)というのはまことにありがたいということです。ますますのご健闘をお祈り申し上げます。

今回も例によって、ほぼ直観でポイントとおもわれるところをコメントさせていただきます。

――

>>《釈迦は明けの明星をみて悟ったといわれてますが、、、
その明星を見せてみろ、という公案(これは私の作ったものです)にはどう答えますか?》

>  (私の手を洲崎さんの前に差し出して、開いて)
       これです。欲しかったら、さしあげます。

欲しかったらさしあげますとはなんとなく作為的ですね。なにはともかく無手で見せてください。

(ところで私は師家ではありませんので、それなりにご配慮ください。つまり答えなくても結構です。ただ興味があって、ということならE-mailという手もありますのでよろしいようにおはからいください) 

――

>>《ー法にそっていきるということ (つまり、日常のあり方に大智大悲を働かしめるということ)》
《私は十牛の図だと8,9図から10図へのつなぎもまた永遠の課題というように感じます。つまり復活してどうか?ということ。》

>この二つは、背伸びして自分なりに見てはいますが、実際は遠くから見当をつけているといった程度だと思いますので、何か書くことがいかにも荷が重く感じます。

> 可能な限り、自分を空じていった結果として、どう逆限定された自分のあり方になっていくか、この辺は、「自己表現的」といっても、言語的表現を超えた、行為的表現、生き様的表現ということになってくるのでしょうか。限りなく、四弘誓願を唱えていく道筋というような感じが致します。

「書くことがいかにも荷が重く感じます。」はなぜそうなのか参究されたらいいと思いますがどうでしょうか。ひとつには別に「書く」ことはない、日常の働きにあらわしめる、というのもあるのでしょう。言語的表現も行為的表現も生き様的表現も、すべてがそこに現われ出る!のでしょうね。

無論「唱えていく」も、、、そのもと(との関係)が一刻一刻どうなっているかでしょうね。

これはまさに人事でないわけで、わたしは強くそう思います。つまり、知行合一がどうかということ。

それと智と悲は本来の働きとしてはくっつているとはいえ、智でとどまってしまって、、、西方さんがそうだとは決して言いませんが、ことによると頭の体操レベルではどうかというのもあると思います。(注:こう書きながらわたし自身のことを振り返っております。)

仮に西方さんが「日常いろいろな場面で、、、自由であると感じます。」というその自由が、「自由」として、、「それ」がたとえば日常の対人的な場合でもどういうふうに働きでるのか、にじみ出るのか、そこも参究され、その反省をもとに、(ひるがえって)上でいう付加逆性、、、というのでしょうか、中山さんの言い方で言えば、本来の業務(→全機現)がどう働いているのか、、、これを調べてみたらいいように思いますが、どうでしょうか?

(ところでここでいう「調べ」の意味合いですが、これはわたしが十地経を読んでいたときに書いた「修証の管理項目」のアイデアにつながりますが、いわば法の道を歩む、つまり「正しいプロセスの自ずから然りの習慣づけ」といった意味あいのものを考えてみたらいいかもしれないと思います。というのも、少なくともわたしの場合は、コツを覚えるにはフィードバックの仕組みを工夫していかないといかんと思うからです。つまり、ねらいはいかに眼がさめているかということ。)

ーー

以上相変わらず、勝手なことを言いましたが、なにかのお役に立てれば幸いです。

あ、それと感性についてコメントがありましたが、これは、ほおっておいてもいいかもしれないですが、ひとつにはいわゆる大拙のいう「霊性」とつなげて西田のいう付可逆、不可同、不可分、などをわけずに一息に見る(知覚する)、ということ。つまり大拙のいう無分別の分別の意味あいがあるかもしれませんね。(同じことは例の五位についても言えるように思います。)つまり働きがちゃんとでるのなら、いずれは「いかだ」はいらなくなるか、という意味あいです。西方さんのおっしゃった「総合的実質的直観的な判断」というやつ、こいつかもしれませんね。(あまり言葉が増えるとまずいから、、感性、というのかもしれません)

それと、わたしの「祈り」ですが、これは「願い」(→四弘誓願)という感じです。やはりこっちからじゃなく、仏の家から、、といきたいですね。(願い、願い、発心、発心、、、)妙好人だと念仏が念仏をいう、、ですね。

合掌

  [注・・・・西方法界による]
      直後の別コメントですが、一つにまとめたほうがよいと思いますので、
             区別しながら、ここに合成致します。

そうそう、もうひとつ。。。
おけらの話良かったです。

受動の能動でその間隙に智慧の火花が出るという感じはありますが、別の言葉で言えば、安心は馬鹿になることにある、、、という感じもあり、くつろぎは無理しないバランスを見る智慧ということかもしれませんね。

おけらは、おけらなりに、我々は我々なりに本来の業務をまっとうできれば、これはありがたいということになりますね!

(明けの明星がおけらにばけたかな?)

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[SC32-2-2N]      

西方法界|2008年5月24日(土)

丁寧に、時には厳しく、時には暖かくコメントして戴き、ありがとうございます。
たいへん参考になり、助かります。
あとは、メールということで、私の方から差し上げます。
いろいろ、立て込んでおりまして、少しタイミングが遅れるかもしれません。

但し、一言だけ、

《受動の能動でその間隙に智慧の火花が出るという感じはありますが、別の言葉で言えば、安心は馬鹿になることにある、、、という感じもあり、くつろぎは無理しないバランスを見る智慧ということかもしれませんね。》

これ、すばらしいです。感じ入ります。ありがとうございます。

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